公爵家の屋敷。
慌ただしくもアルバンが廊下を歩き、クラウスの部屋を訪ねる。
クラウスは相変わらず執務で疲れていたが――それを言うならアルバンの方がよほど疲れていた。
どんなに煩雑な仕事だろうが、ウェットワーク(濡れ仕事)よりマシであろう。
少なくともアルバンほどの胃痛を抱えている官僚は、ザクセン王国にはいなかった。
「兄上! トラクス殿の恩赦は不可能か!!」
「なんだ、突然に」
突然に話し出した。
それは事実ではあるが、まあクラウスも理解はしている。
『ロバの耳』を通じて、アルバンが何故このような事を言いだしたかは理解できていた。
「結論から言えば、どちらともいえぬ」
「ハッキリしてくれ!」
アルバンは、テーブルを叩きながらクラウスに詰め寄った。
クラウスはさも嫌そうな顔をして、ティーポットから茶を入れ始めた。
二人分の茶である。
「……アレクサンダー王が恩赦を許すと口にすれば可能だ」
「つまり?」
「王妃や公爵家の衰退した権勢で、トラクスの恩赦を求めるなど不可能である」
王妃と公爵がトラクスの恩赦を求めれば。
王は必ずや怒り狂うであろう。
そうか、そこまで増長も極まったか。
いいだろう、今こそ勝負をしてやろう。
覚悟しておれ、その不敬に対し、必ずや報いをくれてやる。
貴公の首は柱に吊されるのがお似合いだ!
少なくとも公爵家に対しては、そういう話になるという予想であった。
敵対国家との防衛戦争全てが終わり、現在のアレクサンダー王には公爵家と内戦をする余裕があった。
亡くなった盟友たる辺境伯の追悼、そして何よりも愛息アルミン王太子を悔いなく休ませるために。
今こそ内憂全てを終わらせるつもりであるのだ。
別にそれはそれで構わない展開だが――できれば父の自死のみで済ませたいとクラウスは楽しそうに語っている。
クラウスは自分の父親である公爵が大嫌いであった。
アルバンもそれについては、さして変わらぬ。
「つまり?」
「王妃は馬鹿だが、公爵家の我が父上は現状を弁えている。あの王妃テレージア(クソババア)が何を言おうが、父は無視するであろう。トラクスの恩赦などを申し出る度胸はない。王も応じる気はない」
「アーデルベルトが空手形を切った形になると?」
「そうなる」
さぞかしトラクスは怒り狂うであろうな。
怒り狂って、そのまま約束を破ったアーデルベルトを殺してくれれば有り難いのだが。
まあ、他国の戦争捕虜に、仮にも第二王子を殺されては当国の名誉に関わるから無しだ。
あくまでもアーデルベルトは決闘裁判にて、誇り高きドミニクに刺殺されるべきであった。
いくつか、クラウスは思案を浮かべて。
まずは茶を飲むことにした。
「アルバンもまずは茶を飲め」
「……」
仕方なくも、茶を飲む。
菓子はなかった。
「可哀想ではないでしょうか? 私はトラクス殿に恩赦を約束してしまいました。騎士と騎士の約束です。守らねばなりませぬ」
「またお人好しか。空手形を切ったのは、お前ではなくアーデルベルトだ。気にすることもあるまいに」
クラウスはため息を吐いた。
アルバンのお人好しぶりにだ。
「トラクス卿のことは、あれから幾つか調べた。剣奴から上級剣闘士にまで這い上がり、部下全員の保釈金を稼ぎだして、全員を解放している。なのにトラクス自身は故郷に帰れぬ。アレクサンダー王は些か我が儘では?」
「事情がある」
「どんな事情が?」
アルバンは問うた。
アレクサンダー王の我が儘で、トラクスを縛るなど可哀想ではないかと言いたげに。
だから仕方なくもクラウスは答えてやった。
「敵国は、戦争捕虜になった騎士トラクスの身代金を支払わなかった。どういう意味かわかるか?」
「――それは」
「単刀直入に言ってやろうか。敵国は、騎士トラクスをもう必要としていないのだ」
どういう理由があるのかはわからない。
確かにトラクスは戦場において失敗を犯したが、孤立無援に陥っての部下の助命を理由にした投降は恥ではない。
騎士として恥ずべき点をトラクスは何も犯しておらぬ。
だが――敵国は騎士トラクスを「もういらない」と判断した。
おそらくは政治的判断によるものであろう。
「もうトラクスは故郷に帰っても居場所はないのだ。男爵位すら剥奪されておる」
「それをトラクスは?」
「もちろん知っている。アレクサンダー王が自らトラクスを、自国の騎士に勧誘した際に教えている。もはや貴卿は故郷に居場所などないから、当国の騎士に鞍替えしろとな」
茶をすする。
アルバンは再び疑問を示した。
「ならばなぜ、そこまでしてトラクス殿は帰ろうと?」
「……さて。あのような誇り高きトラクス男爵であれば、理由は当然ある」
貴族位を剝奪されたのだ。
おそらくは市民権すらも、もはや剥奪された後であろう。
なれど、トラクスにとっては。
たとえ乞食に落ちぶれども、故郷に帰らなければならぬ理由があるのだろうな。
クラウスはそう口にした。
おそらくその理由をクラウスは知っているのだろうが、それは教えてくれなかった。
アルバンにはまだ教えられないと、隠しているのだ。
「ならば、ますます可哀想ではないでしょうか」
「何が可哀想だ?」
クラウスは問うた。
「アレクサンダー王はトラクスを気に入っている。優遇しているのだ。王都における屋敷も、嫁として相応しき女も、当国における男爵としての地位も、何もかも与えようとした。翻意させようとした。是非とも我が騎士にしようと望んだ。それはいまでも変わらぬ」
トラクスには王都の屋敷が与えられている。
執事もいればメイドもおり、上級剣闘士としての報酬もしっかりと支払われている。
何一つ生活に不自由のない暮らしが与えられているのだ。
望めば、上級剣闘士としての仕事さえも辞めることができよう。
ただ一言、アレクサンダー王の騎士になると口にすれば良い。
それだけで、人生は順風満帆だ。
「……」
「再度問う、トラクスの何が可哀想だ。我らが王アレクサンダーが主君に相応しくないとでも?」
「そうは言いませぬが……」
アルバンは疑問が浮かんだ。
何故、そこまでしてトラクスは故郷に帰りたがるのだ?
もう主君には見限られたにも関わらず。
アルバンが同じ立場ならば、すでに鞍替えしている。
ゆえに、本当に理由は思いつかなかった。
「ただ、まあ。トラクスにとって何が幸せかを問答するのは難しい。本人はそれでも帰りたがっているのだから」
「……それはそうです」
「ゆえに、恩赦の嘆願はしてやろう」
クラウスは茶を飲み干して、それから口にした。
トラクスの恩赦についてである。
「……いや、可能なのですか? 聞く限りでは不可能なように思えますが」
「アルミン王太子を通してやってみよう。アレクサンダー王も、アルミン王太子にだけは甘い」
「また卑怯な手を使う」
アルバンは呆れた。
アルミン王太子の最側近であるクラウスだけに許される手である。
その立場の卑劣な利用であった。
「まあ、それとて決闘裁判では利用させてもらうぞ。繰り返す。アーデルベルトはトラクスに空手形を切ったのだ。恩赦を与えるのは、あくまでもアレクサンダー王。決して王妃でもなければ公爵家でもない。そこだけは踏まえておけ」
「承知しました」
「人の悪い」と評判のクラウスと。
「お人好し」のアルバン、その兄弟の会話が終わった。
ともかくもアルバンは、トラクスの恩赦に可能性があるという納得を得て口を閉じる。
自分の愚かな仕え先が、今頃どれだけ卑劣な事を目論んでいるかも考えずに。
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アーデルベルトの執務室。
アルバンからはすでに『小銭拾い』の忌み名を与えられたエドガーが、アーデルベルトに相談をしていた。
トラクスの恩赦についてである。
アーデルベルトの答えはこうであった。
「そのような約束を守る必要があるのか? 相手は戦争捕虜であろう」
誇り無き回答である。
アーデルベルトは約束というものを欠片も重視していなかった。
彼にとって、約束とは自分にとって都合が良いかそうでないかである。
自分にとって都合が良ければ相手に遵守を求めるし。
自分にとって都合が悪ければ、全てを忘れることが出来た。
つまりクズなのだ。
「なるほど、仰るとおりであります」
エドガーも同様である。
アカデミーは貴族としての誇りや有り方を、何も教えなかった。
もっとも、そもそもがマトモな人間性を持っていればアカデミーに入学していない。
約束を守ることなど、人として幼少期に誰もが自然と学ぶことだからだ。
ここのところザクセン王国は戦続きであった。
アルミン王太子が負傷した5年前の戦に、3年前からの辺境伯の領地防衛戦。
どちらも豊かなザクセン王国の領地を狙ったことに対する防衛戦争であり、参加しようと思えば幾らでも戦場には事欠かなかった。
名家なれば第三王子ベルノルト、第四王子ブルーノの賊退治による初陣式と言った、比較的危険度の小さい戦陣に参加することで名誉を保ちつつ、経験を積むことも出来たのだ。
つまり、アカデミー生徒は元より武家に産まれながら参陣拒否をした愚劣の集まりにすぎなかった。
違うものがいるとすれば、親からせめて嫁入り前にモラトリアムを満喫して欲しいと望まれた女子生徒。
それにアルバンを代表とした、王妃や公爵側に属していると看做されているため、アカデミー入学を拒めなかった者。
アルバン以上に可哀想な例を挙げれば――名目上はアーデルベルトの婚約者である辺境伯令嬢イザベラが入学せざるを得なかったような。
それぐらいである。
紋章官や徴税官といった文官の家系でさえ、家業実務での実践教育を優先していた。
「母上に話すまでもないだろう。公爵家に相談する必要さえない。そもそも、誇り高き決闘とは何だ? 剣闘士風情が何を口にするのか」
剣闘士とは野蛮で粗野かつ、パン(食事)とサーカス(娯楽)のサーカスにすぎぬ。
娯楽として、消費して、ただ無残に死んでいってしかるべきものである。
そこに誇り高き決闘などないのだ。
まして剣奴から成り上がった元敵貴族風情が大層な口を利く。
アーデルベルトはそう馬鹿にしている。
つまるところ、心の底からトラクスを見下していた。
「まさにアーデルベルト様の仰るとおりであります」
エドガーも同レベルの存在に過ぎなかった。
なんなら、興行主のことを未だに自由民風情が貴族であるエドガーに対して尊大な態度を取ったと怒っていたし。
叩きつけた銀貨を「小銭」呼ばわりされ、しかもそれを拾わされたことには身勝手な恨みすら抱いていた。
「『誇り高き決闘を果たした暁には、それが勝利であれ敗北であれ、故郷に帰る恩赦を求めたい』。その戦争捕虜風情が言うところはこうであったな」
「はい」
「ならば、決闘裁判が勝利であれ敗北であれ、こう言ってやるがよい。貴様の戦いなど誇り高き決闘ではなかった。ゆえに恩赦は認めぬと」
アーデルベルトは決闘裁判に勝ちたかった。
勿論それは当然のことである。
それはそれとして、剣闘士風情に交渉することは、自身のプライドが許さなかった。
腐ったプライドである
「さすがアーデルベルト様です。しかし、さすがにそれではトラクスめも文句の一つを言いましょうぞ」
「文句を言ったところで、戦争捕虜風情に何が出来よう」
具体的に何が出来るかと言えば、アーデルベルトを含めた側近全員を一方的に殺戮することである。
上級剣闘士であるトラクスには、それが容易に可能であった。
仮に素手であったとしても誰かから帯剣を奪い取り、必ずやアーデルベルトの首を刎ねるであろう。
無論、阿呆であるアーデルベルトにそんなことは思いつかぬ。
「ふん、まあ、当日には精々頑張ってもらうことにしよう。勝利の際には、何か恩赦以外の褒美をくれてやることにしよう。それで気は済むだろう」
「小銭で良いでしょう、小銭で」
エドガーは未だに銀貨の袋を小銭と呼ばれ、それを拾わされたことを根に持っている。
アルバンが心中で名付けた『小銭拾い』に相応しい品性の男であった。