コロッセウム。
円形闘技場に観客が詰めかけている。
剣闘愛好家の市議もいれば貴族もおり、七つの王国を股にかける豪商でさえもが一心不乱にアリーナを見つめていた。
誰も彼もが、目当てはヴォルフガング卿とトラクスの戦い。
どちらも人気者(スタープレイヤー)の上級剣闘士である。
その両者が、名誉決闘裁判に出場して戦うのだ。
彼方、東のヴォルフガング。
彼が闘う理由、それは令嬢の名誉のために。
此方、西のトラクス。
彼が闘う理由、それは自身の恩赦のために。
それは事情通である観客の誰もが知っていた。
誰もアーデルベルトのためにトラクスが闘うとは思っていない。
もし本当にアーデルベルト「ごとき」のために戦うというならば、むしろ興覚めであると言いたげに失望するであろう。
観客は全ての事情を承知していた。
もちろん、誰もが承知している理由は、当然であるが「ロバの耳」による噂が流されたからである。
「トラクスの恩赦か。本当にこの手は正しいのか?」
王は問うた。
「アルミン王太子がお決めになったことであります。トラクスには当然、不可侵条約を宣誓させる必要がありますが――敵対国家の混乱は望むところであります」
クラウスは答えた。
アレクサンダー王は、もちろんすでに了承済みである。
が、未だに悩んでいる。
「その約束がどこまで守られるか保証はないし――約定しても一時的な事だ。トラクスが王になることで、将来の強力な敵を産み出すことになるかもしれん」
「そこは第三王子ベルノルト、第四王子ブルーノのどちらかが対応するだろうとアルミン様は期待しておられます。十数年後のことまでは我が病床の身には保証できぬと――」
「わかっている」
ともかく、今は時間が欲しかった。
ベルノルトもブルーノもまだ若い。
盟友たる辺境伯も失ってしまい、これからアルミンも死ぬとあっては屋台骨がぐらつく。
アレクサンダーが未だ健在とはいえ、国内の「大掃除」だって残っている。
まずトラクスを解き放つことで、時間稼ぎをすると言うアルミンの手は間違っていないはずである。
「しかし、トラクスが王になることは疑っておられないようですが?」
クラウスが尋ねた。
アレクサンダーは全く疑っていない眼差しで、うん、と頷いた。
「剣奴から上級剣闘士に五年で成り上がったほどの男だ。何年かかってもだ。必ずや、やり遂げるであろう」
数十名の、命知らずの騎士達も配下にいる。
保釈してやったと言うのに、トラクスから離れようとせぬのだ。
あれこそ我が王だと言いたげに。
トラクスの覇気は本物だ。
そうでなければ、ここまで敵対国家の戦争捕虜がコロッセウムの人気者になれるものか。
これが最後の試合になるかもしれぬと考えて。
たまらなくなってトラクスの名を絶叫している者が、今コロッセウムに何人いると思っている。
奴らはウチの貴族や市議であるはずだぞ。
だが、咎めるわけにもいかぬ。
王とて何もかもを無理やりに力ずくで咎めては、市民からの反発を招く。
「パパーッ! いなくなっちゃうなんて寂しいよ――!!」
とんでもない台詞を叫んでいる者までいた。
若々しい市民が何やらトラクスの入場口に向けて、意味不明な言葉を叫んでいる。
トラクスにあんな歳の息子は間違いなくいない。
いるはずがない。
「あれは?」
「おそらくトラクスに父性を感じているのでしょう。それゆえの叫びかと」
「ヤベエのいるな、我がザクセン王国にも」
とりあえず、あの市民とは目を合わせないようにしよう。
だって怖いもん。
アレクサンダー王はそう判断した。
特別席にて、少し思考する。
「今回ばかりは試合前の演説をした方が良いのだな」
「はい、トラクスへの恩赦をアーデルベルト側が用意したなんて勘違いされたくはありません。あくまで恩赦を許すのはアレクサンダー王、貴方でなければなりませぬ」
「個人的には解放したくないのだがな」
アレクサンダーはトラクスを憎んでいない。
むしろ好んでいた。
一度は怒りゆえに剣奴にさえ落としたが、そこから這い上がってきたのを見て、ますます気に入ってしまった。
是非とも部下にしたかったが、まあ無理か。
部下にしたいと言えば――
「ヴォルフガングも部下にしたかったがな」
「あれも奇妙な男です」
一度は上級剣闘士としての立場も地位も投げ捨てて、故郷に舞い戻ろうとさえしたのだ。
何もかもアッカーマン辺境伯のためであろう。
ヴォルフガング自身がようやく理解したそれを、アレクサンダーも理解し始めていた。
「奴はアッカーマン辺境伯に仕えたかったのだな。それをもっと早くに理解してやるべきであった」
王は寂し気に呟いた。
対して、クラウスは冷たい。
「主君と騎士の関係に、横から口を挟むのは無粋ではないかと」
「お前は冷たい男だクラウス。一言ぐらい横から声をかけるだけでも、人には気付けることが多くあるのだ」
「人が悪い」と王太子アルミンに呼ばれているクラウスを一言だけ咎め、王はため息を吐く。
気づいたところで、今更どうにもならなかった。
我が盟友アッカーマン辺境伯は見事な最期を遂げた。
あの男の代わりに紹介してやれる主君など、この世の何処にもいやしない。
「忠誠を捧げたかった亡き主君のために、剣を握る騎士か」
王は、ヴォルフガングをそう表現した。
「忠誠など捧げていなかった元主君を亡き者にするために剣を握るトラクス。それとは見事な対比でありますな」
クラウスもまた、トラクスをそう表現した。
「……さて、演説を始めるか。兵士に観客を鎮めさせよ」
「承知しました」
コロッセウムの特別席で王が立ち上がり、静かになるのを待つ。
クラウスは手を振って、指揮官に合図して配置された兵士に観客を鎮めさせた。
「今から決闘裁判を始める。皆も知っていようが、これは決闘裁判ではあるが、同時に上級剣闘士同士の名誉ある戦いである。誇り高き決闘を果たした暁には、それが勝利であれ敗北であれ、『特別な配慮』を与えるつもりがあることを、我がアレクサンダー王の名において約定する」
よく通る声だった。
老年であるが、王としての威厳ある声がコロッセウムに響いている。
「しかし、それが誇り高き決闘であるかどうかを決めることだけは、この王ではない。観客の皆の役目である。剣闘士の運命を宣告するのは私ではない。皆であることを誰もが承知して欲しい。今更だが、剣闘士に対する敬意の示し方ぐらいは誰もが知っていよう。声を腹の底から搾り上げ、己が応援したい剣闘士を応援せよ。そして勝負がついた際には勝者に万雷の拍手を贈れ。それが自分の応援していなかった剣闘士でもだ」
当然の事を口にしている。
アレクサンダー王が口にしているのはコロッセウムにおいて当然のルールであり、誰もが承知していることだが。
そのルールを王が自ら宣言したということに、王の権威を高める目的があった。
人気商売も大変なものだ。
そこは王も剣闘士も変わらぬな。
アレクサンダーはそんなことを考えながら、次に敗者への扱いを口にする。
「また敗者への扱いだが――敗北者の助命を求める際には、親指を握り込んだ拳を振り上げろ。逆に処刑を望む際には、親指で喉を掻っ切る動作を示せ。その多寡により、我が『特別な配慮』も左右されると思え」
これも今更のルールであった。
誰もが承知している。
だが、観客は満足げに頷いた。
それは自分に「公平な投票権」が与えられたという満足感からであった。
王の判断さえも、我らが左右できる。
それはコロッセウムの観客たちにとって快楽であった。
「長々しい挨拶は嫌いだ。そろそろ始めることにしよう。双方、入場せよ」
まずは西口であった。
アーデルベルト、そしてエドガーである。
ここで『小銭拾い』のエドガーが出てきたのは、アルバンの代わりではない。
アレクサンダー王は決闘裁判において『イザベラ嬢の不義を訴えた』アーデルベルトとその側近である六名。
その七名を原告であると看做していた。
当たり前だが、ここで闘うトラクスはあくまでも『決闘代理人』に過ぎない。
つまり、この第二試合に負けた場合はエドガーの出した証言・証拠が虚偽であったと看做されることになるのだ。
ゆえに、すでに第一試合で敗北した『剣士シュテファン』の出した証言・証拠は虚偽であったと看做されている。
「どうして私が……」
上記理由を未だにちゃんと理解していない、原告として表舞台に連れ出されたエドガーがぶつくさと呟いた。
それを横で聞いているアーデルベルトはどうせ勝つから構わんだろうと、理由もなく自信に溢れている。
「トラクス殿、出番だ」
それを無視するようにして、アルバンはトラクスの出場を促した。
「承知した」
『戦争捕虜』トラクスが現れた。
コロッセウムが沸き立つ。
トラクスの人気には理由がある。
逸話を話せば枚挙に暇がないが――処刑を求めた観客に対して、相手が若人ゆえに慈悲を請うたことがある。
戦場であれば殺めようが、相手は未来ある剣闘士であると。
自身の手を組んで、観客を拝むように頭を下げて対戦相手の命を庇わんとする姿に、血に飢えたコロッセウムの観客さえ黙り込み。
それからトラクスの熱烈なファンになってしまった。
当然、他にもある。
自分が見事な試合であったと認めた相手の処刑を求めた観客に対して、説教を始めたことさえある。
お前ら如き素人には分からんだろうが、相手は素晴らしい戦い方をしていたと。
身振り手振りを加えて、相手はこう企んだが私はこうした。私はこう企んだが相手はこうした。
そうした理由があっての対戦結果である。
素人は黙っとれ、とまるで頑固老人のように説教を始めたのだ。
その本気で怒れる姿に、血に飢えたコロッセウムの観客さえ黙り込み。
それからトラクスの熱烈なファンになってしまった。
つまり、トラクスとはそういう男であった。
コロッセウムは興行である。
要するに、正直観客が面白がればなんでもよく、そしてその面白い素質の全てをトラクスは有していた。
また、彼が剣闘で得た金銭は全て部下の保釈金に支払われていたのは、まさに美談である。
敵でありながらも、戦争捕虜でありながらも、誇らしい相手として認めるべきである。
それが出来なければ、まさに狭量ぞ。
そうザクセン王国市民に考えさせるのがトラクスであった。
「さて、本日も誇りある決闘を。勇者同士に『相応しき決闘を!』」
いつもの決まり文句。
それをトラクスが叫び、手を大きく振り上げた。
それだけでコロッセウムの観客は熱を帯び、爆発したように熱狂した。
ヴォルフガングを応援しに来た観客でさえも叫んでいる。
誰もが、本日こそがトラクスの引退試合になると知っているのだ。
「……」
あれを敵国に解き放ったらヤバイのでは?
と今更ながらにクラウスは思案した。
「……だから言っただろう。悩むところだと」
そんなクラウスに、アレクサンダーは一言だけ口にした。
正直難しい判断であった。
もし故国に帰りつくことが出来れば、トラクスは必ずや王になるであろう。
そういう存在であった。