「トラクスが出た。こちらもそろそろ出なければ」
ヴォルフガングはそう口にした。
入場口の東側で、トラクスがいつもの名乗りを上げたのを確認する。
傍にいるのは、近くで見守る予定の代表者たるドミニクと補佐役たる紋章官。
そしてイザベラ嬢であった。
その彼女が、毅然と口にする。
「ヴォルフガング卿、勝ってくださいとは言いません。死なないでください」
「おやおや、御令嬢。それは剣闘士には言ってはならん言葉ですよ。たとえ嘘でも、必ずや勝てと言って下さらなければ我々にとっては不吉なのです。本気で剣闘士(ショーマン)を演じられなくなってしまう」
ヴォルフガングは笑って口にした。
イザベラ嬢は心配そうに、剣闘士を見つめている。
「パーティーの時には他の方への挨拶もあり、時間が足りませんでした。ゆえに、あまりお話しできませんでしたが――また父の昔話などがしたいと思います」
「なるほど、私たちはお互いにアッカーマン辺境伯について知るべき必要がある」
それには同意であった。
ヴォルフガングは、まだ辺境伯について知りたいことが沢山あった。
結局、あの人は自分にとってどういう人物であったのか。
主君に足り得る人物であったのは心から理解できている。
だが、あちらはヴォルフガングに対して、どの程度考えていてくれたのか――
ただ辺境領にも、これだけ強い子供がいるぞと、アピールしたかったのか。
単純に、辺境領で埋まらせるには惜しい才能だからと王都に留学させてくれたのか。
アレクサンダー王との友誼の一つに過ぎなかったのか。
それとも――少しくらいは、自分を陪臣騎士として迎え入れる未来も考えてくれたのだろうか。
話したいことは沢山あった。
沢山だ。
「それに、まだ当家は報酬を支払い終えておりません」
「報酬?」
何の話だ、とヴォルフガングは訝しむが。
「辺境伯領を護るための戦に、その戦陣に参加してくださったことに対する報酬です。貴方には未だ一銅貨も支払っていないことが日記に残っておりました。父ならば、ヴォルフガング卿にこう口にされたはずです」
すう、とイザベラ嬢が息を吸う。
そして辺境伯令嬢の威厳を込めて口にした。
「『必ずやこの借りは返すぞ。このアッカーマン、痩せても枯れても辺境伯である。私は吝嗇ではないのだよ!』と。間違いなく口にしたはずです」
両手を腰にやり、胸を大きく張って、イザベラ嬢は彼女の父の真似をした。
一瞬、アッカーマン辺境伯の幻覚が見えた。
そうだ、そうだ。
確かにそう仰った。
だが、このヴォルフガングも確かにこう口にしたのだ。
「私も辺境伯にこう言いました。王都留学を支援して頂いた御恩を忘れておりません。その恩を返すだけのことです。金などいりません。ましてや我が故郷、戦陣に加わりて守るのは当然の事だと。金など一銅貨もいりませんと」
間違いなく口にしたのだ。
本気の言葉を。
本当は――こんな言葉より、貴方の騎士にしてくれと口にすべきであったが。
それは出来なかった。
「それでは我がアッカーマン家が吝嗇であると名が残ってしまいます」
「そのようなことを口にする者がいれば、私が軽く捻ってやりますよ」
笑う。
まったく、辺境伯家はどこまで誇り高いのか。
笑ってしまうほどに、約定というものを大事にしていた。
それがたとえ乞食相手であっても、アッカーマン家は一度した約束を守るのであろう。
そうだ。
そうだな、報酬を払ってもらうのもいいな。
それぐらいはいい。
「それでは、イザベラ嬢。一つ報酬を頂きたい。コロッセウムの観客の前で」
「ここで? さすがに今すぐの金銭の用意は――」
「いえいえ、お金ではありませんよ」
金などいらない。
ある意味で、そもそもお金自体に価値などはない。
それで何が買えるかが大事であって。
私が今欲しいのは名誉である。
きっと、もう一生手が届かない名誉――もし、それが欠片でも得られるならば。
「――」
私はイザベラ嬢に耳元で囁いた。
「――? そんなことでよろしいのですか?」
「これ以上にない誉れと受け止めております。そもそも、私の申し出は未婚の女性に対して、大それた内容でありますぞ?」
「恥ずかしながら、父の戦友たちの眼前にて婚約破棄をされるような女ですので。価値は薄いかと」
ああ、そうだったなあ。
だからこそ、アーデルベルトは確実に殺しておかねば。
そのトドメだけはドミニク卿に譲るとしても。
私は私で、必ずや勝たなければ。
「私は貴女に誉れを頂きたい。それを報酬としましょう」
「少し恥ずかしいですが――コロッセウムの観客の前で?」
「はい、誰から見ても、私が報酬を確かに頂いたと誇れるように」
ヴォルフガングはそれだけを口にして、許可を求めた。
イザベラ嬢は少しだけ、本当に少しだけ悩んだ後に。
可憐で小さな顎を動かして、頷いた。
「では参りましょう」
まず、ドミニクと紋章官が入場口から出た。
決闘の代表者とその補佐としてである。
アーデルベルトや、未だにぶつくさと何やら呟いているエドガーと比べて立派な姿であった。
次いで――ヴォルフガングが現れた。
「――良い風だ」
風が吹いていた。
ヴォルフガングの戦闘スタイルは剣闘士としてはポピュラーなものである。
右手に業物のグラディウス、左手に大楯。
鎧も着用し、兜ももちろん被っているが、顔だけは見えている。
顔が見えないと人気が下がるので――敢えて守らないのだ。
これはトラクスも同じであった。
同条件、同装備。
まるで示し合わせたように、お互いの姿は同じであった。
事実、示し合わせたのだ。
良い試合(グッドゲーム)をしよう。
コロッセウムを爆発させるほどに盛り上げよう。
どちらも勇者として誇れる闘いをしよう。
そうすれば、勝とうが負けようがトラクスは引退だ。
ただ、一つだけ示し合わせられなかったことがある。
『どちらが勝つか』。
ただそれだけ。
それだけは、どちらも譲れなかった。
ヴォルフガングはイザベラ嬢の名誉のために。
もちろん、トラクス側はアーデルベルトの名誉など、腹の底からどうでもいい。
なんならアーデルベルトなど、早く自害すべきだと考えていた。
それが世のため人のためであると。
剣闘士として、観客にどちらかが負ける約束試合を示し合わせること自体は、別に恥ではない。
エンターテイメントである以上、盛り上がりさえすればそれでいいのだ。
だが、この引退試合だけは違う。
門出である。
トラクスが故国の王と成れるかどうかを示す、試金石であった。
ゆえに全力で挑むと、事前に言われている。
「よろしい、トラクス。だがこちらも卑怯な手を使うぞ」
ヴォルフガングはそう嘯いて。
少しだけ身をかがめた。
観客は、はて、あいつは何をするものかと見守っている。
これを一つのパフォーマンスの始まりであると見たのだ。
イザベラは、少しだけ不思議そうに尋ねた。
「これが卑怯な手ですか?」
「もちろん」
イザベラは、少しためらった後に。
ヴォルフガングの頬にキスをした。
「処女のキスという祝福を戦う前に頂くほど、卑怯な振る舞いもこの世にそうはない」
そう嘯いて。
ヴォルフガングは祝福を受けて、トラクスに向けて叫んだ。
「見よ! 処女のキスを受けたぞ、トラクス! むさくるしいお前と違って、とりあえず私が一つ勝ちだ! アリーナでの勝負も、もはや見えたも同然だ!!」
「ぬかしよる! だが、その可憐な女性が、処女であること、お前の戦乙女(ワルキューレ)であることは、このトラクスが認めてやろう! そして、そのキスを手土産に喜びの野へ赴くがいい。私が試合に勝ち、互いに一勝ずつ。それで釣り合いがとれるというものよ!!」
二人のスタープレイヤーの言葉を受けて、観客ははしゃぎだした。
処女の小娘をからかうほど、この世に楽しいことはないと言いたげに。
口笛が吹かれ、笑い声がコロッセウム中のそこらで起き、どんどんと床を踏み鳴らす音が響いている。
もちろん、この決闘は名誉裁判である。
イザベラ嬢の名誉を懸けた裁判である。
アーデルベルトは「イザベラは嫉妬がゆえに、自分の恋人であるローゼマリー嬢を暗殺しようとした」と。
『小銭拾い』のエドガーは「イザベラ嬢は誰にでも股を開く淫売であり、私に貞操を売ることでローゼマリー嬢への嫌がらせに協力させようとした」という証言をしている。
だが、誰がそんなことを信じようか。
ただ頬にキスをしただけで、林檎のように顔を赤らめているイザベラをそんな悪女だと。
少なくともコロッセウムの観客だけは、誰もがもはや信じていなかった。
なにより、ヴォルフガングとトラクスという、観客にとっての人気者二人が『彼女は無罪で、貞淑な処女だ』とハッキリ訴えているのである。
もう、これからは観客の皆がイザベラの味方であった。
ヴォルフガングのちょっとした思い付きである。
これで負けても、イザベラ嬢の名誉を護ることに繋がると。
もちろん、それはトラクス側もすかさず理解して応じた。
二人は悪戯好きであった。
キスをしてもらった理由が、ヴォルフガングにはもう一つだけある。
それは「仕えることができなかった」主君の娘から、祝福のキスを頂くこと。
これ以上の名誉がこの世にあるだろうかと、この剣闘士は真剣に考えていた。
「これで悔いはない。さあ、イザベラ嬢。危ないので入場口に戻ってください」
「これほどまでに揶揄われるとは思いませんでした。――わざとですね?」
賢いイザベラは、すぐさまヴォルフガングとトラクスの企みを見抜いた。
少しだけ批判するような目つきで、咎めようとして――やめて。
イザベラ嬢は顔を赤らめたまま小走りに、入場口へと戻っていった。
「さあ、始めよう。『相応しき決闘を!』」
「もちろんだ。『相応しき決闘を!』」
二人はそう叫びあい。
アリーナに上り、対峙した。
勝負の合図開始は、王の宣言により始まる予定であったが。
少しだけ遅れた。
「やりおったわ、あいつら!!」
そのアレクサンダー王が腹を抱えて笑っていたからだ。
勝負が始まったのは――二人が対峙して、ようやく一分が経ってからであった。