試合開始を告げる王の宣言があって。
まず、トラクスは大盾で全身をガードした。
姿勢を整える。
ヴォルフガング相手の超近距離では『あれ』が来るからである。
蹴りだ。
「――」
ヴォルフガングは多彩な蹴り技を好んだ。
体術が得意であり、それはどんな複雑な状況でも武器にすることができた。
まずは『試し蹴り』である。
『試す』のは蹴りの威力ではない、放たれた相手における肉体の強靭度をである。
ヴォルフガングの強靭な体幹と筋肉から繰り出される蹴りは、並みの騎士であるならば耐えきれぬ。
一度の蹴りだけで、アリーナ(円形闘技台)から吹き飛ばすほどの蹴りを放つことができた。
誇張ではない、ヘラクレスが如き筋力である。
これに耐えきることが出来なければ、ザクセン王国における上級剣闘士ではないとされている。
コロッセウムの中級剣闘士にとって、まさにヴォルフガングは「偉大なる壁」であった。
トラクスの予想通りに蹴りが大楯に入り、強烈な音を立てる。
当然、たたらを踏むこともなく耐えきった。
「このトラクス相手に『試し蹴り』か! ヴォルフガング!!」
「どうせ最後だ、何でもやらなきゃ観客に申し訳が立たん! 貴様の引退試合への『はなむけ』だ、トラクス!!」
「それもそうだ! 同意してやる!!」
トラクスは大いに同意した。
受け止めた脚を、大楯に力を籠めることで弾き返す。
そしてグラディウスを振り回した。
トラクスはこれを当てるつもりなどない。
わざと回避させ、まずは距離を取るためである。
「――」
そして、距離を取らせて、自らが一歩踏み込んでの連撃。
手首を捻り、すぐさま打ち込んだ刃の先をすぐに反転させて斬る技。
この技術をトラクスは愛用していた。
だが、これはトラクスの得意技術――というわけではない。
そもそも、トラクスに不得意な技術など存在しなかった。
トラクスは何でも出来た。
網でも。
鎗でも。
弓でも。
別に武器が何であろうが、トラクスは強かった。
何でもできるから『変幻自在』のトラクス。
夢幻のような技術を目の当たりに使いこなすから『夢幻開眼』のトラクス。
ああ、トラクスに父性を感じた厄介ファンを沢山抱えているから『僕らのパパ』のトラクスなんて呼び名もあったか。
ヴォルフガングはその二つ名、トラクスにとっての忌み名に思わず笑いそうになりながら、その連撃を楯で受けた。
「お前に出来ることなれば、私にだって出来るのだ!」
超近距離。
トラクスはヴォルフガングの真似をした。
強靭な体幹と筋肉からの蹴りを繰り出せるのは、何もヴォルフガングだけではない。
トラクスにも出来るのだ。
「――」
それは私の十八番だってのに、奪うのか阿呆。
ズルイぞ。
ヴォルフガングは舌打ちしそうになりながらも、それを必死に大楯でガードした。
大楯が、銅鑼のようにぐわんぐわんと鳴った。
少なくとも、ヴォルフガングの耳にはそう聞こえた。
なるほど、私にやられた敵は、今までこのようなダメージを受けていたのか。
酷いことをする奴がいるものだ。
振動が腕に響き、たたらを踏んで、一度動きが止まる。
これは拙い。
すかさずにトラクスは右横に廻り込んで、グラディウスを頭上に掲げた。
屋根の構え。
怒りの一撃。
「オオオオッ!」
ヴォルフガングは躱さぬ。
避けきれぬ。
むしろ、必死になって自分の兜を相手のグラディウスに合わせて、ぶつけた。
自分からぶつけた方が、ダメージが『まだマシ』だった。
強烈な打撃。
血液が眼球内の血管に集中し、視野が赤くなる。
視界が一瞬だけレッドアウトして、頭がクラクラとする。
これが通常の剣闘士なれば、これで終わっていただろう。
なれど、強固なヴォルフガングの意思は昏倒を許さぬ。
「――」
立て直す。
更なる追撃の一撃をグラディウスで受ける。
トラクスの上段からの打ち下ろしを、剣を頭上に掲げることで防いだのだ。
バインド状態が発生した。
「力試しをするとしようか、ヴォルフガング!!」
「良かろう、トラクス!!」
バインド状態が発生した剣士同士が試す物。
それは力と力の拮抗による鍔迫り合い――だけではない。
もちろん力も必要だが、総合的には『殺されないように殺す』ための互いの技術を、双方の命を懸けて試すことになる。
「私はお前を殺す気だぞ、トラクス! 良いか!!」
ヴォルフガングは打ち下ろしを防ぎつつも。
受けに用いた剣の先端をトラクスに向け、その刃に滑らせるように、首から胸めがけての突きを放とうとする。
「ここで死ねば、それまでの男だったというだけよ! かまわん!!」
逆にトラクスは迫る剣先をグラディウスの鍔元で押しのけつつ、剣先でヴォルフガングの首を切り払おうと試みている。
お互いに『殺されないように殺す』技術を全力で用いている。
互いのグラディウスから軋みの音が上がった。
最上級に優れた業物でさえも、化物剣闘士二人の腕力に耐えきれないでいるのだ。
もちろん、この光景にコロッセウムの観客は絶叫を挙げている。
どんどん、と狂ったように足で床を踏み鳴らしている。
どちらも本気だ。
お互いにお互いを殺すために全力だ。
それが互いの強さに対する、全力の敬意であるがゆえに。
そのことがコロッセウムの観客にも嫌というほど伝わっているのだ。
「トラクス! トラクス!!」
「ヴォルフガング! ヴォルフガング!!」
血に飢えたコロッセウムの観客が、この状況に「刺せ」とも「首を刎ねろ」とも言わぬ。
そんな事を口走るなんて、どんなに空気を読めぬ阿呆でも出来はしなかった。
そんな光景を望んでいるわけではないからだ。
どちらが?
どちらが強いのか!?
それだけを誰もが知りたかった。
観衆が名を叫ぶ。
それがうねりを挙げて、二人を包んでいた。
力と技術による拮抗状態が続いている。
先に諦めたのは――いや、先に「このままでは負ける」と判断を下したのはヴォルフガング。
「――」
蹴り。
バインドを解き、代わりに小さな蹴りをくれた。
入ったのはトラクスの鳩尾。
鎧に包まれてはいるが、強烈な蹴りはトラクスの身をよじらせた。
「――」
ヴォルフガングも無傷ではない。
バインドを解いた際に、首の代わりに腕に対し、一瞬の間にトラクスは斬り払いを入れた。
チェインメイルごと寸断され、傷口は大きく出血している。
この攻防でダメージが大きいのはヴォルフガング。
なれど。
次の行動にまで余裕があるのもまた、ヴォルフガング。
「――ッ!」
腕に走る痛みに耐える。
耐えきって、その腕でグラディウスを振る。
屋根の構え。
怒りの一撃。
肝心の勝負を決めるのはいつでもこれだと、ヴォルフガングは考えていた。
上段を振りかぶっての、全身全霊の一撃である。
「オオオオッ!」
今度は、トラクスがこれを避けなかった。
避けきれぬと判断し、自分の兜を相手のグラディウスに合わせて、ぶつけた。
強烈な一撃。
トラクスの視界における世界が、あっという間に歪んだ。
だが折れぬ。
ヴォルフガングと同じで、この一撃が如何に昏倒必至の一撃であろうと。
強固なトラクスの意思が挫けぬことは、ヴォルフガングにもわかっているのだ。
だが、腕の出血は激しい。
力を籠めれば籠めるほどに、その出血は激しくなると思われた。
もうグラディウスを渾身の力で振ることは出来ぬ。
このままでは負ける!
「――」
そう判断し。
ヴォルフガングが選んだのは、もはやグラディウスによる攻撃でも、大楯による防御でもない。
時間が立てば立つほど不利になるのは、こちらであった。
ならば。
いっそ、全身全霊の蹴りを。
自らの半生をかけて、鍛え上げた足技を。
アッカーマン辺境伯家におけるトーナメントでも。
あのアルミン王太子にも通じた技術を。
「貴殿は足癖が悪いな」とアルミン王太子にも認められた技術を放つべきである。
「オオオオオオオ!」
試し蹴りではない。
人生で、これほどの力を振り絞ったことはない。
そんな全身全霊の前蹴りである。
それを『ぶっ放した』。
まさに『ぶっ放した』と言えるほどの、強烈な前蹴りである。
トラクスは大楯を構え、姿勢を低くした。
「お前は足癖が悪いな!!」
トラクスが、アルミン王太子と似たような台詞を口にした。
――勝った?
一瞬、そのような判断がヴォルフガングの脳裏によぎった。
これは勝利への自信ではない。
むしろ疑惑。
同じ台詞を、他にも口にした奴がいる。
「だがしかし、足癖が悪いだけだ」とも。
ディートリヒ。
ザクセン王国最強騎士、あのトーナメント決勝で。
ディートリヒはまるで躾をするように、木剣でヴォルフガングの足を叩き落とした。
だが、トラクスは。
「――オオオオオオオオオオオッ!」
絶叫を上げ、ただ大楯でヴォルフガングの前蹴りを受け止めた。
全身全霊の防御である。
大楯が、ぐわんぐわんと銅鑼のように鳴った。
これはトラクスにだけ聞こえた響きではない。
むしろ、コロッセウムの観客全てが確かに耳にした。
凹んだ。
人の脚力で、大楯が奇妙な形に凹んだのだ。
こんな光景、コロッセウムの観客とて初めて目にした。
だが。
「耐えきったぞ、ヴォルフガング」
トラクスは耐えきった。
べこリと大きく奇妙な形に凹んだ大楯を投げ捨て、グラディウスをかざして。
出血が激しいヴォルフガングに要求した。
「お前が望んだことの全てはやり遂げたであろう。イザベラ嬢の名誉は、間違いなくこの試合にては、すでに守られたも同然よ。なれば、素直に降参せよ」
降参の要求である。
ヴォルフガングはおびただしい血を腕から垂れ流し、もはや持ちこたえることすらできぬグラディウスを手から取り落とし。
大楯も横に投げ捨てて。
その場にどかりと座り、こう叫んだ。
「私の負けだトラクス! やはりお前は強かった!!」
誠に潔い敗北の言葉であった。
ヴォルフガングが笑った。
トラクスが笑った。
その様子を見て――やはりコロッセウムは熱狂し、声を張り上げて、両者の名前を叫んだ。
勝者だけの名前ではない。
当然だが、敗者への扱い――処刑を望むために親指で喉を掻っ切る動作を示す者は誰一人おらず。
誰もが、親指を握り込んだ拳を振り上げて両者の名前を叫んでいた。