牢屋に、一人の囚人が繋がれている。
片腕のみ、鎖で繋がれていた。
それは別に囚人が両腕を繋がれていては、体を掻くにも困るだろう、といった慈悲などではない。
繋げないのだ。
単純に、片腕がなかった。
戦傷により、片腕を喪失しているのだ。
囚人は傷痍軍人であった。
「……『彼』は、ご健在か?」
「はい! 食事時などは抜かりなく、傷もだいぶ癒えてこられたようで……」
牢番と、牢名主の会話が行われている。
不思議なことだが、この囚人に限っては牢番も囚人も、共通して優しさを見せていた。
この囚人、鎖につながれてこそいるが、扱いが悪いわけではない。
公爵家の牢屋。
そこに囚われてこそいるが、むしろ牢番や牢名主などは彼に酷く同情的であった。
誰もが知っているのだ。
彼は囚人として扱われるべきではないと。
情に照らせば『無罪』だと。
ハッキリ言ってしまえば、牢屋に繋がれるべき人間ではなかった。
法に照らせば、確かに罪はある。
だが、誰がその罪を責められようか。
「食事の時間です。ささやかながら、私どもが食べている菓子も用意しましたので……」
牢番さえも、その囚人には丁寧語で話しかけた。
彼は騎士であったのだ。
牢番は身分の差を弁えるだけでなく、一種の尊敬さえ見せるように彼に丁寧に話しかけた。
「もうよい。どうせ殺される運命だ。菓子は牢名主と他の囚人で食うと良い」
「そんなわけには! 今は少しでもお力をお付けになるべきです!!」
牢名主や他の囚人が、嗜好品である菓子を分け与えられることさえ拒んだ。
立派な騎士であった。
彼は『穢れた青い血』のように賊に落ちたわけではない。
賊軍ではある。
軍を率いて反乱を起こし、公爵家に逆らったのだ。
公爵家にとっては賊軍ではあったが、繰り返そう。
誰がそれを責められよう。
公爵家の嫡男クラウスや次男アルバンでさえ、父である公爵に彼の一刻も早い解放を訴えていたが。
ラインホルト公爵は応じなかった。
彼に『次こそは殺される』と恐れていたのだ。
それだけの神の恩寵(カリスマ)を囚人は持っていた。
「これは内緒ですが、クラウス様が恩赦を訴えておられます。必ずやクラウス様がご当主になった暁には、貴方のすぐさまの解放を……諦めないでください」
牢番が、励ましの言葉を囚人に口走る。
奇妙な光景であった。
いっそ異様と呼べるほどの静けさが辺りを包んでいた。
「かといって、私が率いた農民までは許されまい。私だけが一人助かって何になる。何人の死者が出たと思っている。その死者の中には何の罪もない、ただ領地や民を守りたいだけの公爵家の立派な騎士や善良な兵士もいたであろう。私はやったことが悪いとは今でも思っていないが、やはり私だけ助かるべきではない」
「それは……」
「死ぬことは事を起こした時から覚悟していた。私は死ぬべきだ」
理論を。
囚人が、騎士としての誇りに基づく理論を口走った。
それに反論すべき術を、牢番は持たない。
「私はこのまま死ぬべきなのだ。ほうっておいてくれ」
牢番と、牢名主が口をつぐんだ。
『彼』に対して、何の慰めの言葉も口にできなかった。
そんな中に、別な牢番が走ってきた。
「おい、拙いぞ。菓子を隠せ、公爵様が来られた」
「――ッ、牢名主、菓子を食え。早くだ」
慌てて、牢名主が菓子を口に放り込んだ。
走ってきた牢番二人がピンと背を伸ばし、公爵の到着を待つ。
「……」
ラインホルト公爵は青い顔をしていた。
青い顔をして、『彼』の牢屋の前に立つ。
対して、囚人である『彼』は鎖に繋がれながらも、ふてぶてしいほどに堂々としていた。
どちらが囚人で、どちらが公爵かわからぬほどである。
「久しぶりだな」
ラインホルトは語り掛けた。
「しゃべるな、口の臭さのあまりに世が濁る」
『彼』は鎖に繋がれたまま、侮蔑の言葉を吐いた。
次に吐いた言葉は。
「さっさと拷問でも何でもして殺すがよい。どうせ公開の縛り首にする度胸も貴様にはなかろう」
自分の死に方についてであった。
事実である。
ラインホルト公爵に、『彼』を縛り首などにする度胸などない。
そんなことをしては、押しかけた市民がすぐさま『彼の解放』を絶叫するであろう。
本来、死刑とはエンターテイメントにすぎぬ。
邪悪なる者が殺されることに対しての快楽。
それを観覧者にもたらしてくれた。
だが――『彼』が公爵領で何をしたか、何をしようとしたか、どうして反乱を起こしたかは誰もが知っている。
そんな『彼』の死刑を見て、楽しい気分になれる者など何処にも存在しなかった。
『正義』が死ぬ姿を見て楽しめる人間がどこにいようか。
もし公開処刑を実行すれば公爵領の市民が怒り狂い、死刑執行人や衛兵を排除して『彼』の救出さえ試みる可能性が残っている。
それがほんの僅かな可能性でも、ラインホルトにとっては恐怖であった。
自分が『悪』と裁かれる形で、また反乱を起こされるのが怖かった。
なにより、クラウスやアルバンでさえも『彼』の解放を望んでいる。
今、『彼』を捕らえていることについて、息子たちに憎まれているのだ。
『彼』の名は――
「ベルリヒンゲン卿」
「貴様風情が私の名を呼ぶな、父から受け継いだ名が穢れる」
『彼』の名はベルリヒンゲン卿といった。
騎士である。
かつてはアレクサンダー王の直臣騎士であり、数十の戦にて活躍したが。
戦傷により左腕を喪失。
傷痍軍人となり、公爵家のとある地方の田舎に年金をもらって引き籠っていた騎士である。
彼は、ラインホルト公爵に反乱を起こした。
「良い取引がある。お前の恩赦についてだ」
ラインホルトは、彼に語りかけた。
「良い取引などない。私は解放など欠片も望んでさえいない。早く殺せ」
取り付く島もない!
ラインホルトは思わず口汚く罵りそうになったが、やめた。
ラインホルトとて、眼前の騎士が悪人でないことは知っている。
全て自分の不始末だ。
『アカデミーなど設立したから』こんなことが起きた。
愚図だと分かっているアカデミー卒業生を公爵家で雇い入れたから、こんなことが起きた。
それぐらいはわかっている。
全て自分の不始末だ。
「貴様だけではない、貴様が率いた農民たちも解放してやると言えばどうだ」
「……まだ生きているのか?」
「全員ではないがな。戦争時に捕まって、農奴に落ちているものは解放して故郷に帰してやる」
ベルリヒンゲンは舌打ちをした。
どうするか、少し迷って、言葉を口にした。
「どこかで公開裁判でも開いて、その場にて言を濁せと? 私が悪で、貴様に正義があったなどという虚偽を吐けと」
「そのつもりはない」
ラインホルトは否定した。
それが出来ればどれだけよいか!
だが、誰も今更信じようとしないだろう。
ベルリヒンゲン卿が何故反乱を起こしたかについては、もはや誰もが周知の事実である。
ラインホルトが犯したミスについて、息子たちでさえ――嫡男クラウスなどは「ここに至っては潔く自裁せよ!」とこの父に向って憎悪の言葉を吐いた。
当然の言葉だ。
領邦君主にとって絶対に許されるべきではない「致命的なやらかし」を私は犯した。
「貴様の正義を否定するつもりもない。私の悪を否定するつもりもない。ただ、決闘裁判に出て欲しい」
「決闘裁判?」
ベルリヒンゲンは訝しんだ。
決闘裁判と言う言葉を知らないわけではない。
むしろ、彼には幾度かフェーデの経験すらあった。
「何の決闘裁判だ」
ただ、彼が囚人として捕らえられて一年になる。
世間の事情が耳に入ってくる機会など、新しい囚人が入ってくるか。
あるいは牢番が慰めとばかりに漏らす世情でしかない。
それとて――もうすぐ。
もうすぐ、クラウス様が当主になられる。
そうなれば、貴方様は解放されるはずだ。
諦めないで欲しい。
そういった言葉の慰めであった。
「……第二王子アーデルベルトが挑まれた決闘裁判だ」
「貴様の馬鹿甥か」
ベルリヒンゲンは鼻で馬鹿にした。
ラインホルトは否定しなかった。
事実だからだ。
「辺境伯令嬢イザベラへ婚約破棄を申し入れた際、激怒した彼女の父親、アッカーマン辺境伯の戦友たちに決闘裁判を挑まれた」
「どうせどこぞのアバズレに誑し込まれて、イザベラ嬢への婚約破棄の際に根拠もない誹謗中傷でもしたのだろうさ。その戦友たちが怒り狂うのも無理はない」
「……」
これも事実であった。
どうしようもない事実である。
全てベルリヒンゲンの想像通りであった。
「何を馬鹿な事をやっている。馬鹿甥など見捨てればよい。もはや死んだ方が貴様にとっても都合が良いはずだ」
それができればそうしている!
諭すようにさえ言われた言葉に苛立ちながら、ラインホルトは言葉を連ねた。
口にできるのは、ただ交渉条件のみである。
「勝てば、貴様の恩赦と。農奴に落ちた農民どもを故郷に帰すことを約束してやろう」
「……そんな度胸がお前にあるのか?」
挑発。
ベルリヒンゲンは、交渉内容を揶揄した。
とても私を野に放つ度胸がある人間には見えぬぞ、と。
そんな挑発であり、そしてそれは事実であった。
「私はもうすぐ隠居となる予定だ。いや、隠居した瞬間、嫡男であるクラウスに殺されるかもしれんがな。貴様は私には恨みがあっても、クラウスにはあるまい」
「……」
ベルリヒンゲンは黙った。
考えている。
それは事実である。
そもそも、ベルリヒンゲンの反乱は。
『義挙』は、一応の成功を見せたのだ。
これ以上ベルリヒンゲンには闘う理由がない。
二度目の反乱を起こすつもりなどなかった。
「私が決闘裁判に応じ、コロッセウムの見世物になれば。確かに農奴を解放し、故郷に帰すのだな?」
「嘘はつかん。これ以上の嘘はな……」
ラインホルトはすでに疲れ切っていた。
会話に疲れたのもあるが――それ以上に、自分のミスの証明をまざまざと目の当たりにすることが嫌であった。
ベルリヒンゲン卿。
公爵家が雇い入れた『アカデミー出身』の徴税官や代官達による違法な徴税や搾取に苦しんだ農民のために『義挙』の反乱を起こした傷痍軍人の元騎士。
まさに、ラインホルトの愚行が生み出した、罪の結実と言える存在であった。
ラインホルトは、今更ながらに全てを後悔していた。