壁に向かってワイングラスを投げつける。
それはあっさりと砕けて、周囲に硝子が飛散した。
まるで、それを投げた人物の末路を揶揄しているかのように。
「どいつもこいつも、話の通じぬ馬鹿ばかり!」
アーデルベルトは救いを求めようとした。
自分は騙されていたのだと。
あのアルバンにすっかり騙されて、今回の結末に誘導されたのだと。
そう自分の正義を訴えようとしたが、誰一人として耳を貸そうとしなかった。
それどころか、憲兵にすら手荒に扱われて地面に叩きつけられる始末。
アカデミーまでの帰り道、最後に会った騎士などはすれ違いざまに殴打してきた。
一緒に投げつけてきた台詞はこうだった。
「お前がドミニク卿の獲物でなければ、俺が殺しているところだ。残り少ない寿命を使って、せいぜい足掻け。おぞましい悪魔の子が!」
と。
恨まれている。
アーデルベルトは明確に、王都中の貴族から恨まれていた。
それこそ王妃派閥や第二王子派閥――彼らが望んで所属していたならばともかく、「血みどろヴィリー」のように望まず今回の騒動に巻き込まれ被害を受けた貴族たちは怒り狂っていた。
彼らの怒りはすでに死んだラインホルト公爵や、縊り殺されたテレージア王妃。
騒動の切っ掛けであり、すでに修道院送りになったローゼマリー嬢や、国外追放という名の騎士修行に出されることになったアルバンといった人物。
それらもう片付いた者たちではなく、ただ一人残ったアーデルベルトに対して集中した。
あの騎士も、今回の騒動に巻き込まれ難儀したのだろう。
因縁らしきものを口にし、唐突に腹を殴りつけてきた。
アーデルベルトは慣れない暴力を味わわされて、嘔吐してのたうち回って気絶して。
教師も生徒も誰もいない、もはや一人ぼっちのアカデミーの執務室へと夜中にとぼとぼと一人帰り着いたところだった。
酒を取り出し、腹の痛みを治めるために泥酔する。
「何故私がここまで落ちぶれねばならん! 私こそが、ザクセン王国の王位にふさわしい――」
いや。
このような事を口にしても、アーデルベルトにだって分かっている。
状況は詰んでいた。
もはや味方は誰もいない。
それぐらいはいくら愚鈍でも理解はできた。
もう周囲は敵ばかりで、金を積んでも味方してくれるものなど誰もいない。
「……もうおしまいだ」
殺されるだろう。
あのドミニクという、平民上がりの一代騎士に殺されるだろう。
ここで勝利して、我こそが正義なりと証明する自信はさすがのアーデルベルトにもなかった。
勝ち目がない。
剣をマトモに握ったことのない自分がどうやって勝てるのかと思う。
自分は王錫を握ることが出来れば、それでよかった。
後は全部ついてくるはずだった、地位も名誉も栄光も暴力も。
自分に逆らう愚か者などは皆殺してやるつもりだった。
全て夢だった。
ローゼマリーもアルバンも最初から裏切っていた。
ならば、勝ち目など最初からなかったのだ。
まんまと騙されたのだ。
あの薄汚い品性の二人に利用されたのだ。
このアーデルベルトを最初から罠にハメるつもりだったのだ。
今となってはそう思えた。
「……」
このままだと死ぬだろう。
それはわかっている。
どうやって生き延びるか。
幸い、執務室には母からもらった金を隠している。
これを使えば国外に――利用される立場にはなるだろうが、亡命だって。
いや。
不可能だった。
それが不可能なことは、すでに王都を逃げ出そうとした王妃派閥の死を以て証明されている。
ディードリヒだ。
今でも、ふと気づけば視線を感じる時がある。
何処かから、自分を睨みつけている獣の眼光を感じるのだ。
間違いなくディードリヒだ。
あの狂った猪が、今でも自分を見張っているのだ。
決闘裁判から逃げないようにと。
王都から逃げようとしたところで、どうやって逃げおおせようか。
これは金で解決できる問題ではない。
いくら金を握らせたところで、脱出の手伝いを引き受けてくれる人間などいなかった。
「畜生!」
ワイン瓶を投げつけた。
硝子は再び飛散した。
まるで人生の末路を奏でるようにである。
「どうすれば――どうすればよい」
アルバン、と口にしようとして、やめた。
あの裏切り者がいつもは補佐してくれていた。
だが、もういない。
自分の周りにはもう誰一人として残っている騎士はいなかった。
いや、最初からそんなものはいなかったのかもしれない。
今更になって気付く。
自分が生き残る方法はただ一つ。
決闘に勝つこと、ドミニクに勝つこと、ただそれだけ。
それはアーデルベルトにも、ようやく理解できていた。
だが、どうやって勝つか。
その方法が見当たらない。
ただ、一つだけ。
「……」
一つだけ、勝つ方法はある。
決闘条件を自分の有利にすることだ。
できるだけハンディキャップをなくすことだ。
そして、自分だけを有利にすることだ。
その方法は知っていた。
「もう、これしか残っていない」
アーデルベルトは執務室の金庫を開いた。
金庫には三つの道具が隠されている。
一つは宝石。
一つは金貨袋。
そしてもう一つは、毒薬だった。
塗ったナイフで皮膚に傷さえ与えれば、相手を死に至らしめることのできる毒である。
「これしかないんだ」
アルバンは言っていた。
確かに決闘前の宣言で言っていた。
当たり前だが、刃に毒を塗るようなことだけは許されておらぬ。
神判に恥じぬ、純然たる実力勝負こそが決闘裁判における大前提である。
と。
毒の使用は禁忌である。
だが、アーデルベルトは理解していた。
もうこれしかないじゃないかと。
「――」
酒に酔っている。
アーデルベルトは泥酔している。
二つ、道がある。
ワインに毒を混ぜて、安らかに服毒自殺をするか。
あるいは、ナイフに毒を塗り、ドミニクを道づれにするか。
どちらを選んでも、最後に自分が死ぬことに代わりはないだろう。
後者を選べば、刑罰により嬲り殺しにされる厳しい結末が待っているのかもしれない。
だが、ドミニクだ。
あの平民上がりの何か勘違いした、騎士道ぶったアイツが祝勝会の会場にて、決闘裁判などと言いださなければ。
まさか、ここまで落ちぶれることはなかったように思えた。
せめて、憎いアイツを殺したかった。
それにだ。
ワインに混ぜて毒を口にしようにも。
「ワインはもう残っていないじゃないか」
中身が空っぽのワイングラスもワイン瓶も、すでに壁に投げつけて飛散してしまった。
ワインだってもう残っていないので、床を舐めることすらできやしない。
この毒薬は大層苦いと聞く。
水に混ぜるのも嫌だ。
もう無くなったワインを得るために、また街へと出て、通りすがりの騎士に殴りつけられるのもうんざりだ。
そうだ、やけっぱちだ。
自分も飛散することにしよう。
このワイングラスやワイン瓶のように。
「せめて、道連れを選んでやろうじゃないか。殺してやるぞドミニク」
アーデルベルトは決闘を決意した。
出来るだけ自分に有利な条件で。
どうせならば毒で苦しんで倒れるドミニクの顔に足を乗せ、思う存分踏みつけてやりたい。
自分を殺して、その功績であの怨敵が、父から、兄から、弟から、世間の全てから褒め称えられることだけは御免であった。
酩酊で思考が倒錯しながら、アーデルベルトは愉快そうに笑った。
絶望的な笑みだった。