一瞬、何をされたのかわからなかった。
顔面を思い切り平手で張られて、ようやくハッとしたようにイザベラ様を見る。
「私を見なさい」
イザベラ様は私を、このドミニクを真っすぐ見つめている。
私はというと、目を逸らそうとして――
「私を見なさいと言っているんです」
未だに私は、先ほどのボウ・アンド・スクレープをするために首を下げたままで。
ぐい、と顔を両手で挟まれて、顔を近づけられる。
イザベラ様の荒い吐息がかかりそうな距離だった。
「目を開き、そして私だけを見るんです。そうして話をお聞きなさい」
もはや目を逸らすことはできそうになかった。
かといって、私は仮にも騎士なので淑女を乱暴に振り払うことなどできぬ。
なすがままにされた。
自分の齢の半分しかない、十六歳の淑女に。
「貴方には今、何が見えます」
私は答えた。
この距離で視界に映る存在など、一つしかなかった。
だから、それをそのまま口にする。
「イザベラ・フォン・アッカーマン様です」
「そうです。貴方がきっと死ぬまで背を追いかけていた男の、その娘です。いつか背を掴み、振り向かせて、その前に跪いて、その肩を剣で叩かれることを夢見ていたでしょう。そんな男の、すでに戦場で倒れた男が残した娘です」
確かにそうだ。
それを否定する意味はないし。
だからこそ、私は結局返せなかった恩のために、アッカーマン辺境伯のためにこうして。
決闘裁判に命懸けで挑んでいるのだ。
「私は勝利をもたらします。貴女に。それだけは保証します。ですが、そこから先は――」
「貴方の勝手だと、自分の命なのだから自由にさせて欲しいと。そう仰りたいと?」
そうだ。
もう、うんざりだった。
私の中の光は失われてしまったのだ。
だから、もう――
「この意気地なしが! それでも男ですか!!」
叱咤である。
強烈な叱咤の声が、コロッセウムの長い廊下中に響いた。
私と他の六騎士の「騎士たるもの」が、あろうことかビックリして、身がすくんでしまった。
ああ、忘れていた。
この方は、イザベラ様は、アッカーマン辺境伯の娘なのだ。
あの御方の血筋であった。
「そんなことを誰が望むというのですか! もし私が父であれば、ビンタですみませんでしたよ。思い切り、ドミニク卿の横面を殴り倒したでありましょう。私の父は、そういう熱き血の男でした!!」
確かにそうだ。
それは仕方ない。
そうされても仕方ないように思うし、このような不甲斐ない男だと。
自分はその程度の男だったと、あの御方を亡くして初めて気づいたのだ。
「父は死んだ! もういない! まずはそのことを理解しなさい!!」
イザベラ様の絶叫に、私も叫び返す。
「理解している! 誰よりも!!」
そんなこと理解している。
だからこそ、この世に光が失われたと思ったのだ。
もう、何もかもどうでもよくなったのだ。
「何一つ理解していません! ドミニク卿が私の父の何を知っているというのか! 知っていたなら――本当に理解しているのならば、死にたがりの貴方を怒鳴りつけるぐらいは判っているはずだ!!」
拳。
私の胸板に、拳がぶつけられた。
所詮は、鍛えてもいない淑女の拳である。
私の胸板はビクともしない。
しないが――
「貴方だけが悲しんでいると思うな! 誰もが悲しんでいることなど、すでに承知の上でしょう。他の六騎士が! 私が! アレクサンダー王が! 誰もが悲しんでいる! だが、皆、それに対して、ちゃんと区切りをつけたのです。父の死を受け入れたのです。未だに認めていないのはもう貴方一人だけだ。ドミニク卿だけが未だにそれを受け入れず、やけっぱちになっている!!」
ぶつけられた拳の重みが胸板を通し、心臓に響く。
「安易な死などに逃げるな! それでも男ですか! それでも騎士か、この卑怯者!!」
心がざわついた。
死を覚悟していた、迷いなど一切ない心がざわめいている。
暴風のようなものが吹き荒れた。
感情の波である。
「貴女に何がわかる! 惚れた主君に死に逃げされた、仕えることさえ許されなかった、何の恩返しもできなかった騎士の気持ちが貴女にわかるというのか!? もう私に生きて為すべきことなど何もない!!」
らしくもなく。
騎士らしくなく、私は絶叫する。
こんなの、八つ当たりなのはわかっている。
「貴方が死ねば、どうなります。確かに苦しいでしょう。永遠に眠れば終わりにできる、死にさえすれば、心の痛みも、体にまつわる、あまたの苦しみもいっさい消滅するでしょう。それはわかります」
怒気をむき出しにしている。
自分の本性が、イザベラ様の瞳に映し出されているかのようだった。
「なにもかも終わりにすればいいではないか、短剣の一突きで。もはやどこに耐える意味があるのだと、貴方はそんなことを考えている」
「全て貴女の見抜いたとおりだ、認めよう! だから、もう好きにさせてくれ!!」
わかっているなら。
わかっているなら、もう放っておいてくれ。
そう捨て鉢になるが。
「人生の重荷を、あぶら汗を垂らして、涙をこらえて、非道な運命があびせる矢弾を受けても、それでも背負って前に向かい突き進み、善良を通して生きていくのが騎士道です。父ならばそう仰いました!」
「――」
アッカーマン辺境伯はもういない。
もうどこにもいない。
それを受け入れることは、私の心を引き裂くような行為だった。
だから、私は。
「父は死にました。もう何処にもいません。ですが、人は想いと血を受け継ぐことができます。前を向き、父が残した私を見なさい。このイザベラ・フォン・アッカーマンが、父の最期にやりのこした役目として、その代行として貴方に命じます」
私は。
茫然自失となり、頭が真っ白のまま立ち尽くす。
やがて、私の胸板からイザベラ様の拳が離れていった。
かすかに、何か。
私は、何故か、彼女の拳が心臓から離れて行ったのが悲しかった。
「生きなさい、ドミニク。貴方は私の名誉を守るべく決闘裁判に挑んだのです! その原点を忘れるな!!」
未練である。
おそらく、それは未練と呼べるようなものなのだろう。
自分の胸板を撫ぜる。
手からは、その心臓の鼓動が感じられた。
全身に送り届けるための血が脈打っているのだ。
「――生きていても、よいものでしょうか」
私は疑問を抱いた。
「話をしましょう」
イザベラ様が答えた。
「話をしましょう、沢山の。お父様の話、ドミニク卿はきっと父を理想化しすぎていて、あの人がどんなに間抜けなところがあったかなんて知らないでしょうから。失敗談だってたくさんありますのよ。腹を抱えて笑ってしまうような」
「それは――」
私は躊躇い、自分の生を感じながら、一瞬だけ悩んだそぶりを見せて。
「是非ともお伺いしたいところですな」
微笑する。
私は、叱咤され、心を看破され、そしてアッカーマン辺境伯の死を受け入れた。
なんとも情けないものだ。
おそらく、黄泉路のアッカーマン辺境伯は、十六歳の娘に言い負かされた三十二歳のドミニクに対して、腹を抱えてお笑いになっているだろう。
きっと、ここにいる他の六騎士からも一生からかいの種にされるに違いない。
だが。
私はあえて、非道な運命があびせる矢弾を、受け入れることにした。
おそらく、それが騎士というものだから。
もし私が本物の騎士であれば、このような情けない事を考えずに、自暴自棄になることもなかったろうが。
なにせしょうがない。
所詮、私は平民上がりの一代騎士にすぎなかった。
本物の騎士になるための道は、まだ続いていた。
「イザベラ様、ご迷惑をおかけしました。恥ずかしいところをお見せしました。お詫びと言っては何ですが」
私は前を向く。
眼前には、コロッセウムの入場口にて立ち塞がっているイザベラ様がいる。
「この騎士に何なりと、願い事を命じて下されば」
私は改めてボウ・アンド・スクレープをしながら。
イザベラ様に、一人の美しい淑女にそう尋ねた。
「我が父ではなく、私のために闘いなさい。私の名誉のために、見事アーデルベルトを討ち果たしなさい」
イザベラ様の命令は単純だった。
ただし、アッカーマン辺境伯の遺児のために、その恩義のためにではない。
「承知。貴婦人のために闘うのは、騎士の本懐ゆえに」
私を叱咤してくれた、ただ一人の美しい淑女のために。
そう思えば、主から力が与えられる気がした。
清き者の腕に勇士の力を与え、偽れる者の強力を萎えさせる。
決闘裁判とはそういうものである。
「アーデルベルトを見事討ち果たして見せましょう」
イザベラ様がようやく退いた場所に、私は自ら歩み出た。
歓声が飛び交うコロッセウムの入場口である。
今から第七戦目、最後の決闘裁判が始まる。