試合が始まった。
アーデルベルトは時間をかけるつもりなどない。
すぐに毒の短剣を突き刺してやると、勢いよく突撃しようとするが。
そもそも、ドミニクにはそれに付き合ってやる義理はない。
後ろに向かって駆け出した。
「逃げるか!? 何を馬鹿な――」
そうアーデルベルトは口にしたと同時に、何を馬鹿な事をと。
そんな思考が頭によぎる。
逃げようにも、長さ5メートルの鉄鎖で我々は繋がれている。
このコロッセウムの壇上から逃げられるわけではない。
だが。
そもそも、アーデルベルトがルールを勘違いしているのだ。
別に、背を向けてはいけないというルールなど、何処にも存在していない。
ただ鉄鎖で繋がれ、お互いが離れることが出来ないというチェーンデスマッチ。
そのルールが存在するだけである。
ドミニクは真っすぐに後ろに向かって走り出した。
当然のことだが、互いの左手は鎖でつながれている。
ゆえに、思い切りアーデルベルトは引っ張られた。
「何を――」
ドミニクは14歳から兵士として戦場に出て、32歳の今になるまで鍛え上げてきた。
肉体も、精神も、泥臭い勝ち方も。
細胞の一片に至るまで、何もかも理解していた。
だから、もっとも良い勝ち方を選択する。
自分の安全が確約されていて、それでいてアーデルベルトにもっとも惨めな方法を。
つまり、引きずり回すのだ。
ぐっと力を込めて、自分の太い腕で、左手枷の鎖を掴む。
鎖の重さと、人間一人分の重さの荷重が確かに加わったが。
ドミニクは戦場にて、鎧を着用した負傷兵を抱えて走り回ったことすらある。
アーデルベルトが如き貧弱な貴族を引きずることなど、容易いことだった。
「ま、待て」
当然だが、筋力はおろか、足の速さでもドミニクに勝てるわけがない。
やがて、引っ張られる鎖の力強さに身体がよろけて、地面に転がった。
悲惨なのはここからだった。
回る。
円形の壇上を、ドミニクはひたすら走り回った。
引きずり回されるアーデルベルトの身体。
床との摩擦。
それこそ王国最強のディードリヒ卿にこそ劣れど、ドミニクは荒馬のような馬鹿力の持ち主である。
その摩擦も、アーデルベルトの抵抗も、何一つ気にしなかった。
「ああああ!!」
必死に顔面だけは引きずられないように庇うが、それだけだった。
アーデルベルトは良いように引きずられている。
やがて、床石の何処かに引っ掛かり、服が破けた。
床との摩擦で、貧弱な柔肌が破けて出血する。
これは致命傷にはならない。
ならないが、拷問のようなものである。
それでも、右手に掴んだ短剣だけは放そうとしない。
これを失えば、負けは確実だと愚か者でも理解していた。
「ふむ」
何分経過しただろうか。
結局は浅知恵にすぎないのだと、ドミニクはアーデルベルトが必死に考えた計略を哀れんだ。
荒馬に乗れるかどうかも怪しい、何の努力もしたことのない間抜け。
それが死を前にして知恵を回したところで、付け焼刃が通用するわけがない。
それがアーデルベルトに対する評価である。
第一戦の、あの誇りなきシュテファンにすら劣る雑魚。
奴とて、剣の鍛錬だけはしっかりとしていたし、剣術の天分はあっただろう。
アーデルベルトには努力も才能もない。
何一つとしてない。
もう、これを延々と続ければよい。
ドミニクは勝利を確信していた。
ひたすら引っ張り続け、引きずり続ければ、その内死ぬだろう。
床石との摩擦で、肌は剝け、骨が露出し、腹が破れて腸がはみ出て、アーデルベルトは絶命するだろう。
数時間もこの作業を続ければ、そうなるはずだ。
この殺し方でも別段卑怯ではない、それは理解している。
また殺し方についても、アーデルベルトの末路には相応しいように思えた。
ここまでの騒ぎになったことには、決闘裁判を口にした自分にも原因があるだろう。
それはそれとして、アーデルベルトの愚かさが最大の問題であるのだから。
是非とも、これなら毒入りのワインで自害しておくべきだったと、後悔するぐらいに苦しませねばならぬ。
イザベラ様への侮辱は、あの淑女への侮辱はそれぐらいに重い罪であった。
であるが。
「いかんな、これではお前だけ楽をしたと、他の六騎士に。我が戦友たちに小馬鹿にされてしまう」
ここでドミニクは、風評を気にした。
勝てばよいのだ、何を使おうが。
その精神はある。
十八年も戦場を生き抜いてきたのだ、その泥臭い覚悟はある。
それはそれとして、ここはコロッセウムである。
観客がいる。
あまりにも無茶苦茶な勝ち方をしてしまえば、イザベラ様の名誉に傷をつける恐れがあった。
アーデルベルトは林檎のように「擦りおろされて」死にました、でもドミニクは別に良い。
だがまあ、観客に言わせれば、それではただの処刑である。
それよりなにより。
アッカーマン辺境伯に誇れる勝ち方かと言われれば違う。
「やめるか」
ようやく、ドミニクは手の力を弱めた。
アーデルベルトの服は破れており、体は擦過傷で血まみれになっている。
唯一褒めるところがあるとすれば、未だに右手で毒の短剣だけは握っていることだった。
ドミニクは素直に感心した。
同時に、首を傾げた。
「……さて、どうするかな」
悩んでいる。
どのように殺そうか悩んでいる。
別にどのような殺し方をしても許されるだろうが、騎士として誇れる勝ち方は何か。
それについて悩んでいる。
色んな人間を殺してきた。
人間性の欠片もない凶悪な賊もいれば、戦場でまみえたことを誇りに思わせる敵騎士もいた。
一筋縄ではいかない連中ばかりである。
どれと比べても、アーデルベルトは一番弱かった。
一筋縄でいくというか、このまま一本鎖を引きずり続ければ奴は死ぬのだ。
「き、貴様……。それでも騎士か」
よろよろと、アーデルベルトが立ち上がる。
騎士である。
さきほどイザベラ様に目を覚ますビンタを貰うような恥ずかしい仕儀を見せたが、それでも騎士である。
ドミニクにはその自覚があり、泣き言をいう眼前の愚か者を鼻で笑った。
「そうやって、自分のやることはどのような手でも正義で。他者のやることは何もかもが卑怯だと。そんな他責思考しかできぬから、そこまで愚かに落ちぶれるのだ」
ドミニクは現実を口にした。
アーデルベルトの愚かさは、その現実を直視できぬ異常さにある。
そう笑って。
「さて――」
虚をついた。
お互いの手枷に繋がれた鎖の長さは5メートル。
ゆえに、短剣を投げればドミニクならば確実に命中させられる距離であった。
たとえば、それが。
もはやボロボロになり、よろよろと立ち上がって毒の短剣を握りしめて。
「死ね」
こちらに歩み寄ってくる、もはや動く標的とすら呼べぬアーデルベルト相手ならば。
それこそ外すわけがない。
「ふん」
右手で投擲。
短剣を回転させる必要すらなく、無回転の投擲であった。
力を込めて振り上げられた右手から、短剣が勢いよく放たれた。
アーデルベルトの右手に命中。
絶叫が上がった。
「あああああああ!」
女の泣くような悲鳴だった。
いや、これがイザベラ様であれば、悲鳴すら上げなかったであろうが。
一つだけ褒めるとするならば。
アーデルベルトは、それでも毒の短剣を取り落とさなかった。
これについては褒めてやっても良いと、ドミニクは考えて。
「死ね! 死ね、ドミニク!!」
そして、それだけだった。
アーデルベルトの全体重を傾けた突進を容易く躱す。
そして、鎖を思い切り引っ張って。
よろけたところを、思い切り顔面に蹴りを入れた。
毒の短剣が。
その持ち主の全ての懇願が詰まった、最後の希望がその手から零れ落ちた。
ドミニクは鎖で引っ張る。
毒の短剣が拾えないように、ただ床を引きずる。
何やら地面をひっかいて抵抗する音が立っているが、何もかもが無駄だった。
「さて――」
後はドミニクの独壇場だった。
思い切り横合いから顔面を殴りつけた。
腹に膝蹴りを入れた。
地面に思い切り叩きつけ、顔面を踏みつけた。
そうして、アーデルベルトは叫んだ。
「降参する! 司教、助けてくれ!!」
先ほど救いの手を差し伸べた司教に、降参を求める。
今更の助命を懇願した。
「ここまできて何を仰います。もうこれで終わりでしょう」
司教はもう手を差し伸べようとはしなかった。
完全に見限った。
「ドミニク、いや、ドミニク卿。謝罪する! イザベラにも謝罪をする、許してくれ!!」
「……アーデルベルト、残念ながらもう意味はない。たとえ私たちが許したところで、もう意味はない」
意味はない、と二度呟いた。
本当にここで逃してやったところで、何にもならないからだ。
許してやったとして、降参を認めたところで。
いや。
降参自体は認めてやっても良い。
そういうルールだから、それだけは守るべきだった。
「降参を認めよう」
だからといって、何の意味もない。
私が降参を認めると同時に、ほっとした表情で床に崩れ落ちるアーデルベルトを見つめながら。
私は司教に尋ねた。
「司教。こうしてアーデルベルトは降参した。決闘裁判は終わりだ。さて、その結末はどう裁かれる? 貴方は先ほど救いの手を差し伸べたが、あれが本当に最後の慈悲であったのは、私でもわかるぞ」
「――」
司教は首を横に一度だけ振って。
「絞首刑による死罪にすべきだと、陛下は仰せです。処刑も速やかに実行すべきだと。この決闘裁判自体がそれを決定する裁判で、もうすでに結論は出ました。私が差し伸べた手も拒まれました。おやりなさい、ドミニク卿。それとも他の人に任せますか?」
「・・・・・・そうか」
どのみち死ぬのだ。
その話を聞いて呆然としているアーデルベルトは、もはや憐れであった。
だから、せめて。
「これは慈悲だ。アーデルベルト。せめて一緒に死んでやろうと思ったが。すまんが、私にはやるべきことが残っているらしい」
ドミニクはアーデルベルトの首に、鎖を巻いた。
嫌だ、嫌だと最期まで口にしていたが、それだけで無抵抗だった。
抵抗する体力など、もはや残されていないからだ。
手枷のついた左腕と、右腕を思い切り引っ張る。
アーデルベルトの首の骨が折れる音がした。
せめてもの情けとして、ドミニクはアーデルベルトを苦しまぬように葬った。
ここまで続いた決闘裁判、第七試合。
その最後の決着は、あまりにもあっさりとしたものであった。
七人目の騎士は未だ死なず。
そうして、日が暮れることになった。