スーズが年パスの力によってレトロの死亡イベントをスキップし、美術館見たり映画館に行ったり買い物したりして最終的にご都合主義ハッピーエンドになるアフターif的な話です。

 この二次創作には以下の要素が含まれます。

・「アクアリウムは踊らない」全編のネタバレ
・「アクアリウムは踊らない」RTAのネタバレ
・シリアス展開
・独自解釈、二次設定
・みんなが幸せな世界
・裏切り者は誰だ要素
・素晴らしい原作で情緒をめちゃくちゃに破壊してくれた橙々先生への感謝・リスペクト


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アクアリウムを泳 縺?◆ い

 

  ●

 

 深海の石を、『壊す』か、『壊さない』かの、溺れそうなほどに重く苦しい、選択肢。

 

 私は、レトロに願いを託されていた。だから、『壊さないで』なんて甘言に、踊らされることはありえない。

 

 その二つしか選べないなら、私はきっと、手を握りしめて泣きながら、それでも何度繰り返しても変わらずに、『壊す』ことを選ぶだろう。ーーでも、本当は、そうしたかったわけじゃ、ない。

 

 今、この手には、深海の石を『壊す』でも、『壊さない』でもない、"別の選択肢"が、あった。

 

 

 

 私は、年間パスポートを使った。

 

 

 

  【アクアリウムを泳 縺?◆ い】

 

 

  ◆

 

 ……寒くて、苦しい。

 だんだん、視界が暗くなっていく。

 12年前、あの時の彼女も、こんなふうに感じていたのだろうか。

 

 きっとそうなのだろう。ならばこそ、あのとき、救うことができてよかった……。

 

 最期に、そう思いを馳せながら、深く沈む意識を手放そうとしてーー。一度は、確かに手放したはずなのに。

 

 何かに引き上げられるように、急速に目の前が、明るくなっていくーー。

 

 水面を打つ音が、聞こえた気がした。

 

  ・・・

  ・・・・・・・

 

 暖かい波風、微かな潮の香り、カモメの喧騒。

 

 まばゆい青色が、視界を焼くように広がって、けれど、倒れる私の真上に被さって、ひとりぶんの影がかかっていたから、太陽に眩むことはなかった。

 

「……起きたか、馬鹿レトロ」

 

 目を開けた私の肩に手を当てて、上から声を落とすそのーー人影は。

 逆光で表情が見えなくても、ーーそれが誰なのか、見間違う、はずがない。

 だから、

 

「スー……ズ?」

 

「ぁぁ」

 

「……あり、えない」

 

 だから、私の声は震えていた。

 

 ありえないはずだった。空の青色が、この網膜に映ることは。

 あの、『もう一つのビアンカ水族館』ではない場所で、この声帯が、人間の声を紡ぐなんてことは。

 彼女と"外"にいる今はーー起こりえない。

 

「ありえないって、何が?」

 

 ーー全てだよ。

 

 とぼけるような声に思わずそう怒りをぶつけそうになるのを堪えて彼女を押し退け、……記憶を、辿る。

 

 私は、あの『もう一つの水族館』で、スーズと。12年前に救った少女と再会してーー。

 迷い込んだ彼女を救い出して全てを終わりにしようと心に誓って、短くて長い旅の果て、石の破壊を託したはずだ。

 そのあとーーそのあと、は?

 

 記憶に靄がかかって、うまく思い出せない……。

 

「ーーここは…。私の、『深海の石』は……」

 

「見ての通り、海岸。石は今も預かってる。時計の方はボロボロになっちゃったけどさ」

 

 両手を広げて広い水平線を示したあと、彼女は懐中時計を取り出して見せる。

 硝子はひび割れだらけで天板は凹んでいたが、深い海の色の宝石だけは傷一つなく、中心に残っていた。

 

「ーー何故。出られないはずだ。石を壊さなければ、あの世界から、外にはーー」

 

「……私に言われてもな。現に出れてるんだから、何か勘違いをしてたんじゃ? 誰に説明されたわけでもないんだろ」

 

「……、」

 

 そんな奇跡が、本当にありえるのか? 石を壊さずに、2人で、外に……どうやって? あの世界はいま、どうなってーー?

 

「ほらっ。いつまで寝てんだ」

 

「ーーっ」

 

 額を抑えて思考を迷わせ、言葉を澱ませるばかりの私の手を、スーズは取って、強引に引き上げた。

 ざく、と砂を踏む、2人分の足音。

 

「考え事するより、今は行くぞ」

 

「は? 行くってーーどこに」

 

「色々あるけど……まずは買い物かな。こっちを歩くなら別の服を買うべきだ。ーーそうでしょ、大佐(・・)?」

 

 背を向けて手を引いて、強引に歩き出す彼女に、……どうやら今は、ついていく他ないようだった。

 

 

 ●

 

 更衣室のカーテンが開く。

 

 「……」

 

 中から、むすっとした顔のレトロが姿を現した。  

 

 白いブラウスにカーキのミリタリーシャツをレイヤードして、流行りのカーゴパンツと合わせてマニッシュな印象を崩さないまま、街に馴染むファッションになって。

 

 ーー完璧だ。"私服のレトロ"として想像した通りの彼女がそこに立っている。彼女にはHALEが合うという直感に間違いはなかった。

 ……でも、せっかくだからもっと色々なパターンを試すべきだろうな。うん。

 

 別の服を手渡して、再度更衣室に押し込む。

 

 

 ーー更衣室のカーテンが開く。

 

「……、……」

 

 彼女は、恐ろしく不服そうな表情でこちらを睨みつけているが、こちらは全くもってそれどころではなかった。

 

 太ももまでスリットが入った黒のハイネックドレスに、赤のハイヒールでオトナっぽくコーデ。

 服装に合わせて三つ編みにした髪型が一気に印象を変えていて、立ち姿から"女"を感じさせている。

 

 ーーは??? こんな美の暴力装置が隣歩いてたら一瞬で頭おかしなるが。え、ていうかレトロ、こんなに胸あったの……? 普段は潰していたのか……?

 自分の起伏のない体形と比べて、そこはかとない追加ダメージを受けてしまった。

 次次次!

 

 

 ーー更衣室のカーテンが開く。

 

「……、……、……」

 

 もしサーベルを持っていたら今にも斬りかってきそうな顔だなと、まずは思った。

 

 人間の手が側面から生えたキショい深海魚が逆ピースしてる謎のデフォルメイラストと共に、『サカバンバスピス逆さだぶぴす』とかポップ体でプリントされた意味わからんTシャツ+一番安かったハーフパンツ、などというクソダサコーデをなんだかんだ着こなして……

 

 ーーいや、なんで着こなせてるんだ??? 

 ここまでやってなんでまだちょっといい感じに見えるのは何? 素材の加点が高すぎてキレそう。次!

 

「……、……おい」

 

 安っぽいエナメル地の白バニースーツ+ウサ耳カチューシャを持たせて背中を押し、更衣室のカーテンをーー閉める前に腕を掴んで止められた。

 

「ーーおい! さっきから遊んでいるだろう貴様!」

 

「遊んでないが? 一向に厳正な選考中です」

 

「これを着るくらいなら軍服の方がまだマシだろうが!」

 

 一着ごとに倍付けで不機嫌な表情になっていくレトロが、ついに声を荒げて文句を言ってきたのを、仏頂面で真面目だと受け流す。

 言うまでもなく、まるきり嘘だった。レトロを使って遊び倒していた。私にもこんな感情があったんだと、自分で驚くくらいはしゃいでいた。

 

「クリスといい貴様といい、なんでこう人を着替えさせたがるんだ……」

 

「え。クリスさんにも? というか、あっちにも服屋さんとかあるのか」

 

 疲れ果てた顔でため息をつくレトロの口から出た名前がことのほか意外で、私は思わず聞き返す。

 ここでいうクリスさんとは、十中八九クリオネの方のクリスさん。クリオネスさんのことだろう。

 

「服屋はない。クリーピーに着替えの必要はないからな。……必要ないのに、借りてきたり作ってきたりするんだ……。理解できん」

 

 その様子からは、長年培われたのだろう深い諦念が見て取れる。

 

 洗われすぎた大型犬のような表情で粛々と着せ替え人形に従事しているレトロと、「可愛いですわ〜♡」とかキャピキャピしているクリスさんの姿がありありと想像ついてしまい……どうしてか、胸の底がもやっと澱んだ。

 

「ふぅん。よかったじゃん」

 

「何を聞いていたんだ?? どこがいいんだ、どこが」

 

「クリスさんが喜んで、満更でもなかったんだろ」

 

「……、……は。何を」

 

 馬鹿なことを、と一笑に付す彼女の、しかしその言葉の前に存在した僅かな間に、私には見せるつもりのない大切な時間を抱えているのが見えてーー気に入らない。

 クリスさんはレトロの優しさに付け込んでいるだけだ。……私と同じように。

 

「まあじゃあ、今更何着か増えても変わらないか。早く着な」

 

「いや……着ない。それは少なくとも着ない! せめてもっと露出のないやつにしろ…!」

 

 バニー服を押し付けあって、しばらく喧嘩をして過ごした。……結局、レトロは超露出のバニー服は着てくれず、最初に着せたのに近いユニセックスなコーディネートに落ち着いた。

 

 ……あるいは、今、彼女が肌を、つまり私がつけた傷を無意味に露出しないで済んだことで本当に助かったのは、私の方だったのかもしれないが。

 

 

 ◆

 

 ーー思えば、この生の中で、自分の行く先を全て誰かに委ねることは、初めてである気がする。

 

 誘われて誰かに同行する経験はあれど、確固たる意思は持って選択していたつもりだ。

 

 だからだろうか。こんなにも、地面を踏む足がふわふわしておぼつかないのはーー。

 

「大佐、見て」

 

「……その呼び方はやめろと言っている。大体、そのために着替えたんだろうに」

 

「染み付いてるんだよ。ーーで。そんなことよりも。かき氷の屋台。ショッピングモールにもあるんだな」

 

「……それがどうしたんだ」

 

「レトロは知ってる? かき氷」

 

「ああ、バンドウのステージの横で売っているからな。食べたいと思ったことはないが」

 

「なるほどな。ーーよし。並ぼう」

 

 相変わらず私の話を取り合わないスーズに、大きくため息をつく。あるいは、だからこそ勧めているのだろう。

 

「……。お前は好きなのか?」

 

「いや。全然。むしろ嫌いかも。頭痛なるし」

 

「なんなんだ貴様。なんなんだ」

 

 ……足元がおぼつかない本当の理由は、きっと、違う。

 

 ずっとどこか浮いた心地であるのは、彼女のふるまいに、何某の違和感を感じているからだ。

 話しかけられ、言葉を返してはいる。その時間は心地よくあって、それが偽物であるとは思わないが、ーー底に隠れているものがある、とも感じている。

 

 スーズは何かを隠して、私をどこかに導いている……。

 

 彼女は、一体何を……

 

「大s……レトロは何味がいい?」

 

思考が、現実に引き戻される。

 いつのまにか順番は私達の番まで進んでいて、目の前にはカラフルなシロップと値札が並んでいた。

 

「別にどれでもいい。そもそも同じ味なのだろう。確か」

 

「うわ、知ってても言わないでしょ普通。夢がないな」

 

「悪かったな。ーーいずれにせよ、よく食べてたお前の方が知っているだろう。任せるよ」

 

「……、ぉぅ」

 

 結局スーズはブルーハワイを2つ頼んで、片方を手渡してきた。

 

 氷にシロップをかけただけで、こんな値段になるのはどうしても理解できない。氷水なら無料で飲めるというのに。

 

 近くのベンチに並んで腰掛ける。

 

 真夏の昼下がり、知らない人間が目の前をちらほらと通り過ぎて行く。

 思えば水族館でも海でも、人間はいつも私に注目をしていたから、こんな風に世界の隅にただゆっくり存在できるのも初めてなのだなと、改めて思いながら隣でかき氷を食べるスーズをぼうっと眺める。

 

「……子供の頃、好きだったんだよな」

 

 ざくり、と、音を立ててスプーンを突き立てて、青く色づいた氷の粒を見て小さくこぼす彼女の言葉が、どうしてか鮮明に。

 

 他の意味を孕むように聞こえた。

 

「……今でも子供だろうに」

 

「んあ"? 喧嘩売ってる?」

 

「どうしてそうなる」

 

「そら大佐と比べたらちびっこもいいとこですけどさ。これでも成長してるんだ私も。……あの時みたいに、溺れるばかりの子供じゃない」

 

 言うだけ言い切って大きく氷を掬ったスプーンを一気に咥えた彼女は、額を抑え、不快そうに顔をしかめていた。

 

「……、……急いで食べるからそうなる」

 

 私は、彼女に対して何かもっと別の言葉を伝えたかったはずなのだが、……結局、出てきたのはそんな言葉で。

 

 それに対する買い言葉の憎まれ口は帰ってこず、2人、黙々と並んでで氷菓子を食べた。

 

 生まれて初めて口にするそれは、およそ想像していた通りの甘いだけの氷だったのに、少し、どこかに捨てて置いた過去の味がするようで。

 

 やはり、好きになれそうにはなかった。

 

 

   ●

 

「ぁぁ? 何が『無個性』だ、モデルみたいなスタイルしやがって……」

 

 美術館。

 通常展示をあらかた歩いた後に来た、期間限定の特別展示で、私は『無個性』と題された、美しいドレスの、首のないモデルのマネキンを眺めていた。

 というか、睨んでいた。

 

 街を歩いたらどこにでもいそうなメリハリのない容姿の私からしたら、たとえ表情がなくとも、この身長とスタイルで無個性とか名乗るのは煽り以外には受け取れない。

 無個性の対義語みたいな顔と身長とスタイルを併せ持つレトロは、そんな私を呆れ顔で見下していた。

 

「……楽しそうだな」

 

「あ"? どこがそう見えるんだ、超個性大佐が……」

 

「やめろ。ただでさえ恥ずかしい渾名に冠詞をつけるな」

 

 言い合いながら、美術館の廊下を進んでいく。

 

 ……私は、本当に楽しそうなのだろうか。

 

「……レトロは楽しんでる?」

 

 私もレトロも、感情が表に出ない方だから(今の私は少し開放的になっている自覚はあるが…)、美術品鑑賞といっても基本的にはただ黙々と歩いたり立ち止まったりしているだけだ。

 

 ーー表には出ていないだろうと思ったから、つい意地を張ったわけだが。

 

 しかし、レトロに見抜かれた通り、私はその願ってもいない時間を楽しんでいたと言えるだろう。……彼女は違うだろうか?

 

「……そう、だな。美術館は、私のいた世界にはなかったものだ。珍しいし、興味深くないと言えば嘘だろう」

 

「あぁ。ないんだ。SLと病院はあっても」

 

「誰も求める者がいなかったのだろうな」

 

 それはあるいは美術館を運営したくてたまらないクリーピーが産まれたら一緒に生えてくるのだろうか? ——ありえる話だ。

 

「まぁでも、そか。ーーそれならいい」

 

 楽しんでいるなら。連れてこられて、良い。この時間はあっていい。

 

 そう思いながら、だいたいの展示を回ってーー最後に残った、広間の目玉展示を訪れる。

 

「これが一番人気のやつらしい。タイトルがーー」

 

 パンフレットを読みながら、人の海の奥にあるそれを見てーー私の言葉は、そこで止まった。

 

 深海を描いた、巨大な絵だった。

 

 ロープに囲まれた地面いっぱいに描かれた、深い紺色の世界と、口を開く巨大なチョウチンアンコウ。

 その絵は……それは、

 

「ーー、ぁ。ぅ、ぁ」

 

「おい、大丈夫か。スーズ」

 

 少し、立ちくらみをしただけだというのに。

 

 さっきまでずっと、どこでもない遠くを見ているようだったレトロなのに、私が不調を見せたこういうときだけは目ざとく真剣に私を見て、「お前」でも「貴様」でもなく、名前を呼んで心配してくれる。

 

 人混みのない壁際まで手を引いてくれる。

 

 あぁ。

 嬉しくないわけがない。

 ーーだから、悔しくないわけも、ない。

 

 言葉を詰まらせた私は、ベレー帽をーーまだベレー帽である(・・・・・・・・)それを深く被り直して、表情の変化を誤魔化した。

 

「ーー別に。ただちょっと、似ていたから思い出してたんだ」

 

「ーーそうか。そうだな。確かに、この絵は似ている」

 

 説明の足りない言葉でも、過不足なく伝わったらしい。

 私が逸らした話題の方向に、つまり足元の絵に、視線を落として答えてくれた。

 

 この、深海の絵は似ている。

 描かれたチョウチンアンコウがあの時襲ってきた怪物に似てる、とかいう話だけでなくて、もっと根源的にーービアンカ水族館の、大水槽の裏の世界そのものに、纏う気質が似ているのだ。

 

「…足を踏み込んだら、そのままどこかに迷い込みそうな絵だ」

 

「気をつけろよ。流石に3回目は手に負えん」

 

「あ"? バカにしてる?」

 

 いくら私でもそんなほいほいあちこちに迷い込んでたまるものか。

 抗議を込めて睨みつけようとして、

 

「ーーそれとも、もう3回目か?」

 

 ーー射竦めるような、見定めるような鋭い視線と合った。

 

「……心配しないでも、何度も迷ったりしない。学習してる」

 

 そう返して、ロープに背を向ける。

 

 この絵が孕む深海がどんなものであれ、それは私が迷い込む場所じゃない。

 レトロはーー私の言葉に納得したようではなかったが、何も言及することはなかった。

 

「次は映画館に行くつもりだけど、レトロって好きなジャンルとかある?」

 

「ーーそもそも、エイガカンとは何だ」

 

「……まじか」

 

 あの世界にあるものとないものの差、つくづく謎だなと思いつつ、映画について軽く説明しながら、美術館を後にした。

 少しだけ伸びてきた髪を、指でくるくると触れて確かめる。

 

 ……大丈夫。まだ、大丈夫だ。

 

 

 ◆

 

 気がつくと、私は長く細い道に立っていた。

 

「ーー? スーズ?」

 

 問いかけても、隣にいたはずの彼女からの返事はない。

 

 おかしなことは、それだけではなかった。服装は馴染みの海軍服に戻っていて、何より……ここは海底で。左右を高い断崖に挟まれた海底の道、と呼ぶべき場所だった。

 

 ーーあぁ、夢か。

 

 そう得心すると、現状の全ては腑に落ちた。

 映画を見ているうちに、眠ってしまったのだろう。誘ってくれたスーズには悪いことをしたが……。

 

 夢であるとわかった以上、前か後ろにしか進めないものだから、前に進む。

 あるいは自らの腹を裂いたりしたら目覚めるのかもしれないが、それは最後の手段だろう。

 

 気付いたこと、今日あったことを整理しながら、変わり映えのしない道を歩き、歩き歩いて、どれくらいかそうすると。

 

 

 ーー急に開かれた視界に、無数のスーズの屍(・・・・・・・・)が転がっていた。

 

 

「ーーは?」

 

 まず、思考が白く染まった。

 

 夢だとわかっているのに、腹を裂かれたて死んだスーズが、胴から下を食い千切られたスーズが、……そして、半分クラゲと化したクリーピーの体で潰れているスーズが、私の脳を突き刺して掻き回しているようだ。

 

「スー、ズ……。駄目だ……」

 

 自分でも、何を口にしているか判然としない。

 

 何のためかもわからぬまま、そのうちのひとつ、最も存在感のある彼女に、手を伸ばす。

 人の手ではなくなったその触腕に触れた、それと同時ーー

 

 

 視界もまた、すべて白に染まった。

 

 

・・・

・・・・・・

 

「一緒に…色んなものを見に行こうよ…。美術館に行ったり、みんなでご飯を食べたり…」

「……」

「買い物したり…映画を見たり…。陸からの海も,見たことないでしょ…?」

 

 海の中で、スーズが話している。その相手は、私だった。

 傷だらけの、アルビノの姿の鮫だ。間違いなく私でしかありえない。

 話す2人を見ている今の私は、ーーどこにも、存在していない。

 

 体も何もなく、ただ映像としてその光景を見る意識だけが何もなくとも感じられている。だからこれはまだ、夢の続きなのだろう。

 

 ーーけれど、いつ、誰の夢(・・ ・・・)だ? これは。

 こんな記憶はない。ーーそれとも、忘れているだけか? ずっと靄のかかっている、欠落した記憶が……これなのだろうか。

 

「…私はレトロに、レトロにもっと、生きていて欲しかった」

「迷い込んだ人間を助けて…助けて…それなのに、こんな最後だなんて」

「これじゃ、レトロが救われない…」

 

 ーーそうである可能性は、高い。

 

 今のこの景色に、確かに、覚えがある。こんな話を、私はしたーー。ーーだが。

 この会話が本物の過去なら、これは明らかに、"深海の石を壊した"あとの会話だ。

 今この状況と辻褄が合わない。私が生きている状況と……。

 

「…忘れないよ」

「忘れてもいい。おまえが進み方を忘れたときだけ、思い出せ」

「……っ。分かったよ…。その時だけ…仕方なく…思い出してやる!」

 

 ーーいや、それは、欺瞞だ。

 

 本当は、辻褄は合う。

 

 さっきの美術館で、私は答えの可能性にたどり着いた。

 

 ーーけれど、それは……。

 

・・・

・・・・・・

 

 ーー意識の焦点が、現実に合う。内容にまるで覚えのない映画の、エンドロールが流れている。

 

「ごめん。面白くなかったな…」

 

「気にするな。ーーいや、こちらこそすまない、と言うべきか。せっかく案内してもらったというのに」

 

「私が選んだ映画が悪かったよ。私も半分記憶ないし……」

 

 どうやら、よっぽどつまらないものだったらしい。周囲の客もざわざわと文句を口にしていて、スーズは少し落ち込んでいた。

 初めての映画館なんだから、面白いと知っている映画を紹介するべきだった、というような後悔を滲ませていたがーーそうされていても、きっと同じように私は寝ていただろう。脳が、記憶の整理を必要としていた。

 

 ーーそしてそれも、終わった。私は改めてスーズに向き直る。

 

「……スーズ」

 

「……何?」

 

「次の行き先は、私が決めたい」

 

 スーズは、その言葉が来ることを予想していたように、顔を見せずに頷いた。

 

 

   ●

 

 ビアンカ水族館。

 

 クリスさんでない、普通の受付員に年間パスポートの表面を見せて、2人で中に入った。

 

 私の年パスは訳あって(・・・・)少し破損しているから、本来の用途で使えるか不安だったけれど、QRが無事だったから、問題なく通してもらうことができた。

 

 2人、水族館を歩いていく。せめてもの時間稼ぎーーというわけでは断じてないけれど、さまざまな展示をゆっくりと見ながら歩いていて、けれど言葉は本当に少なかった。

 

「レトロは、こっち側から水族館を見たことはないよね?」

 

「あぁ。ーーとはいえ、向こうの水族館も似たような構造だからな」

 

 真新しさがあるわけではないとレトロは答える。

 

 そしてまた無言。魚たちについて気の利いたコメントでも挟めればもっと盛り上がったかもしれないがーー今は少し難しいか。

 あるいは、別に今でなくとも、私達が歩くならこれくらい静かになりそうだけれど。ルルの陽気さは、観光には不可欠なのかもしれない。

 

 ーーやがて、あの、大水槽の前に着く。特に何の相談をしたわけでもないのに、2人とも立ち止まった。

 

 周囲に他の人の気配はない。この大水槽に何も展示されていないからかーーそれとも、すでにここが境界に近いからか。

 

「……スーズ」

 

「……なんだ。レトロ」

 

 とん、と水槽のガラスに背をもたれさせて、レトロは話し始める。

 

 私は正面ではなく横に、同じように並んで話を聞くことにした。ひやりと、冷たい感触が背中に触れる。

 

「今日は、……色々と案内して貰ったな。……悪くなかった」

 

 ……律儀なやつだ。と思った。本題はそれではないことを2人とも承知しているのに、まず、そこから触れるのは。

 

「ん。まぁ、100点のデートって感じには全然ならなかったけどな」

 

 映画は2人して寝ちゃったし。かき氷は冷たすぎた。美術館もなんかほとんど無言だったし。

 

 ーーけど、そういう悪くない程度の毎日が、私は欲しかったんだ。

 

「デート……?」

 

「あーいや、口が滑った。なんか行き先がそれっぽかったから」

 

 ものすごくよくわからないものを見る目をされたので、慌てて弁解する。

 

「……いい時間だったよ。ーー十分に。だから、答え合わせをしようか」

 

 短い間。けれど、それが、この、デートだかなんだかわからない時間の終わりなのだと、そう証明するに十分の空気だ。

 

「……お前は、どうやってあの水族館を出たんだ? お前は、私の知らない、何を知っている?」

 

 質問の形式を取っていたけれど、たぶん違う。

 

「……年間パスポートを使った」

 

「はあ」

 

「偶然気付いたんだよ。年間パスポートを見ながらこう、お祈りして移動すると、壁をすり抜けたり水上を歩いたり、無敵になったりするんだ。それで水族館からも脱出した」

 

 ……私は、この期に及んで少しだけ誤魔化しを入れる。

 

 別に、騙し切れると思っているわけじゃない。現に、レトロは私の言葉を信じていた(・・・・・)

 

 やはり、聡明なレトロは答えにたどり着いている。

 

「ーー私にも見せてくれないか?」

 

「どうしようかな。ボロボロだし」

 

「大事なものなのならば、いい」

 

「……卑怯な言い方するじゃん」

 

大事かと言われれば、レトロから預かった懐中時計より、私にとっては大事じゃなくて、レトロにとっては、大事であってほしかった。

 

 私は、手作りのパスケースに入れた年間パスポートを、レトロに渡す。

 

 カードを、レトロはとても丁重に取り出して、裏返した。

 

 『訳あって』。ーー内部を確かめるために、カードの一部を丁寧に切り開いてある、私が拾った年間パスポート。

 

 それを見て、レトロは、深く、深く息を吐いた。

 

「使ったんだな……。"深海の石"を」

 

 年パスの裏面、まるで最初からそうされることを想定されたように綺麗に切り開くことができた、表面を削った先にできる空洞に、ICチップの基盤のような何かが剥き出しになっている。

 

 

 その中央で、藍色の宝石が輝いていた。

 

 

   ●

 

 この年パスが、普通でないことを示す傍証はいくつもあった。

 

 拾った時から、それだけで明らかに私の体力(・・)は強くなった。普通なら致命傷となる傷を受けても、何度かなら耐えられた。最終的にはレトロに治してもらっていたが、そこに辿り着けるまでが思えば異常だ。

 

 ついでに、一目見てもわからなかったのだが、カードの厚みが通常の年パスの2倍くらいあった。何もかも異常事態だったので、そういうもんかと気にも留めなかった。

 

 そしてそもそも、存在していた場所が致命的におかしい。

 もう一つの水族館にあって、宝石箱に収められていた、無記名でナンバーのないパスポート。

 あれは、誰のものだったのだろうか。

 

 きっと、誰のものでもないーー偽物のパスポートだったのだ。

 

 深い理由はなく、けれど水族館らしい方向性だけは有して、いくつもの謎解きがあの世界に自然発生していたのと、きっと同じ性質のものだ。

 

 あの、レトロが願った世界そのものが、内部に漂っていたーーあるいは新しく産まれた3つ目の、最も小さな深海の石を覆う被膜として、貝が作る真珠のように『ビアンカ水族館の年間パスポート』という、近くに情報があった偽装の庇護膜を作って、宝石箱に収めた。

 私は、そう考えている。

 

 「……」

 「……」

 

 二人分の沈黙が、静かな水族館を支配する。

 レトロは、何一つレトロのしたことではないのに、私にそれを使わせたことを悔いている顔をしていた。

 

 優しくて過保護。それが嬉しくて、腹立たしい。

 

「……レトロに託された通り、一度私は、レトロを殺したんだ。石を破壊して、水族館を終わらせた」

 

 黙っているレトロに変わって、私が"答え合わせ"の続きを引き取る。

 気付かれない限りは隠しておくつもりだった。

 あわよくばずっとごまかせればいいと思いながらーー最初から絶対にそうはならないだろうと確信していた私の足跡を、改めて伝える。

 

「……年パスに深海の石が隠されてるって気付いたのは、あそこを脱出して数日後だったな。ルルと一緒に海を見て、水族館のことを思い出してーーその帰りに気付いたんだ」

「石を使おうと決意したのは、一ヶ月後くらいかな。病院で偶然、ノア先生……Dr.マンタに会ったんだ。色々話をして……、願う価値があると思った」

「あの日の私は、『壊す』か、『壊さない』かしか、選択肢を持っていなかった。

 だから、壊した。けど本当はーーもっと別の選択肢が、欲しかったんだ」

「私は、深海の石を『使った』。[もっといい結末]を石に願って、ーー水族館に迷い込んだあの日に、世界を巻き戻(リセット)した」

 

 レトロからの返事はない。

 

 私は隣のレトロの方を見ずに、誰もいない壁に視線を向けて、話を続けていく。

 レトロの表情はきっと、酷く歪んでいるのだろうと思う。そこから目を逸らしたいわけではなかったがーー話が終わるまでは、見るのは躊躇われた。今ここにある気持ちを、ブレさせるわけにはいかない。

 

「私はあの日の水族館を何度もやり直しながら、石の力を使って情報を集めた」

 

 図書館の本を手当たり次第漁ったり、本来行けないはずの壁をすり抜けてあちこち侵入したり、クリーピーのみんなの"記憶の欠片"を集めたり、クリオネのクリスさんーー紛らわしいから失礼にも偽クリスさんと呼ぶけど、彼女を説得しようと試みたり。

 

 その過程で数えられないほど死んだり傷ついたり行方不明になったりして、その度に石の力でやり直した。

 

 その度に心配をたくさんかけたけど、その顔を思い出すだけで心が痛むけど、時を戻したことでチャラにしてーーなんてとても言えない。そもそも、外の世界の時間は普通異進んでいたから、たぶん記憶を上書きして全てを修復して、都度あの世界を作り直しているだけで、本当は何も戻っていないという節がある。

 

 それでも、これが私が納得して選んだ最善だと思っているから、あの時と同じように今回も、後悔はない。

 

 ……願った途端に何もかも解決するのではなく、こういう、地道で泥臭い方法しか取れなかったのは、恐らくそれが石のーーではなくて、私の想像力の限界だったのだろう。

 

 自分の足で一歩ずつ歩かなければ、約束を果たしたと満足できないと、きっと私はそう思ったから、そういう形で願いが叶ったのだ。

 

「ーーそれで今日、やっと。お前を外に連れ出すところまでたどり着いたんだ。レトロ」

 

 長い独白が終わる。ーー私は、隣のレトロを見る。

 

 彼女の傷ついた顔は最近多く見たが、今は、初めて見る弱った顔をしていた。

 沈痛な面持ちで、きっとずっとこちらを見ていた。

 

「ーースーズ……」

 

「何?」

 

「……終わってよかったんだ」

 

「私は、そうは思わないな」

 

 まだ終わっていない。何も。

 

 むしろここからが一番大事なのだ。

 

 やっとレトロを一度、夢のような短い時間だけ外に連れ出すところまで辿り着いて、けれど、私達が二人で外に出るのを邪魔する、裏切り者がひとりいる。

 

 ーー私は、この、頑固でお人よしな、レトロを説得し(倒さ)なくてはいけない。

 

「ーーここで喧嘩したら、水族館に迷惑だよな。続きは、向こうで話そう」

 

 入り方は魂が理解している。初めての時は水槽上部から飛び込んだが、ガラス越しでも問題はない。

 

 私は、全ての体重を後ろにーー水槽が隔てる向こう側に預ける。

 

 沈むように、何の抵抗もなく、世界の壁をすり抜けた。

 

 

 ガラスが砕ける音がする。

 

   ★

 

 "もう一つのビアンカ水族館"の、何もいない大水槽。

 

 その内部に、クラゲのクリーピーが漂っている。

 

 足、腕、そして美しい青髪だったもの全てが、透明な薄水色の触腕に変容し、ベレー帽の名残のような傘や、服の隙間から、ゆらゆらと伸びて広がっている。

 

 かろうじてシルエットは人に近くもない、という程度の、クリーピーらしいクリーピー。

 他のクリーピーと明確に違うところがあるとすればそれは一つだけーー顔が隠れていないこと。

 その目は、今も、レトロをまっすぐに見つめていた。

 

「スーズ……。その姿ーー」

 

「あぁ。石の代償ーーいや、これは代償じゃないな。願いの手段ってやつかな。……ま、これはこれで、よく見るとけっこう可愛いだろ」

 

「……戻れなくなると言ったはずだ」

 

「それは、現世に未練がない、この世界だけで満足してしまう奴に限った話だよ。私は全然平気。ずっと人の姿でい続けると気分が悪くなったりはするけど、こうしてちょっとクラゲになれば落ち着く。息継ぎみたいなもんだ」

 

「ーーそれを、平気じゃないと言うんだ……!」

 

 鮫の少女は怒鳴る。声量に水槽が震えるほどに。彼女もまた、見慣れた軍服に戻り、下半身を鮫のそれに変じさせて、水槽の中でスーズに相対していた。

 

 まるで、何かの戦闘が始まるような構図であったが、ーーそうはなりようがない。

 レトロの命そのものである懐中時計は今もスーズが握っていて、スーズの命はレトロの手元に渡されたまま。それ以外の攻撃に意味はないのだから。

 

 手段があっても、互いに傷つけたいわけではなく、ーーだがその有り様だけで、結果として傷つけあっていた。

 

「スーズ、なぜ石を使った……! お前は十分に知っていたはずだ。使えば二度と取り返しがつかないと…! その代償の重さを……!!」

 

「何故……? 何故、だって……? 本気で言ってるのか…? このバカレトロ……!!」

 

 すぅ、と水中で息を吸う。物理法則は意味をなさない。

 世界の水全部を震わせるつもりで、ずっと燻っていた怒りを、海月(くらげ)の少女は叩きつける。

 

「ーー"助けたいから、助けた"!! それで傷付くとか、魂が代償だとか、そんなのは、知るか!」

 

「ーーっ!」

 

 それは、12年前にレトロがスーズに言ったのと、ほとんど同じものだった。

 

 あの日、傷だらけになり死ぬことを覚悟して行ったことと同じことをしただけだと言われ、レトロは声を詰まらせる。

 だが、それも一瞬だけだ。

 

「……言っただろう! 私は十分生きた、十分に救われていると…! 私のためにスーズが傷付くことを……私は望んでいないんだよ……!」

 

 悲痛な表情で、レトロは訴える。

 無意識に距離を詰め、言葉と一緒に、スーズを水槽の壁に叩きつけるように押し付けた。

 

「ぁぁ、お前は、そうだろうさ…! ーー思い上がるなよ、馬鹿大佐…っ! 私が望んだんだ! レトロが生きてなきゃ、私が(・・)救われないと言ってるんだ…!」

 

 スーズもまた、クリーピーの触手でレトロを捉え、押し返す。

 それは何かを目的とした争いではなかったが、この押し付ける力の強い方が、願いを押し付ける資格もあるのだと、そう感じているかのように互いは力を拮抗させる。

 

「忘れてもいいだとか、歩き方を忘れた時だけ思い出せだとか、好き勝手言いやがって…! 託すだけ託して、勝手に満足して、消えやがって…! それでも私は、言われた通りにしたんだっ、言われた通り忘れようとして……あぁ、結局、毎日お前を思い出していた…っ!!」

 

 忘れることなんてできなかったと、ずっとどこを歩いているかわからなかったと、目尻に浮かんだちいさな涙の粒は、何故か水槽の海水とは混ざらないで、宇宙の雫のように水中を漂っていく。

 

「お前に託された選択を、後悔はしてないっ! あの日の結末は、今でも宝物だっ。……だけど、だけどさぁ!

 そもそも、私がもっと強ければと、思わなかったこともないんだよ…!」

 

「私はーー違う、私は力を、お前は頭脳を、そういう分担だっただろう…! お前までもが傷つく必要はーー」

 

「必要の話なんてしてない! 戦う力の話でもない!

 12年前私は溺れてお前を傷つけて、海ををずっと怖がっていたせいで、あの日また溺れてお前を殺した! もう溺れるのはこりごりだ!」

 

「違うっ!! お前が殺したんじゃない! あれは私がーー」

 

「ぁぁそうだ! だから、私も同じものを返したいんだ……!」

 

「ーーだとしても! それでは解決したわけじゃない! 悲劇の担い手が変わるだけだろう!?!?」

 

 いつのまにか、レトロの方が反対の壁際に追い詰められている。たくさんの、想いを絡めて強度を増す海月の腕に掴まれて、レトロは言葉の一部を認め、けれどそれは意味がないと、そう拒絶する。

 けれど、スーズはそれを許さなかった。彼女を今度こそ離さないと掴み、叫ぶ。

 

「だけじゃない!!! だって、私にはお前がいる!! 私が傷つくたびに、心配性のお前が勝手に助けるのはわかってる! だからやっと、私は海が怖くなくなってきたんだ……っ! 私が同じことをしても、同じ結果にはならない!」

 

「……ッ"」

 

 一瞬の動揺をついてレトロを完全に掴み切ったスーズは、そのまま水槽の床に押し倒した。

 そのまま顔を寄せて、さらに、もっとと、願いを押し付ける。ささやかな願いを。

 

「私はーーお前に託された願いを全部叶えたつもりだ! 水族館から脱出した、石を壊したっ、今もこうして、生きてやってる! 仕方なく!!

 お前は、どうなんだ!? お前は私の、たったひとつの願いも叶えてくれないのか!? そんなに、生きることは苦痛なのか!?」

 

 

「ーー私はもっと、お前と一緒に、いろんな世界(ばしょ)泳ぎたい(・・・・)んだよ!! レトロ!!!」

 

 

 もしその感情のぶつけ合いが戦闘ならば、ほとんど勝敗は決していた。

 

 レトロは完全に打ちのめされたように視線を逸らしていて、スーズはしっかりとそんなレトロを見据えていて。

 しかし、それでもレトロは、まだ折れられない理由があったから、ぶつけられた巨大な感情に負けを認めながらも、小さく溢す。

 

「だがーーそれでも、……私が生きて、この水族館が続くことは、……間違って……」

 

「ーーそれ(・・)だ」

 

 その嘆きを、スーズは掬い上げた。そう言うのこそを待っていたように、小さな触手でレトロの頬に触れて、言葉を留める。

 

「……レトロ、お前はずっと後悔していたんだな。あの時、深海の石にこの世界を願ったことを」

 

「……当たり前だろう。たくさんの人間を巻き込んだ。たくさんの人間が、この場所に閉じ込められた。お前のことも、危険に晒した…。2回目の助けなんて、そもそも私がいなければ、お前には必要なかったんだ」

 

「でもそれじゃ、ずっと泳げないままだ。ーーいや、その話はもう終わったからいい」

 

 レトロのずっと抱えていた希死念慮が、根幹の問題だった。『レトロが死ななければ水族館から絶対に出られない』というのは、レトロの抱えていた問題の具現であって、世界のルールではなかった。

 

 実際、あのクリオネの女性は、受付として外に出ている。

 入るより出る方がずっと難しい仕組みはあるが、それは容易く破れるものだ。

 

 スーズがずっと死と再走を繰り返しながら探していたのは、脱出する道ではなくて、レトロの心に切り込むヒントだった。

 

「なぁ、レトロ。それは違うんだ……お前は、海のことしか知らないんだよ」

 

「違うーー?」

 

「ーーDr.マンタと会って、石を使うのを決意したって話しただろ」

 

「……ぁ、あ」

 

「フグナースの姉妹の話を聞いたんだ。……もう、彼女たちの病気は、もって2、3日というところだろうって話をだ」

 

「ーーは?」

 

 レトロはこの水族館の大体のクリーピーと面識がある。ーーけれど、彼らが人だった頃のことはほとんど何も知らなかった。

 驚愕に目を細めるレトロの前ーー位置関係的には上でーースーズは、髪の変化した触手の一本を伸ばす。

 それが、きらきらと不思議な、水晶の反射のような光を湛えていく。先端から、細い針が伸びる。

 

「…おい、スーズ? 何をするーー」

 

「あー。ちょっと痛むかも」

 

「は?、つっーー」

 

 ぶすり、と容赦なくレトロに、刺胞を突き刺す。

 

 同時に、レトロの脳内に、自分のものではない記憶が弾けた。

 ごく一瞬の、一枚絵にも似た記憶だった。2人の病院着の少女が、青空を見て、「死ぬ前に最後に水族館に行きたい」と、そう言っている。

 

「ーーなん、今の、は」

「ループの中で、仲良くなって。記憶の欠片をーー貰った? んだ。

 詳しい仕組みは私にもわからん。クリーピーになったらできるようになった」

 

 混乱するレトロに、あっけらかんと、いつもの無愛想な顔で言い放つ。

 

「見えたな? それが人間だった頃の2人だよ。ドクターは2人の主治医で、ーー私が病院で会った時、交通事故で半身不随になっていた。当然、医者が続けられる体じゃない」

 

 また一本、別の触腕がレトロに刺さる。車椅子に座る、ドクターの面影が残る青年が見える。

 その度にレトロは針の痛みと、ーーそれとは比べものにもならない心の痛みで、顔を歪めた。

 

「何度もやり直して、みんなを深く知って集めた記憶の欠片だ。……まだまだあるからさ、遠慮せず受け取ってよ。レトロ」

 

 うぞうぞと、紫に変色した半透明の触手が蠢く。少しだけ楽しそうに、意地悪くスーズは笑って、地獄の痛みをレトロに押し付ける。

 次々と突き刺されるたびに、レトロの脳内にに弾ける知らない記憶に映るのは、どれも知っている顔の面影があり、どれもーー言葉にできないような悲惨な記憶だった。

 

「あ、ぐ、……、やめろ、スーズ、何がしたい……!? 何が言いたいんだ……!?」

 

 その行為の意図が掴めず、レトロは身を捩る。

 何も見ていなかったことを責めているのかとさえ思って、ーーけれどそれはまるで逆だった。

 

「 ーーフグナースは余命幾許もなかった。デメキンちゃんは恩人の職場を火事にしてしまった。コウペンさんーーツクシさんは、列車のホームに身を投げようとしたその日に、プレミアムチケットを拾ったらしい」

 

 一つ、息を入れて、スーズは伝える。

 

 不器用で誰より優しい鮫の友人に最も伝えたかった、水族館で集めた真実を。

 

「あの世界に招かれるのは、現実にどうしようもなく居場所がない、不幸な奴だけだ。ーーそれは、お前が、不幸のうちに死ぬはずの運命の人間が、[みんな幸せに生きられる世界]を願ったからだと、私は思う。」

 

「ーーは、」

 

「館長も、クリーピーになってる間は普通に生きて(・・・)いられるんだな。知った時には驚いたよ。レトロは知ってたんだろ。教えてくれてもよかったのにさ。おかげで偽クリスさんのことを、死体と喋るやばいやつと誤解しちゃったんだから」

 

 やっと、記憶を見せて伝えたかったことが、レトロにも理解できてしまった。

 スーズはつまり、あれでよかったのだと、そう言おうとしているのだ。

 

「……、だ、だからといって、ーー仮に、そうだとしても、だから許されるなんてことは、」

 

「許されるのが、そんなに駄目なのか? 確かになんというか、都合がいいよな。不幸な人ばっかりあつめて、それでほんの些細な、嘘っぽい幸せを与えていいことをしたなんて思うのは。

 ーーでも、レトロはそれを願ったんだろ。そして、魂という代償も払った。それくらいの救いは、あってもいいはずだ」

 

 優しく、笑ってーー彼女が人生でほとんど見せることのなかった笑顔を今見せて、スーズは言う。

 

「確かに、まぁ相当不気味だし、傷とか血とかたくさんだし。ちょいちょい人死にも出てるけどさ。

 

 ーーでも、あそこなら死んでも生きてられる。それくらいの不幸とか事故は、現実にだって無限にある」

 

「それでも嫌なら、帰ることだってできるはずなんだ。

 誰も帰れないとお前が思い込んでいたのは、元の世界に本心から帰りたいと願うようなやつが、あの世界に誰も来なかったからだ。記憶を失って魚になるのは、全部忘れて魚になった方がマシだったと、そう感じた人間の救いだからだ。

 ーーレトロ。お前が作ったあの世界は、優しくていい世界だと、私はそう思うよ。あの世界に生きているみんなも、そう思っている」

 

「ーーぁ、……」

 

 今度こそ、レトロは言葉を失うしかなかった。

 

 ずっと、自分を責め続けてきた彼女に、自分を許すことはとても難しかった。けれど、その理由が優しく取り上げられて。

 

 そして何より、求められていた。

 

「『水族館を出るまで、協力する』のが契約だった。……私だけが出ても、果たされたことにはならないだろ。ちゃんと、一緒に出てくれよ。

 それでさ、契約が終わったあとは、普通に、契約でもなんでもなく、……私と一緒にいてほしい。

 今日よりずっとちゃんと地に足をつけて、……「悪くない」程度の、普通の幸せを、一緒に送りたい……」

 

 レトロは、全身の力が抜けていくのを感じていた。

 こんなにも小さくて、助けなくてはならないとばかり思っていた少女に、打ち負かされて、救われてしまったのだ。

 

 ゆっくりと、伸ばされたスーズの触腕を、指で触れる。

 

「……すまなかった。これだけのことを言わせてしまって……」

 

「ぁぁ」

 

「……そして、すまない、……もう少し、みっともないところを、……見せる、」

 

 そう、小さく言って、鮫の少女は、海月の少女を強く抱き寄せた。

 

「……レトロ、なみだ……」

 

「君を……傷つけたくなったんだ……」

 

「……知ってる」

 

「皆が笑ってくれたら、それだけでよかった……」

 

「私も同じだ。……"みんな"には、レトロも入れてやってくれよ」

 

「ぁぁ……」

 

「……」

 

「う、ぐ、ぁ、ぁぁあ”…………!!」

 

「……ふふ」

 

 

 ずっと憧れていた、格好いい彼女が声にならない嗚咽を漏らすのを、スーズは、優しく抱く腕がたくさんあって、よかったなと思いながら抱きよせた。

 

 水槽に、静かな時間が満ちる。

 

 

 ーーーーいつのまにか、最初に怒鳴りあっていたあたりから、水槽のガラスの向こうにどんどんと集まってきていた水族館の住人たちに一部始終めちゃくちゃに全部見られていて、今後一生いじられることになるのだが。

 お互いしか見えていなかった2人はまだしばらく、それに気付くことはないのであった。

 

 

 




【二次創作者自問自答】

Q.年パスに入っていた宝石の位置どうわかったんですか 切り開くってどんな感じだよ
A.裏面にICチップの接触端子みたいなのがあってそれを外しました。本来の年パスにはないですが偽物なので。スーズは裏面をちゃんと見ていなかったので気付かなかったんですねえ(棒)


Q.設定資料集によると、フグナース姉妹の手術は最後に成功したと書いてありますが
A.ドクターがした手術は何年か前のもっとひどくてもっと苦しい病気で、そのあと別の合併症か何かで、優しく余命1カ月になったがドクターはもう医者じゃないので話してない。これで行きましょう。


Q.全員が不幸ってソースあるんですか。ラスダンに全然不幸そうじゃないおさかなさんの解説がいっぱいありませんでしたか?
A.クリスも水族館の外の仕組みはよく知らないので、聞きかじった解説を想像でつけただけであり本当は不幸だったのでしょう。

Q.スーズとルルも不幸なのですか?
A.あのチケットは貰い物です。ニコの不治の病によって送られて、なんか治りそうなので絶対安静な、となり使うことができなくなり、流されました。事故で迷い込む奴も多少はいるのはしかたないことです。現実と一緒です。


Q.ニコのプレミアムチケットはキティが頑張って取ったものです(ED1)
A.年パスが不幸な人物のもとに届くに際して現実改変が発生しており、事実は異なる可能性があります



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