ウマ娘 After Side B -もう一人の英雄- 作:ニサ
「ライスシャワーさん、パドックへお越しください」
扉が小さく三度叩かれた後、誘導員がドアの向こうから呼びかける。
「ライス…」
「はい、今行きます」
大丈夫、と。体を支えようとするトレーナーを目で制し、左膝に手を添えながら、ライスシャワーはゆっくりと立ち上がった。
もう何も異常は無いと分かっていても、この癖だけは未だに抜けていない。
左手の隙間から覗かせる傷跡を見つめながら、ライスシャワーはあの日の事を思い返す。
「故障発生!ライスシャワー故障発生!」
その瞬間は何も聞こえず、何も感じなかった。
"領域"と呼ばれる極限状態は疲労と痛みを忘れさせ、外界の全てを遮断する。
(あれ…ライスは…)
ただ分かるのは、自分が前へ進んでいないという事だけだった。
遠ざかるウマ娘達の足音が、観客のどよめきが徐々に耳に入るにつれ、
ライスの意識は現実に引き戻され、そして
「ーーー!」
痛覚の限界を超えた痛みは声をあげる事すら許さず、彼女の視界を赤く染めてゆく。激痛に悶えながらライスは灼熱感の出どころを肉を引き裂かんばかりの力で握りつぶし、目を遣る。
そこから流れ出る"何か"と―
気が付いた時にはライスは病室のベッドで横たわっていた。
朦朧とした意識の中、ライスはあたりを見回す。
冷たく殺風景な個室に一人。傍に置かれた様々な機械から定期的に発せられる耳障りな駆動音以外の音は無く、左脚は厳重に固定され、点滴の管が通されていた。
ー左膝関節開放脱臼、開放骨折及び繫靭帯断裂。
医師からの説明を受けたが、状況を呑み込めない混乱と強力な鎮痛剤による倦怠感の中でライスは半分も理解できなかった。
ただ一つ、競争ウマ娘としての力は、おそらく二度と戻らないという事を除いて。
数日後、症状がある程度の落ち着きを見せ始め面会が可能となると、
平日だというのにも関わらずライスの下に多くの人が見舞いに訪れた。
「大丈夫だよ!絶対に治るよ!」
無責任に快復を信じている者。
「もしあの時…ごめん、何でもない」
抱く必要のない自責の念に駆られる者。
「ッ…いえ、ご回復を心よりお祈りいたしますわ」
そして自身の経験故に、事の重さを理解している者。
その全てが、ライスにはまるで壁を一枚隔てた向こうに居るように思えた。
ライスは先刻まで皆が居た空間へ手を伸ばす。
この手の先は、自分が二度と戻ることが出来ない壁の向こう側。
そう考えると、掛けられた言葉の数々が酷く無神経で浅薄な物に思えてならなかった。同時に彼女らの善意を踏みにじっている自分に腹が立ちもした。
ライスは嘗て感じたことのない疲労感に包まれた。
今日はもう誰とも会わずにこのまま休みたい。
「失礼します」
だからこそ、ミホノブルボンの来訪は最も避けたいものであった。
「ライス、具合は如何ですか」
部屋の中を見渡した後、ブルボンが口を開いた。
「…うん、今は大丈夫」
腹の底から沸き上がった理不尽としか言いようのない憤りを抑え付けながら、
顔を伏せつつライスは会話を打ち切るように答える。
"嘗て"のライバルであり、何より友人であるブルボンには、この感情をぶつける訳にはいかなかった。
「ライス、私はこれで。また来ます」
そんなライスの気持ちを汲んでか、何か出来る事は無いか、必要な物は無いかと、
型に嵌った確認を幾つかした後、ブルボンは早々に席を立った。
「…無理しなくて良いからね」
ライスは絞り出すかのような声と共に見送る。
言葉通り、無理をして欲しくないというのも、もう来て欲しくないというのも、どちらも本心の彼女にとって、それは出来る限りの気遣いであり、悪態でもあった。
病院を後にしたブルボンが、スマートフォンの画面を見つめ続けていた。
画面には電話番号が入力されており、通話ボタンが押されるのを待っている。
それは彼女にとって分の悪い賭けであり、自己満足であり、下手をすると全てを失いかねない事であった。
少しの間考えこんだ末、ブルボンは目を閉じる。
瞼の裏に浮かんだのは、あの瞬間のどよめきと、先程の痛々しい姿のライスであった。そうしてゆっくりと目を開き、二度、深く息をついてから画面に触れた。
「マスター、お願いがあります」
-ミホノブルボン、引退撤回-
突然の宣言は、スポーツ誌の片隅に小さく載せられるに留まった。
これが今現在の彼女の評価である。
クラシック期での負傷後、2年間に渡り休養と凡走を繰り返し、限界を悟った末に年内での引退を表明した上での撤回表明だ。
世間からすれば既に終わったウマ娘が徒に現役を引き延ばしただけだと。
そして何より、選択したレースが問題だった。
「よりによって秋天ねぇ」
恰幅の良いトレーナーが無造作に折り畳まれた新聞を片手に呟く。
ブルボンの件はトレーナーの間でも小さな話題となっていたが、
その反応は決して芳しい物ではなかった。
「正直無謀としか言いようがないですね」
隣に居た若いトレーナーが、同様にあまり良くない反応を示す。
菊花賞以降はGⅢですら好走止まりであった彼女にシニア秋三冠の一つを、
まして鉄砲では巻き返しは難しいというのが大方の見解であった。
「抽選狙ってたんですけどね、うちの子」
「まぁ権利だから仕方ねぇけどさ」
過去の実績と、今年の小さな積み重ねから登録すれば間違いなく出走できるであろう。そういう制度である以上、出る事自体に文句は言えない。
だがその目的が勝つ事以外にあるとしたら。
トレーナー達の内心は穏やかではないというのも確かであった。
「せめて良いレースをして貰いたいもんだがね」
ウッドチップを巻き上げながら、ブルボンは黙々と走り込む。
(3…2…1…ここです)
精密機械とすら謳われた体内時計を遺憾なく発揮し、目標値と寸分違わぬラップを刻みながら、徐々にギアを上げつつ完璧なタイミングでスパートを掛ける。
だが
(やはり重いッ…)
そこから伸びない。幾ら脚を回そうと、力を籠めようと思い描いた速度は出ず、
5F目のセンサーを過ぎて行った。
「どうですか、マスター」
「途中までは悪くはない。だが」
トレーナーに差し出されたタブレットを目にし、ブルボンは小さく肩を落とす。
終いの2Fが加速せず、基準値を大きく下回っていた。負担を鑑みてウマ也で流している事に加え、元々飛びぬけた瞬発力のあるタイプではない事もあるが、往年のキレは完全に失っている事を物語っていた。
「マスター、やはり坂路で」
「駄目だ」
トレーナーがブルボンの言葉を遮る。
「俺が言うのもなんだが」
前置いてから、暫し言葉を探した後にトレーナーが続ける。
「…怪我の場所が場所だ、坂路は使わせん。それにお前のそれは負荷でどうにかなる物でもない」
ブルボンも理解していた。自分の怪我は完治する物ではなく、走り続ければ再発の可能性があることを。
(やはり負傷がまだ)
何より、その爪痕がまだ色濃く残っていることを。
ブルボンは右膝に手を添えながら徐に回す。錆びた歯車のように軋むそれは、最早彼女のイメージに応える術など持ち合わせていなかった。
「焦るな、まだ時間はある。今日はここまでにしよう」
「…はい、マスター」
まだ高い陽を見つめながらブルボンは答える。
小暑だというのに、運ばれてくる風に彼女は秋の匂いを感じていた。
タイミングを誤った、とライスのトレーナー、柿田は後悔した。
手渡したタブレットから目を離さず一言も発さないが、ライスの目には動揺と憤怒の色が滲み出ている。
その画面にはミホノブルボン引退撤回の報が映されていた。
「ライス、ブルボンはきっとあなたの為に」
「破ったのはッ…!」
叫んだ反動で右脚が跳ねた。
激痛に顔を顰め、額に脂汗を浮かべながらもライスはまくし立てる。
「破ったのはブルボンさんなんだよ!また一緒に走ろうって言ってくれたのに!
でもライスを置いて…なのに…!」
「ライス…」
この場で一喝出来れば、安易に肯定出来ればどれ程楽であったか。
事実、柿田自身もミホノブルボンの表明には思う所があった。
しかし約束を反故にし引退を決断した事はブルボンにとって断腸の思いであった事も、その上で復帰を選んだ心根も理解しているからこそ、否定する事も出来なかった。何より、そのような事はライスも理解している筈だと。
理解している上で、行き場の無い怒りをぶつけているだけなのだと。
トレーナーとして、大人として声一つ掛ける事の出来ない無力感ともどかしさに打ちひしがれながら、ウマ娘相手に無意味な事は承知の上で、少しでも体が動かないようにと、咽び泣くライスを抱きかかえるように抑えつけた。