ウマ娘 After Side B -もう一人の英雄-   作:ニサ

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残影

―誰かが手を伸ばしている。

 こちらも手を伸ばせば触れられる距離だが、彼女はそうしない。

いや、出来ない。金縛りにあったかのように身動き一つ取れない。

藁をも掴もうとせんとするその手は徐々に動きを弱め、

終に力なく垂れ下がった瞬間、代わりにそこには深紅の飛沫が―

 

「ッばぁ!!」

「ぬおおっ!?」

 

 そこでヨシノクオンの意識は現実へと引き戻された。

大きく脈打つ心臓を握りつぶすように抑え、汗ばんだ鹿毛の髪を搔きながら、もう一つの声の主に目をやる。大声に驚いて飛び起きたのだろう、ルームメイトのエグザクトがベッドから転がり落ちていた。

 

「あははは…ごめんエーちゃん、またアレだわ」

「またかいクー姐ェ…」

 

 辟易とも憐憫とも取れる目で見つめるエグザクトに対し、クオンは寝転がりながら両の手を合わせ謝罪する。

"あの日"以来毎晩のように同じ夢を見ては、夜中に飛び起きていた。

 

「言った所で気休めにもなりゃしないだろうけどね、ありゃクー姐のせいじゃねェぜ」

「…うん、分かってるけどさ」

 

 エグザクトに投げ寄こされたタオルで汗をぬぐいつつ、クオンは息を整えながら天井を見つめる。瞼の裏に張り付いた残影に手を差し伸べ、すり抜ける度にクオンは思う。

 もしあの時あの手を掴んでいればと。

そうでなくとも脚を止めて救護に奔っていればと。

 

 顔は見えずと、あの手の主が誰であるのかは彼女には分かっていた。

あの日の宝塚記念、ライスシャワーの真後ろに居たのはクオンだったのだから。

 

 4バ身差からの追走、クオンにとって何度となくこなしてきた状況だ。

驕りではなく、揺るがない事実としてジュニア期1勝クラスの併走相手に後れを取る事など先ずあり得ない。

 その身に沁みついた感覚に従い脚を運び、付かず離れず圧を掛け続け、

培った経験と本能からのサインに促されるように、その末脚を爆発させる。

まるで距離などハナから無かったかのように瞬く間に相手の背を捉え、抜き去らんとしたその時だった。

 彼女の目の前にまたあの白く小さな手が現れた。

 

「かッ…!」

 

 手先が触れた瞬間、心臓が握りつぶされたかのような強烈な圧迫感と共に、

クオンの脚は止まった。

 

「クオン先輩!」

 

 胸を抑えながら倒れ込んだクオンに併走相手の後輩ウマ娘が駆け寄る。

 

「はぁ…ごめん、大丈夫」

「大丈夫じゃないですよ!もう3度目じゃないですか!」

 

 血の気の引いたクオンを支えながら後輩ウマ娘が 責する。

彼女の言う通り、クオンは今日だけで既に3度これを繰り返していた。

 相手を変えても距離を変えても、追い抜こうとした瞬間に幻影がその脚を押しとどめてしまう。

 

「兎に角一旦休みましょうよ。ほら、立ってくださ―」

「いや、先にあっちみたいだよ…」

 

 肩を貸そうと寄って来た後輩ウマ娘を手で制し、クオンはコースの外へ視線を移す。いつもの仏頂面とは違う、苦虫を嚙み潰したような表情でトレーナーが手招きしていた。

 

「秋は白紙だ、クオン」

 

 覚悟はしていたことだが、いざ言葉にされるとクオンは側頭部を殴りつけられたかのような酩酊感に陥った。

 

「精神的な物だろう、このままズルズル行くよりもしっかり医者に診てもらった方がいい」

「けど…!」

「追い抜こうとする度に倒れ込むつもりか?」

 

 トレーナーの言葉にクオンは唇を噛む。

彼の言う事に間違いはない。レース中に倒れ込みでもしたら、危険なのは自分だけではない。

 

「それは…そうだけど…」

 

 しかし療養は同時に、最悪の場合長期の離脱を意味していた。

原因が明確であるにも関わらず、意識しようがしまいが"あの手"は現れる。

こういった症状は専門医といえど、一度や二度のカウンセリングで解消する物かどうかは定かではない。また神経を麻痺させる局所注射や抗不安薬の大半がレースでは禁止薬物として指定されている以上、一時的に症状を抑えた上での出走も現実的ではない。

 

「焦るな、ようやく仕上がってきたんだ。それにその様子じゃ寮でもエグザクトにも負担を」

「あー、アタシは大丈夫ッスよ。授業中寝てるんで」

「そうか、それなら…いや待てダメだろそれは。次の中間赤点取ったら次走取り消すぞ。第一―」

「うぉう、地雷踏んじまったぜ、クー姐ェ」

 

 エグザクトの失言に対し、トレーナーが滾々と説教を垂れる。

普段なら不用意な後輩に茶々を入れる所だが、今のクオンには何も言う気が起きなかった。そんな彼女の様子を見かねてか、反省の色を然程も見せないエグザクトを一旦視界から外し、トレーナーが幾分優しい口調で声を掛ける。

 

「まぁなんだ、こういうのは時間が解決するもんだ。医師の指示次第だが、併走以外のトレーニングも許可する取り敢えず今日の所は帰って休め、な?」

「…はい」

 

 何か言い返そうと暫し考えを巡らせたが、結局クオンは小さく頷き、チームルームを後にする。自分自身がどうすれば良いのか分からない以上、今の彼女には指示に従う他無かった。

 

「…元々よ」

 

 独り言ちたか、クオンに便乗して帰ろうとするエグザクトの背中に投げかけたか。

絞り出すように語り始めたトレーナーに、エグザクトは足を止める。

―誰がどう見ても自身の素行の問題だが―チームに加わって約1年、説教ばかりされていたエグザクトだが、このように弱り切ったトレーナーを見るのは初めてだった。

 

「あいつは天才なんだよ、天才だったんだよ。だのにデビュー前からあそこが痛ぇ骨が育たねぇって、万全の状態で走れなかった奴が、今年に入ってようやっとツキが回って来たってのによ…」

 

 クオンは元々クラシック有力候補と期待されていた、それこそ歴代の名手達と比肩しうる程の才覚を持つウマ娘だった。しかしその体質が災いし、その本領を発揮出来るように至るまで今の今まで3年の月日を要した。

 人一倍悔しい思いを続けた後に、ようやく現実味を帯びつつあった頂点への道。

それが今、予想だにしていなかった形で閉ざされようとしていた。

 

「こんな不公平ありかよ…なぁ」

 

 目頭を押押さえ、背もたれに寄りかかりながらトレーナーは天を仰ぎため息をつく。背中越しに聞くエグザクトは何も答えなかった。答えられなかった。

 

「飲んどきなよ、別に何か起きるってンじゃないんでしょ?」

「うん…」

 

 先刻からベッドに腰かけ、半分に割られた小さな錠剤を見つめたまま微動だにしないクオンにエグザクトは声をかける。

 あれから医者に診て貰ったクオンであったが、当たり障りのないヒアリングと数日分の睡眠導入剤が処方されただけに留まった。決していい加減な医者にあたったという訳ではない。いくらウマ娘と言えど、成長途中のクオンに対し、満量の、それも副作用の大きい薬を処方する事は好ましくない。対処療法と経過観察が最適な治療法であった。

 しかしそれですらクオンにとっては引き返せない一歩のように思えてならなかった。

 

「何で走ろうとするのさ」

「…ピークが近いんだよね、多分。今までにないくらい調子が良いんだ、体は。この秋を逃したら多分もう」

「そうじゃねーでしょ」

 

 徐に語り始めたクオンをエグザクトが遮る。

決して嘘を言った訳ではないが、実の所は気を遣わせまいと本心は隠していた。

それを後輩に、よりによってエグザクトに見抜かれた事に気恥ずかしさのような物を感じつつ、クオンは大の字に寝転がり天井を見つめながら続ける。

 

「…あの子に、ライスシャワーちゃんに会いに行ったんだ。

それまで話した事も無かったけどさ、あの時後ろに居たって言ったら何て言ったと思う?

"ごめんなさい、怖かったですよね"って。だからさ、ここで私が走れなくなったら益々責任感じちゃうんじゃないかなって」

「だろうね」

「だろうねって…」

「何にせよ、このままだとアタシが全力のクー姐を負かす機会は永久になくなるってこった」

「あのねぇ…」

「んまっ、生意気な後輩ちゃんの鼻っ柱をまたへし折りたいなら、そのちっこいのは飲んぢまった方が良いと思うけどな」

 

 いたずらっぽく笑いながら煽り立てるエグザクトに苦笑しながら、少しは気遣えとクオンが毒づく。

 がさつ、ぶっきらぼう、偏屈、へそ曲がり、クソ生意気。表現は様々なれど、

「いつも一言多い皮肉屋」というのがエグザクトの世間からの評判だ。

それはクオンに対しても例外ではなく、クオンがああ言えばエグザクトがこう言う。いつしかそれが当たり前となっていた。

 彼女なりの処世術か、線引き自体は弁えているが為に本気で腹を立てた事は無い物の、辟易する事は多々ある。

 が、少なくとも今は周りの人間の思いやりが少なからず負担になっていたクオンにとって、いつもと変わらないやり取りが何よりも有難かった。

 

「こんにゃろ…治ったら絶対泣かしてやる…」

 

 とはいえここで礼を言おうものなら、付け上がって更に余計な事を言ってくるに違いない。目一杯の捨て台詞を吐き、錠剤を口に放り込み水で流し込むと、クオンはしがみつくように布団に潜り込んで強く目を閉じた。

 

(ダメかぁ…)

 

 薬の効果か、エグザクトの捻くれた気遣いによる賜物か、跳び起きこそはしなかったものの、また変わらずあの夢を見てクオンは夜中に目を覚ました。

 向かいのベッドで小さな寝息を立てているエグザクトを起こさぬよう静かにカップに水を注ぎ、もう半分の錠剤を口にする。

 

(いつまで…いつまでこんな…)

 

 ほどなくして強烈な虚脱感が訪れ、クオンは気を失うように眠りに落ちた。

眠っている筈のエグザクトが強く布団を握りしめた事に気付く事なく。

 

 

「よーし、次は…クオン、行けるのか本当に!」

「はい、行けます!」

 

 トレーナーの声にクオンが威勢よく返す。

翌日、いつも通りヨシノクオンは練習に参加していた。

 決して無理をしている訳ではない。クオンの言葉に偽りはなく、薬の効果もあり体調に問題は無かった。いつも通りの脚色、いつも通りのラップ、そしていつも通りの加速。だが

 

「―くっ、ふッ…!」

「クオン先輩!」

 

 僚バを追い抜こうとした所でやはり心臓が握りつぶされるような感覚に陥り、足が止まってしまう。

 

「…大丈夫、すぐ治るから」

「先輩…」

 

 肩を貸そうとする僚バを手で制し、大きく息をし、クオンはさも何も問題が無いかのように立ち上がった。出来ると言った手前、無理を悟られる訳にはいかない。いや、厳密には無理自体をしていないのだ。

 強烈な窒息感に襲われるのはほんの一瞬の事で、すぐに動けもする、呼吸にも歩様にも問題はない。だがその一瞬だけがどうにもならない。

 

「ほんならクー姐ェ、ちっと考えがあるから走ってくれるかい」

「…にゃろー、やってやるわい」

 

 そんなクオンの苦悩を知ってか知らずか、慮っているのかいないのか、

何かを思いついたエグザクトがもう一度走るようにクオンに指図する。

この手のエグザクトの思い付きがロクな物であったためしが無いが、この挑発に乗らない訳にも行かない。更に一息入れ、クオンは再び走り出した。

 

「エーちゃん…考えってまさか…」

「なーに、単純な話だってね」

 

 嫌な予感、というよりも何か酷く浅はかな事を考えているのではないかと、

訝しげに尋ねるチームメイトに答えながら、エグザクトはクオンの方を見やる。

丁度4バ身程差が付いたところだろうかというところでエグザクトも駆け出した。

 

「抜くのが駄目なら、アタシから抜くってのはどうだい!」

「やっぱりー!?」

 

 エグザクトの考えとは「追い抜く瞬間に倒れるのなら、逆に追い抜いてしまえばいい」という、酷く単純な物であった。クオンの問題はあくまで追い抜こうとするとイップスかの如く脚が止まってしまう事だ。追い抜く・追い抜かれるの問題ではない。

 しかしこの手の精神的な病は何が切っ掛けで治るか分からない物だ、

エグザクトの考えもまんざら当てずっぽうという訳でもない。

問題は4バ身差の追走で追いつけるか、だが。

 

「うーわ、普段前目なのにあんなキレ出るんだ…」

「流石天才だわ…性格捻じ曲がってるけど」

「悔しいけど実力は認めるわ、エーちゃん…性格が終わってるけど」

「聞こえてんぞォ!おめーら!」

 

 周囲の野次を一喝しながらも、エグザクトはクオンの背を追う。

普段の飄々とした態度からは想像も出来ない、素軽くしなやかなで、それでいて力強い完璧と言って差し支えの無い走り。

皐月賞勝ち、ダービー連対の実績が伊達ではない事を物語っていた。

 とはいえエグザクトは先行脚質、クオンは後方脚質。

同じスタートラインからではクオンを追い抜けるはずがない。

そしてそれこそがエグザクトの狙いであった。

 

「まだだクー姐ェ!じっくり行ってよーいドンだ、並んでからが勝負だ!」

「…よぉし、キレで私に勝てると思うなよー!」

 

 付かず離れずのがぷり四つ。

じわじわと追い詰めた末の競争であれば、もしかしたらがあるかもしれない。

よしんばまた倒れようとも最悪何処までが現状の上限かが分かる。

その意図を汲んで溜めるクオンをエグザクトがじりじりと追い上げ、バ体を合わせ、追い抜こうとした瞬間―

 

「ッ…!あッ…」

 

ほんの僅か、エグザクトの背が視界に入っただけ。そこが限界であった。

 

「あーらら、競るのもダメかい…しゃーねぇや、ほんじゃちょっくら休ませてきますわ」

「お前サボッ…あー、行ってこい」

 

 胸を抑え倒れ込み、荒く呼吸をするクオンにゆっくりと近づき、エグザクトが抱え上げてトレーナーに向けて声を張り上げる。若干の裏がありそうだが、クオンの状態を見るとトレーナーも認めざるを得なかった。

 

「そういや聞いたかいクー姐、ミホノ…バー、バーボン先輩が復帰するって」

「…ブルボンね、知ってる」

 

 チームルームの日陰にクオンをそっと降ろし、スポーツドリンクを手渡しながらエグザクトは尋ねる。受け取ったボトルを半分ほど一気に飲み干し、少し落ち着いたのか、クオンが答えた。

 

「あの人もきっとライスちゃんの為に復帰したんじゃないかな」

「そーそー、皆んな事言ってたわ。親友同士らしいじゃん?」

 

 ミホノブルボンの復帰の話題はスポーツ誌にこそ大々的に取り上げられる事は無かったものの、関係者、特にウマ娘達の間では広く知れ渡っていた。

そして二人の間柄も当人の事を知らずとも周知の事実と化しており、

あくまで伝聞と噂話止まりとはいえ、此度のブルボンの意図はエグザクトとクオンの耳に入っていた。

 

「…任せちまって良いんじゃないか?」

 

 言葉の軽いエグザクトとて、口に出して良いものかどうか躊躇う物があったのだろう。暫し逡巡した後、クオンとは目を合わせず切り出す。

 

「…誰に任せるとか、そういう事じゃないんだよ、エーちゃん」

 

 いつもと違い軽はずみで言った訳ではないエグザクトの気持ちを察し、咎める訳ではないが、窘めるようにクオンは答えた。

 

「私は私でライスちゃんに伝えたいから。ブルボン先輩とはまた別の話だよ」

「そういうもんかなァ…」

「そういうもんなの」

 

 納得行かないと言わんばかりに口を尖らせる後輩に笑顔で諭すと、クオンは勢いよく立ち上がった。

 

「さ、休憩終わり。サボってるって思われるよ」

「えーいーじゃん、もうちょいさァ」

「ほら、さっさとする」

 

「…届かねェなァ」

 

 練習に戻ろうと小走りするクオンの背中を見つめ、エグザクトが呟く。

彼女に悟られぬよう苛立ちの表情を浮かべながら。

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