ウマ娘 After Side B -もう一人の英雄- 作:ニサ
「くっ…!」
浅く短い眠りから覚め、クオンは激しく脈打つ胸を押さえる。
睡眠導入剤は限度一杯まで処方されていたが、悪化の一途を辿るクオンには最早効果を示さなくなっていた。
「駄目なのかなぁ…もう…」
思い返せば、思い通りに全力で走れた事など殆どない人生であった。ただ単に結果が出なかったのであれば悔いはしない。だが機会すら得られないのであれば、何を悔いれば良いのだろうか。そういう運命だと割り切れ、諦めろと、脆くなった心が囁く。
「っ…!うぅ…っ」
諦めたくない、諦めるしかない。
この状況を誰のせいにもしたくない、自分を造った全てを恨みたい。
強くあろうとする度に、負の感情がそれを掻き消してゆく。
ふと、大きく扉が叩かれた音が耳に入った。
不眠の頭痛と眩暈に耐えながらやっとの事で体を起こし、クオンは覚束ない足取りで扉へと向かう。
「はい…?」
扉を開けるもそこには誰も居なかった。
その代わり、時間が記されウッドコースに丸を付けられた、少しふやけた学園構内図が置かれていた。
「うーっす、お疲れさんでーす」
誰よりも遅れて更衣室に入って来たエグザクトに皆が一斉に振り返る。
いつも通りの重役出勤に対する呆れとは異なる刺すような視線に一瞬顔を顰めながらも、すぐに普段の締まりのない表情に戻す。
「こうも雨ばっかだとシューズにキノコ生えちまうわ。乾燥剤持ってきたけど使う?」
「…エーちゃん、その、クオン先輩は」
「あーね、寝たり寝てなかったりの万年床だってさ。まー飯は食ってるっぽいし大丈夫っしょ」
「大丈夫って…」
「わりーけどあとはクー姐ェの気持ち次第だよ、アタシにゃ何も出来ねェ」
言葉を選びつつ訪ねるチームメイトに、普段と何一つとして変わらない飄々としたトーンでエグザクトは返す。
決して茶化した訳ではない。本人は勿論、エグザクトへの影響も鑑みた学園の配慮によりクオンが一人部屋に移された為、彼女も言伝でしかクオンの状態を把握していなかった。
「…言えた義理じゃないんだけどさ、クオン先輩の事、一番理解してるのはエーちゃんなんだから」
だがそんな態度が癪に障ったのか、幾許か棘のある声色でチームメイトが言った。
「んな事言ったってなァ…」
「…先、行くよ」
無論エグザクトだけの責任にするのはお門が違うという事は皆理解している。理解しているが、この一大事に普段と変わらぬ態度を貫くエグザクトに、口にこそ出さないが少なからず不快感と失望を抱いていた。
そんな心中を悟られまいと、エグザクトを避けるように手早く支度し、足早に更衣室を後にする。
「手厳しいなァこら、皆手厳しいこって…」
誰も居なくなった更衣室で独り呟き、エグザクトはロッカーを両の拳で叩きつけた。
(言われなくても理解ってんだよ、ンな事…)
握りしめた拳から血が滲む。
(何が天才だよ!言葉が届かねェのはテメェが何も積んで来なかったからだ!
虚仮みてェなプライドだけいっちょ前に引きずって、幸運に甘えてのうのうと生きてきたからなんだよ!)
血走った両の眼に涙が浮かぶ。噛みしめた奥の歯が軋む。
一向に良くならないクオンでもなく、自分に責任を押し付け叱責するチームメイトでもない。
エグザクトが許せなかったのは、クオンの心を動かす事すら出来ない自分の軽さだった。彼女とて努力をしてこなかった訳ではない。でなければこれだけの結果を遺す事は出来なかった。そもそも未だクラシック級のウマ娘、酸いも甘いもこれから噛みしめる立場だ。
だがそれだけではない。生まれつきの困難をも乗り越えんとするクオンと、純然たる天才として走り続けたエグザクトとでは積んで来た物が違う。歩んできた道程が違う。故にエグザクトとクオンの間には超えがたい隔たりがあった。
だからこそ―
(…頼んますよ、先輩)
エグザクトはその隔たりの無い、自分より相応しい者に全てを託すことにした。
祈るように眼を閉じ、ようやく涙をぬぐうと、不自然に濡れたローファーをロッカーへと仕舞った。
「先輩…」
藻掻いていた。
嘗てのクラシック二冠ウマ娘の威光など、そこには微塵たりとも無い。
駈歩と呼ぶのもおこがましい速度で、ミホノブルボンは湿ったウッドの上をただ見苦しく駆け、いや、這いずり回っていた。ブルボンと面識があった訳ではない。ただ、クオンと同様にライスシャワーの為に走ろうとしている事、それが上手く行っていない事は噂として耳にしていた。
お節介な地図の差出人の意図に得心が行く。その上でブルボンの姿から得られる物は何も無かった。
熱も、想いも、感じる物は何もない。寧ろ苛立ちすら覚える。
「あれは私だ、今の私なんだ…」
だからこそ、今のブルボンにクオンは自分の姿を重ねられた。
気付いた時には傘を投げ出し、駆け出していた。
「っだああああああああああああ!!!」
「ッ!?」
突然の来訪者に目を丸くするブルボンであったが、積み重ねた経験と本能が逃げ切ろうと再び足を動かす。だが限界まで蓄積した疲労と傷んだ右脚がそれを許さない。
(あと少し、あと…!)
ブルボンを追い抜かんとする寸での所で、やはりあの手が現れた。
心臓が握りつぶされたかのような圧迫感を覚える。強烈な窒息感と吐き気に襲われる。危険を察知した脳が意志に反して脚を止めようとする。
「…それでもッ!」
こみ上げる胃の内容物を吸いこんだ空気と共に無理矢理押し込み、奥歯が砕け散らんばかりに強く歯を食いしばりクオンは強引に歩を進める。のろのろとした足取りのブルボンを、酷くぎこちない動きで追うクオン。
「っらあぁぁ!!!」
「ッー!」
傍から見れば滑稽にしか見えないこの勝負は―
ほんの僅か、滑り込むように倒れ込みながら前へ競り出したクオンに軍配が上がった。
「はっ…!やった…!抜けた…!」
「あなたは…」
困惑しきりのブルボンを余所に、息も絶え絶えにクオンは木片に塗れながら喚声を上げる。礼節を欠いている事は分かっている。ともすれば挑発と受け取られかねない事も理解していた。だが、この歓喜と興奮を抑える術をクオンは持ち合わせていなかった。
「…いきなりすみません、ミホノブルボン先輩、今お話良いですかね」
「いよっし、スッキリした!」
ブルボンから手渡されたタオルで顔を拭き終え、伸びをしながらクオンが叫ぶ。
依然として顔色は優れず、息は荒く、体は小刻みに拍動していたが、
彼女の言葉の通り表情は憑き物が落ちたかのように晴れやかな笑顔を浮かべていた。
「えっと…」
「あぁごめんなさい、挨拶がまだでした。ヨシノクオンって言います。
…あの時、宝塚記念でライスシャワーちゃんの後ろに居た」
クオンが付け足した言葉にブルボンの顔が強張る。
自分の目的を知った上での意趣返しのつもりだろうか。ブルボンは次の言葉に身構えた。
「失礼な事を聞きますがね、先輩は何のために走ろうとしてますか」
それ故、クオンの質問はブルボンにとって少し意表を突かれる形となった。
言葉に詰まりながらも、暫しの沈黙の後、ブルボンは徐に答える。
「私は、勇気づけたい人が、あの子が戻ってくる場所を作りたいから…」
「なら何でそんなに辛そうに走るんですか」
「…今の私の力では、叶えられそうにないからです」
「本当にそうですか?」
「…」
「本当に怪我と衰えだけですか?」
責めに来たのでなければ、辱めに来たのだろうか。しかしクオンの表情は愉悦や軽蔑などとは程遠い、少なくとも誰かを貶めようとしている者のそれではなかった。
初めは困惑していたが、徐々に苛立ちが募り始めたブルボンを差し置きクオンは問いかけを続ける。
「重ねて失礼ですがね、今の先輩は言い訳がましく逃げているようにしかー」
「ッー!」
図星、と言うのは定かではない。そもそもブルボン本人ですら自分が今何をしているのか、何をすべきかなのかを理解していないのだ。
だがその一言がブルボンの逆鱗に触れたのは間違いない。
目を見開き彼女の両肩を強く掴むと、顔を寄せ柄にもなく強い口調で捲し立てた。
「あなたに…あなたに何が分かるんですか!約束一つ果たせず、大事な友人を傷つけ、償う事すら許されない!せめて道を示そうと、あの子の帰る場所を作ろうとしても、私にその力はもうない!ならば私にどうしろと言うんですか!私は…」
初対面の相手である事も忘れ、これまで誰にもぶつけられなかった想いが堰を切ったように溢れ出す。後悔も憤り怨嗟も全て言葉に込め、手が出んばかりの勢いで罵るように思いの丈をクオンにぶちまけた。
「私は…どうしたらライスに…」
溜め込んだ物を吐き出し冷静になるにつれ、ブルボンの中に疲労感と罪悪感がこみ上げる。絞り出す言葉も無くなると、ブルボンはクオンに縋りつくように凭れ掛かった。
「…教えてください。私は、私はどうすれば良いのですか」
「分かりません」
嗚咽と共に消え入りそうな声で絞り出した言葉をクオンは一蹴する。
「分かりませんけど、今の先輩はきっとライスちゃんの為に走ろうとしていません。
"そうしなくちゃいけない"と、理由をあの子に押し付けて、
ライスちゃんの"せい"で走ろうとしています…私も同じでしたから」
「同じ…?」
俯くブルボンの体を優しく抱き起こすと、クオンはじっとブルボンの両の眼に目線を合わせ、力強く、だが優しく諭すように問いかけた。
「先輩がしたい事は何ですか?レースに勝つ事ですか?違うでしょう。
―先輩があの子に、ライスちゃんに伝えたい事は何ですか?」
「伝えたい事…」
「私も秋天に出ます。あの子に、皆に見せたい走りがあるから。伝えたい物があるから。先輩はどうですか?」
醜態を晒したブルボンを憐れみも責めもせず、ただ暖かな瞳で見つめるクオンを前に、ブルボンは何も答えられなかった。クオンの問いに対する回答は、はっきりとは得ていない。ただ何か、言葉には出来ないが胸のつかえが下がったような気がした。
そんな彼女の様子に満足したかのように、クオンは柔和な笑みを浮かべ肩から手を離した。
「さて、だいぶ小ぶりになったみたいですし、もう行きますね。先輩と走れるの、楽しみにしてます」
そう言ってクオンは泥を払い立ち上がり、「失礼」と軽く会釈をして未だ強く降りしきる雨の中に飛び出して行った。
「私は…私も…」
小さくなるクオンの背中を見つめながら、ブルボンは拳を握りしめ立ち上がる。
右足の痛みはいつの間にか消えていた。
「ブルボンッ!」
「マスター…」
ブルボンが独断でコース走をしている事を聞きつけたのだろう。
黒沼トレーナーが傘も持たず、息を切らしながらブルボンに駆け寄る。
「ブルボン、お前何をして―」
「大丈夫です」
「お前…一体…」
「もう大丈夫です、マスター」
流石に看過出来ぬ暴走を叱責しようと黒沼はブルボンの瞳を見つめ、そして息を呑んだ。ブルボンの顔つきは、ほんの数時間前とは別人のそれになっていた。
「だから…お願いがあります」