ウマ娘 After Side B -もう一人の英雄- 作:ニサ
(賭けといて何だが、こらぁイチ抜けで存外正解だったかもしんねェぞ)
4コーナーの膨らみに乗じて後方を確認したエグザクトが予想外の展開に喫驚する。ハイペースそのもの以上に、息の入らないタフな展開による自滅を恐れ控えようとする心理が働いたのであろう。3番手以降のニアーセルジュのペースが明らかに遅い。良くてスロー寄りのミドルぺースであろうか。並のウマ娘であれば策が嵌ったと笑みを浮かべるか、或いは自身がペースを誤った事を懸念する場面ではある。
だがエグザクトはそうではない。天才故に自分を俯瞰できる。努力してきたが故に確証を得られる。そして真剣だからが故に慢心しない。背に控えるは歴戦の猛者達。
ここまで確かにアドバンテージこそ得たが、彼女達であればそれを軽く超越してくる事も知っている。
(しっかし兎にも角にもブルボン先輩を捉えにゃ話になんねェんだが…頼むぜェアタシの黄金の両足ちゃんよォ)
その敬意は当然前を走るブルボンにも向けられていた。
無論終いこそ番手以降に劣るであろうが、垂れる事は期待出来ない。
エグザクトは二度と侮らない。侮ったが故に打ち負かされた、過去の教訓があるが故に。
「逃げる逃げるミホノブルボン!まだリードは7バ身以上!
ヨシノクオンはまだ後方!ブライアンはまだ中段!」
「おい…これって…」
「もしかして、もしかするかもしれねぇぞ…」
人は目で見たものを結果として捉える。
ここまでブルボンを侮っていた面々も、いの一番に4コーナーを通過した彼女に対し、余力がどれほど残っているかも鑑みず、スタンドの観客は徐々に歓声を上げ、期待を込めた声援を送り始める。
一方走者はそうではない。脚質的に言えば絶対的に不利な者も居るが、GⅠ、それも由緒正しき八大競争の一つだ。
少なくともこの時点ではブルボンが作り上げた展開に右往左往するような者は、今この場にはいない。頼るべくは展開ではなく、自分の脚であると。
クオンもその冷静な側の一人であった。
(泣いても笑ってもこれがラストだ!イチかバチか!)
4コーナー終盤から徐々に位置を押し上げ、クオンは大きく外に持ち出す。
長年の経験が導き出した、完璧と言って差し支えの無い動きであった。
荒れの少ない4分所ギリギリで且つ一切詰まるリスクのない進路。
彼女にとってこれ以上にない位置を確保し、直線に差し掛かり。
「遠いなぁ…」
それがクオンが真っ先に抱いた感想だった。
開けた視界、直線の遥か先を走るブルボンの背中が酷く小さい。
クオンは奇妙な感覚に陥っていた。
余力は十分であるにも関わらず、音という音は遠ざかり、視界は白んで行く。
諦めた訳ではない、スタミナが底を尽きた訳でもない。
前を征く15人の背中を見つめてもなお、ただ只管に冷静な自分がそこに居るだけだった。このままでは届くはずがない。はやる気持ちが脚を動かそうとしても、ここではないと言わんばかりに本能がそれを許さない。まるで走っている自分を遥か上空から見下ろしているかのような浮遊感の中、走馬灯のようにこれまでの事がフラッシュバックする。
「コーチ、わたしも走りたい…」
「焦らない焦らない、クオンちゃんはこれからなんだから」
(折角入れたヴィクトリー倶楽部なのに、全然結果出せなかったなぁ。でもコーチは見捨てないでくれたな)
思い返せばあの日が発端であった。初めて抱いた「焦燥」は、多くの経験の末に今のクオンから消えている。
「骨の成長か…こりゃ難しいな」
「すみません、トレーナー」
「お前が謝る事ぁねぇよ。まぁなんだ、"無い"んじゃ困るが"遅い"だけなんだ。じっくりやろうぜ」
(トレーナーにも心配かけたなぁ、チームには入ったけど、あの時は何とか走れるようになればいいなーくらいで…それでも諦めずにトレーニングから食事まで支えてくれたなぁ…胡散臭いし口うるさかったけど)
微かな希望を胸に入学したトレセン学園で突きつけられた現実。それでも諦めずもがき続け、いつしか「諦念」も消えていた。
「みんな驚け、新入部員は何とあの名門上がりだ。んじゃ一言」
「エグザクトっす。まー誰にも負ける気ないんで、特にそこの万年床には。よろしくー」
エグザクトが鳴り物入りでチームに加わった日を思い出す。
(同室の生意気な後輩が同じチームに入るって言った時はびっくりしたなー。まぁ私の事バカにしたかったんだろうけど)
「ッはぁ…なんでッ…!」
「ん-ふふ、ビッグマウスちゃんめ。怪我だらけの万年床に負けるなんて、まだまだ甘い甘い」
「食っちゃ寝してるだけのぐーたらブタ娘なんかに…」
「んだとぉ!」
そして侮りも驕りも慢心も丸ごと潰してねじ伏せた事を思い出す。
(あれからエーちゃんが引っ付いてくるようになったんだっけなー…けどあの後私が崩れたからさ、ちょっとは反省してたんだよ、よりによってまともに走れない私が負かして良かったのかって。けどさ…)
そのエグザクトが今まさに自分の前に、最大の好敵手として立ちはだかっている。故に「後悔」も消え失せていた。
「ごめんなさい、ライスのせいで…怖かったですよね?」
宝塚記念の後、ライスシャワーの見舞いに行った事を思い出す。
(ライスちゃん、君の事はよく知らなけどきっと優しい子なんだろうね。だから先輩も君の為に走ろうとしている。君との出会いは決して良い形ではなかったけれども、それでも私は…)
勝手に背負い、潰されようとしていた「責務」は既に消えている。
「ならば私にどうしろと言うんですか!私は…」
(出来たじゃないですか、先輩も。魅せてくれてるじゃないですか。だから私も―)
あの日ブルボンと出会ったから、鏡映しの二人が相対したからこそ「罪科」は消え失せた。そうして残ったのは―
(辛かった事も悔しかった事も、全部ひっくるめて私だ!
誰かのせいじゃない!皆のお陰でここに居るんだ!)
「感謝」だけであった。
「私は、私を導いてくれた全ての人の為にッ!」
瞬間、何かが弾け飛ぶかのような感覚と共に、クオンの全身に気血が巡った。
節という節が躍動する。脚が、腕が、体が、頭が、心が軽い。
遠いはずのミホノブルボンの背が酷く近くに見える。
直感が、本能が告げる。これが、これこそが―
「届けえええええええええエェェッ!!!」
「…ッ!クソッ!」
「ぶえぇ!?」
「あれ…はっ!」
其れを知る者、知らない者。反応は様々であるが、
ヨシノクオンという到達者から放たれた一閃が、
一人、また一人と飲み込んで征く。
「おいおいおい、まずいんじゃねーのかコレは」
「ブルボン…!」
「…警戒していなかった訳ではありません。だからこその大逃げ…しかしこれ程までとは…!」
焦りの表情を浮かべるゴールドシップとテイオーに対し、
直線の攻防から目を離す事なく、マックイーンは努めて冷静に、されど手に汗を握りながら零す。誰一人として軽んじてはいない。これまで輝かしい実績を残してきた者も、そうでない者も。
何より彼女もそうだったように、領域とは極限の状況身を置いてこそ至る物だ。
故にヨシノクオンがここに来て持てる力以上の物を発揮する事も想定していた。
しかし、彼女の走りはその想定を遥かに上回っている。
ーまるで刀だ。マックイーンは幼い頃に両親と観に行った剣劇の演目を思い出した。
達人が襲い掛かる侍達をなで斬りするかの如く、抜き放たれた刀身が、外連味一つなく一刀の下に次々と斬り捨てて行く。ブルボンの勝利を願ってはいるが、あまりにも美しく力強い光景に飲み込まれ、マックイーンは心を奪われてしまう。
「行けェー!ブルボン!」
「粘れぇ!!!」
だが、すぐ近くから放たれた怒号のような声援に、マックイーンは驚きとともに我に返る。
「そのまま!そのままァー!」
「甦れェーッ!ブルボンッ!」
マックイーンは辺りを見回す。勿論各々応援する相手は異なるが、
スタート直後までとは打って変わって、少なくともブルボンを責め立てる人間など、最早誰一人として居ない。
「…そうですわね、私達が弱気ではブルボンさんに笑われてしまいますわね」
「おっしゃあ!ぶっかませぇ!」
「やっちゃえ!ブルボンッ!」
「そこまでは聞いてねェよォクー姐ェ!!!」
クオンとはまだ距離がある筈だが、エグザクトは見知ったようで知らない熱に背中を焼き焦がされる錯覚に陥る。これは間違いなくヨシノクオンの物であると、エグザクトは何処か確信していた。あの域にはまだ自分は至っていない。このままでは確実に抜かれる。
(あぁそうだなァクー姐ェ、アンタはいつもいつもそうやってアタシの鼻っ柱をへし折りに来やがる…
チームに入った時だって、追い切りやったっていつもいつも先輩風吹かして上から目線でよォ…!)
ならばこの高揚感は何だろうか。
(勝ち逃げなんてさせねェ!あんたはここでアタシに負けて、やり返す為に来年も、再来年もずっと…だからッ!)
「やらせねェ、やらせねェぞ!ヨシノクオンッ!!!」
「ミホノブルボン!まだ先頭!しかしヨシノクオンが!後続が一気に来た!」
今のブルボンに電光掲示板を、ましてや後ろを見る余力などない。
蓄積した疲労は思考と神経を鈍らせ、持ち前の直感も働いていない。
だがその歓声で伝わる。後ろはもうすぐそこまで来ていると。
一世一代の大勝負の総仕上げ、ブルボンは最後の力を振り絞りギアを上げた。
(合わせて終い37…もしかしたら8でしょうか)
当然極端な戦法による疲労もあるが、それにしても道中と左程変わらない、
ラストスパートと言うにはおこがましい速度しか出せない自分の脚にブルボンは苦笑する。だがこれが現実だ、ここが彼女の現在地なのだ。そして、だからこそ伝えられる物がある。
万感の想いを脚に込め、ブルボンは走り続ける。
(ライス、あなたはいつも言っていましたね、自分のせいで誰かが不幸になると)
「ブライアン伸びない!ブライアン伸びない!内からロードフォーミュラ!
四分所ヨシノクオン突っ込んできた!エグザクトも上がって来たがブルボンまだ粘る!」
(それでも、少なくとも私は、皆は、あなたから幸せを受け取りました。あなたと走れて幸せでした。けれどー)
酸欠で視界が歪む。耳鳴りが酷く、歓声はおろか自分の足音すらまともに聞こえない。
「■■■■■ー!」
「■■■ッ!」
それでも、自分を信じてくれる人、応援してくれる人達の熱が届く。
(あなたはまだこの声援を、英雄に対するこの想いを受け取っていません!だから、まだッー)
「ブルボンまだ先頭!しかし内からエグザクト!ヨシノクオンも迫る!」
「「ッあああああああああああ!!!」」
「ッ…!」
猛然と迫る二人に対し、ブルボンにはもう余力など残されていなかった。
顎を引き、目を閉じ、ままならぬ呼吸から得られた僅かな酸素を煮え滾る血液に溶かし込み、残された全てのエネルギーを脚にのみ注ぎ込む。
体力の限界などという生易しい物ではない。脳が生命への危険信号を発している。
(それでもッ!それでも私はあなたに…あなたとッ!)
「ブルボン…!行けッ…!行けェッ!!!」
化粧が崩れるほどに、とめどなく鼻水と涙が流れ出てくる。
それでも尚柿田はタブレットから目を逸らさない。1分前まで感じていた義務などとうに忘れていた。今はただこの先を見たい。夢の続きが見たい。
しかし現実は常に残酷である。一完歩、また一完歩と後続との差が縮まって行く。
幾ら奇跡を信じて声援を送ろうとも、長年の経験が訴えかける。これは無理だと。
柿田の心の奥底で緊張の糸が解け、ブルボンへの声援から健闘を称える声に徐々に切り替わって行きー
「まだだッ!ブルボンさんッ!」
ふと、ブルボンは背中に風を感じた。
黒く冷たい、温かくて眩しい、彼女に走る喜びをくれた、幸せを運んでくれた風を。
(そこに居るのですね、ならば―)
「四の五の言わずに最後まで付いてきなさい、ライス!!!」
「残り100m!ミホノブルボンまだ粘るッ!ヨシノクオン突っ込んできたッ!
内からエグザクトッ!外からヨシノクオンッ!」
傍から見れば、恐らく自分を猛追するウマ娘とのデッドヒートが行われているのであろうが、ブルボンには何も見えない。何も聞こえない。ただ瞼の裏に浮かぶライスシャワーという幻影に背を押され、あの日の、菊花賞の再現とばかりに只管に逃げ続ける。
(まだッ!まだだッ!まだライスはッ!もう少しッ!もう少…し…)
「かはッ…!」
そして、ブルボンの意識は現世へと引き戻された。そこが生物としてのリミットであった。
出し切った。間違いなく自身の持てる全てを出し切った。
運否に縋るべくもない、天賦も望まない。ただ結果のみを受け入れる覚悟があった。
恐る恐る目を開き、酷く霞掛かった視界が映したのは、
目と鼻の先にあるゴール板と、二人のウマ娘の背中であった。
「ヨシノクオン、エグザクト、並んでゴールイン!」