異世界輪廻~不殺(ころさず)の英雄譚~ 作:OrengeST
眼の奥が痛むような頭痛がして、
じくじくとした痛みは、二度、三度と指圧することで、じんわりと広がって消えた。
十二月二十四日、午後八時。
世間はクリスマスイブだが、フロアには多くの社員が残る。
机にかじりついて手元を凝視している人間もいれば、パソコンのディスプレイと三十センチほどの至近距離まで顔を近づけて、にらめっこをしている人間もいた。
「久我山。なにかあったのか」
声をかけられて振り向くと、久我山の背後に黒い手提げ鞄を携えた長身の男が立っていた。
怪訝そうに、忙しく働く同僚たちを見回している。
「いつものやつさ。クラッシャー飯山。そのケツ拭きだ」
「はは、またあいつか」
笑い返したいところだが、久我山は口元を歪めるので精いっぱいだった。笑うだけの身体と精神の余裕はない。
「期限は?」
「今日いっぱい。今日中に、技術室が国の窓口に資料を提出しないといけないんだと」
「そりゃ、ちょっとした戦争だな」
定時退社を決め込むつもりだったのだが、飯山のミスが定時間際に発覚した。
ミスの波及範囲の確認や、同種のミスへの並行展開などの対策会議を課長以下で行ったのが午後六時。
提出間際の資料だったことや、エビデンス自体に間違いがなかったことが幸いで、不適合処理を行うことなく、急ピッチで再チェックと修正を進めることに決まったのだった。
ちらりと、久我山は長身の男に目をやった。椅子に座りながらだと、自然と見上げるようになってしまう。
同期入社の三十六歳だというのに、すべすべとした鋭い顎付きは、まだ二十後半に見える。
それでいて独身、なおかつ自分と同じ最速出世コースを歩む係長なので、密かに女性社員が狙っているという噂も幾度となく漏れ訊いたことがある。
同期の中でも秀才というイメージが強く、昔から、事業所を跨いでいても日置の評判は耳に入ってきた。なぜか平社員の頃から部長の片腕となって仕事を任されていたらしく、執行役員からの信頼も厚い。
偉ぶらないし、仕事では久我山も世話になることがあった。私生活では共に旅行へ行くこともあり、日置奏斗は久我山にとって同期で最も信頼できる、気心の知れた人間であった。
日置を見ていると、天は二物を与えずとする神の存在など、久我山は到底信じられなかった。
「乾杯はまた、今度にしようか」
日置が呟いた。
「すまん。帰宅前に一杯ならいけると思ってたんが……今日は終わり次第帰るよ。家内も娘も待ってるし」
「気にしなくていいさ。立派な父親だよ、お前は」
薄く微笑んだ日置は、気を使ってか、瞬く間にフロアを出て行った。
その背中を見送った後、久我山は再び、忌々しい無機質な文字の羅列と向き合った。
仕事が終わったのは、二十二時だった。
久我山は自宅のあるマンションのエレベーターに乗ると、部屋で待つ妻と娘を想って溜息を吐いた。
鞄から取り出した家の鍵を眺める。娘から貰った、不細工な猫の小さなぬいぐるみが、久我山を慰めるように揺れた。
事前に曜子には連絡を入れておいたが、それも定時直前の話だ。出社前は気合を入れて晩御飯を作ると言っていたから、悪いことをしたと思う。
茉莉も、最近はこちらの仕事が忙しくて夕食も一緒にままならないから、今日は楽しみにしていてくれたようだったのに。
「7階です」
エレベーターの自動音声が到着を告げた。
どんな顔で帰宅しようか、悩みながらエレベーターを出る。あまり疲れた顔でいるのも、二人から見れば心配かもしれない。多少、気軽な様子がいい。
マンションの共同廊下には、誰も居なかった。どこの部屋から、賑やかな笑いが聞こえてくる。クリスマスイブらしい、暖かな情景を想起させる声だ。
不意に、かん、と何かがぶつかるような小さな音がした。
久我山は顔を上げると、思わず、足を止めた。
なにかが、いる。
黒い鴉が一羽、廊下の手すりに留まっていた。正面の部屋を覗き込むように、首を小刻みに動かしている。部屋の奥の何かを待ちわびているようでもあった。
驚きで瞬時に高まった鼓動は、音の正体を見極めてからも静まらなかった。言いようのない胸騒ぎがした。
さらにもう一羽の鴉が、ひらりと舞い降りて、元居た鴉の隣に留まる。風にのって、獣の臭気が漂ってくる。目線を鴉からその対面に動かすと、久我山は口元を結んだ。
鴉の正面にあるのは、自宅だった。
足取りが重くなる。鴉に襲われやしまいかという恐怖だけではない。
部屋に近づくにつれ、獣臭さは増していくようだった。それ以外に、なにか、嗅いだことのない異臭が混じっている。
「カア」
部屋の前に立つと、一鳴きして鴉たちは飛び立ち、夜の闇の中に消えていった。
久我山は思わず瞠目した。
異臭はまだ、消えていなかった。それどころか、強烈さを増しているようにすら感じられる。
手に握りしめていた鍵を、シリンダーに差し込もうとする。二度、三度と鍵穴を外れた鍵は、四度目でようやく、鍵穴に収まった。右回しに捻る。感触は、空を切った。
ドアレバーを引く。室内の生暖かい温風が強烈な臭気と共に久我山を襲った。
心臓は、もはや早鐘のようにけたたましく鼓動を刻み始めた。背筋を冷たいものが落ちていく。
見知らぬ紳士靴が、玄関に脱ぎ捨てられていた。
音を立てないように、ゆっくりと家の中に入った。共通廊下の照明が扉で閉ざされて、正面のリビングに続く廊下は薄暗い。リビングのドアは、僅かに開いている。
声は出なかった。砂袋を床に落としたようなくぐもった物音がしていた。
浅い呼吸が、繰り返される。誘われるように、久我山は歩いた。さながら水銀灯に寄り集まる蛾であった。
その先にあるものを見てはいけない。脳が警鐘を鳴らしている。
久我山は、リビングの扉に震える手をかけて、そっと引いた。
赤。
赤。赤。赤。
どす黒い深紅色が、部屋を染めていた。
食卓のテーブルはなぎ倒され、割れた皿と残飯のような無残な料理が床に散らばっている。
元のクリーム色を僅かに上方に残して赤を滴らせるカーテンには、得体の知れない白い筋と、てらてらとした赤いものが、こべりついていた。
物音が、した。
機械のように、無感情の目線が移動する。
人形が二つ、転がっている。
何かが、その上に被さるように座り込み、人形に向けて大きく振りかぶっていた。
一回、二回、三回。
振動が床を打つ鈍い音と、粘りつくような音が後を引く。人形が揺れる。その勢いで人形の顔が、力なく、こちらを向いた。
ガラス玉の黒い瞳が、虚空を見つめていた。
四回。
久我山の鞄が、手からすり落ちて、音を立てた。頭の中の何かが、崩れ落ちた音だったのかもしれない。
黒いコートで頭まで覆った人間が、振り向いた。
久我山は、喚き散らしながら遮二無二飛び掛かった。拳を握りしめ、曜子の亡骸に跨った者の顔に向けて、殴りかかる。
当たったはずだった。
だが、感触はなかった。痛みも、なかった。
刹那の交錯に、黒コートの持った鋭利な刃物が、久我山の胸を、骨を避けて正確に刺し貫いていた。
込み上げてきたもので、久我山は嗚咽した。身体の力が、抜けていくのが分かった。
黒コートは、久我山を突き刺した刃を横に凪いだ。抗いがたい慣性と重力に従って、久我山の身体は床へと崩れ落ちた。
目の前には、朱で死に化粧をした曜子の顔があった。久我山は、残る力で、妻の顔に弱弱しく手を伸ばす。
久我山が最後に見た光景は、眼前に降り下ろされた銀の刃だった。
暗闇が、久我山を包んだ。
脳は何が起こったのかも分からぬまま、思考もできぬままに、活動を停止しようとしている。
だが、意識は微かにあった。いままさに、黒焔のように燃え上がろうとした意識だけは。
―—おまえを、殺す。
声にならない絶叫が頭蓋に残響し、久我山の意識は、そこで潰えた。