大変お待たせしいたしました。
新章スタートです。
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日常①
よく晴れた朝。
柔らかな日差しが瀞霊廷を包む朝の冷えた空気を優しく溶かしてゆく。
そんな清々しい空気の中、定刻になると護廷十三隊の隊士たちは、それぞれの持ち場へと機敏に集まり始めた。
それは、一日の始まりに執り行われる朝の定例会。
始業を知らせる号令とともに、各隊長の元で連絡事項が共有される、毎朝の習慣となっている時間である。
そして五番隊隊舎においても、他隊と同様に隊長──平子真子による業務報告が行われようとしていた。
隊士達が列を整えたのを確認すると、平子はいつもの猫背の姿勢で前に進み出る。袖を前で組んだまま、のそのそと口を開いた。
「──あー、
一斉に集まる隊士たちの視線。
詳細情報を求める空気に押されるかのように、平子は手元の書類に目を落とす。
しかし、書類を見る目は次第に面倒臭げなものへと変わり──とうとう諦めたかのように顔を上げると、隣の部下へと書類を渡した。
「惣右介、パス!」
受け取ったのは
彼は落ち着いた動作で渡された用紙に目を通し、隊士たちに向けて要点をまとめ始める。
「……
要点を押さえた解説に、平子は満足気に頷くと、一言。
「……ちゅうことや!」
隊長の気の抜けた発言、そしてそれを冷静に補う副隊長。
五番隊の、いつもの朝の光景。
藍染美代は、それをいつもの定位置から静かに眺めていた。
最前列中央──から、ほんの少しだけ出入り口側にずれた場所。
そこが、彼女のいつもの立ち位置だった。
あれから、美代は五番隊への移動が決まり、晴れて兄妹そろって同じ所属となった。
事務でも実地でも、ただ淡々と職務をこなし、目立つことはせず、過不足もなく、与えられた仕事を着実に遂行する──そのつもりだった。
だが、現実は少しばかり違っていた。
どういうわけか、処理を終えた業務に限って平子が「なあオマエら、これ──」と口を挟んでくるのだ。
その度に「それでしたらあちらにまとめてあります」「既に伝達済みです」などと答える羽目になり、気がつけば“よく気の利き、仕事の早い優秀な隊士”としての評判が広まりはじめた。
仕舞いには「書類業務の双龍」「千年ぶりの逸材」「平子隊長の保護者」などという謎の賛辞まで飛び交う始末。
そして、そんな調子でトントン拍子に昇進。
五番隊の環境では、どうやら“与えられた仕事を普通にこなす”だけで高評価になるらしい──そう気づいた頃には、席位にまで達していた。
兄に関していえば、平子が警戒とも興味ともつかない微妙な空気で、やけに目をかけていた。マメな性格の兄もまた平子の“テキトーさ”をフォローしたりするものだから、いつの間にか周囲から“平子の補佐役のように見なされるようになっていた。
実際、平子の奔放さと兄の几帳面な性格は妙に噛み合っており、互いに満更でもない様子。
そして遂に、平子が空席だった副隊長の座へと兄を推薦したのが、ちょうど一年前。
それから美代も、自然とその流れに巻き込まれ各種調整業務に関わることが増え、気づけば三席にまで昇進していたのだった。
今では上司二人の掛け合いを尻目に、静かに帳簿に向かう日々である。
そんなあれこれを思い出しながら、美代は朝礼の終わりを待っていた。
今日もきっと、いつものように「ほな、あとは惣右介の指示通りに動いてくれや、解散ー」と、平子が締めくくるのだろう──と、誰もがそう思っていた。
──だが、今日は少し様子が違った。
「今回の件、俺にちょっと考えがあるさかい……まずは俺一人で様子を見てくるわ。オマエら、俺がおらんくてもしっかりやるんやぞ! ……惣右介、俺の留守中の書類、頼んだで」
それだけ言い残し、「ほななー!」と手をひらひらさせながら、平子はこの場を去っていった。
珍しいことがあるものだ──と、美代は平子の背を見送りながらぱちくりと瞬きを一つ。
ふと視線を前に戻すと、ちょうど兄と目があった。
平子の突然の独断が気に入らなかったのだろう。表情こそいつもの穏やかなものだったが、少しだけ不満の色を霊圧の揺らぎから感じ、美代は小さく肩をすくめてみせた。
「……朝礼は以上です。各自、配属通りの業務をお願いします」
兄のその一言で朝の定例会は静かに締めくくられた。
こうして今日も、五番隊の一日が始まる。
*
隊首室に入ると、目に飛び込んできたのはうず高く積まれた書類の山だった。
繁忙期真っ只中の現在。
いくら処理しても新たに湧いてくる紙の波に護廷十三隊は溺れていた。
昨日も三人がかりで片付けたばかり──といっても、平子は「俺は監督するんが仕事やから」とか言ってほとんど椅子に腰掛けて茶ばかり飲んでいたが──なのに、こうしてまた新たな山が形成されていた。
すでに席へついて筆を滑らせている兄に倣い、美代も自席に腰を下ろす。筆を手に取ると、今日の業務に粛々と取り掛かかり始めた。
まずは、積み上がった山にざっと一通り目を通す。虚討伐報告書、部隊配置願、四番隊からの照会状、挙げ句には茶会申請書までもが乱雑に積まれている。
だが、中でも重要度が高く、尚且つ提出期限の近いものには、すでに隊長印が押されていた。
どうやら、平子が出かける前に最低限の処理は済ませていたらしい。
先程の平子の単独行動について、書類業務から逃げたかっただけなのではと美代は実は少し疑っていたが、思いの外、やるべきことはやっていたようである。
……と、思っていたのも束の間。
部屋の戸が勢いよく開き、息を切らせた他隊の隊士が勢いよく飛び込んでくる。
「失礼します!平子隊長はいらっしゃいますか!?」
現れたのは、生真面目そうな男。見たところ一番隊の所属のようだ。
事情を尋ねると、どうやら重要書類の催促に来たという。しかも、来期の運用に関わる極めて重要なもの──提出の遅延が護廷全体に影響する代物だった。
だが、そのような書類の存在を二人とも把握していない。
想定外の事態に互いに目を見合わせる。
これまで起こり得る些細なミスやトラブルは全て想定し、未然に防いできた。
提出遅れなど、本来起こり得ない。
だが、事実それは起こった。
それが起こるとすれば、唯一考えられるのは──上意下達の重要書類。
総隊長から格隊長へ直接渡されるような、“例外”の文書だけだ。
「この間、隊長がふらりといなくなって戻ってきた時、手に何か持っていなかったかい?」
「──あー……確かに、何か書類を手にしてたような。で、そのまま十三番隊からの差し入れを食べて──」
言いかけて、美代の視線が部屋の隅にある茶箪笥へと向かう。
静かに立ち上がり、棚の下段を開けると──
───あった。
中から現れたのは、茶菓子を取る際に誤って放り込まれたらしい──厳重な封のかけられた書類包み。
無言で兄に手渡す。
兄は封を切って中身を取り出し、内容を確認した。次第に、その霊圧が静かに、不穏に揺れる。
机が、ミシッと小さく軋んだ。
「……何をやっているんだ、あの人は……」
真面目な兄は五番隊全体の信用に傷が付くような事態を最も嫌う。
後ろから内容を覗き見ると、なるほど、これは確かに──今すぐ平子を呼び出して取り掛からねばまずい。
ただでさえ、繁忙期で護廷全体が神経を尖らせている今──このままでは五番隊は針の筵にされてしまう。
言葉にせずとも、兄妹の間にはすでに共通認識が出来ていた。
二人は黙って立ち上がり、隊首室をあとにする。
「今日は早く帰れると思ったんだけどな。また徹夜で缶詰かあ。……隊長、前みたいに逃げ出さないといいけど」
「今回ばかりは、椅子に縛りつけてでも働いてもらうしかないな」
周囲の目があるからか、優男顔のまま、こめかみにうっすら青筋を立てる兄の器用さに、美代は内心少しだけ感心した。
連れ戻した後の平子のことを想像する。
この間のように兄がサボりを指摘したら「オマエらがおったら俺いらんやんけ!」とまた駄々を捏ねそうだなとため息をつく。現世の童話でいうところの北風が兄なら、自分が太陽にならねば仕事が片付きそうもない。
あの天邪鬼な上司をどうやってその気にさせようかと考えながら、平子の元へと向かった。
**********
異常な密度で蠢くその群れは、冷たく乾いた虚圏の空気すら熱に溶かすかのように、むせ返るほどの気配を放っていた。
まるで互いの存在に縋り合うように、虚たちは身を寄せ合い、身動きも取れぬほど密集している。
だが、その様子がどこかおかしい。
よく見れば、
牙を突き立て、手足をもぎ取り、咆哮と断末魔が絶え間なく響く。
もはやそれは集団とは呼べない。
秩序なき混沌、自壊する暴力の塊。
……明らかに、制御を失っている。
そして、そんな混沌のただ中からやや離れた位置に、ひときわ異質な存在があった。
撫子の花を模した台座。その上に、一人の男が静かに佇んでいる。
───平子真子。
眼下で暴れ狂う
だとすれば、これは───
「ッ!」
───まずい。
刹那、美代の脳裏に警鐘が鳴り響く。
だが、そう思った時には既に手遅れだった。
一体何がまずいのか。それは──
お互いに一瞬で距離をとる。なぜこれまで無警戒でいたのか。浮かんだ疑問は緊迫した空気の中に沈んで消えていく。
互いに見つめ合って動かないまま時間が過ぎる。
乾いた
突如、一体の
互いの視界が遮られた──その刹那。
美代は背後からの
己の勘を信じて、振り返ろうと蹴り出した足で再び地面を蹴り身を捻ると、体のすぐ横を斬魄刀が掠めた。
その斬撃によって背後で
───やっぱり、鏡花水月か。
面倒だな、と舌打ちしたくなるのを美代は堪えた。だが、対策のしようはある。
距離を詰めてきたのは迂闊だったね。美代は小さく笑った。
捻りの勢いを活かし、軸足を入れ替えて真横から鋭く蹴りを放つ。
その一撃は腕で受け止められたが、構わず振り抜いた。足先から骨の軋む感触が伝わってくる。
腕ごと蹴り砕くつもりで放ったが、衝撃を逃すように後ろへ飛び抜かれたことで致命傷には至らなかったようだ。
そのまま距離を置かれたが、深追いはしない。
刹那、肩口に熱い感覚──斬られた。が、浅い。飛び抜いた瞬間に斬られたのだろう。あの時追っていればより深く切られていた。
砂の大地に足を滑らせて減速する。
やがて距離をとった
「どうした? 何をそんなに驚いている。獲物を射止めたと錯覚した瞬間こそ、最も油断が生まれる──どうやら、君も例外ではなかったようだね。
とはいえ、私を前に隙を見せて尚、命を拾ったことは賞賛に値する。だが……次は気をつけることだ」
「……随分と舌が回るじゃん。そんなに一撃入れたのが嬉しかった?」
美代は話しながら
──だが、気配、仕草、表情に今のところ違和感はない。とりあえず、判断は先送りにすることにする。
次に先に仕掛けたのは美代だった。
地面を蹴り上げて砂を巻き上げる。
足先で虚圏《ウェコムンド》の乾いた地を抉り、砂煙を高く巻き上げた。
──搦手には搦手を。
霊圧のない美代を相手にする場合、相手の霊圧知覚は意味を成さない。ならば、こちらの姿さえ隠してしまえば、頼れる感覚は「聴覚」のみだ。
逆に──こちらからは、あの重く冷たい霊圧が、嫌でも感じ取れる。
死角からうなじを狙う──というのは恐らく警戒されているだろう。代わりに耳を標的に定めた。聴覚と平衡感覚を狂わせる狙い。平手で強く叩きつけると、今度は防がれることなくきまった。
───何、その
それは驚愕に満ちた表情。
例え心臓を貫かれようと余裕の態度を崩さなそうなあの
───つまり、これも錯覚だ。
美代は心中で冷笑した。ちょっと作り込みが甘いんじゃない? それとも、これが自認してる表情ってこと?
錯覚の
周囲に意識を巡らせ、風の流れ、砂の揺れ、音の僅かな変化にまで神経を研ぎ澄ませた。僅かな違和感も見逃すつもりはない。
そして拳を固く握り、砂を思い切り撃ち抜いた。
風に舞う砂を殴ったとは思えない重い手応え。
どうやら殴る感触までは鏡花水月で再現していないらしい。
何かが砕ける音。
舞い散る破片の向こうから
唇の端から血を一筋垂らしながら、
その表情に驚愕の色はない。
微かに顰められた眉と、いつもより細められた瞳の冷たさの奥で、静かに燃えたぎる炎。
そう、その目───本物だ。
「“獲物を射止めたと錯覚した瞬間こそ、最も油断が生まれる”──だったっけ? ダメじゃないの、油断しちゃ」
先程の意趣返しの言葉を投げる。
「油断? 違うよ。これはただの“興味”だ。君がどこまで鏡花水月に対応できるのかを、間近で見てみたかった。そのためにあえて撃たせたんだ」
発言が嘘か真か、そんなことはどうでもよかった。今ここで舌戦をするつもりはない。
体の力を抜く。
重力に引かれてふらりと体が前に傾いた瞬間、強く大地を蹴り付けて一気に加速した。
直線の突進。力任せの単純な突撃。
一直線に
低い重心から一瞬で最高速度に達するその動きは、普通なら一瞬で視界から消えたように見えたはず。
だが、やはり
美代は空中で身を捩り、紙一重でそれを躱す。
そのまま懐に入り込み、鏡花水月を持つ手首を掴んだ。腕を捻り上げ、容赦なく力を込めると、ミシミシと骨の軋む音した。
至近距離で、視線が重なる。
手にさらに力を込める。
それでも
左手で
刀を引き抜いて───
「破道の九十────
「ちょ、オマエら!!! たんまや!!!」
突然のその一声に、咄嗟に動きを止める。
不発となった鬼道の霊力が目の前でバチンと弾けた。
兄と目を交わし、ぱちくりと瞬きを一つ。互いに、何が起きたのか一瞬わからずにいた。
周囲を見渡すと、辺りには共食いによって滅びた
これまでの記憶を辿る。確か、
「ちょっと平子隊長! 危ないじゃないですか後少し遅ければ───」
「隊長。あまり迂闊にその卍解を使わないでください。後数秒で───」
「「殺してしまうところだったじゃないですか」」
声が重なり、互い目を合わせる。兄はいつもの笑みを浮かべながら。妹は無表情に。
「いや、あの状況なら私の方が早いから」
「どうかな。あの程度で有利をとったと思うのは早計だよ。僕をあまり甘く見ないことだ」
どちらも譲る気はない。
二人とも、筋金入りの負けず嫌いであった。
無言で睨み合う二人の間に、平子が溜息をつきながら割って入る。
「オマエら、喧嘩すんなや。怪我はないか?」
兄の左頬には殴打の痕、妹の左肩には切傷がある。
「問題ないです」
「唾つけとけば治ります」
暗に大した怪我じゃないと張り合う兄妹に、平子は小さく肩を落とした。
「オマエら、何しに来たんや。俺一人で片付ける言うたやろ。仕事はどうしたんや?」
「ああ、そうだった」と意識を切り替えると、美代が事情を説明する。
「それが、一番隊の方がいらして───」
話を聞くにつれて、どこか咎めるようであった平子の表情がしょぼくれたものに変わっていく。
心なしか、いつもより猫背もひどく見えた。
「……なんや、あの書類……えらい気ぃ重そうやったさかい、後で落ち着いた時に開けたろ思ててん。……忘れてたけどな」
平子が気まずそうに頭を掻くと、考え込む素振りをした。
「急ぎなのはわかったけどな、こっちの仕事もほっとかれへんのや。
周囲のの亡骸へと視線を移す。
「アイツら、まるでイナゴの群れや。前のやつが逃げて、次のやつもまたそっから逃げて──後ろに何か、おるんやろな」
「つまり、この群れは“何か”から逃れていたと?」
「せや。しかも、そいつはまだ向こうにおるはずや」
そう言って、平子は月の浮かぶ方角を指差した。
「では、それは僕達が確認しておくので、隊長は先に戻って書類を片付けておいてください」
兄がばっさりとそう言い捨てると、平子は半目になって物申す。
「オマエら、俺だけを
一体いつから一蓮托生になったのか美代には微塵も心当たりがなかったが、どうやら平子の認識ではそうらしい。
今回ばかりは自業自得だと切り捨てようと口を開こうとすると、それよりも早く、兄の小言が炸裂した。
「……僕たちの怪我の件は黙っておきましょう。このくらいでしたら僕の回道で治せますしね。これで始末書が一つ減りますが……どうなさいますか?」
「ほな、そっちは頼んだわ! 俺は先に帰って書類片付けとくで!」
始末書を書くのが相当嫌らしい。兄のその一言に、平子は驚くほど素直に頷いたかと思えば、元気よく
その背中を見届けると、小さく息をついて、兄が呟いた。
「さて、ゆっくり行こうか」
相変わらず意地の悪いその言い回しに、思わず笑みが漏れる。
「随分とお人がよろしいことで。隊長が嘆くよ」
一人隊首室で書類に囲まれて悲鳴を上げる平子を思い浮かべる。今回の件は彼の責任だとはいえ、多少は同情してしまう。
「たまには息抜きも大事だ──あの人の言葉だよ。それに、そもそもこれだって仕事だ」
「……ま、それもそうか」
死骸で出来た道を辿って歩き始める。その先から感じるのは、恐ろしく強大な霊圧──恐らく、平子には巨大すぎて知覚すらできなかったのだろう。そう考えれば、平子には先に帰ってもらって正解だったはずだ。
夥しい数の
通常の隊で編成して向かっていれば、被害は避けられなかったに違いない。平子は平子で普段飄々としているが、あれでいつも適切な判断を下していた。今回も彼の卍解で対処したのは最善の選択だっただろう。
まったく、どうしてこうも二人して言動が捻くれているのか。美代は、そんな兄と平子を思って小さく笑った。
*
砂の大地を歩いた先、荒廃した
それは、一匹の巨狼。
砂塵を纏いながら伏せるその姿は、まさに
静かに佇むその巨体からは、荒れ狂うような霊圧が絶え間なく溢れ出している。
一切の制御を拒むような、無骨で暴力的な霊圧。
だがそれでも、山吹色の澄んだ瞳はただの
こちらが近づいても、敵意どころか、警戒の素振りすら見せない。
それもそのはず。近づいてみてはっきりとわかったが、この巨狼は凄まじい霊圧をしている。
あれだけの
霊圧だけであれば、恐らくは兄を超えている。
観察していると、巨狼が静かにこちらを一瞥する。その視線を受けて、兄が会話を試みた。
「……凄いな。君がやったのかい?その
巨狼の側には夥しい数の
巨狼はその山を静かに一瞥すると、静かに応じた。
「……違う。勝手に逃げて、逃げ遅れた奴が勝手に死んだ。ただ、それだけ」
その声は意外にも少女のものだった。鈴の音のように澄んではいるが、どこか感情を押し殺した、平坦な響き。
「でも……あんたら
巨狼の瞳が、じっと二人を見つめる。
片目が在るべき場所に空いた空洞からも、強い視線が感じられた。
「……いいね、あんたらはさ。隣に立つ人がいて」
それは切実な一言。声に含まれるのは羨望と孤独、そして、それに慣れすぎた者が抱く諦念。
圧倒的強者であるはずの巨狼が垣間見せる、脆さ。弱さ。
その様子に、兄の目が僅かに細められる。
「君のような力を持つ者が、孤独を嘆くとは意外だな……いや、そうでもないか。力とは、本来そういうものだ。私も、ずっとそれに気づかぬふりをしてきた」
その存在を前にして、兄の声にはいつになく熱がこもっているように聞こえた。
こうなると、話が一方的に展開していくのはいつものことだ。美代はそれをよく知っていたため、あえて黙したまま成り行きを見守ることにする。
兄の言葉の余韻が漂う中、巨狼は鼻先にかすかに皺を寄せた。喉の奥から絞り出すような、低い声が返ってくる。
「あんたらには……わからないだろうさ」
その声音には、かすかに怒気とも悲哀ともつかぬ感情が混じっていた。
「……生まれた時から、ずっと独りだった。誰も……隣にいられなかった。
みんな、壊れていく。あたしのせいで。
……だから、こんな力なんて──いらなかった」
兄はその告白に一切の同情を示さず、ただ、いつもの冷静な声で応じる。
「君が弱さを望むというのなら──そう在ればいい。他の何にも惑わされず、己の意思で姿を選び取ること。それこそが、強者にのみ許された特権なのだからね」
巨狼は伏せていた顎を地面から離し、ゆっくりと首を持ち上げる。長い尾が砂を払うように静かに揺れた。
「……そんな風に考えたこと、なかったな。でも……確かにそうだ。独りが嫌なら、変わればいい」
巨狼の山吹色の瞳がわずかに揺れる。
「……いいよね、あんたらは。二人で、力も、想いも……分け合える。
そうすれば、こんなに苦しくないのかな……
……いっそ、あたしも……誰かと半分になれたら。少しは、この孤独も消せるのかも」
兄はその独白を静かに聞いていた。
そしてそっと手のひらを上に向けて差し出し、まるで迷える教え子を導くかのように、巧みに語った。
「君がそうなることで何かを得られるのなら──それもいいだろう。
だが、覚えておくといい。
強者とは、常に孤独を背負うものだ。……だが皮肉なことに、その孤独に抗うためにもまた、力が要る。
やがて君は、その矛盾に向き合う時を迎えるだろう。その時こそ、本当に“誰か”と在るということの意味を知るはずだ。
……今の君には、まだ想像もつかないかもしれないがね」
その言葉を、一言一言噛みしめるように、巨狼の目が細められた。
しばしの沈黙ののち、彼女はゆっくりと目を開け、静かに呟いた。
「……ご忠告、どうも。……でも、少しだけ心が楽になった気がする」
兄と巨狼の間に、どこか重い空気が流れる。
少しだけ居心地の悪さを感じた美代は、会話が一区切りついたのを見計らって、流れを変えようと口を開いた。
「君、名前は?」
その問いに、巨狼は一瞬目を瞬かせると、短く答えた。
「……リリネット・スターク」
語られた名は
名を名乗るということ。それは他者に己を刻む行為であり、誰かと繋がるための第一歩。
孤独と反するその行いに、巨狼──リリネットはどこか嬉しそうに小さく尾を振ると、続けた。
「誰かに名を名乗るのはこれで二回目だ」
「二回目?」
美代は眉を寄せ、問い返す。
リリネットと並ぶ存在が、既にいたというのか。
だとすると、先ほどまでの彼女の発言と矛盾するように思える。一体どういうことか。
「さっきここに別のヤツが来たんだ。あたしと同じくらい強いヤツがこれから沢山集まるから、仲間になれって」
リリネットは顔を美代たちへ向けると、鼻を数回鳴らす。
「あんたらからも、そいつと同じ匂いがするね」
その山吹色の瞳が細められ、じっと見据えてくる。
そして、小首をかしげて──静かに問うた。
「あんたらは、産絹彦禰の仲間なのか?」
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