もしヨン様に理解者がいたら   作:肩パルト

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水面下①

 

 

 

「時灘様! ただいま戻りました!」

 

 実験区域の静寂を破ったのは、場違いなほど明るく無邪気な声。

 その声を耳にした時、時灘は一人、記録映像の前に佇んでいた。

 そこに映っていたのは、密かに監視していた彼の協力者の日常。裏切りの芽を摘み取り、完全に掌握するための策。

 

 画面の中では、藍染惣右介が部下の隊士に声をかけられていた。穏やかに応じ、時灘に見せるあの柔和な笑みを浮かべると、隊士は瞳を輝かせて一礼をし、満足気に去っていく。残された彼は微笑みを崩さぬまま、自然に仕事へと戻っていった。

 

 時灘はそんな部下からも慕われる協力者の様子を目にしながらも、正面の画面からゆっくりと視線を移す。

 

 目を向けた先にいたのは、少年とも少女とも判別し難い中性的な姿をした子供だった。

 だが──その無垢な見た目とは裏腹に、纏う霊圧は異様そのものだった。

 死神、(ホロウ)滅却師(クインシー)──あらゆる存在の力がぐしゃぐしゃに混ざり合い、一つの個と化した生命。どこか隔絶した存在。そう直感させる異質な存在感を放っている。

 

 

 藍染惣右介の研究は、確かに結実していた。

 

 

 本来であれば意思なき器として完成するはずだった“人造の霊王”は、中身──()()()()()の影響か、予期せず自我を宿して生まれてきた。

 

 霊王(道具)に意思など必要ない。

 藍染惣右介はこの“予定外”を嫌ったが、時灘はむしろ、この思いがけない結果を喜んだ。

 

 意思なき存在など退屈なだけだ。自ら考え、迷い、そして絶望する“意志”こそが人の心を動かし──何より時灘に愉悦を呼び起こす。

物を考える道具とは、なんとも滑稽じゃないか。

 

 だからこそ、時灘は生まれたばかりの無知で無垢な自我──その白紙の人格に、色を塗った。ただ一人、自分だけに忠誠を誓うように。意のままに踊らせ、無垢なままに悪行の道具となる様を愉しむために。

 

 尤も、ただ命令に従うだけのそれを“意志”と呼ぶこと事態、滑稽な話なのかもしれないが。

 

「彦禰か。調子はどうだ?」

「順調です! はい!」

 

 名を呼ばれた子供──産絹彦禰は、元気よく返事をし、胸元に抱えた浅打をぎゅっと抱きしめた。

 それは死神の亡骸から引き剥がした斬魄刀であり、時灘が興味本位で与えたものだった。

 人造の霊王である彦禰が始解を得た場合、それがどのようなものになるのかを知るために。

 

「先程も、すっごく強そうな(ホロウ)と会ってきました! はい!」

 

 彦禰には、今後の計画に備え、死神化させる(ホロウ)の選定と、虚圏(ウェコムンド)の掌握が命じられていた。

 

 

 彦禰は───おそらく、恐ろしく強いだろう。

 

 

 それ故に、時灘は警戒していた。

 間違っても、彦禰が藍染惣右介の手の内に落ちるようなことがあってはならない。

 

 視線を未だ流れ続けていた映像へと移す。

 画面の中、藍染惣右介は金髪長髪の上官、そして双子の妹と共に業務の擦り合わせをしていた。

 帳簿に目を通し、数字の矛盾を冷静に指摘し、即座に解決案を提示する。

 上官が二つ返事で了承し、妹が訂正を施す。

 無駄のない、精密な連携。傍目には、まるで理想的な職場のようにも見えるだろう。

 

 その光景を眺めながら、時灘は鼻で笑った。

 

 

 ───護廷のために使うには、藍染惣右介は過ぎた人材だ。この瀞霊廷に、護るべき価値などないというのに。私だけがこの男の真の価値を知っている。

 

 崩玉が完成し、すべてが動き出すその時まで──彼には存分に役立ってもらわねばならない。

 

 

 今のところ、藍染惣右介は時灘が主体となって進める計画に、一切の疑問も示さず、非常に協力的な姿勢を見せている。

 時灘の掲げる仮初の正義に共感し、その知性、構想力、技術力も全て惜しみなく捧げていた。

 時灘が世界の正しい在り方のために行動しているという思い込みがある限り、彼は時灘へ刃を向けることはないだろう。

 

 だが、万が一。

 彼が時灘の“本当の目的”に気づいた時──

 その時、彦禰が彼の側にいるようなことがあれば、それは致命的だ。

 

 だからこそ、時灘は彦禰にとっての絶対であり、唯一の基準でなければならない。

 時灘が用意した舞台で、時灘が望む時、望むままに踊る人形として。

 

 ───確かに、彦禰を生み出したのは、藍染惣右介だ。だが、彦禰に存在理由を与えたのは私だ。

 

 彦禰の抱く、時灘への慕情にも似た想い。

 それは理屈を超えたものだ。

 まるで雛鳥が、生まれて最初に見たものを親だと信じ込むような──無条件の盲信。

 

 空を知らずに育った雛は、与えられた籠の中こそが世界のすべてだと信じて疑わない。

 彦禰もまた、そうして世界を覚えた。

 

「そうか。これからも期待しているよ」

 

 静かに微笑みながら、時灘はそう告げた。

 それは、信頼を装った支配の言葉。

 己の所有物にかける、緩やかな呪縛。

 

 ───私だけの道具として、役立ってくれたまえ。すべては私の掌の上だ。

 

 その本音を胸の奥底にしまい込みながら、時灘は机上へ視線を移す。そこへ置かれたのは崩玉の核。

 藍染惣右介が生み出した、理外の結晶。

 

 すべてが、時灘の思い通りに運んでいた。

 

「ありがとうございます! 時灘様のためにも、必ず虚圏(ウェコムンド)の王様になってみせます! はい!」

 

 無邪気に笑う彦禰。

 その笑顔に時灘は満足そうに頷きながらも、その一挙手一投足を決して見逃さぬよう、油断なく視線を向け続けていた。

 

 立ち上がり、崩玉の核に手を伸ばす。妖しく光るそれが彦禰の顔を照らし、瞳の朱と混ざって揺らぐ影を形作る。

 

「それでなんだが──ちょうど今から崩玉制作に取り掛かるところだったのだ。手伝ってくれるかな?」

「僕でよければ、お手伝いさせていただきます! はい!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこは屋敷の離れにある、大広間。

 部屋の中では、黒装束に身を包んだ者たちが整然と座し、主の訪れを待ち詫びていた。

 

 彼らは綱彌代家の私兵にして、子飼いの暗殺者たち。貴族の平穏を守るために動く、瀞霊廷の暗部。

 

 その静謐なる空間に、ゆっくりと足音が近づいてくる。

 主──綱彌代時灘の到来だ。

 一糸乱れず膝をつき、こうべを垂れ、彼らは静かにその足音を迎えた。

 

「やあ、急な呼び出しで悪かったね」

 

 部屋の中央に進み出た時灘は、どこか親しげな声音でそう告げた。まるで旧知の友人に語りかけるかのような口ぶりは、貴族としての威厳とは程遠いものだった。

 むしろ気さくな上司を思わせるようなその態度に、暗殺者たちは一瞬、僅かな戸惑いを覚える。だが、そんな様子を表に出すことなく、彼らは無言のまま、主の声に耳を傾けていた。

 

 本来、戸籍にも記されぬ存在──暗殺者と、瀞霊廷の頂点に立つ貴族の当主が、直接対面することなどありえない。

 それは暗黙の禁則であり、伝令を介してのみ関係が築かれるのが常だ。

 つまり、彼らが時灘と直接相まみえるのは──初めてのことだった。

 

 予想だにしなかった四大貴族の当主との対面。

 しかもその当主は、あまりに柔和すぎる態度で彼らに語りかけてくる。

 

 緊張が走る。

 だが、そんな張り詰めた雰囲気を解すかのように、時灘の放つ穏やかな空気が彼らを包み込んだ。

 

「今日は、君たちに大事な話があってここに集まってもらったのだ。こうして直接会って話すのは初めてだね。私が、現・当主の時灘だ」

 

 朗らかにそう告げると、時灘はふと穏やかな表情を引き締めた。

 

「───まずは、君たちに誠意を述べさせてほしい。……どうか、顔を上げてくれないだろうか」

 

 当然のことながら、暗殺者風情が貴族──それも大貴族の当主と顔を合わせることなど許されない。

 だが、貴族の命令もまた絶対だ。

 そう幼い頃から教え込まれて育った彼らは、命令に従うことを選んだ。

 

 一人、また一人と面を上げていく。

 彼らの視線を正面から受けながら、時灘は静かに言葉を紡いだ。

 

「今まで、君たちは本当に良く綱彌代家に尽くしてくれた。……今の私があるのは、間違いなく君たちのお陰だよ。本当に、感謝している」

 

 その声音は、真に迫っていた。

 暗殺者たちは黙って聞き入っている。

 

「──そして、これまで君たちには……後ろ暗い仕事も、沢山背負わせてしまったね。……本当に、すまなかった」

 

 そう言って深く頭を下げた時、空気が一瞬止まった。

 

 誰かが、息を呑む気配。

 誰も、何も話さない。

 沈黙。静寂。無音。

 

 暗殺者たちは、ただじっと主の言葉を待つ。

 

 やがて、静かに顔を上げた時灘の瞳には、深い光が宿っていた。

 

「──これからは、どうか表の世界で生きてほしい。家族と共に、穏やかに暮らしてほしい。それが私からの、せめてもの償いだ」

 

 そう言って彼は、戸籍を差し出した。

 綱彌代家の力を使って用意された、新たな人生。

 

「これが、君たちの新しい戸籍だ。名前も、住処も、職も、用意してある。……心配はいらない。これからの暮らしについても、すべて綱彌代家が責任を持とう」

 

 その一枚一枚を、時灘は丁寧に渡していく。

 時には声をかけ、肩に手を置き、まるで心からの労いを示すかのように。

 

「君はこの間、四十六室との会合に護衛として同行してくれたね。助かったよ」

「はっ……! 御温情、深く感謝致します!」

 

 時灘の手が肩に触れる。

 その瞬間、不思議な感覚が暗殺者の中に広がった。

 

「…………?」

 

 不思議な浮遊感。頭の中で響く、耳鳴りのような音。だが、それも一瞬のことであり、与えられた自由と安寧の重みによって、意識の外に沈んでいった。

 

 その温情を前に、やがて誰からともなく、深い頭を垂れ始める。

 暗い裏の世界から引き上げ、表の世界へ導いてくれる当主。

 その恩に報いねばと、誰もが思った。

 

「このご恩は、いつか必ず──」

 

 時灘は、まるで親しき隣人にでも応じるかのような、柔和な笑みを浮かべた。そのあまりに深い喜色からは、なぜか彼の人柄の良さを超えた気迫のようなものさえ感じられる。

 

「何、礼には及ばないさ。見返りなら、もう貰っている」

「これまで綱彌代家に尽くしてまいりましたが、今日ほど、冥利に尽きる思いをしたことはございません……!」

 

 声に震えを滲ませ、彼らは深々と礼を取った。

 

 だがその感嘆は、時灘の次なる言葉によって、動揺へと変わることとなる。

 

「ああ、勘違いのないように言っておこう。私の言った“見返り”というのは、君たちの忠義のことではないよ」

「それは、どういう───」

 

 パシャリ。

 

 音がした。

 大勢の前で、声を上げていた男の輪郭が音を立てて崩れた。残された衣服がぱさりと床に落ち、確かに男が存在していたことを証明していた。

 

 

 絶句する者たち。

 膝をついたまま、声も出せず、ただ呆然と主の顔を仰ぐ。

 

 その表情が、変わり始めていた。

 

 穏やかだったはずの顔が、微かに歪む。

 まるで清らかな水面に、一滴の泥が垂らされたかのように。

 静かに、じわじわと、醜悪な“本性”が滲み出る。

 

「なに──魂魄を、ほんの少し削り取らせてもらっただけだよ。心配することはない。彼は耐えられなかったようだが、運が良ければ生き残れるさ」

 

 彼らの視線が、時灘の手元へと移る。

 時灘の手中にある怪しげな光を放つ奇妙な物体を見て、彼らは察した。

 あれが、自分たちに何かしたのだと。

 そうか、さっき触られた時に────

 

 衝撃と動揺の中で、一部の者が武器を手に立ち上がった。

 奪われたものを取り返そうと、怒りと恐怖のままに主へと襲いかかる──

 

 その一時の間にも、一人、また一人と静かに存在が消えていった。

 

 時灘はただ一言、配下の名を口にする。

 

「──彦禰」

 

 刹那、時灘の背後に控えていた子供の姿が掻き消える。室内にも関わらず風が吹き抜けたかと思うと、暗殺者は手足を折られ、立ち向かう意志ごと叩き伏せられていた。

 

 呻き声があちこちから漏れる。

 

 その中の一人──まだ抵抗を諦めていない男が、憎しみに燃える瞳で時灘を睨んだ。

 

「なんのために……!」

 

 時灘は男に歩み寄ると、その胸元に足を乗せ、ゆっくりと体重をかける。

 

「……悪癖なんだ」

 

 ぐぐ……バキィ、と音がして、男の口から血が噴き出す。

 

「どうしても見たくてね──君たちのように、心底、生きることに絶望しきった者が、与えられた救の手に縋る姿を。

そして、ようやく掴んだ希望が、私の手で絶望に塗り替えられるその瞬間を」

 

 甘美で、妖艶な蜘蛛の糸。

 時灘が垂らしたそれは、天へは通じず、救いを求める者を絡め取り、地獄の底へと引き摺り落とす毒の糸。

 

 胸を踏み潰された男の目は、もはや光を失い、空ろに虚空を漂っていた。

 そして、最後にひときわ大きな血を吐き──パシャリと音を立てて、崩れて消えた。

 

 舞い落ちる紙。

 それは男が握っていた戸籍だった。

 生きる希望。家族と過ごす未来。幸せな幻。

 その場に残された者たちは、動ける者も、動けぬ者も、ただ呆然と立ち尽くした。

 悲嘆。失意。恐怖。あるいは……諦念。

 

「どうした? 絶望など慣れ親しんだ感情だとでもいう風に、君たちはいつも自己憐憫に浸っていたじゃないか! 今更死ぬくらいなんだというのだね!」

 

 時灘は楽しそうに愉悦(わら)う。

 

「ああ、そうだった。所詮、君たちは表で生きてゆけなかっただけの惨めな負け犬だったね」

 

 時灘が吐き捨てるように言ったその瞬間、

 

「楽しそうですね! 時灘様!」

 

 ひょいと顔を出した彦禰が、変わらぬ明るさで声を上げた。まるで、時灘の作り出した惨劇が目に入っていないかのように。

 

「ああ、そうとも。楽しいさ。

 他者を踏み躙るという行為、それこそが正しく“悪”であり──私の心が渇望してやまない、極めて純粋な衝動だよ。本能、と言っても良いのかもしれない」

 

 快楽に溺れるかのように、恍惚とした表情で語る。彦禰は微かに首を傾げながら「そうですか!」と短く返事をした。

 

 気がつけば、部屋の中に残っているのは──時灘と彦禰、二人だけになっていた。

 床には、黒装束が散乱している。そこにあったはずの命の気配は、もはや欠片もない。

 

「おや、全滅か。少し削り過ぎてしまったかな」

 

 そう言いながら、時灘は手の中の崩玉に視線を落とす。

 

「やはり、凡百の魂魄では崩玉に変化は見られないか」

 

 崩玉は、ただぼんやりと光を放つばかりで、何の反応も見せなかった。完成に近づけば、周囲への何らかの影響が生じることを藍染惣右介は予想していたが、今のところそんな予兆は全く感じられない。

 

「もしかしたら、霊王の欠片を持つような、強靭な魂魄が必要なのかもしれないな」

 

 背を伸ばして覗き込もうとする彦禰の目の高さまで崩玉を下ろす。それをじっと見つめる彦禰の瞳からは、何の感情も読み取ることはできなかった。

 

「彦禰。君の体は、一部霊王の欠片によって形作られている。君には他の欠片を持つものがわかったりしないのか?」

 

 彦禰は小首を傾げ、一瞬考え込むと、ふいにぱっと顔を明るくした。

 

「はい! それが時灘様のおっしゃる霊王の欠片なのかは分かりませんが、僕と似た気配の魂魄はわかると思います!」

「そうか。では、お願いするとしよう」

「はい! お任せください!」

 

 

 

 

**********

 

 

 

 

 流魂街。

 そこは、死した魂が次なる生へと転ずるまでの間を過ごす、暫しの休息の地。

 

 だが、それは所詮、力なき者の話だ。

 強き力を持つ者たちは、死してなお“生きる”ことを強いられる。

 すなわち──生者のように飢え、渇き、奪わねば存在を保てない。

 

 少年も、そうした“力ある者”の一人であった。

 

 今日も、労働の対価として僅かながらも食べ物を手に入れた少年は、棲み家へと足を運んでいた。

 そこで少年は、同じく“力を持つ者”である少女と、二人で暮らしている。

 

「……?」

 

 けれど、家が視界に入った瞬間、異変に気づいた。

 いつもなら、このあたりで彼女が顔を覗かせ、「おかえり」と小さく笑うのに──

 

 その姿が、ない。

 

 ざわつく胸を抑えながら早足で近づくと、目に入ったのは──

 家の前で倒れ伏す少女の姿。

 

「……、……!」

 

 胸に抱えた食べ物を放って急いで駆け寄る。

 少女は意識を失い、ぐったりとしていたが、胸がゆっくりと上下しているのは確認できた。幸いにも、命は助かっているようだ。

 

 ────誰や……誰が、こないなことを!

 

 少女を抱きかかえると、布団の上へと慎重に横たえる。

 彼女の顔をじっと見つめながら、強く思う。

 傍にいてやりたい──けれど、それよりも今、少年の心を支配していたのは、彼女を害した元凶を排斥せんとする衝動だった。

 これからまた、同じことが起こるかもしれない。そうなる前に、今ここで止めなければ────

 

 彼女の呼吸を確かめ、名残惜しさを噛み殺して、家から飛び出す。

 湧き上がる衝動を道標に、あてもなく走り回った。

 

 そして──見つける。

 流魂街にそぐわぬ、綺麗な衣服を着た男──貴族。

 衣の優美さに反して、男の纏う醜悪で下劣な雰囲気を看破した少年は、直感で理解した。

 

 ────あいつや。

 

 少年の普段細められた瞳が開かれ、男の姿を焼き付ける。

 

 ────あいつがやったんや。

 

 少年は考える。この貴族に近づく手段を。少女の受けたことへの報いを返す方法を。

 だが、流魂街の住人ではそもそも瀞霊廷に立ち入ることすら叶わない。一体、どうすれば───

 

「ふむ、やはり霊王の欠片には反応を示すが──足りないか」

 

 男は、手に持つ不気味な光を放つ物体を観察しながらそう呟いた。

 少年は男を追うための手がかりを取りこぼすことのないよう、その様子をじっと観察する。

 

 目前に横たわる魂魄を足蹴にしながら男は言葉を続ける。その魂魄は、既に事切れているようであった。

 

「回収する魂魄の生死は崩玉にどの程度影響するのだろうか。……しまったな。こういった細かいところは、やはり藍染惣右介を頼らざるを得ないようだ」

 

 ────藍染……惣右介。

 

 その名前を、少年は頭に刻み込む。

 

「このあたりで、彼に経過を見せるとするか。近頃は、随分と五番隊でその能力を奮っているようだが……たまにはこちらにも手を貸してもらわないとな。──彦禰、彼は今どこにいるかな?」

 

 死神──かつて、流魂街に(ホロウ)が現れた時に、一度だけ討伐に訪れたところを少年は見たことがあった。黒い着物を着た者たちと、背中に“五”の文字が刻まれた羽織を纏った金髪長髪の男。恐らく、あれが五番隊だったのだろう。

 

 あの金髪長髪の変な男。彼の元に、藍染惣右介という男がいる。そいつがきっと、この貴族に近づくための糸口になるはずだ。

 ならば────

 

 ───ボク、死神になる。

 

 ───死神になって、乱菊が、もう泣かんでも済むようにしたる。

 

 少年の瞳に、決して折れぬ意思が宿る。

 袖口を掴む手が固く握り込められ、指先から白く、冷たくなっていった。

 

 

 

 

**********

 

 

 

 

「……へっくしょい!!!」

 

 突如、隊首室にくしゃみが鳴り響く。

 平子は印を押す手を止めると、鼻の下を人差し指で拭いながら、独りごちた。

 

「あー、なんや。誰か俺の噂でもしとるんか?」

 

 手元の印鑑を机に置くと、大きく伸びをひとつ。

 普段丸まっている背が、心地よく音を立てた。

 

「まあ俺、男前やし、ほっとかれへん気持ちもわかるわ」

 

 そう呟かれた軽口に、誰一人として応えるものはいない。

 平子は今、一人だった。

 肘を机に乗せて頬杖をつくと、溜息を一つ漏らす。

 

「アイツら、いつまで向こうにおるんや。……まさか、俺への嫌がらせでちんたらやっとるんとちゃうやろな」

 

 その仕打ちに心当たりがまったくない──わけでもない平子は、次に出かかった文句を喉の奥で飲み込む。

 冗談めかして呟いたが、誰も見ていないのを良いことに、声に反して顔はどこか真面目な顔つきであった。

 

 平子は二人──とくに惣右介を警戒していた。

 だからこそ、積極的に関わりを持ち、それでいて踏み込みすぎることなく、適切な距離を測って接してきた。

 

 何かほころびが出やせんかと、あえて仕事を大量に振ってみたり、()()()()重要書類を置き忘れたりしてみたわけだが────

 

 二人とも、難なく、卒なく、至って真面目に業務をこなしていた。

 情報を持ち出す気配も、細工を施すような素振りも、一切ない。

 “少なくとも、護廷の仕事に関しては”──完璧で、誠実なようであった。

 

 そのあまりの優秀さに、最近はつい仕事を任せっきりになってしまっているのは、適材適所だとも言えよう。

 尤も、自分の仕事が楽になるという下心があったことは否定できないが───

 

 

 筆を手に取り、ふと机の上の報告書に目を落とす。

 見惚れるような美しい筆跡。

 無駄がなく、論理的で、読む者の理解を自然に導く丁寧な文章構成。

 完璧で、文句のつけようのない出来栄えだ。

 

 これだけで、部下がいかに真摯に業務と向き合っているのかが見て取れる。

 だがそれと同時に、その完璧さにいつも言いようのない違和感を抱くのであった。

 そして、彼の冷静な部分がいつも訴えかけるのだ。

 

 

 信じるのは、まだ早い──────いや。

 

 

 その訴えを、自ら否定するように、平子は息をひとつ吐いた。

 

 脳裏に浮かぶのは藍染惣右介の斬魄刀、鏡花水月。逆撫と同じ、感覚を欺く系統の能力。

 

 筆先からぽたりと落ちた墨が、白紙を濁していく。 じわりと広がるその染みを、平子はただ見つめた。

 

 あの日、逆撫のあの反応──普段外界に興味のない、捻くれ者の逆撫が示した関心。

 惣右介という完璧な男に、初めて感じた違和感。

 思えばそれも、最初はこうやって、小さな染みだった。

 

 平子は決して本音を話さず、あべこべな事ばかり言う自身の斬魄刀を、真実を見抜いたことで屈服させた。

 であれば、同系統の鏡花水月にも似ているところがあるのかもしれない。

 

 完全催眠。

 まさに、完璧で隙のない惣右介らしい能力やな、と平子は思う。

 

 斬魄刀は、持ち主の魂を写す。

 もし、鏡花水月の完璧な幻が、彼の在り方を表しているのだとしたら────

 

 ただ遠くから彼を監視し続けることは悪手なのかもしれない。

 虎穴に入らずんばなんとやら。

 真に警戒するのならば、もっと深く踏み込むべきだ。

 

 

 ────今の関係もそろそろ、終わりにせなアカンのかも知れへんな。

 

 

 染みを上から塗りつぶすように筆を走らせようとして、ふと動きを止める。

 

 

 今の関係は、ある意味逃げだ。

 

 抱いた疑念から目を背け(隠したものは)信じたいという甘さが傍観を生んだ(弱さと真実)

 だが疑いを持った以上(失くしたものは)無知ゆえの平穏を享受すること(永遠の安息)は許されないだろう。

 

 ならば、向き合わなければなるまい。

 その結果、たとえ、今の関係が壊れることになったとしても──

 

 

 平子はそう心を固め、染みを避けて文字を走らせる。

 完成した書類は不恰好ながらも、それこそが本来の正しい形であるかのように見えた。

 

 

 

 

「ただいま戻りました」

 

 隊首室の戸が開く。

 顔を上げた平子の目に映ったのは、双子のうちの片割れ──妹、美代の姿だけだった。

 

「惣右介はどないしたん?」

「この間隊長が押し付けた霊術院の業務があったじゃないですか」

「……そないなこと、あったっけ?」

 

 軽くとぼけてみせるも、その問いは無視され、美代は淡々と続ける。

 

「その件で急遽呼ばれてしまって、少し向こうに寄ってから、ここに戻るみたいです」

「……せやったか」

 

 美代は無言で席につくと、書類を取り出して筆を走らせ始める。

 その横顔をちらりと見て、平子はつまらなさそうに筆を弄んでいたが──

 ふと顔を上げて、口を開いた。

 

「なあ」

「何ですか?」

 

 筆を動かす手はそのままに、美代は短く応じる。

 

「オレは優秀な部下を持って幸せやな……」

「どうしたんですか急に。……気色悪いですよ」

「なんでや、褒めとるやんけ」

 

 筆を置き、頬杖をつく。

 

「仕事できるし、腕っ節もエエし、面も良いし……モテるし」

「いやあ、それほどでも」

 

 そして、いつもより幾分か低い声色でポツリと呟いた。

 

「……ホンマ、出来過ぎなくらいにな」

「……どういう意味ですか?」

 

 平子の一言から何かを汲み取った美代が紙面から顔を上げ、平子を真正面から見る。

 平子は美代から目を逸らさず、息を小さく吸うと、心に積もった疑念をついに吐き出した。

 

「オレはな──正直、オマエらの完璧さが、不気味やと思とる」

 

 初めて超えた一線に、平子の内心で冷たい汗が伝う。

 美代の目が細められ、平子をじっと見つめた。

 

「何故、とお聞きしても?」

 

 温度を感じないその声色は、普段の彼女のものとはかけ離れて聞こえた。

 

「そんなん、簡単なことや。完璧人間を見るとな、なんか裏があるんちゃうかと疑ってまうんが人の性っちゅうもんや」

「そういうものですか?」

「そういうもんや。……おかしいやろ? 誰しもどっかに欠点があるもんやのに、オマエらにはそれが見えへん。……隠してんのやろ」

 

 いつもなら冗談混じりに話し、何かあれば笑って誤魔化すが、今回はその範疇を超えていた。

 それでも、平子は言わずにはいられなかった。

 

 全く隙のない二人。きっとそれは無いのではなく、奥深くに秘されている。

 

「なるほど。隊長は私たちをよく見ていますね。……でも、本当にそれだけですか?」

 

 その問いに、平子は瞬きをした。

 美代の声が鋭さを増す。

 

「本当は私たちのこと、危険だと……信用できないと思っているのではないですか? だから、いつも私たちと一定の距離を保っている」

「……せやな。でも、それも今日でしまいや」

 

 その深く抉るような問いを受けて、平子が取った選択肢は、正直でいることだった。普段の飄々とした態度を捨てて、心内を吐き出す。

 

「俺は、オマエらとちゃんと向き合いたいんや。

それに、踏み込んで来ぃひんのはオマエらも同じやろ」

「……そうですね」

 

 一拍の沈黙のあと、美代は視線をふと逸らす。

 視線の先の空の作業机ではなく、どこか別の場所を覗き見ているかのような眼差しであった。

 

「確かに、私たちは今まで特段、誰かと深く関わろうとしたことはありませんでした。……どうしてそうお思いに?」

「オマエらの関わり方を見とるとな、自分たち以外の誰も信用しとらんのがようわかる。……俺くらいになるとな」

 

 苦笑混じりに背もたれにどっしりと体を預ける。

 

「──オマエ、人に多くを求めてへんのやろ? なんか、そない見えるわ」

 

 美代が眉を寄せ、困ったように静かに微笑む。

 こうして笑うと、兄とまさにそっくりであった。

 

「別に、理由は聞かへんし、俺を信じろとも言わん。好きなようにやったらええ。……けどな、それじゃいつか誰もついてこんくなるで」

「……隊長は、底が知れない人ですね。……心に留めておきます」

「底が知れんのはオマエらの方や。特に惣右介の考えていることなんて、ホンマわからんしな」

「そうですか? かなりわかりやすい方だと思ってましたが」

「それはオマエだけやろ。俺にはさっぱりや」

 

 美代は首を捻ると、天井仰ぐように視線を上げる。

 

「うーん、そうでしょうか?……まあでも、一つ言うなれば、目ですかね。兄は目に出ますよ、わりと」

「目ぇ、か」

 

 レンズの奥にある瞳。

 その明眸の宿す暖かさの奥に、時折昏く冷たい何かが覗くのを、平子はまだ目にしたことがない。

 

「アイツ、たまにものっそい冷めた目ぇで俺を見よるよな。なるほど、それが惣右介の本性っちゅうわけか」

「それは隊長が色々押し付けるからじゃないですか?」

「それもオマエらを試すためにやったことや。……適材適所や!」

「……そんなに心内が知りたいのなら、正常な判断を失わせるような物を食事か何かに混ぜれば良いのでは?」

「サラッとなに言うとるんや!」

 

 盛大にツッコミを入れる平子に対し、美代は本気とも冗談ともつかぬ無表情で、何食わぬ顔をして言い放つ。

 

「良い考えだと思ったんですがね」

 

 捉えどころないその発言に、平子は思わず額を押さえ、呆れたように息を吐いた。

 仮にそんなことを企んだとして、上手くいく未来がまるで見えない。どうせ途中でバレて、返り討ちに遭うのがオチだろう。

 

 そんな平子の様子を眺めながら、美代が首を傾げて言った。

 

「まあでも、隊長にならいつか───あ、」

 

 その言葉の続きは、開かれた戸の音によって掻き消された。

 

「只今戻りました」

 

 開かれた戸の向こうから、聞き馴染みのある低く穏やかな声が響く。刹那、これまでどこか張り詰めていた空気が、いつもの五番隊に戻ってきたように感じられた。

 声の方へ視線を向けると、遅れてやってきた副官がゆっくりと中に入ってくる。

 

「遅いで惣右介! これやとまだ徹夜やで!」

「それは隊長ご自身の責任ではないですか?」

 

 軽口の応酬をしながら、いつもの癖で部下の様子を観察する。

 普段通りの表情、仕草、声色。

 平子の視線が、ふとその目へと吸い寄せられる。

 

 レンズ越しに見える、深い鳶色。

 柔らかで、それでいて油断なくすべてを見透かしているかのような、思慮深さを湛えた眼差し。

 だが、感情はなにも読めない。

 さらにその奥を覗いて────

 

 

 

 ────隊長、初めて僕を見てくれましたね。

 

 

 

「………ッ!」

 

 目を閉じる。

 視界と思考を同時にシャットアウトした。

 

 目を開けると、再び部下と目が合う。

 いつもの穏やかな、よく見知った色。

 

「……どうされました?」

「……いや、なんでもあらへん。はよ手伝ってや」

「全く、仕様がないですね」

 

 藍染惣右介が椅子を引く音が静かに響き、いつもの所作で机に向かう。

 平子はそれを見送るように視線を流し、ふっと頬杖をついた。

 

 人格、能力共に優れた、優秀で完璧な男。

 

 それがもし偽りなのだとしたら────誰にも頼らず、誰にも踏み込まれることなく、人々の理想を演じ続けているのだとしたら。

 ……本当の彼は、一体どこにいるのだろう。

 

 その“完璧さ”自体が────誰にも頼る必要のない、心を開けないということこそが、彼の“弱さ”なのだとしたら────

 

 

 ───惣右介。オマエは俺に、ずっと気付いて欲しかったんか?

 

 

 凛と背筋を伸ばし、誰が見ても美しい姿勢で業務に取り掛かり始めた部下達を尻目に、平子は肩を回しながら気怠げに再び筆を手に取る。

 さっきの───

 

 

 あの瞳の残像が、今も心に残っていた。

 

 

 暖かさの奥で静かに燃える冷たい炎。

 強靭な意志。

 

 

 それを目にした時、確かに彼の本心が聞こえた気がした。

 

 






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