「流石です───いつから、お気づきに?」
闇夜を背負い、三日月に照らされたその姿を見て、平子は震える声で言い放った。
「藍……染……!!」
だが口から出たのは、いつもの親しみを込めた呼称ではなく、突き放すような響きを持つ名前だった。
いつから気付いていたか──そんなもの、初めからに決まっている。
「オマエが母ちゃんの子宮ン中おる時からや……ッ!」
地に膝をつく平子を、藍染惣右介は静かに見下ろしていた。月光がレンズに反射して、瞳の色は読み取れない。
「成程。…………でも、気付かなかったでしょう?────貴方の後ろを歩いていたのが、僕でなかったことには」
平子の目が見開かれる。別人にすり替わっていた──と、いうことはつまり。
「完全催眠か……!!」
「その通りです」
────迂闊やった。
鏡花水月の完全催眠。裏切りの過程でその能力を使うのは、当然の帰結。
地についた手を強く握る。
掻くように力を込めた指先に砂が食い込み、爪の間がチクリと痛んだ。
彼の能力を知っていながら、それでも気づけなかった。十分な警戒が足りていなかったのだと、平子は奥歯を噛みしめる。
「あなたが今そこに倒れているのは、あなたが僕のことを何も知らないでいてくれたお陰なんですよ、平子隊長」
藍染惣右介が冷たい笑みを浮かべる。
いつもの穏やかで理知的な副官の顔はそこになく、ただ冷ややかで重苦しい気配だけがそこにあった。
「あなたが普段──他の隊長が副官に対するそれと同じように僕に接していたなら、或いは見抜くことができたかも知れない」
普段優しげなはずの目元が、微かに細められる。
その瞳は、全てを知りながらも踏み込めなかった平子の弱さを静かに責めているように感じられた。
「────だが、貴方はそうしなかった」
「俺は……ッ! クソッ……!!!」
喉奥から絞り出すように呻き、奥歯を噛み締める。ギリ、と軋む音が骨の内側から聞こえた。
──全部、俺のせいや。
そう思った。
わかっていたはずなのに、何もできなかった。
自責と悔恨が胸の奥に淀のように積もり、全身を巡って体の隅々まで重く軋ませていく。
冷たい夜風が、二人の間を吹き抜けた。
かつて部下だった者が、刀を振り上げる。その刀身は淡く照らす月光を浴び、妖しく艶めいた光を放っていた。
その刀身から、目が離せない。まるで美しさに囚われるように、平子の体は動かなかった。
「さようなら」
冷たく突き放すようなその一言に、胸が締め付けられた。
自分がもっと、彼のことをわかっていれば───
だがもう、全ては遅かった。
「く……そ……おおオオオオオオオッ!!!」
怒りか、憎悪か、悔恨か。
自分でもわからないほどの感情をその叫びに込めて───目が覚めた。
*
「ハァッ……ハァッ……ハァ……」
勢いよく上体を起し、捲り上がった布団を握りしめる。
自室は驚くほど静かで、自らの息遣いだけがやけに大きく響いていた。
心臓が激しく脈打つ。寝巻きに張りつく寝汗が不快でたまらない。
平子は額に手を当て、息を整えると、大きく一度、息を吐いた。
──最悪な夢。最悪な目覚め。
悪夢の余韻が、平子の胸にざらついた何かを残していた。あの時の激情が、まるで燃え残った火種のようにじくじくと燻る。
ここ最近、部下のことばかり考えて行動していたせいか、ついに夢の中にまで現れた。それも、最悪な形で。
再び眠る気にはなれなかった。気を紛らわせる何かを考える。
まずは──この汗を流そう。
そう思い、平子は風呂場へと向かった。
*
公衆浴場。
各隊舎に設けられたそこは、隊士達が疲れを癒す、束の間の憩いの場だ。
夜もすっかり更けた今、人気はない。灯りの揺れる静かな空間に、ただ平子の影だけが長く伸びている。
寝巻きを脱ぎ、洗い場でざっと汗を流す。髪を軽くタオルでまとめると、平子は屋外へと足を運んだ。
外に出た先には、夜気に包まれた露天風呂がある。夜風の冷たさに身を竦めながら、湯気が立ちのぼる湯船の奥へと向かった。
露天風呂には、一人先約がいた。
見慣れない男だ。
前髪を後ろへ流した、身丈夫。
がっしりとした体躯に、しなやかな線。
湯煙の中、目を閉じ静かに湯に佇むその姿は、まるで一枚の絵画のように映った。
「……見ん顔やな。あんなん、
首を傾げながらも、特段気に留めることなく男から少し距離をとって平子は湯に体を沈めた。
湯の熱がじわりと体に沁みる。夢の余韻でこわばっていた肩が、少しずつほどけていくようだった。
たまには、こうして静かに湯に浸かる夜も悪くない。
夜空を見上げれば、先ほど夢で見た三日月ではなく、今宵は満月だ。ふと、安堵の息がこぼれる。
──そのとき。
「隊長、珍しいですね……こんな時間に」
聞きなれた低音が、不意に耳をくすぐった。
「ん? 惣右介か? ……どこにおるん?」
周囲を見渡すが、声の主は見当たらない。
湯気の向こう、あるいは岩陰か。そんなことを思いながら辺りを探していると──
「何を探されているのですか?」
──真正面。
声のした方向には、さっきの美丈夫が座っていた。
「ン? オマエ……誰やねん」
胡乱な目で見つめると、男は苦笑を浮かべながら答える。
「誰って……藍染惣右介ですが」
そこにいたのは──眼鏡を外し、濡れた前髪を無造作にかき上げた姿の部下。
藍染惣右介、その人だった。
「……ハァ?」
あまりにも普段と異なる姿に、平子は思わず動きを止める。
レンズを通さない、存外に鋭利な双眸が、じっと平子を見つめていた。
「どうされました?」
「……なんやオマエ、えらい印象変わるな。ホンマに惣右介か?」
「そう言われましても。僕は僕としか言いようがないんですが」
平子は湯をかき分けて近づき、まじまじと観察する。
その視線に辟易したように、藍染惣右介は眉を寄せた。
「……なんですか」
「いや、オマエ……あの冴えへん眼鏡はどうしたんや」
「……隊長、僕のことをそんな風に──」
言い終わらぬうちに、平子はざぶりと手に湯をすくって、部下の頭からかけた。
濡れた前髪が額に張り付き、その隙間から切れ長の瞳がじろりと平子を見つめる。
「……なにするんですか」
その非難をあっさり無視して、平子は再びその顔をじっと見つめる。その中に、ようやく、いつもの部下の輪郭を見出した。
「なんや……ほんまに惣右介なんか」
「だから、さっきからそう言っているでしょう」
水滴の滴る前髪を鬱陶しそうにかき上げながら、部下は不満げに視線を逸らす。
よくよく見れば、霊圧も部下のものと同一だ。見慣れぬ容姿に惑わされたが、確かに彼は彼である。
平子は強引に自分を納得させると、空気を変えるように話題を切り出した。
「ほんで、惣右介。オマエ随分と夜更かしやんな」
「僕はいつもこの時間なんです。誰も居なくて良いんですよね」
「誰もおらんのがええんやったら、朝早ぅに来たらええやん。こんな時間まで起きとったら、寝不足さんになってまうやろ」
平子のその問いかけに、藍染惣右介はふと夜空を仰ぎ、柔らかく目を細める。
「……夜の方が落ち着くんです。
昼間の営みも喧騒も、全てが遠ざかって、自分という存在だけが、はっきりと浮かび上がるようで。
……それが、良いんです」
その横顔は、月を通して別の何かを覗き見ているようにも見えた。
「それに時々、思うんです。真実は時に、闇の中にこそ潜む。であるならば、夜こそが世界の本当の姿なのかもしれない、と」
「なんや、随分と叙情的なことを言うやんけ」
「……そうでしょうか」
どこか淡々と語る口調に、平子はわずかに目を細めた。
こんな時間だからか。
いつもと違う容姿のせいか。
だからだろうか。
今なら、本当の藍染惣右介を知ることができるのではないか。
彼と腹を割って話せるのではないか。
そんな気がした。
「誰しもが、少なからず嘘をつき、欺瞞を生み、欺瞞の中で生きている。そんな中で息をするのは疲れる。……そうは思いませんか?」
「しゃーないやろ。真実と向き合えるほど、人は強ぅできとらん。……俺もそうやしな」
「……意外です。貴方は、強い人だ。真実から目を背けるような弱者とは違うはず」
「俺かて、目ぇ背けたなることくらいあるわ。……ただ丁度な、それももう、終わりにしよう思うとったとこや」
そっと目を瞑ると、瞼の裏に夢で見た藍染惣右介の姿が浮かんだ。あの冷淡で、恐ろしい声が平子を再び咎める。
あなたが普段、他の隊長が副官に対するそれと同じように僕に接していたなら────
平子は小さく唾を飲み込むと、その幻想を振り払うように、力強く目を開いた。
「なあ、惣右介。オマエ……なんで俺が距離取っとるかわかるか?」
「……それは、どういう意味でしょうか」
「そのまんまや。オマエ、気づいとるやろ。俺が、オマエら兄妹に対して抱いとる、疑念と……警戒心に」
不意に、空気が変わった。
濃密で、張り詰めた気配が、その場を満たしていく。
いつもの穏やかで柔和な部下の表情から、笑みがすっと消えた。冷静な双眸が、まっすぐに平子を見据える。
平子はその視線から目を逸らすことなく、じっと見つめ返した。やがて、その視線を遮るように、そっと瞼が伏せられる。
「……成程」
再び開かれた双眸が、何かを見定めるかのように平子を射抜く。その鋭利な瞳の奥で、何かが揺らめいた。
「今まで決して立ち入ろうとしなかったあなたが、一体どういう風の吹き回しでしょうか」
「今でも迷ってるんや。信じるべきか、そうでないんか」
藍染惣右介は静かに平子の言葉に耳を傾けている。返事も促さず、ただじっと聞くその姿勢は、平子を試すようにも感じられた。
「せやから俺は──オマエの腹ん中が知りたいんや」
その一言を最後に、短い沈黙が降りる。
周囲には湯の音すら聞こえず、平子の心音だけがやけに大きく響いていた。
変わらず、鳶色の瞳は平子を写し続ける。
平子の迷いも、弱さも、恐れも──そのすべてが、この男には見抜かれている。そう感じさせるような眼差しだった。
やがて、藍染惣右介は目を伏せ、ふっと短く息を吐く。瞬間、纏う雰囲気がガラリと変わった。
その表情は普段、隊士たちに見せる穏やかで優しいそれと寸分違わぬものだった。
「……困りましたね。僕のような
まるで、とぼけてごまかすかのような態度。
それは答えることへの拒絶というよりかは、距離を測りかねているように平子には思えた。
だから、あえて挑発するように言葉を重ねる。
「はぐらかしたかてアカンで。なんや、見られたないモンでも隠しとるんか? それとも、知られるのが怖いんか? ……案外、弱虫さんやなあ、惣右介?」
その一言に、藍染惣右介の眉がピクリと動く。
「いいえ。僕はただ、隊長がわざわざ知る価値などないと言っているだけです」
「なんや、随分と自分を過小評価するんやな?
……せやけど、それは俺が決めることや。そんなん、見てみんとわからんやろ」
「……そうですか」
ふっと息を吐くと、その鳶色の瞳が細められる。
「では、例えば──僕は日々、陰で暗躍し、護廷を裏切る奸計を練っている。……そうとでも言えば、隊長は満足ですか?」
口角だけが僅かに吊り上げ、どこかムッとした気配を滲ませながら、開き直ったように口にするその言葉。冗談めいた口調ではあるが、そこには明らかに“これ以上は立ち入るな”という拒絶の意図が含まれていた。
どこか踏み込んでくる者を求めているように見えるくせに、いざ近づかれると距離を取る。
そんな彼の態度の煮え切らなさに、平子は急に、これ以上腹芸を続けるのが馬鹿らしくなり、真正面から切り込んだ。
「あーもう、まどろっこしい! ごちゃごちゃ抜かすなや! 俺が勇気出して話しとんのに、オマエはうだうだうだうだ言いおって……こんのへそ曲がり!!!」
感じていた歯痒さのせいか、つい語気が強くなってしまう。
「ええか、オマエが何を考えとろうが、裏切るつもりやろうが忠義を尽くすつもりやろが、そないなことはどうでもええねん! 別に俺に隠し事があったってええ。……問題なのは、俺になあんも話さへんで黙っとることや!!!」
その剣幕に、瞳をわずかに見開き、珍しく言葉を失う部下の姿を見て、平子は少しだけ冷静さを取り戻した。
思えば、ひよ里なんかに怒鳴ることはあっても、コイツに声を荒げるんは初めてやったかもしれへんな──。
「オマエが考えた末に、俺に話す必要がないと判断したっちゅうなら、それでええ。……ただ──オマエにとって俺は、何も話すに値せん、そない頼りない上司に見えるんか?」
平子の真摯な問いかけに、藍染はそっと視線を逸らした。
その瞳が僅かに揺れて見える。
沈黙が流れ、湯の音だけが静かに響く中──
やがて、藍染惣右介は静かに息を吐き、観念したように口を開いた。
「……いえ。隊長、あなたは鋭い人です。
あなたはいつも適当なフリをしながら、誰よりも冷静に周りを見ている。
力に頼らずとも、周囲を惹きつけ、率いていける器があなたにはある。
──その姿が、実に理想的だったからです。
だから、僕はあなたの副官になることを受け入れた」
その語り口には、どこか過去の記憶を掘り起こすような静けさがあった。
平子は口を挟まず、黙って彼の言葉に耳を傾け続ける。
「隊長は、音楽をよく聴かれますよね」
唐突な問いに、平子は少しだけ眉を上げた。
「ん? せやな。好きやで、わりと」
実際、レコード収集が趣味の一つだ。最近は現世で流行り出したジャズに傾倒している。軽快でいて、気怠く、自由な音。そんなものに惹かれていた。
「音楽とは、秩序です。音と音が緻密に配置され、定められた楽譜に従って初めて、美しさを成す。……しかし、もしその楽譜が──初めから誤って記されていたとしたら?」
静かに、淡々と、教え諭すように言葉が紡がれる。
「人々は、その間違いに気付かず、当然のようにその旋律を奏で、耳を傾け、心を満たす。
でも、その音楽は、どこかおかしい。……歪んでいて、醜い。
そう“気付いてしまった者”には、もはやそれは美しい調べではなくなる」
次第に、その声色が変わっていくような気がした。高さも、大きさも、言葉遣いも何一つ変わっていない。それなのに、乾いた激情のようなものを言葉の節々から感じる。
「隊長なら、どうしますか?
知らぬふりをして、その不協和音の中で平穏を享受しますか。
それとも──安寧を壊してでも、その旋律を正そうとしますか」
強い意志の宿る双眸が、平子をまっすぐに射抜いた。
「……僕には、耐え難いんです。歪みに目を背けたまま安寧に浸るなどできない。気付いてしまった以上──正さねばならない。そう思ってしまうんです。……では、どうするのか」
強靭な意志の奥に、微かな迷いのようなものがあるのを平子は見た。
「いかなる理想も信念も、それだけでは成し得ることはできない。それはただの独善だ。
──だからこそ、理想を示し、導く存在が必要なんです。でもそのためには、信頼や共感といった、不合理なものを受け入れなければならない。
けれどそれらは──どうにも、僕には理解し難い概念なんです」
それは、どこまでも静かで、どこまでも真っ直ぐな語りだった。
なるほど。平子は得心した。彼にとって、世界とは理の積層にすぎず、感情も正義も、整合性を欠くならば彼にはただの歪みにしか映らないのだろう。
どこまでも真面目で純粋。理にそぐわぬものに耐えられない。それが、この男の本質なのかもしれない。
……そう、まるで譜面通りでなければ音楽と呼べないかのように。
自由な演奏、即興の重なり合い、他者との呼吸のやり取り。ジャズは、そんな“人と人との対話”の音楽だ。
だからこそ、彼はあれを「よくわからない」と言ったのかもしれない。
平子は、そう思いながらふっと息を吐いた。
「……なあ、惣右介」
一呼吸置いて、平子は言葉を紡ぐ。
「オマエは何でも自分一人で出来てまうからアカンねん。今まで、全部自分で背負い込んできたんやろ?」
そのとき、藍染の目がふっと昏く沈んだように見えた。
優秀すぎんのも、考えもんやなあ。平子は思う。完全を望み、実現しようと踠く。通常不可能なはずであっても、この男の持つ力がそれを可能にしてしまう。
平子はわざとらしく息を吐くと、重くのしかかる空気を弾き飛ばすように、努めて明るい調子で語りかけた。
「誰も信じひん奴は、誰からも信じられへん。……オマエ、今まで誰も信じたことなんてあらへんのやろ。妹でさえも、あれば信用っちゅうよりかは、ただ互いに疑う余地がないだけに見えるわ」
そして、一度ゆっくりと深呼吸してから、改めて口を開いた。
「難しいんなら、まずは俺で練習してみぃ」
「……練習、ですか」
僅かに眉を動かした部下を前に、平子はニヤリと笑って言った。
「ほんで俺は……オマエを信じるで、惣右介。オマエがなんと言おうとな」
その言葉に、藍染の瞳がかすかに揺れる。
伏せられた視線の奥で、何かが波紋のように揺れていた。
「でも……僕のことなど信じない方が良いですよ、隊長。常に一定以上の距離を保ち、心を開かず、情報を与えず──そっちのほうが、あなたらしい」
「アホ」
平子がピシャリと言い放つ。
「なにへそ曲げとるんや」
「……別に」
そんなことないですよ。
そう言いながらも、藍染惣右介は平子から目を逸らし、波打つ水面に視線を落とした。
「僕は……信じるという言葉が嫌いです。それは頼るということと同義だ。自ら思考し、進むことを放棄した、無責任な言葉だと僕は思います」
全く、どこまでも真面目で偏屈な男だ。平子は改めてそう感じ、小さく笑った。
「せやな。そういう一面があるんも確かや。
……でもな、惣右介。“信じる”っちゅうんは、相手とちゃんと向き合う覚悟を持つことでもあるんや。
信じたヤツが、間違うかもしれへん。裏切るかもしれへん。……でも、それでも最後まで目ぇ逸らさんと向き合う。
それが出来るんは、強さや。
“信じる”っちゅうんはな、弱さの証でも逃げでもあらへん。ほんまの強さやと俺は思うで」
藍染惣右介は黙ってその言葉を聞いていた。噛み締めるように、咀嚼するように。
平子は、その沈黙の中に、彼が自分の言葉を否定していないことを確かに感じた。
「せやから、別に俺の前ではええ子ちゃんぶんないでええねんで」
「……ええ子ちゃん、とはなんでしょうか」
「そういうとこやで。……もっと思ったまま喋ってみぃ」
平子が空を仰ぐと、今夜も月は静かに照っていた。水面に映るその光が、ゆらゆらと揺れている。
その隣で、水面に映った藍染惣右介が静かに目を閉じる。
「…………そうですか。では────」
藍染惣右介の纏う霊圧が、普段の泰然としたものから、重く、鋭いものへと変わっていく。
再び開かれたその目には、普段の柔らかな色はなかった。研ぎ澄まされた強い意志を帯びた瞳に、平子は一瞬だけ息を呑む。
「確かに、僕はこれまで、誰かに歩み寄るという行為をしてきませんでした。必要性を理解しながらも、それを選ばなかった。……あるいは、選べなかったのかもしれない」
言葉を選ぶように、少しずつ丁寧に語りながら、彼は視線を逸らさずに続けた。
「……認めよう。それが僕──私の僅かな隙であり、私という存在の限界なのだろう。
だが──気づいてしまった以上、それを放置するほど愚かではないつもりだ」
瞳の輝きが強さを増す。
「君の言葉を借りるなら、向き合う覚悟が必要なのだろう。……君の言葉を“試してみる”価値は、あるのかもしれない」
そこまで語ると、最後に藍染はふ、と微笑みを浮かべた。
「そうだね。君の言う通り、まずは、君と向き合うところから始めようか、平子隊長」
水面に映るのは、普段の穏やかな副官ではない。
そこにあるのは、不敵で、揺るぎない自信と理知を湛えた、絶対的な存在感を放つ男の姿。
ゆっくりと視線を上げて、その本来の姿を見つめる。
そこにいるのは、真面目で、実直で、人より少し意志が強い、一人の男。
鏡像でも虚像でもない、飾り気のない“等身大”の藍染惣右介。
「なんや、それがオマエの素か?」
やれば出来るやんけ。そう内心呟き、平子はカラリと笑った。
「……さあ、どうだろうね」
「そっちの方が、ええやん。いつもの優しい副隊長さんより、よっぽど信用できるで」
「……そう言うのはきっと、君くらいだろう。大半の者は自分より優れた者を見つけたら、そこへ都合の良い理想を投影し、縋り、依存するものだ」
そう言った藍染惣右介の素顔は、どこまでも凪いで見えた。
平子はため息まじりに、ぽつりと呟く。
「……難儀やなあ」
まるでどこまでも澄んだ水みたいやな、と平子は思った。
形を持たず、掴めず、揺らぐことのない純水。
その清すぎる水の表面は、鏡面のように静かに、ただ覗くものの姿を写す。水底は決して見えない。
飛び込む覚悟を持つものだけが、その深さを知ることができる。
生まれながらの強者である彼は、望まずとも理想を投影され、その期待に応えてしまえるほどの器を持っていた。だからこそ、理想の仮面を纏い、そうして欺瞞の中を生きてきたのだろう。
誰にも、本当の姿を見せずに。
ただひとり、妹を除いて。
────“憧れは、理解から最も遠い感情だ”
「……皆の知る藍染惣右介なんて、最初からおらんかったんかもしれへんな」
そう平子が呟くと、藍染惣右介はゆっくりと首を横に振った。
「いいや。そもそも、“本当の自分”などというものが存在するという認識そのものが誤りなのだ。
そんなものは初めから存在しない。
……ただ、在るべき姿を思い描き、それに近づこうと足掻く。その過程こそが本質だろう」
「まぁ、せやろな。せやけど、それでもな……誰も自分を見とらんっちゅうのは、やっぱり虚しいもんやろ」
その言葉に、藍染の瞳がかすかに揺れた。
たとえ理屈では理解していても、感情までは割り切れない。それが人というものだ。だが、彼はその割り切れなささえも切り捨てて生きてきたのだろう。
「惣右介。オマエが間違った道に行かんよう、俺がちゃんと見といたる。せやから、オマエはオマエのやりたいようにやったらええ」
「……君は本当に、それだけで良いのか?
それでは、気付かれないように何か企むかもしれないだろう」
藍染惣右介がスッと目を細め、静かに笑みを浮かべたその瞬間、挑発するような、或いは試すような圧が、じわりと平子の全身を包み込んだ。
重さと密度を増した霊圧に、無意識に体は強張り、肌がヒリつく。
だが、平子は顔色一つ変えない。
気持ちは汲んでも、顔色までは窺わない。それが平子の流儀だ。
誰が相手でも、何を向けられても、自分の信じたやり方で進む──そう決めている。
だからこそ、その重圧の中でさえ、呆れたように肩をすくめ、軽口混じりに言い放った。
「そうなったら、気付けんかった俺の落ち度や。そん時は俺が責任持ってオマエを引きずり戻したる。
……ま、そうならんように、じっくり見とるさかい──覚悟しとき」
刹那、平子を包んでいた威圧感がスッと消え去る。重圧から解き放たれた平子は、ほっと小さく息を吐いた。
藍染惣右介は何も言わず、ただ平子を見つめている。表情こそ変わらぬままではあるが、目だけは今、穏やかな色をしていた。普段見せる副官としてのそれとは違う、深い深い色。
「……やっぱり、隊長は怖い人ですね」
「それはこっちのセリフや。……脅かすような真似しおって。なんちゅう霊圧しおるんや自分」
そう吐き捨てながら、平子は肩を軽く回した。
そんな平子を眺めながら藍染惣右介はどこか満足げに笑みを浮かべる。それは、普段副官として浮かべる、人を安心させる微笑み。
その姿を見て、平子はなぜか青筋を立てた。──なに、カマトトぶっとるんや。
「なんや、そのわざとらしいツラは。……さぶいぼ立ったわ」
「酷いですね。……昔、妹にも同じようなことを言われました」
「そら、そうなるやろ」
「……そんなに不自然でしたか? 割と評判は良いのですがね」
「ほんま、こないわざとらしいので持て囃されるんやったら、俺も営業スマイルでも振り撒いたろうかな。オマエも役者でも目指したらええんとちゃう?」
「それは面白い提案ですね。では、僕が舞台に立つ時は、ぜひ観客席の最前列で見守ってください」
「しゃーないな、そん時は見に行ったるわ」
「……ただ一つ問題があって。僕、感情表現が苦手なんですよ」
「秒で夢破れとるやんけ」
ずっと湯に浸かっていたせいで、身体の芯まで温まり、手先はほのかに赤く色付いていた。平子は湯船の縁に手をかけ、大きく背を伸ばすと、一つ大きなあくびを洩らす。
「あー、なんや。久々に随分長湯してもうたなあ。……のぼせそうやさかい、俺は先に失礼するわ。オマエも、早ぅ出て寝ろよ」
「……はい。隊長こそ、寝坊しないでくださいね」
「オマエは俺のオカンか。……ほなな。おやすみ」
「おやすみなさい。……今日は、良い夜でしたね」
軽く手を振って風呂を後にする平子の背を、藍染惣右介は静かに見送っていた。
浴場から出ると、薄明の空が平子を迎えた。
さっきまで闇夜にくっきりと浮かんでいた月が、東の白んだ空に溶け、今はどこか柔らかく光って見えた。
そんな月を眺めながら、朝の訪れを背に、平子は歩き出す。
空を撫でるように吹いた夜風の冷たさが、今は心地よかった。
*
朝。
このまま眠ってしまえばもう起きられないと悟った平子は、あれから結局一睡もすることなく朝日を迎えた。
たまには早くに勤めに出るかと、強い眠気を噛み殺しながら支度を済ませ、隊首室へ向かう。
まだ誰も来ていないだろうと思っていたが、扉を開けた先にあったのは──既に机に向かう部下の姿だった。
朝日を浴びた副官の横顔は、どこまでも穏やかで、まるで昨夜の出来事など存在しなかったかのように映る。
彼は平子の存在に気付くと、ゆっくりと顔を上げた。
「お早うございます」
珍しく早いですね。そう言って穏やかに微笑むその姿に、平子はふと、眉をわずかに動かす。その完璧な微笑が作られたものであると、今の平子にはわかっていた。
そんな視線に気付いたからか、副官の仮面を脱いだ、不敵な表情が一瞬だけ顔を覗かせる。
それに舌を出して茶化しながらも、内心では確かな安堵があった。
あの夜の出来事は幻ではなかったのだと、ようやく確信を得られたような気がした。
そして何事もなかったかのように、短く返事をする。
「おー、おはよ。オマエもな」
隊首室の中を進み、部下の前を通ると、珍しく朱筆を走らせているのが見えた。
「こんな早うからなにやっとるんや」
「霊術院の小試験の採点です。今、教師陣が繁忙期らしくて。一部をこちらで引き受けることになりまして」
「向こうでも大活躍とは流石、オレの優秀な部下やな」
「褒めてもダメですよ。はやく仕事してください」
来たばかりで働く気など起きぬ平子は、当然のように無視して近くに腰を落とすと、すでに採点済みらしい用紙のひとつを手に取って問題文に目を走らせた。
「“負傷者がいる時に虚と遭遇した際の正しいと思う行動を答えよ”……なんや、採点に難儀しそうな問題やな」
「模範的な答えとしては、“救援を呼び、負傷者を守りながら一時退避”でしょうか。もちろんこれはあくまで指針で、生徒の考え方を見るための設問ですから、必ずしも正解は一つではありませんが」
部下は整った筆致で、簡潔に評価を書き記していく。
正しいと判断されたものには「可」や「善」。
改善が必要とされた答えには「不可」、「誤」、「再考」。
そして最後には「甲」「乙」「丙」といった等級を加えて、総合評価を下す。
──負傷者を抱えたまま退避し、救援を呼ぶ
──「可」
──討伐を優先し、味方を犠牲にする覚悟を示す
──「再考」
朱墨で添えられる。
“護廷として命を賭さねばならない時は確かにあるが、味方の命を軽んじるべきではない”
「えらい厳しいな」
「『戦いに美学を求めるな 死に美徳を求めるな 己一人の命と思うな 護るべきものを護りたければ 倒すべき敵は背中から切れ』──霊術院で始めに教わる教義です。
まずはそこに立ち返ってもらうための出題ですからね」
「懐かしいなあ。そんな教えもあったわ」
霊術院時代のあれこれを思い出しながら、今まさに採点中の用紙に目線を向ける。
そこには、丸みを帯びた字でこう回答が書かれていた。
──“怪我人を抱えて逃げる。そして、いつか必ずその虚を、殺す”
力強い意思が滲んだ回答。
だが、その用紙にはしっかりと「再考」の印とともに、丁寧な一文が添えられていた。
──“周囲を頼る選択肢も、時には必要”
「なんや、こっちのは随分と覚悟の決まった回答やな」
「彼、かなりの優等生らしくて。飛び級での卒業が検討されているそうですよ。それも、希望配属先は五番隊なんだとか」
「ホンマかぁ!? まさかオレの活躍が霊術院にまで広まっとるとわなあ」
「ははは、面白い冗談ですね」
「おい、顔が笑っとらんぞ」
ふと気になって、平子はその答案の記名欄に視線を落とす。
そこには、こう記されていた。
───────市丸ギン
ゆっくりと、その名を反芻する。
胸の奥に、何かが引っかかった。
「なあ惣右介。オマエ、この子ンこと、どのくらい知っとるんや?」
問いかけに対し、藍染惣右介は手を止めることなく、淡々と応じた。
「ほとんど知りません。授業を受け持ったこともありませんから、顔と名前を知っている程度です」
「……なるほどな」
その泰然とした物言いに、平子は微かな違和感を覚える。それは半ば勘に近いが、どこか確信めいた感触があった。
「嘘……は言っとらんみたいやな。でも、なんか隠しとるやろ」
部下が手を止め、顔を上げる。
追及されても動揺はなく、むしろ“流石です”とでも言いたげな、楽しげな目をしていた。
平子はそのふてぶてしさに、呆れたようにため息をつく。
「実は……一度だけ、廊下ですれ違ったことがあって。ちょうどその時、声をかけられたんです」
藍染惣右介は好奇心を隠そうともせず、瞳をわずかに輝かせて続けた。
「ただ一言、僕に会いに来た、と」
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