mujica編の睦もよく分からん……。
若葉睦なんもわからん……。
あ、今週二本更新です。
連休明けの水曜日。連休明けというのはどうにも身体が重くて授業の内容がほとんど頭に入ってこなかった。ノートだけはとっているが、どれほど使い物になるのか皆目検討もつかない。
いや、本当のところは親父の言葉をずっと引きずって考え込んでいるから頭に入ってこないだけだろう。今日の視線はこころなしか下を向いている。無意識に数年間まとっていた心の
「そういえば、空は提携プロジェクトどうするんだ?」
「提携プロジェクト……?」
平静と異なる俺の様子を心配してくれたのか、いつもの食堂で
「そ。うちの大学でやってるアレだよ」
「……あぁ、女子校と提携してやってるって話の」
「そう、しかも相手は月ノ森女子学園だぞ」
「月ノ森……?」
「世間知らずのお嬢様ばっかりのところだよ!」
「別に世間知らずと決まったわけでもないだろ」
月ノ森ってどこだっけ、というわけではなく、提携先のなかに月ノ森があったのかという驚きだ。睦が通っているのだから、場所も含めてある程度は調べてあるが、まさか自分が通っている学校と関係があるとは思っていなかった。
「この学校に通ってる男なのにアンテナ張ってないのか?」
「それ目当てに大学選ぶわけないだろ」
異常者を見るような視線を送る宏樹を小突いて黙らせる。提携先のなかに目当ての企業があるならともかく、話題に出されているのは女子高、それも本来は縁のないくらい高い偏差値と校風の学校だ。
女子校というのはまぁ、気にはなるが。
「宏樹は?」
「女子校なら行けると嬉しいよな」
「……理由は?」
「だって生足見放題だろ。なら男としては女子校行くしかない」
あまりに俗な理由にため息が出る。こいつはいつもそうだ。
「見られてるの気付かれるってよく言うけどな」
「奴らが気付いてるのなんて俺の情欲の一割だよ」
「一回殴られてしまえ」
こんなのが教員課程とかやって大丈夫なんだろうか、不安に思いながらも社会性ペルソナ──自分の本来の性格に関係なく、環境に求められた役割や立ち振舞いを演じること──が出来る人間だと思い出す。本人曰く、友人の前以外でははっちゃけないようだから気にしないことにした。
「まぁ、実は交渉の段階に入ってるんだけどな」
「なんか問題でもあるのか?」
「いやー、流石に無理筋だと思いながら交渉してるからさぁ」
「ほーん……」
このふざけた態度とは裏腹に、宏樹は授業態度も成績も悪くない。一般的な大学とは少し違う評価基準の弊学、
文科省が発行する大学の指導要綱にある通り、一欠席につき点数が引かれていくらしく、欠席がちな生徒からは悲鳴ばかりが聞こえるのはテスト前の恒例行事だ。
「……あ、それで思い出した。姫ちゃん教授からお呼びがかかってるぞ」
「なんで?」
この大学は三年次から緩やかな進行速度ではあるものの研究室に入ることが義務付けられている。姫ちゃんというのは研究室の教授だろう。
「俺にも分からん。ただ、用があるとかなんとか言ってたな」
「また曖昧な……」
伝言を預かったときに目的も聞いておいてほしかった気持ちを抑えて一つ頷く。
「とりあえず了解。いつ行けばいい?」
「今日、このあと」
「おめーはよ、どうしてよぅ、大切なことを忘れてんだ?」
「掴みかかるな飯が冷めちまう!」
今回ばかりは堪忍袋の緒が切れた。いつもより長めに取っ組み合いをしてヤツの飯を冷まさせることにした。
教授を怒らせるようなことはしていないはずなのだが、なんなんだろう。
この大学は講義室と研究室で大きな距離が開いている。他の大学なら利便性だとか、追加増築していった結果だとか、様々な理由があるだろう。でも、この大学はそうじゃない。
この場合は悪名高いというべきだろうか、よく分からない。
どの部屋なのか扉の見分けがつかない長い廊下。カーペットを鳴らす心地よい靴の音。無理くりテクスチャを貼り付けられたような統一感が微妙にない内装から目的の部屋の前に辿り着いてノックを何度かする──反応なし。
「失礼しますよ、教授」
研究室の扉を開くと、そこには机に突っ伏して死んでいる教授の姿があった。威厳の欠片もない大学教授殿の肩をとんとん、と叩く。
「……なにしてるんですか、姫ちゃん」
「誰がヒメちゃんだ!」
くわぁっ! 効果音でも付きそうなほど勢いよく立ち上がって睨みつけられる。
舌っ足らずな滑舌と、ゴスロリファッション、そして名前の姫路からとって姫ちゃん。
彼女は新入生ガイダンスを担当しており、このゴスロリ教授を見て思うのだ。
「おまえ今失礼なこと考えてただろう。ん?」
心のうちを本当に読み取ってきそうな理知的な瞳には恐ろしさが宿る。三十路手前とはおおよそ思えないくらい髪と肌に潤いがある。性格と服装とキツめのツリ目が悪さしなければ順当に結婚できそうな人間だが、残念ながら独身だ。
凄んだような表情とキツい性格ででせっかくの美人が台無しになりがちだが、入学してきた学生の心を掴んでしまうこともあるらしい。通称彩花の交通事故。もっとも、本人からすれば精神年齢が同年代か少しうえくらいが好みらしく、大学生など相手にもならないようだとはアテになるか分からない本人談。
「……ドレスがシワになるので突っ伏しないほうがよろしいかと」
「おまえに言われるまでもない。ただちょっと、厄介なことになっててな」
「はぁ、そうですか」
ここに来たのは姫ちゃんの厄介事に付き合うためでも、この人に絡むためでもない。眉間の間をマッサージして疲れた様子を不憫に思っていると、唐突に出された話題に表情が凍りつく。
「それはそうとおまえ、今同棲してる相手がいるな?」
「どうしたんですか急に……」
「いいから答えろ」
睦のこと、だろうか。女性を誑し込むような心象を抱かれるような大学生活を送っているつもりもないし、そこは姫ちゃんも分かっているはずだ。それなのに、なぜこの話題が出るのだろう。
「……まぁ、入り浸ってるのが一人居ますね。残念ながら甘酸っぱい感じじゃないですが」
「そんなことはどうでもいい」
「どうでもいい!?」
自分で聞いてきたのに勝手だ、と呆れて表情を伺ってみると本当にどうでもいいのか考え込んだようにあごの下に手をやって品定めするような視線を向けられた。
どれだけ瞳を覗き込んでもなにを考えているのか分からないまま、深海が俺を映していた。
飲み込まれそうな瞳が、ずいっとこちらに近付いてくる。鼻腔をくすぐる薔薇のような芳香は彼女が大人であることを意識させた。喉を鳴らしそうになるのを懸命にこらえながら言葉を待っていると、少し離れてくれる。どうやらあれで睨めつけたつもりらしく、眉間にシワが寄っていた。
「目の前の男が女をひっ捕まえてると知って平静で居られると思うか?」
「お察しします」
「玉虫色の回答を期待しているように見えるか? ん?」
どうしろって言うんだよ。婚期を逃しそうになっている行き遅れ女とでも言えばいいのか。外見年齢的にも年齢的にも問題はないように思えるが、やはり女性にとって婚期は大切なのだろうか。
「年齢気にするほどですか?」
「口説くな若造。十年は早い」
「教授よりちょっと上じゃないですか」
「落ち着いた雰囲気の男が好みなんでな」
姫ちゃんの男の好みなんて正直どうだっていい。
「参考程度に、なんで分かったんですか?」
「それが今回の件と関わってくる。いいから一度座れ。長話になる」
「……コーヒーいります?」
「ミルクティーだ。ケトルの横にスティック粉末があるから使え」
食器棚に置いてあるマグカップを二つ手に取ってご所望の品をつくってから姫ちゃんが指さした席に腰掛ける。ふかふかとは縁遠いソファだが、不思議なことに居心地は悪くない。
それもそのはずで、散らかりがちなイメージのある研究室はきっちりと整理整頓されており、姫ちゃんの几帳面さが伺える。印象は感触でなく、空間が作るのだ。
「さて、私は博士号を持ったれっきとした大学の犬だ」
「まぁ、それは存じてますよ」
犬ってよりネコでしょ、とは口にしない。
大学教授の平均年齢はおおよそ50代らしいが、この大学の教員は軒並み年齢層が低い。実績さえ出せば招かれるらしいが、該当分野の賞であったり論文であったりをしっかりと積み重ねないといけない都合上、教育の質がいいと評判だ。
マグカップに淹れたミルクティーをなんの感慨もなく飲み干して、姫ちゃんは話を続ける。
「……ふぅ。私はお上から言伝を授かった。梔子、お前はほとんどの必修を終わらせているな?」
「はい、やることもありませんから」
「うちの大学は高校と連携していて、参加を推進していることは?」
「もちろん……」
先ほどの昼食で宏樹に言われるまで忘れていたが、ここは模範的大学生を演じる必要があった。裏まで見透かされたような視線を向ける姫ちゃんに顔が引きつりそうになりながら答えると、大きなため息を吐かれる。若造の魂胆はバレているらしい。
「……すみません、正直忘れてました」
「よろしい。おまえの行動に計画性があるとは思っていないから安心しろ」
「流石。よく分かってらっしゃいますね、姫ちゃ……」
「なにか言ったか?」
「……姫路教授」
人も殺せそうな凄んだ視線にあえなく屈する。
怖いよ、姫ちゃん。
「喜べウスノロ亀。おまえが参加することになったぞ」
「はぁ」
心なしか強くなった口調を指摘することもせず相槌を打つ。
一個人に対する指名とはどういう了見だろうか。姫ちゃんの瞳を覗き込んでも徹頭徹尾呆れの色が見えるばかりで読み取れることがない。
「我々
「一番繋がりが強いのは月ノ森女子学園だったような」
「その通りだ。いつもの無神経な頭とは思えないな、梔子」
「教えがいいもので」
ちなみに月ノ森女子学園と変人教授揃いの彩花学園の間に繋がりがあるのはクリエイター系のOGが当大学に通って卒業していくケースが見られることが関係ようで、OGと金のつながりがあるらしい。
「今年は希望者が居なくてなぁ。先方から刺激になるから一人よこせとのお達しだ」
「はぁ、宏樹に流せばいいじゃないですか」
「あいつは口先ばかりとはいえ女好きだろう。女子校に行かせるのは却下だ」
こればかりは残念ながら当然なので、宏樹に合掌するばかりだ。助ける気も特にない。好意のほうが扱いやすいのは事実だが、拒否するくせして門を閉じないようなハッキリしない態度を取り続けるあいつが悪い。
「ただ、私自身もおまえを行かせることには懐疑的だ」
「もしかして姫路教授、動揺してます?」
「ああ、見ての通り動揺している。そもそも特定個人に対して指定が入るのがおかしいんだ」
姫ちゃんの瞳には露骨な困惑が浮かんでいる。
「だいたいこれは理不尽な要求だからな。一度お断りを入れようとしたのだが……理事長に懇願されてな」
「懇願って、そんなことあるんですか?」
「普通はない。そもそも言ってしまえば飼い犬に頭を下げているわけだからな」
「そうですか、では俺はこのあたりで……」
俺は踵を返そうとする。
「なるほど。乗り気ではないな」
「当たり前でしょう。面倒な理由を懇切丁寧に説明されて行きたい人間はいません」
「そうかそうか、そんなお前にいいものをやろう」
「あー……えー……?」
あまり縁が無い資料にざっと目を通してため息を吐く。梔子空、俺の課題免除に関する異議申し立て書だ。
「……なるほど、拒否権なんてないと」
「私とて二つ返事で頷いたわけではないさ。過去の実績も踏まえての処置だと返答したのだが、指名してきた人間がたいそうお怒りでこれを送り付けてきた、というわけだ」
すまない、と言いたげな姫ちゃんに苦笑いする。板挟みにあって大変なのは自分だろうに。
「なら、3つほど確認しておきたいことがあります」
「私に答えられることであれば答えよう」
聞いておきたいと言った手前、なにかを聞いておいたほうがいいとは分かっているが、どの程度まで答えてくれるのだろう。答えてくれそうな質問を選別して話し始める。
「……同棲している相手が居る云々はどうして聞いたんですか?」
「確認事項だ。居たら面倒だろう?」
「……居るって答えましたが」
「入り浸ってると言った。ならある程度信頼関係も築けているのだろうし、家に居る理由もないだろう。そもそも拒否権がないのだからな。どうしようもない」
教職は地獄。よく聞くが実感することは少ない。なにせ教育実習すらこれからなのだ。先人である姫ちゃんが言うならそうだと思っておく。先人は敬うべきだ。
疲れ切ったように苦笑する姫ちゃんの顔をよく見てみると、瞳のしたに微かに不健康な青みが見える。あまり寝れていないのかもしれない。
「コンシーラーで隠してますけど目の下の隈酷いですもんね」
「うっさいあほ。女性の外見にケチ付けるとは、随分と尊大になったじゃないか。なんならきさまの欠点を羅列してやろうか?」
「すみません」
正直言うほど気にならないし、女性としての尊厳を守る程度に化粧をしている人間に対して言うことじゃなかった。素直に平謝りすると、ため息を吐きながら話を戻してくれる。脱線させてすみません。
「まぁ、そんなところだな。他は?」
「連携授業の内容は?」
「絵を描くことになる」
「絵を、ですか……」
「おまえが絵を書けないのは、分かってる」
「書けないというわけでは……」
「本気で書けるか?」
「……いえ」
数年前から俺は絵が書けなくなった。創作意欲がない手で作り出されたものは芸術品でもなければ工芸品でもない。今の俺には絵を描く理由が欠落していた。大学に入ってからほとんど筆を執った記憶はない。大学に入ってから、というよりは長崎と関わらなくなってから、だが。
「では、どうして俺なんですか」
「安心しろ、描くのは彼女ら月ノ森生だ。うちには都合よく芸術系の学科があるから一つ作品を完成させろとお達しだ」
「…………」
それこそ、姫路教授がいけばいいんじゃないだろうか。その言葉を胸のうちにしまう。恨み言をどれだけ言おうが行くことには変わりないのだから言わないのが吉だ。
「最後に、姫路教授はどの程度噛んでるんですか?」
「私は言われたことをそのまま伝えているだけだ」
「……そうですか」
「ではくれぐれもよろしく頼むぞ」
話は終わりだ、と言わんばかりにラップトップPCを広げる姫ちゃんに倣うように席を立つ。少し堅苦しい話をしていたからだろう、肩が凝ったような錯覚を覚える。絵に関わる、それだけで呼吸は浅くなって視界が狭くなる。乗り越えるべきトラウマも、立ち向かうべき過去も俺にはないのにおかしな話だ。
「なぁ、梔子」
「……なんですか」
思い出したような口調に、真剣味を帯びた表情。誤魔化すのならもっと上手にやれるはずの彼女は瞳を真っ直ぐと俺に向ける。
「──もう筆は、とれなさそうか?」
「……自分の作品としてではなければ、なんとか」
「そうか、今はそれで十分だ」
「じゃなきゃ教えられないでしょう」
教育実習を忘れていたのは自分が筆を持てるか怪しいからだった。
忘れてしまえば、ないのと同じ。
問題の先送りだとしてと構わない。
嫌なものには蓋をする事なかれ主義。
そういったものが今の俺には必要だった。
「……私はお前の絵を待っているよ」
「多分二度と書けないと思います」
「それでも。それでも、私にとってお前の絵は確かに価値があったのだからさ」
遠い場所を、過去を覗くような瞳で微笑む姫ちゃんからそっと視線を逸らす。
「……どうも。じゃ、今度こそ」
「ああ、気をつけて帰るといい」
業腹だ。腹の底を這いずり回るような怒りと虚無感に歯が割れてしまうほどあごに強く力が入る。カーペットを踏みつける足が、血流を回す血管が、司令を下す脳みそが、生かしているだけの心臓が酷く鬱陶しい。今生きている事実がこれほど足を引っ張るとは思わなかった。
創作意欲がないというのは、空っぽだ。器を満たしていた夢水は干潮の浜辺のように水気を残すのみ。
鳥は翼を失ったら世界を飛び回ることなんて出来やしない。歩くという発想がないからだ。
家に帰るまでに収められるか分からないほど激しい炎が自分のなかに燻っていることを自覚しながら、研究室をあとにした。
頭をゆっくりと冷えるのをカフェで待っているうちに夜の帳が下りていた。涼しい夜風が吸熱剤の役割を果たして頬の熱を冷ましてくれるのが心地良い。
「ただいま……」
廊下に電気が漏れ出ている。家に明かりがあるというのはそれだけで落ち着く。家に人が居る事実が特に疲れたとき、思っていた以上に心に染み渡るのは一人暮らしを経験しているからだろう。
靴を丁寧に脱いでいると、リビングから足音がとことこ向かってくる。
「……おかえり」
「んー……」
家に帰ってきてまで気を張ることは出来ず、疲れていることもあって生返事をしてしまう。
絵を描かない芸術大学生の俺は今の学校に推薦で入ったあとも絵を描くことはなかった。比較的緩いこともあって免除されていたし、そもそも書こうと思っても書けないのが大きな理由だった。その辺りの事情を姫ちゃんは理解してくれたから今研究室に入れている。
そのはずだったのに、どういう風の吹き回しで俺が絵に関わることになったのだろう。
確かに、絵を描くことが出来ないだけで、自分の中にあるものを技術として手ほどきすることは出来るのだが、俺は特段天才というわけではない。他にいくらでも代案はいる。
「だいじょうぶ……?」
「んー……あぁ、大丈夫」
思考以外がうわの空。手を洗うこともせず自室のベッドに寝っ転がって天井を眺める。 考えることは多くとも、答えが多く出せるわけはない。十中八九、睦関連だろうが……。
「学校にちょっかいかけられるってどんなだよ……」
お嬢様学園の月ノ森で経営陣に便宜を計ってもらえるというのは、相当大きな家から声があったということだろう。いちばん恐ろしいのは、把握しているうえで放置されている現状だ。
親父が協力的じゃない以上、タネ明かしは期待出来ないが……月ノ森に行くことで、なにか分かるだろうか。
「空、嫌なことあった……?」
「……月ノ森に行くことになった」
「えっ……?」
困惑したいのはこっちもだよ。
私は睦が可愛いだけの作品を書こうとしたのに、本編あれだからさぁ……!