カーテンの隙間から伸びる朝日に照らされて私、若葉睦の朝は始まる。
ぱちり、ぱちりとまぶたの開閉を何度か繰り返す。周囲を見て、ここが自分の部屋じゃないことを思い出した。新しく住み始めた家は快適だけど、なんとなく足が浮いたような心地が付きまとう。
原因は空。なにを求められているのか教えてくれないひとは、私にとっては厳しくされるよりもつらい。
そこには求められた役割がなくて、どうしたらいいのか分からないから。
でも、私になにも求められていないなら、受け入れられていない。つまり、空は必ずなにかを求めてる。答えは誰も教えてくれないけれど、きっと知れるはずだから。
ぐっ、と背伸びをして深呼吸をすると、住み始めたばかりの部屋から不思議なニオイがする。
今日も睦は私のまま。
瞳を閉じて、自分の心のなかに潜る。深い、ふかい海の底──そこを越えた先に、舞台が見えた。
深呼吸して舞台の真ん中に降りる。そこから見えるのはガラガラの観客席。前はあそこにたくさんのわたしが居た。おなじ顔、おなじ声、おなじ身体。たくさんのおなじを抱えながら、わたしたちはかつて別々の役割を持っていた。
「…………」
今日も私でいいのか、舞台袖や観客席に問いかけても返事はない。数年前はたくさんの声が返ってきたのに、今は自分の呼吸以外なにも聞こえない。
これからも自分ひとりでこの世界を生きていくのだろうか。それとも、ふとしたきっかけでわたしは消えてなくなるのだろうか。
どちらに転ぶか分からない未来に恐怖はない。どこまでいっても他人事のように遠いから。
これ以上留まる意味がないことを悟って、意識を浮上させる。瞳を開いたころには扉の奥から朝食の香りが流れ込んできた。
横目に鏡を見る。映ったのは寝間着姿のありのままの自分。異常、なし。
ふぅ、と小さなため息を吐いてみて、吐き出すものがないことに気が付いた。家族が誰も居ないのは、ここもあそこも同じだから。
決して彼が踏み越えない扉を開いて、今日もわたし一人の一日が始まる。
睦と話をした翌朝。
地平線の向こうから朝日が顔を出し始めるような時間に起きて準備を始めていた。
弁当は作って終わりではない。冷ます時間も含まれるから必然的に早起きになる。
開け放たれた窓からひらひらと風が新しい空気を運んでくる。はためくカーテンから顔を出す朝日はふんわりと室内を明るくしていた。
深呼吸をひとつして、身体を起こしながら今日の予定を考える。
今日は大学もないのだったか、と思い出して自分の準備は同居人の気分を害さない程度に髪を整える程度に留めた。
今日の弁当は昨日の残りものに卵焼きとほうれん草のおひたしを加えたもの。
睦の幼馴染はだしを使っていたらしいが、我が家は砂糖を混ぜて優しい口当たりに仕上げるのが主流だ。
主流、と言っても親の料理がそうだったからというひとつの理由に帰結する。もっとも、クソ親父は料理が出来ないため、記憶のなかの母親の味がそうだった気がする、程度のものだ。
一通りの作業を済ませ一息ついたころに睦が部屋から出てきた。
「おはよう、睦」
「……おはよう」
やや疲れた様子の睦はぼんやりとした視線を室内に彷徨わせて、思いついたように洗面所のほうにとぼとぼ歩いていく。
少し心配になる後ろ姿を見て手を貸そうか悩んだものの、全部世話をするわけにはいかないと思い留まる。
今年度は一限から授業がないから、こんな時間に起きるのは久しぶりだ。ふとした拍子に漏れる欠伸を噛み殺しながら朝食を皿によそってテーブルのうえに並べる。
「……洗ってきた」
「ちゃんと拭いてから出てきなさい……」
「…………」
返事をすることなく、黙ってタオルを差し出している睦に苦笑する。そのタオルを受け取って、わしゃわしゃと拭いて頭に被せた。
その姿がなにかに被った気がして、首を傾げる。
心なしか満足気になった睦は自然と食卓に足を向け始める。
「俺をなんだと思ってるんだ」
「……おにいちゃん?」
肉親のほうがマシな関係性だっただろう。今の俺たちは家出少女と匿っている大学生だ。一歩間違えなくても通報されるような関係性を誤魔化すためと思えば、悪くない案だ。
もっとも、そんなことを睦は考えていないだろうが。
「その呼び方はやめてくれ」
血縁関係がないのに歳下少女にお兄ちゃん呼びさせている男、という世間様からの目には負ける。
こういうとき、ぼんやりとした視線を転がしている睦を見ていると自分が気にしすぎなのではないかという気がしてくる。
「……とりあえず飯を食べよう」
「……今日のごはん、嫌いじゃない」
「弁当は昨夜の残りものと朝食の残りだ」
「ん」
特に文句を言われないなら問題はないのだろう。
食べようか、と両手を合わせて朝食に手をつける。
今日の朝食はウィンナーに目玉焼き、納豆に味噌汁と理想的な献立は一人暮らしでは出てこないだろう。
睦が来てからというもの、生活がガラリと変わった。
万能栄養食品などで済ませてきた朝食は理想的な朝食に変わった。大きな変化だ。
消えかかった桜の模様入りの箸で丁寧にボイルしたウィンナーをかじると、パリッと心地いい音を鳴らす。食事を静かに咀嚼する時間がしばらく続いた。
我が家に黙食の文化はないが、きっとお互いの距離を計りかねているから口を開けないんだろう。
食事を終えて一息ついたときあと、睦が静かに口を開いた。
「今日は?」
「……金曜だからな。大学もないから家事をするつもりだ」
うちの研究室はコアタイムの制度がなく、好き勝手に研究していろという形だから前日までに連絡さえすれば休みにすることが出来る。
なにより、今日はやろうと思っていたことがひとつある。
「睦、制服のほかに服は持ってないのか?」
この家で睦が着ていたのは元々この家にあった洋服だけ。外に出るときは必ず制服を着ていた。学生だから当然だろう、とは思いつつも連れてきたときにギターケースのほかに持ち物がなかったこともあって、てっきり郵送でもされるのだとばかり思っていたがその様子もない。
指摘したことが図星だったのか、少しのあいだ黙ったあと、観念したように頷いた。
「……ない」
「なら、生活用品を買いに行こう」
「…………いい」
「……ついてくる?」
「ああ、まぁな……」
彼女一人で行かせる案もあったが、俺のなかで彼女は世間知らずのお嬢様という印象が根付いてしまったことも会って、考えているうちに不安が残ると思ったのだ。
睦がどう受け取るか気にするより前に時計を見てわざとらしくため息を吐く。
「学校に行く時間じゃないか?」
「……うん」
カバンを持って歩いていく睦に続いて玄関口まで出向く。心配性なのか、家を出るときまでは視界に入れておきたい気持ちがある。
「いってらっしゃい」
そんな俺の言葉に睦は頷いて扉を開いて──なにを思ったか、半分ほどのところで止めて振り返った。逆光を携えて春の穏やかな睦の髪を撫でながら室内に入り込んでくる。
「…………いってきます」
遠慮がちに開かれた唇からここ二週間の間に聞いた覚えのない言葉に固まった。
気にした様子もなく、外に出ていく睦を見送ってからしばらく。やっとの思いで口を開く。
「少しは気に入られたってことでいいのかねぇ……」
耳鳴りがするほどうるさい電車に揺られ、自宅の最寄り駅から数駅離れたとある駅にたどり着いた。車両から流れていく人混みに流されるように吐き出された改札から見える景色は関東近隣としては視界が開けているように感じられる。
繁華街からは遠く、遊戯施設がほどよくあるこの一帯は、治安が安定していることから休日は家族連れで賑わう。そんな場所でも平日の昼間には老人の姿と学校を終わらせた学生の姿が目立つ。昼下がりの風が木の葉を巻き込みながらひるると駆けていく。なんとなく木の葉を目で追うと近くの柱に着地した。その柱の裏からは先ほどの風に煽られたのはひらひらとたなびく淡い緑の長髪が覗いていた。
「悪い、待たせた」
「…………待ってない」
紺色を基調としたセーラー服に太もも中ほどまで伸びたスカート、少し古びたローファー。このあたりでは見かけない服装に通行人の目が向いている気がして周囲を見渡せば僅かだが月ノ森の制服が見えた。お嬢様学校だからと言って、生活している場所が全く被らないわけでもないことに安心感を覚える。これならば睦と歩いていてもそれほど不思議はないだろう。
「……学校終わってからそのまま来たのか?」
「空が呼んだから」
「そうか、ありがとう」
人と約束をしたとき、早めに来るというのは常識的な行動だ。ぼんやりとした印象のある睦だが、一般常識からかけ離れた価値観を持っているわけではないことに安堵する。価値観の擦り合わせは面倒だ。
「どこから見たものか……」
目的地がショッピングモールだからといって、そこだけで欲しいものがすべて揃う保証はない。寝具まわりはいいとして、適当に済ませていた下着や外出用の服などは先に選んでおくべきだろう。
「睦、どこから行く?」
実際に身につける睦に話を振ってみても、彼女は首を傾げるだけで返答してくれない。
「…………とりあえず普段着からだな」
これはもう、流れをこちらで作ったほうがいいのだろう。諦めたのと同時に漏れそうになったため息を喉の奥に押し込んで、ショッピングモールに向けて歩き出した。
ショッピングモールに設置されたベンチに腰掛けて両腕にぶら下げた紙袋を空いたスペースに置いてため息が漏れる。
ため息を吐いたら幸せが逃げていく、とはよく言ったもので、不幸な目にあったと自覚したときに漏れ出るため息はふわふわと空気中に霧散した。
「女の買い物は長いと聞いていたが……」
まさか下着まで選ばされることになるとは思わなかった。女モノの肌着は分からないため睦にカードを持たせ、店員に押し付けただけだというのにどっと疲れた。
女性用の下着のあるフロアには必然的に女性向けのショップが立ち並び、華やかな姿に見える反面、男性向けの店にはない色遣いからは男子禁制のような空気感があるような気がして気が滅入る。
このショッピングモールでは特にそれが顕著で、途中素通りした男性向けのフロア落ち着いた色合いだったのに対し、女性フロアはパステルカラーを基調とした明るい印象を受ける。
こういった雰囲気の場所とは根本的に相性が悪い。
今も昔も、寒色系の色合いは苦手だ。
何度目か分からないため息を吐きかけたとき、ランジェリーショップから睦が出てくるのが見えた。周りに目を向けて誰かを探すような動きをして、こちらを認識したのかゆっくりと近付いてくる。
「買えたか?」
「見たい?」
「……いい、出さなくていい」
ごそごそ、と紙袋を漁ろうとする睦を止める。どうせ洗濯する時に見るのだから変わらないとしても、周囲の目があるところで下着を取り出されたくない。
普段着、下着、消耗品……生活に必要なものは一通り揃った。あとは帰ってもいいが、窓から射す光はまだ暖色だ。女子高生一人ならともかく、保護者同伴で帰るには少し早い時間だ。
あとは……おれが居ないときにやるものか。
「睦、お前が好きなものはなにかないか」
「……?」
好きなもの、と聞いて思いつかなかったのか不思議そうな表情を睦は浮かべる。この場合は二通り考えられる。趣味が許されない家庭だったか、趣味ではなく生活の一部として染み付いているパターン。
「じゃあ、聞き方を変える。普段なにしてた?
「…………ギター」
音楽といえば金がかかるもの代表。学校生活で身近な吹奏楽で使われる楽器たちも聞いてみれば意外と金がかかっていることが多く、敷居が高いイメージがある。ギターがどの程度の金額か分からないが、それなりに金のかかる趣味だろう。
そういえば、と親父の病室にあったファンシーなギターを思い出す。家に来てから取り出したのを見たことがない。
「ギターか……弾かないのか?」
「足りない」
「……環境と機材、どっちだ?」
「……どっちも」
どっちも、となると用意するのは難しい。音楽はだいたい人に見せるときにコンサートホールなどを貸し切る。つまり、大きな音を出しても許される空間が必要ということになる。
一応部屋は購入してあるはずだが、あくまで我が家はマンションの一室。部屋を改装するような大掛かりな工事は難しく、マンションのオーナーと交渉する必要が出てくるだろう。そうなると、それなりの期間が必要になる。趣味と答えなかったから睦は毎日弾いていたのかもしれないと考えると……ストレスの原因にもなる。
どうしたものか、と思考を巡らせた。
睦の一件をどうしたものかと考えながら歩く月曜日。大学に向かう道中の商店街には月曜日特有の憂鬱さが道行く人から漏れ出ているような気がした。ふと立ち止まって空を見上げれば見えるのは曇り空。問題が解決しないような気がして、思わずため息が漏れる。
不意に肩を叩かれて振り返ると、宏樹が片手をあげていた。
「宏樹か」
「おう、おはよう。どーしたんだよ、ため息なんて吐いて。幸せが逃げる〜、なんてよく言うぞー?」
「ちょっとした悩みごとだ」
ぶっきらぼうに突き放して大学に歩き始める。宏樹は気にした様子もなく、カツカツと音を鳴らしながらついてくる。このまま大学まで着いてくるつもりらしく、口元に微笑を浮かべ楽しそうに追求してくる。
「へー、悩み事かぁ。なんかあったんか?」
「あー……まぁ、ちょっと大きな音を出しても問題ない部屋が欲しくなった」
音楽関係を詳しく知らないが、楽器をやる人間は大家に嫌がられると聞いたことがある。大きな音を出せるような場所を個人でレンタル出来るだろうが、生活と密着しているタイプには酷だろう。根本的な解決にはならない。
あるいは、本人に普段どうやって演奏しているのか聞いてみればなにか解決の糸口はあるかもしれない。
考え込んでいるうちに隣に並んでいた靴の音が聞こえなくなった。
「歳下の女の子連れ込んで大きな音ってお前……いつからそんなド外道に……」
「誤解だ」
なんだか妙な方向に話が転がりそうな気がする。なんとか軌道修正をしなければならない。
「俺はただ、大きな音を出しても近隣住民に通報されないような部屋が欲しいというだけで……」
「ほれみろ! 鬼畜! 外道! あたしとは遊びだったのね!?」
「……お前、楽しんでるだろ」
「あ、バレた?」
「……」
お前は男だし、俺は異性愛者だ、と言う気すら起きなくなってきた。考えるのも面倒になってきた。諦めて一通り騒がせておくか、とあたりを見回して、ふと路面沿いの楽器店に目が吸い寄せられる。
その店ではショーケースに展示されている楽器を見て女子高生が目をキラキラと輝かせている。その後ろ姿は憧れを掴もうと手を伸ばしているようで、ガラスに反射した瞳からは僅かな諦めが見え隠れしていた。
「……大ガールズバンド時代、か」
どこかで聞いたフレーズを口ずさむ。
「あぁ、やっぱり楽器か」
「人を性犯罪者呼ばわりしといて察してたのか?」
「まぁ女子高生、それも大きな音っていうと限られるからなぁ。流行りっしょ、ガールズバンド」
「まぁ流行りだな、ガールズバンド」
大学生のコミュニティではあまり広がっていないが、女子高校生を中心に波及したバンドブームは日本を飲み込み、いつからかメディアではガールズバンドが取り上げられる機会が増えた。
「つか、自宅で演奏出来る環境なんて一般家庭じゃ普通ねぇよ」
「それはなんとなく分かる」
だから防音設備のないマンションで演奏するのは難しいと思って頭を悩ませているんだ。
「お前の部屋さぁ、妙に音が漏れないよなぁ」
「そうか?」
「そうだよ。たまにお前の家に行った時チャイム鳴らしても気付かないだろ。演奏に耐えられるか知らないけど使えるんじゃないか」
「俺の部屋か……」
そういえば、元々俺の部屋は親父の仕事部屋だった。
本人に聞いてみたほうが早そうだ。早速メッセージを送ることにした。