昼食を終えてやってきたのはライブハウスRiNG。CiRCLEの2号店であり、若者に対してウケがいいのは比較的こちら──らしい。
都内一等地に一つの建物を占領するほど大きなライブハウスを経営出来るのはガールズバンド時代様々といったところだろうか。
「意外と広いんだな……」
「うん……空は?」
「そうだな……」
睦の話では併設されたカフェがあるって話だったからそちらで腰を落ち着けたい。普段動かない人間はちょっと日に焼かれるだけで死にそうな目に遭うのだ。
「ちょっと腹が重いからカフェテリアで休憩しておくよ。どのくらいやる?」
「一時間……」
「……俺のこと気にしなくていいんだぞ」
「ううん、いい……」
演奏準備をして撤収するまで勘定に入れると一時間じゃほとんど弾けずに時間が終わる。
少しくらいわがままを言ってくれたっていいのに。
我慢してまで人に気を遣えるのは優しいと言われるのだろう。
ただ、三週間も一緒に生活していれば彼女が不器用なだけで自分の感情を表現出来ないからだと分かる。
表情こそ動いていないものの、彼女は弾きたいと言わんばかりに身体を揺らしているのはその証拠。
「二時間、休憩時間をくれ。腹がパンパンだ」
「でも……」
実際、食後はゆっくりしたいという意志をねじ伏せてここまで動いたせいで少しばかり腹が窮屈なことになっている。だから、休みがほしいのは本当だ。
睦の手を引いて強引に受付カウンターに連れて行って二時間分の料金と利用許可を引き換えた。彼女は強引な手段じゃないと言うことを聞かせられないのだから仕方ない。別に説得するのが面倒だとか、そういうわけではないんだ。
「ほら、行ってこい」
「……ありがとう」
背負っていたギターを出来る限り丁重に睦に手渡して軽い伸びをすれば限界だった身体が深呼吸をするように身体の節々から音が鳴った。
本当に折れたような大きな音は自分の身体から鳴ったとは信じられず耳によく残る。
その音がなんだか心地よくて、もう一度鳴らそうとしてやめる。
ストレッチはいいことでも音が鳴ったからといって身体に良いわけではないし、鳴ったときは関節部の気泡が破裂したなら相応の負荷がかかっているという説をどこかの記事で見たのを思い出した。
ただ、言えることはひとつ。若いとはいえ、姿勢の維持は身体にこたえるらしい。
とてもスマートとは言えない受け渡し方でも、意図を察してくれた睦はひとつ頷いてから申し訳なさそうな、でも嬉しくて誤魔化しているような複雑な表情を浮かべてスタジオに歩いていく。
後ろ姿から高揚している心中が読み取れるのだから好きに弾きたい気持ちはずっと横に置いていたのが想像しなくても分かる。そうでなければ、わざわざギターなんて持ち出さないのは俺でも分かった。
あの笑顔を見れたなら慣れないことをした甲斐もあるけど、小っ恥ずかしくてやってられん。紅潮した顔を冷ますようにカフェテリアに足を向けた。
「おぉ……こりゃすごい……」
外観を見たときにも思ったが、ガラス張りの窓から太陽を取り込んでいる店内は明るい印象を受ける。空のような青と植物が印象的な内装は若者にウケがいいというのも納得するほどキラキラした光景はなるほどたしかに、好きな人間は多そうだ。
自分が場違いな空間にいるような錯覚を覚えながら足を進めていけば売りに出せるほどのフラワーガーデンが横目に見える。
CiRCLEもそうだが、ここの経営者は細かなところもコンセプトに沿ってこだわるから一緒に仕事をすることになったら大変だろうなと他人事のように思って併設されたカフェテリアに足を踏み入れれば見知った顔が立っていた。
「こんにちは」
「ん……あれ、空くん!」
「ども、お久しぶりです凛々子さん」
真次凛々子。肩で揃えたショートカットに亜麻色の瞳が特徴的な快活な女性。SPACEというライブハウスのスタッフだったが、紆余曲折あってRiNGのオーナーになったらしい。
彼女とはCiRCLEに駆り出されたときに知り合った。
見た目年齢が若いのにオーナーになったのが気になって年齢を聞こうとしたこて……小突かれたことがあるので知らない。女性に年齢の話は禁句らしいというのは彼女から教えてもらったことだ。
「繁盛してるみたいですね」
「そうなの~。やっぱり新店舗だから注目度が高いのかもね」
サポート力に定評のあるCiRCLEの系列店舗であることも加味すれば、この程度の繁盛は当然のことといえる。ただ、あまり落ち着ける空間ではなさそうだ……その証拠に、ほぼ全ての席が満席になっている。
「珍しいね、バンドやってなかったでしょ?」
「自分で楽器やるつもりないですからね、知り合いの子の付き添いですよ」
「分かった、デートでしょ」
「いえ、残念ながら違います」
デートというには俺たちの仲は進展していないし、同居人というほうが二人の関係を表現するには正しい。実際アンプを買っただけでカップルっぽいこともしていないので邪推だ。
そんな俺の態度からなにかを読み取ったのか、肩を叩いて慰めてくれる。
「女の子が男のコと二人で出かけるのは信頼されてるからだと思うよ」
「相手高校生ですよ、凛々子さん」
「えっ、け、警察に……」
「やめてください、それだけはマジ勘弁してください」
大学生が高校生が連れ歩いているというだけで問題なのに、一緒に住んでいることが知られたら留置所どころか刑務所に入れられる……訪れてほしくない未来を想像して身震いしていると、冗談だったらしく笑っていた。
まさか同棲してるとは思っていないのだろうけど、その冗談で絶たれそうになっている命が一つここにあるんですよ、凛々子さん。
「じゃあコーヒー飲みに来たんだよね」
「うーん……でも相席相手に失礼ですし……」
「聞いてみるだけタダ。知った顔の子がいるから、聞きに行こうよ」
「ありがたいんですけど遠回しに日陰者って言うの、やめてくださいよ……」
これでは保護者同伴でないと物事が判断出来ない意思のない人間になってしまう。
「すみっコぐらしのほうがよかった?」
「そっちは多分怒られるので勘弁してください……」
上手く手玉に取られていることを不満に思いながら窓際の席に案内される。生きている年数がたかだが数年しか違わないのに、妙に大人に思えるのは小学生のころに上級生が大人びて見えたのとはまた別の、彼女が社会人として働いているからだろうか。
昼を過ぎたひときわ日の強い時間だというのに、窓から差し込むあかりは不思議と落ち着く。そんなことを自覚しながら彼女のうしろをついていくと、窓際の席に腰掛ける高校生くらいの少女のもとで立ち止まった。
「……そよちゃん、相席いいかな?」
「はい、構いませ──空くん?」
「げっ……一ノ瀬……」
「げっ、はないんじゃないかな~」
ウェーブのかかった思わず触れたくなるようなミルクティーのようなベージュ髪、青空を宿したような鮮やかな色彩の双眸、表情豊かな顔立ちはお淑やかな印象を受ける。
許可をくれたので、彼女と向かい合う形で腰掛ける。眉をひそめられたような気がしたが、優しい一ノ瀬さんのことだ、そんなことはないだろう。店員や客という人様の視線が強い否定を出せない状況を作っているのかもしれない。
「いいって言ってないんだけどな〜……」
「言ってただろ」
「空くんだと思ってなかったから」
「じゃあ離れたほうがいいってことか?」
「……座ったあとだからね~」
どっちだよ、と出そうになるところを責めるような視線を受けて肩を竦めるだけに留める。良いって言ってないとか、座ったあとだからいいだとか、矛盾していることに気付いているのだろうか。そのくせ不機嫌そうなのだから理不尽だ。
鋭い視線を向けてくる相手が反対に腰かけている状況でも自然と肩の力が抜けていく。ずっと睦と居るのは悪い気分ではないが、力を抜けるようなタイミングがないのだけが問題だった。
「
「あ?」
「私の名字」
「あ、あぁ〜……、悪い。だいたい名前で呼んでたから忘れてた」
一ノ瀬は彼女の親が離婚する前の旧姓だったか。自分の無神経さに呆れた。つまりは彼女が不機嫌な原因のひとつが彼女の呼び名だとすれば少し申し訳ない。素直に謝れば刺すように毒を吐くのもあって謝る気分にはとてもなれないが、心の中だけで頭を下げておく。
「名前くらい、覚えておいてよ」
「人の名前とかそんな大事じゃないし……」
「大事にしてって言ってるんだよ?」
斜に構えているわけではなく、本当に人の名前が覚えられない。名前と特徴をメモ書きにでも残しておけば反芻することで記憶出来るが、メモを準備出来なかったりもう定着してしまったりすると途端に覚えが悪くなる。幼少期はそうでもなかった気がするが、中学校卒業のあたりを境に人を覚えるのが難しくなった。
人の記憶は反復しなければすぐに忘れていくものだから別に気にしてないけど、記憶というのは随分綺麗に消えていくのだなと自分の身体なのに感心する。
「下の名前覚えとけば良くないか?」
「……呼んでくれないくせに」
不機嫌そうに、というよりは寂しそうにため息を吐く長崎から目を逸らす。距離感が微妙な相手は妙にやりずらい……特に、一度心に踏み入ったなかともなれば距離を縮めることもできない。久しぶりなのに情緒のカケラもない会話をしているのは傍からみれば不仲に見えるが、二人の間には距離を保つという暗黙の了解が共有されている。
彼女を一旦放置してメニューを流し見する。この手の併設カフェにしては随分手が込んでいるのは長崎が通う理由のひとつかもしれない。
「ご注文決まった?」
「うーん……あ、豆で選べるんですね」
「よく気付いてくれました! 初心者の子には選びにくいとは思うけどねぇ」
「だいたいの店ってブレンドを売り出しますからね」
マンデリン、コロンビア、キューバ……比較的飲みやすいものが揃っている。ただ、コーヒーに触れていなくても分かるキリマンジャロやモカ、ブルーマウンテンのような聞き覚えのある銘柄はない。
ブレンドのようなとりあえず頼んでおけ、といった商品がないのだから分かりやすいものを頼む人間にはおすすめ出来ないかもしれない。スタバのように呪文じみたものを注文できる現代人であればそれほど難しくもないと思い直す。
かくいう自分も豆にこだわりはないので、こうして選択肢を提示されてしまえば決められない。仕方がない、と長崎に話を振る。
「お前のおすすめは?」
「私、紅茶のほうが好きなんだけど……コロンビアの評判はいいかな」
「へぇ。ならコロンビアをホットでひとつ」
変わらないなぁ、と感慨深くなる。微妙な距離感になった相手とはいえ、ごちゃごちゃ言いながら素直に答えてくれるのは彼女がいい人間な証拠だ。
「はーい。ミルクとか付ける?」
「いえ、ブラックでお願いします」
「大人だねぇ……」
中学生がコーヒーを大人の飲み物だと思い込んで飲むことも出来ないのに苦い顔をしながら飲むわけじゃないんだからたかだかブラックで大人になれるわけじゃない。大人というのは、社会性フィルターで上手く使えることを言うんだ。子どものころ思い描いた全て上手くやるようなキラキラした大人の姿は成長してみればどこにもないことに気が付く。
打算と妥協に満ち溢れた世界は美しいものとは思えない。
大人になるための通過儀礼はなんなんだろう。いったいなにが必要なんだろう。
そんなことを考えているから子供なのだと分かっていても考えてしまう自分がいる。
「空くんの場合、大人ぶってるだけですよ~」
「なんてこと言うの長崎……」
「……」
ふんっ、と鼻息が聞こえそうなほど素早く視線を逸らされるのは堪える。嫌われているにせよ、温度差のある対応をされると傷付くのは人心だ。
腹を落ち着ける意味で来店したカフェだったが、長崎の目の前に置かれた紅茶から香る芳醇なベルガモット、アールグレイの香りに食欲を刺激され悩む。二時間ほどは居る予定だから食べ切れるだろう、と高を括ってスイーツも併せて注文することにした。
「あとシフォンケーキと……スコーンをお願いします」
「……やっぱり苦いんじゃない」
「背伸びしたくなるお年頃なんですよ」
「自分で言っちゃう?」
「言っちゃうんですよ」
おどけたように肩を竦めて今日のことを考える。時刻はすでに14時。睦はここから2時間スタジオに籠もるわけだからRiNGを出るころには夕方……となれば、そのまま帰ったほうがいいかもしれない。
俺は人の家で夜が明けるまで大騒ぎしていても問題ない年頃でも、睦はまだ高校生になったばかりの幼い少女だ。夜の世界を見るにはまだ早い。……こんなことを考えているから宏樹に過干渉と揶揄われるのか。
そんな思考を打ち切るように、改めて長崎そよという少女を観察する。
こうして会うのは数年ぶりのことで、雰囲気的もふくめて色々と変わっていた。少し幼かった顔立ちは少女から大人の女性に近付いて柄にもなく陶然とする。
少し化粧をしているのだろう、僅かに付けられたチークが血色のいい頬を優しく彩って彼女の女性としての美しさをより鮮明に意識させられる。男子3日会わざれば刮目してみよ、とはよく言うが女性と何年も会っていない場合どうすればいいのだろうか。
「……久しぶり」
「二年と半年くらいかな」
「……そんなになるか」
「ね、時間が立つのは早いよね」
以前過ごしていたときに、どんな話をしていたかまるで思い出せない。人の記憶というのは案外アテにもならない曖昧なものではあるが、頭から抜け落ちてしまったのは薄情だからではなく、彼女自身がある種の大人の芳香のようなものを身にまとっていることが時間の経過を嫌というほど意識させたからだ。
不機嫌そうに歪められた綺麗な眉毛はハの字を描いたまま戻ってくれないことにため息を吐いた。
まるで自分から針の筵に迷い込んだ気分だ。いや、事実としてそうなんだけれども。
「ねぇ、空くん」
「なんだ?」
「スコーン頼むんなら紅茶のほうがよかったでしょ」
「あぁ、そんなことか」
青筋を浮かべて……というほどではないが苦言を呈している。
たしかに、スコーンはクロテッドクリームとジャムを乗せて紅茶と同時に口に入れてマリアージュを楽しむ茶菓子だ。コーヒーでも楽しめるには楽しめるが、理想の組み合わせではないというのは否定しない。
他人の目がないのをいいことに次第に雑になっていく長崎は気付けば口調が砕けていた。数年前に話していたときと同じような口調に安心する。長崎そよという人間が丁寧な口調で話していると、背筋に寒いものが走る。
「いや、長崎のだ」
「……勝手に注文されると困るんだけど」
「気に食わなければ食わなきゃいい」
「もらわないとは言ってないでしょ」
この七面倒臭いやり取りにため息を吐きそうになって──すんでのところでこらえる。
長崎そよという女は柔和な表情と穏やかな雰囲気で誤魔化しているが、本来は真顔で毒を吐くような行儀の悪いやつだ。思うことがあればズバズバと切り込んでくる彼女本来の味は人を選ぶといえば聞こえはいいものの、喧嘩を売っているように聞こえるのが実際のところ。
どんな理由か知らないが、いつの間にか他者から嫌われないような穏やかで自己主張をしない性格になっていたのは成長とは呼べない。
「ほんと、黙ってれば完璧なのになぁ」
「喋らせてるのはどこのだれ?」
「俺だな」
喋らなければ自分を偽るようなマネもしなくていいだろうに、誰かどうにかしてあげてほしい。
真っ当に自分の心を預けられるとまではいかなくても真っ直ぐに伝えられる友人が居てくれれば彼女は変わるのだろうが、長崎が普段付けている笑顔の仮面を外せる人間はおそらくほとんど居ない。もし居るのであれば……コミュニケーション能力が高く、周囲を振り回し、他人の心に土足土足で入って怒られようが動じない人間が必要かもしれない。
難儀難問無理難題、居ればいいという手前勝手な仮定だというのに、妙に具体性のある発想に首をひねって考え込む。表面だけの付き合いでは、この手の塞ぎ込んでいる手合いの心を引きずり出すことは経験上難しい。
「ほんと、なんでこんなひと……」
「なんだよ……」
「別に」
罵倒とジト目のダブルパンチで心が痛い。そろそろコーヒー届いてくれないかな、間よりも心が持たない。そんなことを考えていると、祈りが通じたのか目の前にコーヒーとシフォンケーキとスコーンが置かれる。
「あぁ、ありがとうござい──」
お礼を言うために視線をあげて、相手が凛々子さんじゃないことに気が付く。二の腕まで伸ばした茶色混じりの黒髪はしなやかで室内の空気に沿って揺れている。
アメジストのような瞳は睨んだような表情のせいで人を寄せ付けない美しさを伴いながらどこか幼さを持った瞳からして高校生だろうか。肩ひじ張った姿勢から、少しだけ緊張していることを読み取れる。
「ありがとう、立希ちゃん」
そこはかとない既視感に首を傾げて考える。彼女自身に会ったことがないのは相手の険しい反応を見ていれば分かるが、だったらどこで見た顔なのだろうか。直接じゃなければ、誰かの紹介で間接的に……?
少し考えて、思い出せずに諦める。高校以前の記憶を忘れているような人間が一目見た程度の情報を覚えているわけがなかった。
「なにか」
「いや……綺麗な人だなってだけですよ」
「空くん?」
「あっ、うっす。すみません」
「……失礼します」
絶対零度のような冷たい視線を長崎から向けられてぬいぐるみのように縮こまる。友人だからってそこまで怒ることないじゃないですか。
去っていく後ろ姿に悪いことをしたなぁ、と思いながらコーヒーを啜る。
ひらひらと手を振っている様子をみると、長崎と彼女は知り合いだとは思うが……どんな知り合いなんだろうか。
「知り合い?」
「一緒にバンドやってた子」
記憶力が良くないが、引っ掛かりを覚えるならそれなりに印象的だったと思う。事実として思い出せないのだからほんの一瞬、流し見したようなものだったのかもしれない。正直睦のことを調べるにも足掛かりがなかったし、ちょっと聞いてみるべきだ。
「長崎ってバンドやってたのか……吹奏楽とかやってなかったか?」
「昔は、ね。今は吹奏楽だけかな」
「……そうか」
バンドなら……例外はあっても五人組のはず。黒髪の女の子は特段珍しくない。CiRCLEのアルバイトのときに見ていたというケースはないだろう。なら考えられるのは睦……。
亜麻色、灰色、黒、青、若葉色……風呂上がりに睦が見せてくれたあの写真に映っていた亜麻色の髪は、長崎だった。そうなると、さきほどの立希という子もそのCRYCHICというバンドメンバーだったのではないか。
──大切だった。
あのひとことには、どれほどの言葉や想いが閉じ込められていたのだろう。
「楽しかったのか?」
「うん、
「CRYCHIC……随分、上品な名前だな」
あの写真は半分くらいが月ノ森女子学園の生徒だった。CHICは家具とかに使われるが、洗練という意味合いだろう。CRYは……泣いているわけでもないし、叫びあたりが翻訳としては丸いだろうか。
「もう一度、取り戻したい」
「そうか」
言うつもりもなかったのだろう、上の空の瞳で天井を見上げながら呟く彼女の姿はどこか危ういものを感じる。まるで自分を置いていったダメ男には自分が居ないといけないと言いながら、実際に相手が居なければ生きていけないのは自分だという依存女のように見える。
その証拠に、青空のような瞳に一瞬雲がかかっていたが、それも一瞬のこと。
心の仮面を付け直したのか、張り付いたような笑みを浮かべる長崎に胸の奥がざわめいた。俺がなにかを言うべき相手でもないのに。
「……空くん、もしかしてまた面倒ごとに関わってるの?」
「またってなんだよ」
面倒ごとに関わっているのは否定しないが、それほど面倒ごとに恵まれた人生ではないし、自分から首を突っ込んでいるわけでもないと反論する。
「自覚してないの? 空くん自分が思ってる以上に分かりやすいよ」
「分かりやすい?」
「中途半端にカッコつけて、人を助けようとするところ」
「中途半端……」
長崎らしい表現だと思う。誰かの心に踏み入る勇気もなく、表面だけをなぞるようにして近くに居るだけ。見守るといえば聞こえはいいが、踏み切れない意気地なしと言われればその通りだ。
まるで責めるような言い方──いや、呆れが混じっているのはなんとも言えない平行線ような眉と言葉に困っているような瞳を見ればわかる。
ただ、一つだけ否定しておかなければならない。
「なにを考えているか知らないけど……助けるなんて大層なことはしてない」
高校生を自宅に泊めていることに恐怖を抱きながら、捨てられないから追い出せない小心者なだけ。困っている子が居るからどうにかしよう、なんて人格者じみたマネが出来ていれば、今ごろ……。
庇護欲のかられるまま、ノラ猫に餌をやるような気軽さで優しさだけを与えている現状は傍から見れば酷く軽薄なものに映る。その自覚を持っていても、現状から抜け出すことも、抜け出す気はない。
「空くんほんとうに自覚ないんだね」
助けるなんて荷が重い。俺は自分に足りないものを他者からもらおうとしているだけで、自分から誰かに渡せているとは思えない。
コーヒーカップに手をつけて、暗い考えを消し去るように中身を全て流し込んだ。苦いだけで脳みその中身は洗い流してくれなかった。都合のいい脳みそしてればいいのに。
シフォンケーキに口をつける。素朴でふわふわな砂糖菓子は息をする間もなく溶けて消えていく。口直しをするためにコーヒーカップに手をつけて、空になっていたことを思い出す。
コーヒーカップを伝う水滴、
底にこびりついた溶け切らなかったコーヒー豆、
フォークについたケーキのカケラ。
冷たくて残酷な、悲しいだけのホンモノを、いったい誰も欲しがるのだろう。甘いものは溶けて消えるのに、苦い思い出はどれだけ掬いあげてもこびりついて離れてくれない。
ふと、思い出せない高校以前の記憶が気になった。
高校生以前の記憶をあまり思い出せないことは周囲には言っていない。
本当は覆い隠して、虚構を振りまく。そうしてみんな、生きている。
「ただ……忘れてしまった大切を、俺はずっと探しているのかもしれない」
誰に言うわけでもなく、そう呟いた。