これ安心出来る情報か?
そういえば、当作品がランキングに乗っていたそうです。
みなさまいつもありがとうございます。今後とも、よしなに。
廊下で足を鳴らすたびにリノリウムの床がかつりかつりと律儀なお辞儀をしているように感じる総合病院の廊下は酷く寒々しいものにみえる。
睦には家に居てもらうことにした。どうせクソ親父の適当な話に付き合わされるだけだと分かっているのなら自分の好きなことに時間を使ってもらいたい。受付で名前を言って、面談の時間を決められて入った病室には
わざわざ時間を指定したのは二人で話をするためだったのかもしれない。
「……よ、来たか」
「呼ばれたからな。うちのクソ親父は人を呼び出すのが好きらしい」
朗らかに笑っている親父にため息を吐く。思っていたよりも元気らしい。
親父は昔から病院が嫌いだった。医者に診断されなければ病気は存在しないといつも口にしていたような人が今は清潔なシーツに横たわっているのは寒気がする。
「入院生活って暇なんだもの。好きなものだって食えねぇし」
「ご愁傷さま。作ってきてやろうか?」
自宅で作っている料理たちを思い出す。チャーハン、だし巻きたまご、パスタ──半分くらい卵が混じっていた気がするが、睦のリクエストだから気にすることはない。
歳下のわがままを聞くのは年長者の常だ。
栄養バランスには目を背けて作っている。
それにも関わらず、きれいなままの睦の肌は肌荒れひとつ起こすことがなく、世の理不尽さを感じた。
「お、いいねぇ。俺直伝のチャーハンを持ってきてくれ」
「病院食食わねぇと医者から文句言われるだろ」
「大丈夫だよバレねぇから」
「チャーハンの匂いがバレないわけねぇだろ!」
一人で暮らしていたころは一週間に一度は食卓にあったものがよりによって憎まれ口を叩いているクソ親父から教わったものだったなんてな。
ガハハ、と豪快に笑う男の姿はどこをどう見ても健康体なのに、かけられた毛布の隙間から見える腕の細さが病人であることを嫌でも教えてくれる。
「ま、立ち話もなんだ。座れよ」
「……俺の要件は立ち話で済むんだが」
「いいから、親孝行はしとくもんだぞ?」
「我が家の親孝行安っぽいな……」
軽口を叩いてから促されるままに椅子に腰掛けた。背もたれすらついていない備え付けの椅子は長居するなと言っているようだ。
実際、そういった意図があるのかもしれない。なにせ、病院は日本で一番死に近い場所だから。死は遠ざけ、生は実感するもの。日本人の遺伝子に刻み込まれた絶対法則がこんなところにまで届いている。
なにを話そうか──そう悩む間もなくクソ親父が切り出す。
「睦とは最近どうだ?」
「彼女との関係を聞く親か」
「そんなとこだな」
「……それなりに上手くやってる、とは思う」
風呂上がりのケアを全部任されて弁当まで作っていることが上手くやっていると言えるのであれば上手くやれているのだろう。
いがみ合っているわけでも、変な空気になっているわけでもなくあくまで自然体に。
女性は大切にするもの、という教育方針の家に生まれたおかげもあって嫌な思いをすることもなく同居生活を送れている。
「睦ってけっこー気難しいぞ?」
「そうか? 俺にあの子が読み取れるならアンタにだって読み取れるだろ?」
「だってあの娘、俺には一切心を開かないんだもの」
話している間にずっと韜晦しているような男に心を開けるか、と言われたら首を横に振るしかない。苦笑している俺をよそに親父はしみじみとした表情で呟く。
「……そっか。お前は昔から親しい子には優しいからなぁ」
「明らかに歳下の、しかも訳アリな子に優しくしない理由はないだろ」
俺と睦が親しい関係かどうかはともかくとして、誰かにもらった優しさは受け渡していかなければ意味はない。なによりも、睦は人間としてなにか欠けている印象を受ける。そんな人間に自分の出来る範囲で優しくしないのは倫理的におかしい。
「そうか……で、その睦は?」
「家でギター弾いてるよ。アンタはいつも長話をするからな」
「父親のことを老人扱いか?」
「病床に
体を動かした様子がない病床は薬品の臭いがするばかりで生きているにおいがしない。清潔なベッドは不自然なまでにシワや折れ目が少なく、立ち上がった形跡がない。
長生きをするつもりもなかったのかもしれないが、入院しているのは身体が悪いからだろう。この人とも、そのうち別れを迎えることになる。
「ま、優しくしてやってくれ。あの子は十分すぎるくらい演じてきた」
「……偽ってきた、ではなく演じてきた、なんだな?」
「細かいことを気にするやつだな」
「細かいことを気にしないと答えが出ない」
答えが出せなければ、その先にある次の問題に取り掛かることも難しい。
ふぅ、とため息を吐く。この人は死ぬまでこんな調子なんだろうな。
「察してたけど、やっぱ訳アリか」
「なにが?」
「なにが、じゃねぇよ。おすまし顔しやがって……」
殴りたくなるほどすっとぼけた表情を浮かべるクソ親父を一度殴りたい衝動にかられる。
この病室に一番最初に訪れたとき、預かってくれと言われただけで一切の事情を話してくれなかった。つまり、話せばクソ親父にとって都合が悪いということ。なにを企んでいるのか知らないが、思っていたより大きなことなのかもしれない。
俺が
「……匿ってくれ、が正しいんじゃねぇの?」
「いや、事態はそれほど早急じゃない」
「俺が預かってたほうが都合がいいんだろ」
「ご明察~」
ふと真剣な表情をした親父を見て、居住まいを正す。平時はどれだけ憎まれ口を叩いてもいい、でも真面目な話の時は腹を割って話す。我が家の決まりごと、いや……けじめだ。
「睦の家は友達親子だ」
「ウチのことだな」
「ああ、二人して母さんに窘められていたのも懐かしいな」
母親はもう随分前に亡くなっている。もし親父までこのまま墓に入れば天涯孤独の身になるのか、少し遠い目になる。
「ウチは母さんが窘めてくれたからお前はそこまで歪まなかったが……睦の家はそうじゃない」
「あの子が自分の意見を主張できないのはそのせいだってことか」
「
今の言い方にはどこか違和感がある。わざわざ家に預けている子のことを十分には把握していないように捉えられかねない表現をするのは彼にしては珍しい。冷たい感触の思わず喉を鳴らす。
真顔で話すとき、誤解のない表現を心得ているはずの親父がこんな表現をするとは思っていなかった。
「……友達親子、といえばだいたいの目星がつくんじゃないか?」
「さぁな。俺は親父ほど器用な人間じゃないから分からん」
ここの空気はあまりに薄く、息苦しくて、病院だとかそういうことを関係なしに──窒息しそうに思われた。なんとか気を取り直して思考の海に沈んでいく。
友達親子なんて一般家庭にも普通にある。是非も、学問や立場によって賛否はあるが……どっちにしろ、上手く向き合える環境なのだとしたら、きっと睦はもっと言葉を話せる子だった。
彼女の声が奪われてしまったのは、言葉を大切に出来る子だったから。
あまりに大切にしまいこんでいるから必要なときに上手く取り出せない。心を伝える時に大切な人と、心満たせる環境さえあれば自然と身につくはずのものは彼女にはどうしようもなく欠けている。
不意にCRYCHICの写真を思い出す。特別にはとても見えなかったけど、今の睦にないものがあそこにあったように思えてどうしようもなく歯噛みする。
「ま、お前の要件に移ろう。えーっと、防音室だったか?」
「……ああ、睦がギター弾きたいって言うんでな」
「導入費用は?」
「本人が出すと言って聞かない。どれほど長居するのかも分からないのにな」
これが定住する予定なら俺だって難色を示したりしない。
ただ、これは一時的な同居関係。将来を約束したわけでも、書類的な庇護下に入ったわけでもない口約束の契約。自分たちで決められない別れの時はきっと来るのだから、費用をかけてまで作る必要もないと思うし、ライブハウスでスタジオを借りれば安上がりだ。
それがたとえ、一人のクリエイターを殺す結果になっても。
「傷跡を残してほしくない、か?」
「……否定はしない」
誰かの足跡が部屋のなかに残っていれば離れたとき、ああいう想い出があったな、とかこういう嫌なコトがあったな、とか残された足跡を見るたび思い出す。一度離れたら、睦と俺の関係は泡沫の夢のように消えてなくなるだろう。
まるで最初からなかったかのように。記憶がない部分があるせいか、忘れることに関しては人一倍敏感になってしまった。
それだけだろうか。なぜだか長崎の顔が脳裏をよぎった。
「お前はいつも残していく側のことを考えるよな……」
「……後味が悪いのは嫌いなんだよ」
「はいはい、わかったわかった。病室で死人みたいな顔をするなよ」
死人に近いのはこっちなんだから、と心底楽しそうに笑うクソ親父を羨む。全部自分が始めたことなのに、他人事のような態度を取られたら呆れるのも忘れて苦笑いを浮かべてしまう。
自分に死が近いのを息子の前でこれだけ気軽に言えるのは世界ひろしといえど、この男くらいなものだ。
「つーか、言ってなかったっけ」
「なにを」
「お前の部屋防音室になってるぞ」
「なんで?」
記憶の中を掘り出してもそれらしい記憶はない。入居のときに言われたのは賃貸を買ったからそこに住んでいいことと、財産分与として名義は俺のものになっていることだけだ。
部屋の扉を閉め切ったときにインターホンの音が聞こえないのはそういうことだったのか。誰も居ないから開きっぱなしにしていたのは部屋の長所をなくすことだった事実に愕然とした気分になる。
「なんだよー。せっかく息子のために奮発したのに!」
「その奮発も知らせなければ意味ないだろ」
「恩着せがましいかなぁって思ったんだよ、多分」
「適当だな……」
「そう? 俺っていつもこんなもんだろ?」
「適当言えるうちは元気だって思うことにするよ……」
俺の部屋は防音室だった。これだけで今日来た価値はあった。なにせ、睦に無駄な資金を出させることなく、彼女の望みを叶えられる。
「それで、どうすんだ?」
「質問の意図が分からない」
「女が人の家に自分の足跡を残そうとする意味ってわかるか?」
酷く曖昧な答えを求められている。忘れものをしたように見せかけて次来る理由を作ることもあるだろうし、好きな人間の部屋に自分の足跡が残っていること自体に価値を感じる人だって。
人によって違う、それは正しく千差万別。俗世まみれの、手垢のついた回答しか用意することが出来ない問い。これらに一つの共通要素をこじつけるのであれば、きっとこうだろう。
「……思い出してほしいからじゃないか?」
「正解」
誰かに自分のことを思い出してほしい。そのためだけに頑張っている人も居るだろう大きなテーマは親しい間柄でなくとも成立するような、人として当たり前の衝動。
恋人だから、一緒に住んだから、心を通わせたから。理由付けはいくらでも出来るが、これ自体は特段不思議な事ではない。むしろ、人間として当たり前の情動と言える。
「ところでお前、幼少期のことは覚えてるか?」
「……いや」
なんでもないかのように呟かれたひとことに思考が中断された。
幼少期の記憶なんて、成長とともに忘れていくものだ。印象的な出来事や、節目を覚えていることはあるかもしれんが……そう思いながら記憶を手繰っても、やはり当たり前のように思い起こされるのは歯抜けの記憶。完璧にこうだった、と確信を抱けるほどの記憶はない。
特に高校以前は曖昧で、年末年始や国民の休日などの妙な部分が抜けている場合が多い。受験のときですら覚えていないのはおかしいと自分で思う。
「記憶の3要素といえば記銘、保持、想起なんだが……なにか分かるか?」
「いや」
「情報を覚えること、保ちつづけること、思いだすこと。こいつらをまとめて、記憶の三要素なんて言ったりするな」
「はぁ」
脳にインプットしたものを保持して、必要に応じて取り出し反復する。言葉に起こせば単純で、理解しやすい。
「短期記憶と長期記憶の違いは……」
「そっちは保健とかで習うだろ」
少ししか覚えておけないのが短期記憶、短期記憶を何度も思い起こすことで保存されるのが長期記憶。ここまでは義務教育を受けていれば分かる。
「ちゃんと受けてたのか」
「……その口ぶりだと、アンタは受けてないのか?」
「受けてたさ。夢の中で」
「睡眠学習ってそういうことじゃねぇから」
「だって面倒じゃない。学びたくないもん触れんのはさぁ」
「親としてあるまじき発言だと思う」
普通親というのは勉強をしなさいと口うるさいものだというのに、うちのクソ親父ときたら勉強は面倒の一点張りで勉学を強制されたことはない。問題は、この男自身は嫌いなものだとしても頭に入っているということだ。
勉強をしなくていい、と言ったことだけは俺の記憶にもない。
「長期記憶のなかには宣言的記憶と非宣言的記憶ってのがある」
「はぁ……」
「まぁ聞けよ。宣言言語はこういうことがあったという主にエピソード記憶、知っているという辞書記憶で構成されている。対する非宣言的言語は反射的に手が動く、まー、簡単に言えば身体にまつわる記憶だな」
「話が見えてこないんだが……」
脳科学だとか、心理学の授業を受けにきたわけでもない。背筋に冷たいものが走るのを自覚して、この病室から逃げたくなるのは勉強に対する嫌悪感ではない。恐怖だ。自分が薄々感じているようで、あえて言葉にしていない部分を無遠慮に掘られたときのような不快感が裸の心を鷲掴みにして離してくれない。
フッ、と笑って相好を崩す親父にため息を吐く。
「そうだな……お前、睦と生活しててどうだ?」
「それなりに楽しんでるよ。手間をかけられてるが」
「そういうことじゃない。……既視感のようなものを感じたことはあるか?」
ただ、デジャヴは異なるものを似ているものと判断する脳の動きが原因で、年齢やストレスの有無が関連しているというのが通説。以前にあった気がする、と感じる機会が増えたのは睦が我が家に住み始めてからのことだとしても、俺は彼女の存在をストレスに感じたことはない。
なによりも、既視感を感じるときはいつも彼女に触れているとき。たとえば。
「そうだな……髪を乾かしたり、髪に触ったときには感じる」
「え、お前らそんなことしてんの、恋人?」
「ちくしょう言うんじゃなかった!」
押し寄せる波のような後悔に意味はない。後悔先に立たず、とは言うが理屈で分かっていてその通りに出来たら苦労はしない。対外的な親に自分の異性に対する態度を赤裸々に語るだなんて……考えなしの行動に頭を抱える。
「ま、そっちは置いておいて、だ。お前、別に異性に気軽に触らねぇだろ?」
「好きでもない相手に触られるの普通嫌だろ」
「あ、そう? 随分古風に育ったなぁ」
「褒めてないだろ?」
「女をモノにするとき苦労しそうだなぁ、とは思ってる」
それは世間一般的には褒めていない時の表現だ、どういう意味か聞こうとしたときに、部屋の外になにか言いたげなナースが立っていて口を噤む。面会時間の終わりだ。
「学生には赤点が最大の敵くらいでちょうどいいって話さ」
「……まぁ、それは思うよ」
苦痛と困難に見初められた人生は強靭な力を宿すかもしれないが、同時にいつ壊れてもおかしくない心を作ってしまう。
だから、というわけではないけれど。
「もうちょっと笑ってほしいよなぁ」
「あん?」
睦はあれで百面相だ。微妙な表情や心の動きがほとんど動くことのない表情から察せられる。
つい漏れ出た言葉は聞かせるべき相手を間違えていた。なんでもないと首を振ってからどうしようもない父親を一瞥して口を開く。
「今後、また何度か通わせてもらうぞ」
「親孝行じゃないの」
「バカ言え。ヒントだけよこして本筋は一切触れてないだろ」
厄介事を押し付けられているんだ、知恵くらい貸してもらわないと割に合わない──言うだけ言って、続きを聞くことなく部屋を出ようと足を進めたところで、一つだけ言いたくて足を止める。
「……睦の親は」
「あん?」
「あいつを、放っておいたのか?」
「…………」
「わかった。もういい」
腸が煮えくり返る思いをしたのは初めてだ。明らかに人間として成立していない子どもを前になにもしない親など、それは親としての自分を捨てているようなものではないか。
「相変わらず、不器用だなぁ俺の息子は」
閉じた扉を見つめて瞳を閉じる。あいつは答えにたどりつくだろうか。
いいや、たどりついてもらわなければ困る。
毛布の下に収納されている自分の足を見る。血の通っていないような青色は身体が正常に動いていないことを証明しているようで背筋が凍る。
「ちっと時間が足りねぇかもなぁ……?」
感情を言葉にするには人からもらったものでは足りない。それはアイツの言うところのホンモノじゃない。安易で醜い選択肢は甘いからこそ、手を伸ばしたくなる。
僅かに見えた本音はアイツにしては珍しい個人願望だった。
「無駄なおしゃべりは身体を濁らす──」
解がない禅問答に意味がないわけではないが、一方通行の感情は強い一方で脆い。自分に向けられているものと、向けたいもの。自覚しなければ一生交わらないことに、お前はまだ気付いていない。
「night on bald mountain」
これはオレの見解、オレの希望、オレの祈りだ。
戻ってくれなければ、賭場を用意した意味がない。
白眼視されてきた少女が、手を伸ばした意味もないのだから。