自由連合召喚   作:短号司令官

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ちょっと息抜きです


《征途日本》過去の事象

 

 

 

《太平洋戦争》

 

 

 

 

ホモンホン沖海戦

戦艦紀伊と米海軍第77任務部隊第2群との艦隊戦。米軍名称はレイテ湾口海戦。最終的に日本側が戦艦6、巡洋艦4他を撃沈して勝利し、レイテ湾突入の手助けを果たした。なお紀伊は装甲内部のゴム層とウレタン層が固まっていなかった事、砲弾が充分に積載されていなかった事もあってそのまま戦線を離脱。

 

 

 

 

 

セント・クリスピンの虐殺

レイテ湾に突入した日本第1遊撃部隊による米軍レイテ侵攻部隊への攻撃。名称の由来はアジャンクールの戦いから。

この攻撃によって、マッカーサー元帥、キンケイド第7艦隊司令長官が戦死したほか、約10万トンの物資と4万人以上の将兵を失う損害を出した。

これによりレイテ島以外のフィリピン攻略の中止、沖縄攻略の3ヶ月延期、さらにソヴィエトによる北海道侵攻が決定されるなど戦略面で大きな影響を与えた。

 

 

 

 

石狩湾事件

昭和20年(1945年)7月25日に起きた日本海軍機とソヴィエト艦との戦闘。

石狩湾内に侵入し測量を行い、日本側の偵察機に攻撃を行ったソ連海軍のオグネヴァイ級駆逐艦に対し、訓練飛行中だった藤堂守少尉搭乗の流星改が千歳航空隊司令・源田実大佐の命令の元、攻撃を行い撃沈した。

この事件は対日参戦を目論んでいたソ連によって意図的に起こされたものであり、同日夜ソ連軍は満州、樺太への攻撃を開始した。

 

 

 

 

 

沖縄沖海戦

昭和20年7月25日に起きた日本海軍第2艦隊と米海軍第54任務部隊による艦隊戦。

同海戦は台風4号(米軍呼称「アリス」)の中での艦隊戦となり、また日本側が電探(レーダー)で先に米軍側を発見したことによって主導権を握ることに成功した。

最終的に第2艦隊は旗艦である戦艦「武蔵」ほか重巡洋艦・鳥海、軽巡洋艦・矢矧、駆逐艦2隻を失ったが、米軍は戦艦7隻が撃沈・大破するなどの大きな被害を出し、また「榛名」が上陸地点へ艦砲射撃を実施した事により5万トン近い物質まで失う事になった。戦後「損害だけを見るとどちらが勝ったか間違えてしまう戦い」と呼ばれた。

 

 

 

 

 

石狩湾海戦

昭和20年8月21日に起きた日本海軍水上部隊とソヴィエト太平洋艦隊による艦隊戦。

北海道全土占領の既成事実を作るべく石狩湾に来襲したソヴィエト艦隊に対し、「大和」「紀伊」「尾張」以下残存する連合艦隊全艦が応戦し、大和艦長の黛治夫の戦死や駆逐艦2隻を失うなどの被害を受けながらも、戦艦3隻、輸送船40隻以上を沈めることに成功した。

これによってソ連軍は8月12日から北海道に侵攻した地上軍への補給ができなくなり、北海道全土占領は中止された。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

北海道戦争

 

昭和25年(1950年)に始まった南北日本間の戦争。北日本名称「第一次祖国解放戦争」。

昭和26年10月の時点で北日本軍が国連日本援助軍(通称UNJAF)を函館橋頭堡に追い込むほどの快進撃を見せたが、翌27年に行われたアイアン・フィスト作戦によって北日本軍が壊滅し、戦局を一変させることに成功した。

最終的にソ連が北日本に対し反応兵器を供与すると宣言し、さらにUNJAF総司令官ジョージ・パットンの総司令官職罷免がこれに重なったことにより曖昧な形で休戦した。

 

 

函館橋頭堡

昭和26年10月時点での戦線。寿都湾からオタモイ山に至る戦線で、攻撃をかける人民赤軍約7個師団に対し、UNJAFの米軍2個師団と日本警察予備隊・第1管区隊が守っていた。

制空権を確保し続けたことで人民赤軍の攻勢を頓挫させ、戦局を転換させるきっかけを作ることになった。

なおこの時福田定一(当時一等警察士)が特車中隊を率いて、1個戦車連隊を壊滅させる戦功を上げている。

 

 

アイアン・フィスト作戦

昭和27年6月に行われたUNJAFによる反攻作戦。

函館橋頭堡からの4個師団8万名による地上反撃「アイアン」と石狩湾への6個師団強14万名による強襲上陸「フィスト」の2段階から構成される。また政治的バランスとUNJAF司令官パットン大将の個人的要求により、警察予備隊第2管区隊に加えて第7特車群(司令官・島田豊作一等警察正)が参加している。

6月6日に行われた石狩湾への上陸作戦の成功により作戦全体も完全な成功を収め、北海道に存在した人民赤軍の大部分が殲滅された。

 

第2次日本海海戦

昭和27年6月5日に行われたUNJAF所属A統合任務部隊(通称エイブル部隊)とソヴィエト援日義勇艦隊、北日本赤衛艦隊の連合艦隊による艦隊戦。

エイブル部隊には改装によって海上警備隊超甲型警備艦となった「やまと」「きい」「おわり」が加わっており、その火力でクロンシュタット級巡洋戦艦2隻を沈めるなど義勇艦隊を圧倒するが、艦隊旗艦アラバマがソヴィエト艦隊の集中攻撃で沈んだことと、海戦終盤の赤衛艦隊による雷撃で「やまと」が損傷したこと、「きい」「おわり」の弾薬不足によって、完全な勝利を収めるには至らなかった。

 

南北定期会談

北海道戦争の休戦後、分割都市となった旭川市で「新たな平和の道を探る」ため毎年4月末に南北日本の代表団と国連のオブザーバーが行う会談。

1982年の会談では藤堂守(当時中将)と進(当時二佐)がある目的で参加させられることになり、太平洋戦争後で唯一兄弟が顔を合わせることになった。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

ヴェトナム戦争

 

 

コー・チェンの戦い

1968年(昭和43年)1月31日から始まった日本ヴェトナム支援部隊(通称:JASCV)と南ベトナム解放民族戦線約2個連隊による戦闘。

第1独立装甲連隊と第2ヘリ団の普通科大隊によって、ヴェトコン部隊をコー・チェン川下流域に押し込め、そこを自衛隊機による空爆と「やまと」以下の水上部隊による艦砲射撃で全滅させた。

しかし世論は軍事作戦ではなく虐殺とみなし、指揮官であった福田は作戦終了後に解任された後、国会に召致されるなど政治的対象になりすぎたことで、陸上自衛官としての未来を失うことになった。

 

 

海外部隊派遣法

自衛隊のヴェトナム参戦に際して制定された法律。後の湾岸戦争では国会での2か月に渡る混乱の末にこの法律の埃が払われ、一時解散されていた第1独立装甲連隊が再編成されて派遣された。

 

 

 

 


 

 

統一戦争

 

 

 

1994年(平成6年)に始まった南北日本間および合衆国の戦争。北日本の川宮勝次首相の死後、藤堂守の主導による軍事クーデターが勃発してNSD及び実務官僚派が排除され、川宮首相の息子である川宮哲夫国家政治委員会副委員長が実権を掌握して首相に就任したことで開始される。

開戦直後、藤堂守が指揮する北日本軍は国後島及びオホーツク方面に展開する全合衆国軍に対し奇襲攻撃を開始。戦術反応弾も用いた全面攻撃により、完全な防衛体制を敷いていなかった樺太及び北海道方面の合衆国軍部隊は壊滅状態に陥り、また北日本軍が戦術反応弾を使い切ったことから、以後の戦いは南北日本双方の通常兵力が中心となって展開された。

 

 

 

第3次日本海海戦

1994年(平成6年)7月28日夜に行われた海上自衛隊第2機動任務群と北日本赤衛艦隊主力による艦隊戦。日本海を北上する第2機動任務群を、全力出撃した赤衛艦隊主力が迎撃する形で勃発した。

第2機動任務群は「やまと」の他、航空護衛艦「ほうしょう」、ミサイル護衛艦「きりしま」「はたかぜ」、打撃護衛艦「あきづき」、対潜護衛艦「はつゆき」「あさぎり」等計19隻を擁していた。対する赤衛艦隊も主力の全てを集結させており、旗艦である戦艦「解放」と空母「統一」を中心として、キーロフ級巡洋戦艦「栄光」、スラヴァ級巡洋艦「独立」等計28隻を擁していた。

まず前哨戦として、双方とも空母から艦載機を発艦させ航空戦を行ったが、「ほうしょう」と「統一」の艦載機数が比較的近かったこと、攻撃隊が空戦に巻き込まれる事態も起きるなど徐々に乱戦状態に陥りつつあったことから双方とも決定的な打撃を与えることができず、水上艦艇に搭載された艦対艦ミサイルによる水上打撃戦に移った。

水上打撃戦では「統一」の早期警戒ヘリと空軍の早期警戒機の支援を受けた赤衛艦隊が先手を取り、第2機動任務群に対し飽和攻撃を仕掛けたが、「やまと」や「あきづき」等により全弾迎撃され失敗に終わる。そして第2機動任務群側が反撃として対艦ミサイル攻撃を仕掛け、これを迎撃し切れなかった赤衛艦隊の各艦は次々に被弾。旗艦「解放」を含む大半の艦艇が撃沈される結果となり、生き残った艦も真岡へと撤退。第2機動任務群の勝利に終わった。

これにより赤衛艦隊は壊滅、北日本は制海権を完全に喪失することとなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

関連人物

 

藤堂明

レイテ沖海戦時点では海軍中佐。

藤堂家は明の祖父の代から帝国海軍軍人であった。戦艦大和の砲術長としてレイテ沖海戦に参加していたが、海戦中に僚艦の砲弾が流れ弾となって大和の艦橋に命中し、森下艦長、能村副長の他、栗田長官、宇垣戦隊司令官以下艦隊司令部の面々もことごとく戦死してしまう。明は後部艦橋配置だったため難を逃れるが、大和の中で生存する兵科将校の最上級・最先任者として大和の指揮を執らざるを得なくなってしまう。その後、艦隊はレイテ湾突入と米軍上陸部隊の殲滅に成功し、米軍によって「セント・クリスピンの虐殺」と名づけられるほどの戦果を挙げた。

翌1945年、内地に一時帰還し大佐に昇進して戦艦武蔵の艦長に就任するが、長女は沖縄戦で斃れ、妻も本土への避難途中に敵潜の攻撃により没した後だった。やがて沖縄水上特攻に参加することとなり、唯一内地に残る二男の進を友人の堀井に託して出撃。台風にまぎれる事で沖縄への接近に成功し、沖縄沖海戦で敵艦数隻を撃沈・大破させる戦果を挙げたのち、自らも武蔵とともに壮絶な戦死を遂げた。死後、少将に特進。

 

 

 

 

藤堂守

明の長男。1945年、海軍少尉で流星改(守の乗機は、愛知航空機の技師だった「先生」によってエンジンを密かに換装された流星改一型)のパイロットとして北海道・千歳基地でソ連軍の参戦に備えていた。

石狩湾で領海侵犯したソ連駆逐艦を自らの流星改が撃沈した事件(石狩湾事件)を口実としてソ連が対日参戦し、守も樺太(サハリン)・北海道北部をめぐる攻防戦の最前線で奮闘するが、乗機のエンジントラブルとソ連軍による対空射撃の被弾で、樺太・真岡付近に不時着。しかし、ソヴィエト軍の捕虜になるまでに遭遇したある出来事が深いトラウマとなり、妻サーシャと出会うまで長年にわたり「男性として大変な苦悩」を背負うこととなる。

 

日本分断後は北日本の人民空軍で戦闘機パイロットに転身、祖国解放戦争(北海道戦争の北日本側の呼称)で人民空軍初のエース・パイロットとなり、ヴェトナム戦争において被弾撃墜され負傷するまで第一線で活躍した。「愛国心などかけらも抱いていない」共産主義国家の軍人として生きることに葛藤を抱きながらも、最終的には空軍元帥・人民空軍総司令官まで昇進し、北日本の軍事力を事実上掌握したことから西側諸国より「イエロー・ゲーリング」と呼ばれるまでになる。しかしやはり共産主義国家の軍人であることに耐えられず、川宮哲夫と表向き手を組んで軍事クーデターを引き起こすと、哲夫を説得して先制攻撃を実施し統一戦争を勃発させるとともに、裏では義兄のコンドラチェンコや宗像たちと共に豊原政権打倒を目的とした行動を起こす。自らはサーシャとの間に一児を得るも夭折。その際の心労によって、サーシャもまた病死している。戦後半世紀の間、弟の進と直接顔を合わせたのはただ一度であった。

 

 

 

 

藤堂進

明の次男。大和が就役した日に生まれた。

沖縄からの疎開中、米海軍の雷撃により疎開船の貨物船を沈められた際、偶然同船した父親の知己の海軍軍人(後に自衛官となった進の上官になる)より貰った救命胴衣と、疎開船を撃沈した米海軍潜水艦の艦長の救助により本土の海岸に送られた事により、九死に一生を得ている。

父の死後はその友人であった堀井の家で育てられ、堀井の娘で一歳年上の雪子と結婚。長じて一般大学のROTCから海上自衛隊に入り、ヴェトナムに派遣される。湾岸戦争では一等海佐として護衛艦「やまと」の艦長を勤め、空母「ミッドウェイ」をめぐる戦いに参加。湾岸戦争終結後は海将補として第二航空護衛隊群司令に就任する。

第二航空護衛隊群司令を退任した後は無任所の海将補として退役を待つ身だったが、統一戦争勃発に伴い護衛艦隊司令部からの要請で第2機動任務群第8護衛隊司令として「やまと」に乗艦し第3次日本海海戦に参加した他、豊原近郊の戦略打撃軍IRBM基地への艦砲射撃を指揮した。統一戦争終結後、海将補で退役。

 

 

 

 

 

 

 

 

豊田副武

海軍中将、旅順総督。戦艦紀伊・尾張の建造を提言し実行した張本人。

石狩湾海戦に際して自ら第一艦隊を率いて石狩へと進撃、艦橋に直撃を受け重傷を負う。

 

 

 

 

伊藤整一

海軍中将。沖縄戦に際して第二艦隊を指揮。死後海軍大将へ特進。

 

 

 

 

小沢治三郎

海軍中将。連合艦隊最後の司令長官。石狩湾海戦では再編した第一航空戦隊*1を指揮。戦後大将へ昇進(ポツダム進級)

 

 

松田千秋

戦艦紀伊の初代艦長。ホモンホン沖海戦では戦艦6隻を撃沈する戦果を上げる。続く石狩湾海戦では艦橋に直撃弾を受けてるもそのまま指揮を続行。

第二次日本海海戦では「やまと」の艦長として出撃。

 

 

黛治夫

史実では重巡利根艦長などを歴任した人物でホモンホン沖では紀伊の砲術長を担当。レイテ沖海戦後に大和艦長となり、ソヴィエトの日本侵攻時に艦隊を率いて出撃し侵攻船団を殲滅するも、海戦の終盤で敵弾の直撃を受け戦死。

 

 

猪口敏平

史実では武蔵艦長としてシブヤン海で戦死した人物。

本世界線では武蔵がレイテ沖海戦を生き延び、海戦後に明が武蔵の新艦長として赴任したため生存。松田千秋の推薦により尾張の艦長に抜擢され、その手腕を遺憾無く発揮。戦後少将へ昇進。

第二次日本海海戦時は「おわり」艦長として出撃する。戦後は各地の基地司令などを歴任しヴェトナム戦争時には「おわり」からコー・チェン河砲撃を指揮。戦後自身は責任を追及されなかったが福田に対して申し訳無と感じ自ら予備役入り。その後は有賀幸作の進めで江田島で教官となる。

 

 

吉村真武

史実では戦後、戦史研究家として活躍した人物。

戦艦榛名の艦長として活躍。

 

 

 

有賀幸作

史実で戦艦大和の艦長として坊ノ岬沖海戦で戦死した人物。

第二次日本海海戦時には「きい」の艦長となる。その頃から猪口敏平とはつき合いがあり、猪口を江田島に行くように進めたのも彼。

その後は海将で退役。

 

 

伊藤叡

伊藤整一の息子。史実なら沖縄特攻で亡くなった人物。

本世界線では台風4号で出撃が出来なくなった事とソヴィエトの北海道侵攻を警戒して北海道へ移動したことにより生存。

戦後は警察予備隊のパイロットとして北海道戦争に参加。戦後、航空自衛隊が設立されるとそこへ籍を移した。ヴェトナム戦争ではF-4を駆り、コー・チェンの戦いに参加。

その後は千歳基地司令などを歴任し第21代統合幕僚会議議長*2を担当。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

艦艇

 

 

大和型戦艦「大和」「武蔵」

レイテ沖海戦等で活躍。武蔵は沖縄戦にて戦没。

大和は「やまと」に名を変え現在に至るまで現役。

 

超大和型戦艦「紀伊」「尾張」

大和型を超える戦艦として旅順にて建造された世界最大の戦艦。

現在に至るまで現役。

 

伊勢型戦艦「伊勢」「日向」

レイテ沖海戦、石狩湾海戦にて活躍。戦後北海道戦争に参加するも伊勢が中破、日向が撃沈される。伊勢は戦後スクラップとして解体。

二番砲塔の砲身が横須賀で展示されている。

 

 

金剛型戦艦「榛名」

沖縄戦では武蔵が米戦艦と戦う中で上陸地点の物質や歩兵に対して艦砲射撃を実施、石狩湾海戦にも参加。戦後、海上警備隊にて「はるな」として一時期所属していたが老朽化により北海道戦争後退役。モスボール保管の後、「神戸海洋博物館」のある神戸市波止場町にて固定され「記念艦榛名」として「三笠」に並ぶ観光名所として存在し、某ゲームのファン達からは聖地とされている。

 

重巡洋艦「利根」

沖縄戦からよ帰還後、石狩湾海戦に参加。

海上警備隊を経て海上自衛隊にて試験艦としてその生涯を全うし、1970年に退役。現在に至るまで佐世保にて一般公開されている。

 

雲龍型航空母艦「天城」「葛城」

戦争末期に建造された空母。

天城は呉空襲により転覆。石狩湾海戦後、帰路にて葛城は飛行甲板に着弾するも生還。

この被弾によって飛行甲板の一部が吹き飛び、また吹き飛ばなかった部分についても弓状に盛り上がった状態となった。

一時は復員船となるも、海上自衛隊発足と共に「航空護衛艦」となる。

その後は呉で記念艦として「大和ミュージアム」の一部となっている。

 

飛鷹型航空母艦「隼鷹」

商船改造空母。戦後葛城よりも被害が軽微だった事もあり第二次日本海海戦にも参加。戦後は練習艦として生涯を全うし70年代に退役しスクラップとして解体。

 

 

阿賀野型軽巡洋艦「矢矧」「能代」

矢矧は沖縄沖海戦で沈没。能代はレイテ沖海戦時、第二水雷戦隊の先頭に立ち、2番主砲を失いつつも雷撃を敢行した。

 

 

大淀型軽巡洋艦「大淀」

大戦末期の石狩湾海戦にて参加する。攻撃を受けて石狩湾に転覆しているのをソ連・赤い日本によって引き上げられ、「栄光」の名前で第二次日本海海戦に参加。統一戦争時には豊原にてモスボール保管されていたが海自の対艦ミサイルの攻撃で爆沈。

 

 

駆逐艦

「冬月」「涼月」「春月」「雪風」「磯風」「浜風」「朝霜」「初霜」「響」「霞」「島風」(ほか多数)

 

 

 

 

*1
葛城・隼鷹からなる

*2
現統合幕僚長

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