理解していないもの、強い思い入れがあるものを再構築する際に、ひと欠片も変化させず同一のものを形作れるのか、という疑問点からいつか形にしたいと思っていたものです。
「紛い物だな」
思わずこぼれたような、小さな声を耳にして、グランは艇を歩く足を止める。
言葉の割に、聞こえてきた声音は平たく静かだったが、どこか物寂しさを含んだようにも聞こえて、グランは声の主の方へと歩みを進めた。
災厄を起こした際より、時が止まっているサンダルフォンが、甲板へと続く通路に佇んでいた。
いつも暗い色のフードを被っている姿は、他者との関わりを断ち切る意思表示に見える。
その視線の先、甲板の方には、グラン達と共に旅をしてきたサンダルフォンが居た。ビィとルリアに挟まれて、何やら騒がしそうに歓談している。
困ったように、あるいは呆れたように、二人と話すサンダルフォンはくるくると表情を変えていく。それから、ビィとルリアにつられて、楽しそうに笑い声をあげる。
艇に乗ったばかりの時には見られなかった、共に過ごす内に変化して浮かべるようになった、柔和で明るい表情だ。
もうそんな表情が当たり前になってしまったサンダルフォンを目にする、災厄のただ中のサンダルフォンの顔を、グランはそろそろと伺い見た。
何も言わず佇む彼の表情には、侮蔑も、嫌悪の感情もなく、ただ静かな断絶があった。
それを見て、グランはなぜだか、息が苦しくなった。
否定的な感情を見せていたわけではないのに、共に旅をした彼と、すぐ傍の彼がものすごく遠くあるものだと、突きつけられた気がしてしまった。
声を掛けあぐねて、その場から離れることも出来ないグランの前で、サンダルフォンが再び口を開く。
「――いや、アレこそがルシフェルに望まれた形か」
先ほど聞こえてきた時と同じく、静かで平坦な声音でサンダルフォンは告げる。
自分自身とは別人であると、そう言った。
グランは堪らず、目の前のサンダルフォンに声を掛ける。
「あっちのサンダルフォンは、僕達と旅をして、色々なことがあったから……」
今は別人のように思えるのだろう、そう言おうとしたが、グランは言葉を最後まで続けられなかった。
そんなグランの内心を見越したのか、サンダルフォンはさらに言葉を連ねる。
「同じ事態を経たとして、俺がああなるとは思えないな」
忌避でも諦念でもなく、ただの事実を告げるような声だ。
グランはサンダルフォンの言葉を否定出来なかった。
ルリアは繭の中で会ったサンダルフォンを、災厄の時と同じ彼だと思い、共に前に進むために言葉を尽くした。
だけど、グランはそうは思えなかった。
同じ姿形をしているのに、ボタンを掛け違えたような小さな違和感があった。
二千年間、強い思いを摩耗させずに抱き続けた者が、時のない場所で何十年、何百年と過ごせば、苛烈さも霧散して、ぬるんだような覇気のない姿を見せるのか。
世界を滅ぼすほどに思い詰めた者が、後悔を抱き、役割を課せられれば、身を投げ出すような献身も出来るのか。
遺産やルシファーを止めるのに必死だったため、そんな疑問が浮かんだのは、つかの間の平穏を取り戻した空を共に旅して、それなりに多くの時間を過ごしてからだった。
はじめは小さな引っかかり程度だった疑念は、時間を経るごとに大きくなっていき、幾度も滅びの危機にさらされた世界が、歪んだ次元から呼び込んだ、災厄の事件の渦中にあるサンダルフォンを目の当たりにして決定的になった。
共に旅したサンダルフォンも大事な仲間だ。
ルリアを助けるためにその身を投げ出したのには、(自分のことを棚に上げるけど)怒っているし、その後、ちゃんと助けられてほっとした。
天司長として、仲間として、頼りがいがあって、団の皆と共に、笑顔で過ごしてくれると嬉しくなる。
では、目の前の彼は。
大事な人達にひどいことをしようとしたのは許せなかったし、今だってそれを忘れるつもりはない。
でも、敵だったからって、ずっと苦しんでいて欲しいなんて、グランにはちっとも思えなかった。
これから先、どんなに時間を掛けても彼を淀んだ心を、変えられるなんて出来やしないのかもしれない。それこそ、彼自身が救われることを求めていないだろう。
だからといって、目の前の彼に何もしないなんて、グランには出来なかった。
「君だって、今から君自身が選びたい未来に進んだって良いんだ!」
グランは思わず、浮かんだ言葉をそのまま叫んだ。
いきなり何を言い出すのかと、サンダルフォンは眉をひそめて訝しげな視線をグランにやる。それでも構わず、グランは続ける。
「もう一人のサンダルフォンだって、大事な仲間なんだ。彼が選んだことを馬鹿にしたり、否定したりするなら怒るけど、彼が進んだ道を選びたくないと思うのなら、無理に同じ道を選ばなくても良いと思う」
もう一人のサンダルフォンが選んだ道は、彼が進むべきと決めた道だ。それは他人が否定して良いものではない。
また、彼が選んだ道を、誰もが歩むべきというわけでもない。叶えたい願い、大事にしたいもの、それは誰もが同じではない。
そして、大事にしたいものが同じだからといって、同じ選択をしなければならないわけではない。
まだ、災厄の渦中から抜け出せないサンダルフォンだって、いつか他に何かを望むことがあれば、叶えていいのだと、グランは考えていた。
「まだ世界を滅ぼすというなら何度だって止める。けど、誰かを傷つけないのなら、やりたいことを応援したいんだ」
さらに言葉を連ねるグランに、サンダルフォンは不可解と困惑を顔に浮かべる。
「やるべきことを迷っているっていうなら、僕も一緒に探すよ!」
グランが偽らざる本心を最後まで口にすると、サンダルフォンは酷い頭痛を堪えるような表情をした。
「……君は本当に見境がないな。我欲を抱えている人間ですら、君よりはもう少し慎み深いかもしれない」
「え? えへへ。それほどでも」
褒めていない、と唸るような声でサンダルフォンはグランに言った。
呆れたように嘆息して、ふと思いついたようにサンダルフォンは口を開く。
「あるいは、本当に世界を滅ぼすのは君のような存在かもしれないな」
サンダルフォンは軽口で言ったつもりかもしれないが、グランはその言葉にひやりとした。
涯ての力など、他にも世界を根本から変質、あるいは完膚なきまでに破壊するような力にいくつも触れてきた。
悪意をもってその力を使えば、世界を滅ぼせる回数は両手で収まらないかもしれない。
「そんなことは、絶対にさせないし……」
「ふぅん?」
グランが苦しげに否定すると、サンダルフォンは意地が悪そうに口端を歪める。
「それはそれは。守りたいものを自分の手で滅ぼすなんぞ、さぞかし無念なことだろう。その際は俺が手ずから、君を止めてやるとしよう。次こそ、命の保証はしかねるが」
あざ笑うかのように、サンダルフォンは楽しげに言う。
「嫌だよ。君にこれ以上、傷を抱えさせたくない」
グランがぴしゃりとそう言えば、サンダルフォンは盛大に顔をしかめる。
「……たかだか、人ひとり手に掛けたところで、傷になんぞ、なるものか」
「どうかな。君、自分の痛みには鈍そうだし」
あるいは、痛みを感じるとしても、自ら自分を傷つけるのをためらわなさそうだ、とグランは思った。
「……俺の感情を自分に都合良く解釈するな」
ごく低い声で、サンダルフォンはグランの主張を否定する。細められた双眸は、射貫かんとするかのようだった。
災厄らしくない自分の行動に目をつぶっているのはそっちじゃないか、と言いたかったが、グランは言葉を飲み込んだ。彼に自分の考えを認めて欲しいわけではない。
どういう目的だとしても、サンダルフォンは今、共に過ごす仲間達を傷つけていない。戦いの場を同じくすることもあれば、敵の攻撃に倒れて動けなくなったグランの前に立ち、並み居る魔物を一掃したこともある。
もちろん、グラン達を助ける目的ではないという言い訳など、いくらでも連ねられる。
しかし、仲間を傷つけていないこと、助けられたこと、その事実は否定出来ない。
サンダルフォンは何も言わないグランの腹づもりを探るように、顔を睨みつけていたが、やがて、一つ舌打ちをして踵を返す。
その背中を見て、グランはサンダルフォンがこの通路に居た本来の目的は何だったのかと、思い至る。
もしかしたら、外へ出るのに、もう一人のサンダルフォンと鉢合わせないように待っていたのかもしれないと考えたグランは、慌ててサンダルフォンに声を掛ける。
「ごめん! 外に出るつもりだったなら、邪魔するつもりはなかったんだけど……」
サンダルフォンは足を止めて、わずかに顔をグランの方に傾けた。
「君ごときが俺の邪魔になることなんて、もうないさ」
「え……?」
平坦な声音で、表情もフードに隠れて分からない、放たれた言葉の意図を図りかねて、グランは思わず声をあげる。しかし、それに応えるつもりは毛頭ないようで、サンダルフォンはそのまま足を進めた。艇の通路に規則正しい足音が反響する。
グランは離れていくサンダルフォンの背中を眺めるだけにした。追いかけて聞いたところで納得できる答えは返ってこないだろう。
艇の通路にぽつりと取り残されたグランは、しばらくそのまま、サンダルフォンが進んでいった通路の方を見やっていた。
そのまま街へ出るか、自分の部屋へと戻るか決めかねていたが、依頼の準備のために部屋へと戻ることにした。
自分の足音が艇の通路に反響する。サンダルフォンのそれと違い、頼りなげに聞こえて、グランはもう姿が見えないと分かっているのに、彼が進んでいった通路を振り返った。
彼が世界や自分を滅ぼす以外でやりたいことを見つけられたらと願う。出来るのであれば、それを見届けたいとも。
どんな対価があっても叶う見込みのない、そんな途方もない願いをグランは抱えてしまった。