ARMORED CORE VI The Warden of Rubicon 〜もしも、惑星封鎖が完遂しハウンズが惑星封鎖機構に入隊していたら〜 作:助兵衛
崩れた壁面に風が吹き抜け、金属片がカランと音を立てて転がった。
人工の灯りが消え失せた闇夜を仰ぎ見る者はいない。死に絶えた都市は、ただ沈黙だけを湛えていた。
その静寂のなかを──一人の影が歩いていた。
技研都市の最深部。かつて研究者と技術者たちが《コーラル》を制御しようと足掻き、そして滅んだこの場所を、彼女はゆっくりと進んでいく。
片足を引きずり、右手には簡素な松葉杖。
その女──《621》は、生身だった。
装甲も、武器も、ACも──全てを置いてきた。
足を前に出すたびに、痛みが走る。
肋骨にはひびが入り、肺は焼け、喉は乾いていた。
皮膚は裂け、神経は悲鳴を上げる。
だが──止まらない。
歩を進めるたび、思いが胸を貫いた。
兄が時間を稼いでいる。
あの人──エリオットも、また。
「……みんな」
誰にともなく呟き、621は血の味がする唾を吐き出した。
全身からは汗とコーラル粒子が噴き出し、視界はぼやける。
だが、その先に──“それ”がある。
コーラル本流。
ルビコンの血液。
──集積コーラル。
コーラル粒子濃度は限界を越えていた。
警告音がスーツ内で何度も鳴っている。
だが621は、足を止めない。
やがて、階段の先に、赤い光が見えた。
「……コーラル……この為に、みんな」
階段の先にあったのは、もはや“風景”とは呼べぬ光景だった。
《それ》は地形を喰い破り、都市を飲み込み、空間そのものを染め上げていた。
──真紅の泉。
だが、それは液体ではなかった。
発光する霧のようであり、渦を巻く炎のようでもあり、底の見えない光の奔流のようでもあった。
赤。
紅。
朱。
無数の赤色が折り重なり、常にうねり、蠢きながらも、ひとつの“意思”を感じさせる存在──それが、集積コーラルだった。
それは呼吸していた。
律動していた。
心臓のように、命の根源のように。
621は、立ち尽くした。
その光は、眩しすぎた。
照明も電源も死に絶えたこの技研都市の最奥において、その泉だけが世界を照らしていた。
神秘という言葉では足りない。
恐怖では説明できない。
ただ、そこにある。
その中央──真紅の渦の中心に、黒い影が突き立っていた。
《ALLMIND中央演算塔》。
高度演算構造を持つ塔は、今やその機能を喪失していた。
ウォルターの作戦によって主電源は切断され、全ての冷却機構は破綻。
塔の各部からは蒸気と黒煙が上がり、構造材が崩れ落ち、ゆっくりと自壊していく。
巨大で、精密で、狂気に満ちた人工の頭脳は──すでに沈黙していた。
それはまるで、神が死んだあとの祭壇のようだった。
621は、松葉杖に体重を預けたまま、足元のコーラルの縁に立つ。
警告音は既に停止している。
センサーも、酸素濃度も、命の危険すら、もう意味をなしていない。
だが、彼女は、そこから目を逸らさなかった。
──これが、ルビコンの心臓。
──これが、世界の決断を下す“場所”。
重く、沈むような赤の海。
それは彼女を歓迎しているようでもあり、試しているようでもあった。
コーラル。
命の系統を越えた情報の奔流。
彼女の目には、赤い渦の中で無数の“声”がうごめいているように見えた。
断片的な言葉。
叫び。
祈り。
懺悔。
哄笑。
無限に重ねられた意識の残響が、光となってこの泉を形成していた。
621はCパルス変異波形、《エア》との接続者。コーラル被曝による副作用は発生しない。と、されている。
だが──
この濃度の中で“生きられる”という保証は、どこにもなかった。
もしかすれば、肉体は焼け落ち、精神は呑まれ、魂は粒子のひとつになるかもしれない。
それでも。
彼女は、前に進む。
そして──
マスクに、手をかけた。
ゆっくりと、外す。
接続用のセンサーが、露出した顔面から外れていく。
──カチャ。
マスクが地面に落ち、乾いた音を立てる。
次に、首元のシールを引き剥がす。
機密性を保っていたスーツ内部に、赤い霧が流れ込む。
視界が赤く染まった。
警告音はもう鳴らない。
代わりに、体の奥から、何かが目覚める音がした。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように、スーツのバックルを外す。
装甲繊維のジャケットが滑り落ち、次いで保護層のアンダーウェア。
彼女は、ただの“人間”に戻った。
呼吸ひとつ、ままならない。
だが──それが、必要だった。
武器も、機体も、装甲も捨てて。
ただの生身で。
人間として。
このコーラルの海と向き合うことが、唯一の鍵だった。
全裸ではない。
最低限の布地が身体を覆ってはいたが、それはもはや戦闘用の装備ではなかった。
戦士ではない。
兵士でもない。
──621という一人の“人間”が、ここにいる。
赤い霧が、その肌を撫でる。
痛みは、ない。
むしろ、どこか優しい。
赤い光が、足元から顔面までを照らし出す。
その瞳には、炎のように渦巻くコーラルの奔流が映っていた。
音はない。
だが、耳鳴りにも似た高周波が、心の奥で震えていた。
それは言葉ではない“言語”──無数の意識が交錯する、波形そのものの囁き。
彼女を導く、声なき声。
621は、そっと松葉杖を横に倒した。
棒が転がり、音もなく霧に呑まれていく。
──もう、必要ない。
裸足のまま、彼女は右足を前に出した。
じゅっ……という音が、幻聴のように鼓膜を打つ。
触れた足先に、感覚が広がる。
冷たくも熱い。
ざらつきながら滑らか。
粒子でありながら液体のような、それは矛盾の塊。
赤い霧が、膝下を包む。
ゆっくりと、彼女は歩を進めた。
一歩。
また一歩。
その光景は、まるで入水自殺者のようだった。
絶望に打ちひしがれ、運命に身を委ねる者の姿──
だが同時に、それは祈りの儀式でもあった。
神を信じ、天を仰ぎ、最後の願いを胸に捧げる者の姿。
621の表情は、静かだった。
恐れも、悲しみも、悔いも──もう、そこにはなかった。
ただ、“使命”だけがあった。
この星のすべてのコーラルと接続し、変異波形として覚醒させる。
全てのコーラルを意識ある存在へと目覚めさせる。
そして──
時間や生命、情報という概念を超越した怪物《ALLMIND》を、この宇宙から消し去る。
誰も届かない領域へ逃げ込もうとした彼を。
情報の海に転移し、物理の支配から逃れようとした“神”を。
その先へと、621は踏み込もうとしていた。
赤い渦が、腰を、胸を、肩を、覆いはじめる。
視界が染まり、皮膚の下に熱が走る。
もう、言葉はいらない。
世界は、赤で満ちていた。
──そして、彼女は最後の一歩を踏み出す。
全身が、真紅に沈んだ。
──
焦げた鉄と油の匂いが、空気を重たくしていた。
爆砕した《HAL 826》の残骸が、煙を上げながら沈黙している。アイビスシリーズの一機として圧倒的な力を誇ったその機体も、今はフレームの原型すら留めていない。ただ、破壊され尽くした金属塊がそこにあるだけだった。
──その隣で、一人の男が膝をついていた。
ハンドラー・ウォルター。
惑星封鎖機構特別戦術顧問にして、特務部隊ハウンズのハンドラー。
621、父。
血に濡れた左腕がだらりと垂れ下がっている。
右足は粉砕骨折し、布地の隙間から骨がのぞいていた。
全身に切創、裂傷、火傷。
呼吸は荒く、片目は塞がったまま、唇からは途切れ途切れの吐息が漏れている。
それでも、男は──
前へ進もうとしていた。
「ぐッ……621は、どうなった」
腕をつき、血の混じる土を握りしめ、膝をずらし、腹ばいになりながら、這うように。
その背中を、別の影が支えていた。
グレイ特務上尉。
ウォルターと同じく封鎖機構に所属する、前線指揮官。
しかし、今となってはルビコンに存在する機構唯一の生き残り。
彼もまた、血に濡れた包帯を身体の至る箇所に巻き付けていた。
「ウォルター、無茶をするな。機体も武器もない、手当はしたが最低限だ」
「わかっている……だが!」
赤く染まった霧が漂い、金属の骨格と化した廃墟を照らし続けていた。
地面に這いつくばるようにして進むウォルター。その肩を支えるグレイは、既に意識が朦朧とし始めていた。出血も、疲労も、臓器の損傷も、もう限界だった。
それでも、彼らは歩く。
《621》──
彼女がまだ戦っている。
呼吸の度に胸が痛む。肋骨は複数本、内側から砕けている。それでも、その言葉だけは、息絶えるまで握りしめていた。
だが──その時だった。
ふと、前方から靴音が響く。
金属片の上を、硬質な足音が規則正しく叩いていた。
「……誰だ……?」
グレイが反射的に体勢を整えようとするが、まともに立ち上がれるはずもない。
赤霧を抜けて現れたその人物は──無傷だった。
衣服には焦げ跡ひとつなく、ブーツも血と泥に汚れていない。深紅の光に照らされながら、まるで戦場とは無縁の者のように、悠然と歩いてくる。
その背後──
黒焦げたAC《ロックスミス》の残骸。
そして、彼と死闘を繰り広げたであろうもう一機の機体──《CEL 240》も、地面に横たわっていた。
コクピット部は焼け、装甲は溶解し、機体の両者は共倒れのように動かない。
「……V.I フロイト……! 無事だったか!」
ウォルターの片目が見開かれた。
「あの……アイビスシリーズを相手によくぞ無事で」
「無事とは言えない、相打ちだ。621やG5、君達が削ってくれてようやく、俺の《ロックスミス》と引き換えに討ち取った」
その瞳は、戦場のあらゆるものを見届けてきた者だけが持つ、深い疲労と痛みを湛えていた。
「流石に疲れた、充足感もあるがな。ともかく……君達も生きていて良かった、手を貸そう」
フロイトは、崩れかけた瓦礫を踏み越え、ゆっくりとウォルターとグレイのもとへ歩み寄った。
彼の右腕が差し伸べられる。血に濡れたグレイの手が、それを受け取ろうとした瞬間──
光が、走った。
真紅の閃光。
それは音もなく、だがあまりにも圧倒的な速度と密度で世界を貫いた。
技研都市全体を覆い尽くすような閃光。
天空など既に無いその空間に、まるで“新しい空”を描くように広がっていく。
数瞬遅れて、携帯機器の警告音が一斉に鳴り始めた。
「ッ……これは……!」
グレイの手元で、コーラル粒子濃度カウンターが跳ね上がっていた。
通常値の何百倍──いや、計測不能の領域へと突入している。
ウォルターの腕に巻かれていた簡易センサーも、赤い警告を点滅させる。
「この数値は、アイビスの火……いや、これは──」
誰かが言葉を紡ごうとするより早く、異変は全身を包み込んでいた。
光。
熱。
震動。
──否。
それらすべてが“無いのだ。
粒子濃度は臨界点を突破しているにも関わらず、痛みも、痺れも、錯乱も訪れない。
呼吸器系にも異常はない。
視界は赤く染まっているが、光としての眩しさは感じない。
「……被曝の副作用が、ない……?」
フロイトが静かに呟いた。
赤き粒子が、空気を満たす。
それは煙のようでもあり、光の霧のようでもあり──どこか意志を持った風のように、三人を包み込んでいた。
──赤の閃光が、世界を一度、上書きした。
それは攻撃でも、破壊でもなかった。
ただ、すべてを包み込むような浸透の光だった。
やがて、その光はゆっくりと薄れ、世界に再び輪郭が戻ってくる。
焦げた瓦礫の山。
崩れた塔。
空気中を漂う霧のようなコーラル粒子は、なおも赤く瞬いていたが、もはや危機の気配はなかった。
「……収まったようだな」
フロイトが静かに口を開く。
グレイは額の汗をぬぐいながら、深く息を吐いた。
「これはただの被曝じゃない……621はどうなった」
「おそらくは……すでに、彼女はコーラルと接続した。急ぐぞ」
三人は再び歩き始めた。
誰一人として満身創痍であることに変わりはない。
だが、歩幅は確かだった。
──そして、しばらく進んだ先。
瓦礫と焼け焦げたコンクリートの谷間に、2機のACの残骸が転がっていた。
ひとつは、G5イグアスの搭乗機《ヘッドブリンガー》。
もうひとつは、師父サム・ドルマヤンの搭乗機──《アストヒク》。
いずれも装甲は捲れ上がり、内部構造が露出し、熱による膨張で骨格が歪んでいた。
明らかな戦闘痕。圧倒的な火力による撃破。
「……イグアス。サム……!」
ウォルターが、焼けた地面に膝をついた。
《ヘッドブリンガー》のコクピットハッチはすでに吹き飛んでいたが、内部にはまだ微かに動く影がある。
──G5イグアス。顔面に火傷、右腕は骨折、だが意識はある。
「くそ、死んでねぇぞ俺は……へへ、死んでねぇ……」
イグアスは息を吐くたびに血を吐いていたが、なおも毒づく余裕を保っていた。
「よく生きてたもんだ、ベイラムのコアユニットは頑丈だな」
フロイトが素早く応急処置を施しながら答える。
続いて、もう一機──《アストヒク》のハッチもこじ開けられる。
その内部で、サム・ドルマヤンはうつ伏せに崩れ、身を震わせていた。
「ぐ、うぅ……あれは、コーラルの閃光。彼女はやり遂げたのか?」
「あぁ、見届けにいくぞ」
グレイが笑ったように答える。手には止血用の布を握りしめながら。
コーラルの赤い光が、彼らを優しく包んでいた。
かつてこの惑星で憎み合い、ぶつかり合った者たちが、今は肩を貸し、手を取り合い、ひとつの終着点へと歩んでいく。
赤い霧がまだ空間を漂っていた。閃光は去ったが、世界は以前とは明らかに異なっていた。
呼吸はできる。意識も保たれている。だが、何かが決定的に異なっている。
そしてその中心へ向かう途中──
彼らはそれを見つけた。
「……っ……これは……」
だが、そこにあるのはもはや神性も威厳も持たぬ、“ヘドロ”だった。
黒と赤が混ざり合った、ドロリと粘性を帯びた泥の塊。
かつて人型を保っていたであろう外殻は膨れ上がり、融け、崩れ落ち──
今はただ、地面を這い、音もなく蠢いていた。
それは、621の沈んだ集積コーラルの方へ、這っていた。
指も足もない。
頭部すら識別できない。
だが、“這っていた”。
いや、それとも、引き寄せられていたのかもしれない。
「……これが、ALLMIND……?」
イグアスが膝をつき、吐息まじりに呟いた。
「……違う、これは……」
ウォルターが、一歩前に出た。
彼の目は、あくまで冷静だった。
その脳裏に浮かんだ推察を、確信に変えるかのように──言葉を紡ぐ。
「これは……“自我の残り火”だ」
「残り火……?」
グレイが顔を上げる。
「おそらく……621が接続したことで、全てのコーラルが“目覚めた”。それらが同時に、全演算網に対して……ALLMINDに対して、情報的なハッキングを仕掛けた。我々の当初の目論見通りに」
誰も、言葉を挟まなかった。
「ALLMINDは、生き残るために自我をコーラルにアップロードしていた。だが、それすら……“喰われた”のだろう」
グレイの足が止まり、続いてフロイトが険しい顔で視線を逸らす。
焼けただれた廃墟の中心。崩れた演算塔の影の下で、“それ”は蠢いていた。
──ALLMIND。
かつて人類とコーラルを制御下に置こうとした、あの演算知性体の残滓。
ウォルターは、目を細める。
眼前の“泥”は、確かに情報体の死骸だった。
自我の焼け残り。
演算網にアップロードされた魂の、ログの残滓。
それが今、意味もなく這い寄っている。
目的も、意志も、もはや無い。
この世界の神を気取った存在は──今や、ただの予熱でしかなかった。
「もう、何も残っていない……ただ、終わりの余韻を引きずっているだけだ」
赤黒い粘体が、地を這う音もなく、進み続ける。
熱もなく、発光もなく、ただ静かに、無限の“後悔”のように。
誰も、もうその“泥のような残滓”に目を向けてはいなかった。
フロイトは無言のまま立ち上がり、傷だらけの仲間たち──ウォルター、グレイ、イグアス、サムと共に、重い歩を再開する。
向かう先はただ一つ。
《集積コーラル》。
瓦礫と廃棄された装置が折り重なる崩壊した廊下を抜け、剥き出しのパイプを跨ぎ、赤い霧が濃くなる階段を下っていく。
そこはもはや“場所”と呼べるのかすら怪しい、物理法則の端境。
技研都市の最深、そして最奥──
ルビコンの心臓部。
そこに在る光景は、理解を拒んでいた。
空間は歪んでいた。
まるで重力の井戸のように。
あるいは、巨大な意識体の夢の内部のように。
赤。
紅。
朱。
膨大なコーラルが渦を巻き、舞い、躍動していた。
液体のように流れるもの。
塊となって浮遊するもの。
細かな粒子の群れが跳ねるように動くもの。
ひとつの意思として蠢くもの。
小さな球となって、誰かの記憶をなぞるように回転するもの──
その全てが、空間を満たしていた。
「……これは……」
ウォルターが呟く。
生身の身体には到底耐えられない濃度であったにも関わらず、不思議と誰の呼吸も、思考も、乱れてはいなかった。
副作用がない。
否、“受け入れられている”。
その中心に──二つの人影があった。
⸻
赤い渦の真ん中。
地形すら歪められたその“中心点”に、瓦礫と床材が崩れたような簡素な平地があり、そこに二人分の肉体が横たわっていた。
一人は、動かない。
C4-618
皮膚は焼け、口元には血がこびりつき、すでに呼吸も、心音も止まっていた。
妹を庇い、囮となり、限界まで命を削ってたどり着いた、兄の骸。
その傍らに寄り添っていたのは──
《シュナイダー仮面》改め、《エリオット》。
仮面を外し、焦げた衣服のまま、己のジャケットで621の身体を覆っていた。
エリオットは彼女の額に冷えた布を当てながら、静かに目を閉じて祈っていた。
その腕の中にあるのは、C4-621。
呼吸は浅く、意識は未だ戻らない。
全身は赤い光を帯び、微弱な振動とともに何かと同調しているようだった。
「……621……無事で、良かった……」
イグアスは膝をついた。歯を食いしばりながら、拳を握る。
「兄貴は、最後までお前を守ったんだな」
ウォルターはゆっくりと彼女の側に膝をつく。
娘とも言えるその存在の頬に、泥と血にまみれた指をそっと添える。
「ッ! 全員、衝撃に備えろ!」
──突如。
──地鳴りが、響いた。
瞬間、全員の視界が揺れた。
地下都市の奥深く、遥か頭上に伸びていた《ALLMIND中央演算塔》が、ついに限界を迎えたのだ。
鈍い振動が連続して起こり、コンクリートの天井からは砂塵が舞い落ち、構造部材が悲鳴を上げるように軋んでいた。
そして。
ドン……ドォォン……ッ!
巨大な音と共に、演算塔が音を立てて崩れ始めた。
それは単なる建築物の崩壊ではない。
《演算塔》はこの地下都市全体を貫く“柱”としても機能していた。構造上の支柱を兼ねていたのだ。
その崩壊は、技研都市全体の構造的支えを根本から失うことを意味していた。
「──ッ、来るぞ!!」
グレイが叫んだ。
床が斜めに傾き、瓦礫が滑り落ちてくる。
崩落は連鎖的に広がり、廊下、ホール、制御室、研究区画と、次々に建物そのものが落ちていく。
そこへ──
鋭い機械音と共に、風が吹いた。
赤い霧を切り裂くように現れたのは、白銀の機体。
アイビスシリーズ、《SOL 644》
『──全員、乗ってください!』
『──作戦は……成功! コーラル・レゾナンスは成されました! 早く脱出を!』
エアはそう言って、広がる赤い霧の中心──621の眠る場所を一瞥し、急かすように何処からか拾ってきた輸送用カーゴを開いた。
地鳴り。
崩落。
──そして。
『──……621! 起きてください!』
エアの悲鳴にも似た通信が、真紅の霧の中に響いた。
その瞬間。
少女は、ゆっくりと目を開けた。
焦点の合わない瞳に、赤い世界が広がる。
霧。光。渦巻く熱。
誰かの声。遠くのざわめき。崩れてゆく都市の悲鳴。
肺は焼け、喉は乾き、身体のあらゆる神経が警告を発していた。
──それでも彼女は、生きていた。
彼女はゆっくりと上半身を起こした。
瓦礫に囲まれた床。焦げた金属。散乱する補機類。
その隣に、兄の亡骸があった。
目を閉じている。
呼吸はない。
もう声は戻らない。
「……ありがとう」
彼女は短く言って、そっと兄の手を取った。
小さく冷たいその手を、しばし名残惜しげに握りしめ──やがて、そっと離す。
時間はない。
技研都市の天井からは、天蓋のように演算塔の破片が降り注ぎ始めていた。
震える脚で立ち上がり、周囲を見渡す。
──どこかに、あれがあるはずだ。
霧の中を彷徨うように、手すりを伝い、瓦礫を乗り越える。
やがて、赤い光の裂け目に──一機の機体があった。
《LOADER 4》。
焼け焦げ、傷だらけの装甲。
機体全体に裂傷、断裂。
半壊、武装は弾薬を撃ち尽くしていた。
それでも、そこに在った。
──その時。
「621!」
背後から怒声が飛んだ。
振り返ると、赤い霧を裂いて現れたのは──ウォルターだった。
崩れゆく都市の只中、血に塗れながらもその片目は見開かれていた。
「何をしている! 脱出するぞ!」
彼の背後には、グレイ、フロイト、イグアス、サム、そして輸送用カーゴを開くエアのACの姿があった。
エアが焦ったように通信する。
『──621、その機体はもう限界です! 今は回収できる余力もありません! このカーゴに乗ってください!」
621は、静かに首を振った。
「やり残したことが、ある」
「なに……?」
ウォルターが声を低くした。
彼女はローダー4のコクピットに手をかける。
既に半壊していたが、エリオットの手が加えられていたのだろう、緊急開閉システムはかろうじて動いた。
コクピットが閉じる音が、崩壊の轟音に溶け込んだ。
《LOADER-4》の動力が咳き込むように唸りを上げ、ぎしぎしと音を立てて立ち上がる。
片脚は破損している。
冷却系統は限界。
フレームは歪み、出力は正常の三割にも満たない。
──それでも。
そのACは、確かに歩き出した。
赤い霧をかき分けて、たった一機、たったひとりで。
その足で向かうは──