ARMORED CORE VI The Warden of Rubicon 〜もしも、惑星封鎖が完遂しハウンズが惑星封鎖機構に入隊していたら〜   作:助兵衛

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第120話 解放

 崩れた壁面に風が吹き抜け、金属片がカランと音を立てて転がった。

 

 人工の灯りが消え失せた闇夜を仰ぎ見る者はいない。死に絶えた都市は、ただ沈黙だけを湛えていた。

 

 その静寂のなかを──一人の影が歩いていた。

 

 技研都市の最深部。かつて研究者と技術者たちが《コーラル》を制御しようと足掻き、そして滅んだこの場所を、彼女はゆっくりと進んでいく。

 

 片足を引きずり、右手には簡素な松葉杖。

 

 その女──《621》は、生身だった。

 

 装甲も、武器も、ACも──全てを置いてきた。

 

 足を前に出すたびに、痛みが走る。

 肋骨にはひびが入り、肺は焼け、喉は乾いていた。

 皮膚は裂け、神経は悲鳴を上げる。

 

 だが──止まらない。

 

 歩を進めるたび、思いが胸を貫いた。

 

 兄が時間を稼いでいる。

 あの人──エリオットも、また。

 

「……みんな」

 

 誰にともなく呟き、621は血の味がする唾を吐き出した。

 

 

 全身からは汗とコーラル粒子が噴き出し、視界はぼやける。

 だが、その先に──“それ”がある。

 

 コーラル本流。

 ルビコンの血液。

 ──集積コーラル。

 

 コーラル粒子濃度は限界を越えていた。

 警告音がスーツ内で何度も鳴っている。

 だが621は、足を止めない。

 

 やがて、階段の先に、赤い光が見えた。

 

「……コーラル……この為に、みんな」

 

 階段の先にあったのは、もはや“風景”とは呼べぬ光景だった。

 

《それ》は地形を喰い破り、都市を飲み込み、空間そのものを染め上げていた。

 

 ──真紅の泉。

 

 だが、それは液体ではなかった。

 発光する霧のようであり、渦を巻く炎のようでもあり、底の見えない光の奔流のようでもあった。

 

 赤。

 紅。

 朱。

 

 無数の赤色が折り重なり、常にうねり、蠢きながらも、ひとつの“意思”を感じさせる存在──それが、集積コーラルだった。

 

 それは呼吸していた。

 律動していた。

 心臓のように、命の根源のように。

 

 621は、立ち尽くした。

 

 その光は、眩しすぎた。

 照明も電源も死に絶えたこの技研都市の最奥において、その泉だけが世界を照らしていた。

 

 神秘という言葉では足りない。

 恐怖では説明できない。

 ただ、そこにある。

 

 その中央──真紅の渦の中心に、黒い影が突き立っていた。

 

《ALLMIND中央演算塔》。

 

 高度演算構造を持つ塔は、今やその機能を喪失していた。

 ウォルターの作戦によって主電源は切断され、全ての冷却機構は破綻。

 塔の各部からは蒸気と黒煙が上がり、構造材が崩れ落ち、ゆっくりと自壊していく。

 

 巨大で、精密で、狂気に満ちた人工の頭脳は──すでに沈黙していた。

 

 それはまるで、神が死んだあとの祭壇のようだった。

 

 621は、松葉杖に体重を預けたまま、足元のコーラルの縁に立つ。

 

 警告音は既に停止している。

 センサーも、酸素濃度も、命の危険すら、もう意味をなしていない。

 

 だが、彼女は、そこから目を逸らさなかった。

 

 ──これが、ルビコンの心臓。

 

 ──これが、世界の決断を下す“場所”。

 

 重く、沈むような赤の海。

 それは彼女を歓迎しているようでもあり、試しているようでもあった。

 

 コーラル。

 命の系統を越えた情報の奔流。

 

 彼女の目には、赤い渦の中で無数の“声”がうごめいているように見えた。

 断片的な言葉。

 叫び。

 祈り。

 懺悔。

 哄笑。

 

 無限に重ねられた意識の残響が、光となってこの泉を形成していた。

 

 621はCパルス変異波形、《エア》との接続者。コーラル被曝による副作用は発生しない。と、されている。

 

 だが──

 

 この濃度の中で“生きられる”という保証は、どこにもなかった。

 

 もしかすれば、肉体は焼け落ち、精神は呑まれ、魂は粒子のひとつになるかもしれない。

 

 それでも。

 

 彼女は、前に進む。

 

 そして──

 

 マスクに、手をかけた。

 

 ゆっくりと、外す。

 接続用のセンサーが、露出した顔面から外れていく。

 

 ──カチャ。

 

 マスクが地面に落ち、乾いた音を立てる。

 

 次に、首元のシールを引き剥がす。

 機密性を保っていたスーツ内部に、赤い霧が流れ込む。

 

 視界が赤く染まった。

 

 警告音はもう鳴らない。

 代わりに、体の奥から、何かが目覚める音がした。

 

「……大丈夫」

 

 自分に言い聞かせるように、スーツのバックルを外す。

 装甲繊維のジャケットが滑り落ち、次いで保護層のアンダーウェア。

 

 彼女は、ただの“人間”に戻った。

 

 呼吸ひとつ、ままならない。

 

 だが──それが、必要だった。

 

 武器も、機体も、装甲も捨てて。

 ただの生身で。

 人間として。

 

 このコーラルの海と向き合うことが、唯一の鍵だった。

 

 全裸ではない。

 最低限の布地が身体を覆ってはいたが、それはもはや戦闘用の装備ではなかった。

 

 戦士ではない。

 兵士でもない。

 ──621という一人の“人間”が、ここにいる。

 

 赤い霧が、その肌を撫でる。

 痛みは、ない。

 

 むしろ、どこか優しい。

 

 赤い光が、足元から顔面までを照らし出す。

 その瞳には、炎のように渦巻くコーラルの奔流が映っていた。

 

 音はない。

 

 だが、耳鳴りにも似た高周波が、心の奥で震えていた。

 それは言葉ではない“言語”──無数の意識が交錯する、波形そのものの囁き。

 

 彼女を導く、声なき声。

 

 621は、そっと松葉杖を横に倒した。

 

 棒が転がり、音もなく霧に呑まれていく。

 

 ──もう、必要ない。

 

 裸足のまま、彼女は右足を前に出した。

 

 じゅっ……という音が、幻聴のように鼓膜を打つ。

 

 触れた足先に、感覚が広がる。

 

 冷たくも熱い。

 ざらつきながら滑らか。

 粒子でありながら液体のような、それは矛盾の塊。

 

 赤い霧が、膝下を包む。

 

 ゆっくりと、彼女は歩を進めた。

 

 一歩。

 また一歩。

 

 その光景は、まるで入水自殺者のようだった。

 絶望に打ちひしがれ、運命に身を委ねる者の姿──

 

 だが同時に、それは祈りの儀式でもあった。

 

 神を信じ、天を仰ぎ、最後の願いを胸に捧げる者の姿。

 

 621の表情は、静かだった。

 

 恐れも、悲しみも、悔いも──もう、そこにはなかった。

 

 ただ、“使命”だけがあった。

 

 この星のすべてのコーラルと接続し、変異波形として覚醒させる。

 

 全てのコーラルを意識ある存在へと目覚めさせる。

 

 そして──

 

 時間や生命、情報という概念を超越した怪物《ALLMIND》を、この宇宙から消し去る。

 

 誰も届かない領域へ逃げ込もうとした彼を。

 

 情報の海に転移し、物理の支配から逃れようとした“神”を。

 

 その先へと、621は踏み込もうとしていた。

 

 赤い渦が、腰を、胸を、肩を、覆いはじめる。

 視界が染まり、皮膚の下に熱が走る。

 

 もう、言葉はいらない。

 

 世界は、赤で満ちていた。

 

 ──そして、彼女は最後の一歩を踏み出す。

 

 全身が、真紅に沈んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──

 

 焦げた鉄と油の匂いが、空気を重たくしていた。

 

 爆砕した《HAL 826》の残骸が、煙を上げながら沈黙している。アイビスシリーズの一機として圧倒的な力を誇ったその機体も、今はフレームの原型すら留めていない。ただ、破壊され尽くした金属塊がそこにあるだけだった。

 

 ──その隣で、一人の男が膝をついていた。

 

 ハンドラー・ウォルター。

 惑星封鎖機構特別戦術顧問にして、特務部隊ハウンズのハンドラー。

 621、父。

 

 血に濡れた左腕がだらりと垂れ下がっている。

 右足は粉砕骨折し、布地の隙間から骨がのぞいていた。

 全身に切創、裂傷、火傷。

 呼吸は荒く、片目は塞がったまま、唇からは途切れ途切れの吐息が漏れている。

 

 それでも、男は──

 

 前へ進もうとしていた。

 

「ぐッ……621は、どうなった」

 

 腕をつき、血の混じる土を握りしめ、膝をずらし、腹ばいになりながら、這うように。

 

 その背中を、別の影が支えていた。

 

 グレイ特務上尉。

 

 ウォルターと同じく封鎖機構に所属する、前線指揮官。

 しかし、今となってはルビコンに存在する機構唯一の生き残り。

 

 彼もまた、血に濡れた包帯を身体の至る箇所に巻き付けていた。

 

「ウォルター、無茶をするな。機体も武器もない、手当はしたが最低限だ」

 

「わかっている……だが!」

 

 赤く染まった霧が漂い、金属の骨格と化した廃墟を照らし続けていた。

 

 地面に這いつくばるようにして進むウォルター。その肩を支えるグレイは、既に意識が朦朧とし始めていた。出血も、疲労も、臓器の損傷も、もう限界だった。

 

 それでも、彼らは歩く。

 

《621》──

 彼女がまだ戦っている。

 

 呼吸の度に胸が痛む。肋骨は複数本、内側から砕けている。それでも、その言葉だけは、息絶えるまで握りしめていた。

 

 だが──その時だった。

 

 ふと、前方から靴音が響く。

 

 金属片の上を、硬質な足音が規則正しく叩いていた。

 

「……誰だ……?」

 

 グレイが反射的に体勢を整えようとするが、まともに立ち上がれるはずもない。

 

 赤霧を抜けて現れたその人物は──無傷だった。

 

 衣服には焦げ跡ひとつなく、ブーツも血と泥に汚れていない。深紅の光に照らされながら、まるで戦場とは無縁の者のように、悠然と歩いてくる。

 

 その背後──

 

 黒焦げたAC《ロックスミス》の残骸。

 

 そして、彼と死闘を繰り広げたであろうもう一機の機体──《CEL 240》も、地面に横たわっていた。

 

 コクピット部は焼け、装甲は溶解し、機体の両者は共倒れのように動かない。

 

「……V.I フロイト……! 無事だったか!」

 

 ウォルターの片目が見開かれた。

 

「あの……アイビスシリーズを相手によくぞ無事で」

 

「無事とは言えない、相打ちだ。621やG5、君達が削ってくれてようやく、俺の《ロックスミス》と引き換えに討ち取った」

 

 その瞳は、戦場のあらゆるものを見届けてきた者だけが持つ、深い疲労と痛みを湛えていた。

 

「流石に疲れた、充足感もあるがな。ともかく……君達も生きていて良かった、手を貸そう」

 

 フロイトは、崩れかけた瓦礫を踏み越え、ゆっくりとウォルターとグレイのもとへ歩み寄った。

 

 彼の右腕が差し伸べられる。血に濡れたグレイの手が、それを受け取ろうとした瞬間──

 

 光が、走った。

 

 真紅の閃光。

 

 それは音もなく、だがあまりにも圧倒的な速度と密度で世界を貫いた。

 

 技研都市全体を覆い尽くすような閃光。

 天空など既に無いその空間に、まるで“新しい空”を描くように広がっていく。

 

 数瞬遅れて、携帯機器の警告音が一斉に鳴り始めた。

 

「ッ……これは……!」

 

 グレイの手元で、コーラル粒子濃度カウンターが跳ね上がっていた。

 通常値の何百倍──いや、計測不能の領域へと突入している。

 

 ウォルターの腕に巻かれていた簡易センサーも、赤い警告を点滅させる。

 

「この数値は、アイビスの火……いや、これは──」

 

 誰かが言葉を紡ごうとするより早く、異変は全身を包み込んでいた。

 

 光。

 熱。

 震動。

 ──否。

 それらすべてが“無いのだ。

 

 粒子濃度は臨界点を突破しているにも関わらず、痛みも、痺れも、錯乱も訪れない。

 呼吸器系にも異常はない。

 視界は赤く染まっているが、光としての眩しさは感じない。

 

「……被曝の副作用が、ない……?」

 

 フロイトが静かに呟いた。

 

 赤き粒子が、空気を満たす。

 それは煙のようでもあり、光の霧のようでもあり──どこか意志を持った風のように、三人を包み込んでいた。

 

 ──赤の閃光が、世界を一度、上書きした。

 

 それは攻撃でも、破壊でもなかった。

 ただ、すべてを包み込むような浸透の光だった。

 

 やがて、その光はゆっくりと薄れ、世界に再び輪郭が戻ってくる。

 

 焦げた瓦礫の山。

 崩れた塔。

 空気中を漂う霧のようなコーラル粒子は、なおも赤く瞬いていたが、もはや危機の気配はなかった。

 

「……収まったようだな」

 

 フロイトが静かに口を開く。

 

 グレイは額の汗をぬぐいながら、深く息を吐いた。

 

「これはただの被曝じゃない……621はどうなった」

 

「おそらくは……すでに、彼女はコーラルと接続した。急ぐぞ」

 

 三人は再び歩き始めた。

 誰一人として満身創痍であることに変わりはない。

 だが、歩幅は確かだった。

 

 ──そして、しばらく進んだ先。

 

 瓦礫と焼け焦げたコンクリートの谷間に、2機のACの残骸が転がっていた。

 

 ひとつは、G5イグアスの搭乗機《ヘッドブリンガー》。

 もうひとつは、師父サム・ドルマヤンの搭乗機──《アストヒク》。

 

 いずれも装甲は捲れ上がり、内部構造が露出し、熱による膨張で骨格が歪んでいた。

 明らかな戦闘痕。圧倒的な火力による撃破。

 

「……イグアス。サム……!」

 

 ウォルターが、焼けた地面に膝をついた。

 

《ヘッドブリンガー》のコクピットハッチはすでに吹き飛んでいたが、内部にはまだ微かに動く影がある。

 ──G5イグアス。顔面に火傷、右腕は骨折、だが意識はある。

 

「くそ、死んでねぇぞ俺は……へへ、死んでねぇ……」

 

 イグアスは息を吐くたびに血を吐いていたが、なおも毒づく余裕を保っていた。

 

「よく生きてたもんだ、ベイラムのコアユニットは頑丈だな」

 

 フロイトが素早く応急処置を施しながら答える。

 

 続いて、もう一機──《アストヒク》のハッチもこじ開けられる。

 

 その内部で、サム・ドルマヤンはうつ伏せに崩れ、身を震わせていた。

 

「ぐ、うぅ……あれは、コーラルの閃光。彼女はやり遂げたのか?」

 

「あぁ、見届けにいくぞ」

 

 グレイが笑ったように答える。手には止血用の布を握りしめながら。

 

 コーラルの赤い光が、彼らを優しく包んでいた。

 

 かつてこの惑星で憎み合い、ぶつかり合った者たちが、今は肩を貸し、手を取り合い、ひとつの終着点へと歩んでいく。

 

 赤い霧がまだ空間を漂っていた。閃光は去ったが、世界は以前とは明らかに異なっていた。

 

 呼吸はできる。意識も保たれている。だが、何かが決定的に異なっている。

 

 そしてその中心へ向かう途中──

 

 彼らはそれを見つけた。

 

「……っ……これは……」

 

 だが、そこにあるのはもはや神性も威厳も持たぬ、“ヘドロ”だった。

 

 黒と赤が混ざり合った、ドロリと粘性を帯びた泥の塊。

 かつて人型を保っていたであろう外殻は膨れ上がり、融け、崩れ落ち──

 

 今はただ、地面を這い、音もなく蠢いていた。

 

 それは、621の沈んだ集積コーラルの方へ、這っていた。

 

 指も足もない。

 頭部すら識別できない。

 

 だが、“這っていた”。

 

 いや、それとも、引き寄せられていたのかもしれない。

 

「……これが、ALLMIND……?」

 

 イグアスが膝をつき、吐息まじりに呟いた。

 

「……違う、これは……」

 

 ウォルターが、一歩前に出た。

 

 彼の目は、あくまで冷静だった。

 その脳裏に浮かんだ推察を、確信に変えるかのように──言葉を紡ぐ。

 

「これは……“自我の残り火”だ」

 

「残り火……?」

 

 グレイが顔を上げる。

 

「おそらく……621が接続したことで、全てのコーラルが“目覚めた”。それらが同時に、全演算網に対して……ALLMINDに対して、情報的なハッキングを仕掛けた。我々の当初の目論見通りに」

 

 誰も、言葉を挟まなかった。

 

「ALLMINDは、生き残るために自我をコーラルにアップロードしていた。だが、それすら……“喰われた”のだろう」

 

 グレイの足が止まり、続いてフロイトが険しい顔で視線を逸らす。

 

 焼けただれた廃墟の中心。崩れた演算塔の影の下で、“それ”は蠢いていた。

 

 ──ALLMIND。

 

 かつて人類とコーラルを制御下に置こうとした、あの演算知性体の残滓。

 

 ウォルターは、目を細める。

 眼前の“泥”は、確かに情報体の死骸だった。

 

 自我の焼け残り。

 演算網にアップロードされた魂の、ログの残滓。

 

 それが今、意味もなく這い寄っている。

 

 目的も、意志も、もはや無い。

 

 この世界の神を気取った存在は──今や、ただの予熱でしかなかった。

 

「もう、何も残っていない……ただ、終わりの余韻を引きずっているだけだ」

 

 赤黒い粘体が、地を這う音もなく、進み続ける。

 熱もなく、発光もなく、ただ静かに、無限の“後悔”のように。

 

 誰も、もうその“泥のような残滓”に目を向けてはいなかった。

 

 フロイトは無言のまま立ち上がり、傷だらけの仲間たち──ウォルター、グレイ、イグアス、サムと共に、重い歩を再開する。

 

 向かう先はただ一つ。

《集積コーラル》。

 

 瓦礫と廃棄された装置が折り重なる崩壊した廊下を抜け、剥き出しのパイプを跨ぎ、赤い霧が濃くなる階段を下っていく。

 

 そこはもはや“場所”と呼べるのかすら怪しい、物理法則の端境。

 

 技研都市の最深、そして最奥──

 ルビコンの心臓部。

 

 そこに在る光景は、理解を拒んでいた。

 

 空間は歪んでいた。

 

 まるで重力の井戸のように。

 あるいは、巨大な意識体の夢の内部のように。

 

 赤。

 紅。

 朱。

 膨大なコーラルが渦を巻き、舞い、躍動していた。

 

 液体のように流れるもの。

 塊となって浮遊するもの。

 細かな粒子の群れが跳ねるように動くもの。

 ひとつの意思として蠢くもの。

 小さな球となって、誰かの記憶をなぞるように回転するもの──

 

 その全てが、空間を満たしていた。

 

「……これは……」

 

 ウォルターが呟く。

 生身の身体には到底耐えられない濃度であったにも関わらず、不思議と誰の呼吸も、思考も、乱れてはいなかった。

 

 副作用がない。

 

 否、“受け入れられている”。

 

 その中心に──二つの人影があった。

 

 ⸻

 

 赤い渦の真ん中。

 地形すら歪められたその“中心点”に、瓦礫と床材が崩れたような簡素な平地があり、そこに二人分の肉体が横たわっていた。

 

 一人は、動かない。

 

 C4-618

 

 皮膚は焼け、口元には血がこびりつき、すでに呼吸も、心音も止まっていた。

 妹を庇い、囮となり、限界まで命を削ってたどり着いた、兄の骸。

 

 その傍らに寄り添っていたのは──

 

《シュナイダー仮面》改め、《エリオット》。

 

 仮面を外し、焦げた衣服のまま、己のジャケットで621の身体を覆っていた。

 

 エリオットは彼女の額に冷えた布を当てながら、静かに目を閉じて祈っていた。

 

 その腕の中にあるのは、C4-621。

 

 呼吸は浅く、意識は未だ戻らない。

 全身は赤い光を帯び、微弱な振動とともに何かと同調しているようだった。

 

「……621……無事で、良かった……」

 

 イグアスは膝をついた。歯を食いしばりながら、拳を握る。

 

「兄貴は、最後までお前を守ったんだな」

 

 ウォルターはゆっくりと彼女の側に膝をつく。

 娘とも言えるその存在の頬に、泥と血にまみれた指をそっと添える。

 

「ッ! 全員、衝撃に備えろ!」

 

 ──突如。

 

 ──地鳴りが、響いた。

 

 瞬間、全員の視界が揺れた。

 

 地下都市の奥深く、遥か頭上に伸びていた《ALLMIND中央演算塔》が、ついに限界を迎えたのだ。

 

 鈍い振動が連続して起こり、コンクリートの天井からは砂塵が舞い落ち、構造部材が悲鳴を上げるように軋んでいた。

 

 そして。

 

 ドン……ドォォン……ッ! 

 

 巨大な音と共に、演算塔が音を立てて崩れ始めた。

 

 それは単なる建築物の崩壊ではない。

 

《演算塔》はこの地下都市全体を貫く“柱”としても機能していた。構造上の支柱を兼ねていたのだ。

 

 その崩壊は、技研都市全体の構造的支えを根本から失うことを意味していた。

 

「──ッ、来るぞ!!」

 

 グレイが叫んだ。

 

 床が斜めに傾き、瓦礫が滑り落ちてくる。

 崩落は連鎖的に広がり、廊下、ホール、制御室、研究区画と、次々に建物そのものが落ちていく。

 

 そこへ──

 

 鋭い機械音と共に、風が吹いた。

 

 赤い霧を切り裂くように現れたのは、白銀の機体。

 

 アイビスシリーズ、《SOL 644》

 

『──全員、乗ってください!』

 

『──作戦は……成功! コーラル・レゾナンスは成されました! 早く脱出を!』

 

 エアはそう言って、広がる赤い霧の中心──621の眠る場所を一瞥し、急かすように何処からか拾ってきた輸送用カーゴを開いた。

 

 地鳴り。

 

 崩落。

 

 ──そして。

 

『──……621! 起きてください!』

 

 エアの悲鳴にも似た通信が、真紅の霧の中に響いた。

 

 その瞬間。

 

 少女は、ゆっくりと目を開けた。

 

 焦点の合わない瞳に、赤い世界が広がる。

 霧。光。渦巻く熱。

 誰かの声。遠くのざわめき。崩れてゆく都市の悲鳴。

 

 肺は焼け、喉は乾き、身体のあらゆる神経が警告を発していた。

 

 ──それでも彼女は、生きていた。

 

 彼女はゆっくりと上半身を起こした。

 瓦礫に囲まれた床。焦げた金属。散乱する補機類。

 

 その隣に、兄の亡骸があった。

 

 目を閉じている。

 呼吸はない。

 もう声は戻らない。

 

「……ありがとう」

 

 彼女は短く言って、そっと兄の手を取った。

 

 小さく冷たいその手を、しばし名残惜しげに握りしめ──やがて、そっと離す。

 

 時間はない。

 

 技研都市の天井からは、天蓋のように演算塔の破片が降り注ぎ始めていた。

 

 震える脚で立ち上がり、周囲を見渡す。

 

 ──どこかに、あれがあるはずだ。

 

 霧の中を彷徨うように、手すりを伝い、瓦礫を乗り越える。

 

 やがて、赤い光の裂け目に──一機の機体があった。

 

《LOADER 4》。

 

 焼け焦げ、傷だらけの装甲。

 機体全体に裂傷、断裂。

 半壊、武装は弾薬を撃ち尽くしていた。

 それでも、そこに在った。

 

 ──その時。

 

「621!」

 

 背後から怒声が飛んだ。

 

 振り返ると、赤い霧を裂いて現れたのは──ウォルターだった。

 

 崩れゆく都市の只中、血に塗れながらもその片目は見開かれていた。

 

「何をしている! 脱出するぞ!」

 

 彼の背後には、グレイ、フロイト、イグアス、サム、そして輸送用カーゴを開くエアのACの姿があった。

 

 エアが焦ったように通信する。

 

『──621、その機体はもう限界です! 今は回収できる余力もありません! このカーゴに乗ってください!」

 

 621は、静かに首を振った。

 

「やり残したことが、ある」

 

「なに……?」

 

 ウォルターが声を低くした。

 

 彼女はローダー4のコクピットに手をかける。

 既に半壊していたが、エリオットの手が加えられていたのだろう、緊急開閉システムはかろうじて動いた。

 

 コクピットが閉じる音が、崩壊の轟音に溶け込んだ。

 

《LOADER-4》の動力が咳き込むように唸りを上げ、ぎしぎしと音を立てて立ち上がる。

 

 片脚は破損している。

 冷却系統は限界。

 フレームは歪み、出力は正常の三割にも満たない。

 

 ──それでも。

 

 そのACは、確かに歩き出した。

 

 赤い霧をかき分けて、たった一機、たったひとりで。

 

 その足で向かうは──

 

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