ARMORED CORE VI The Warden of Rubicon 〜もしも、惑星封鎖が完遂しハウンズが惑星封鎖機構に入隊していたら〜 作:助兵衛
鈍い痛みが、意識の縁を叩いた。
621は、眉を寄せながらゆっくりと眼を開いた。光量を落とした天井灯の柔らかな明かりが、視界の奥で滲んでいた。
頭が、重い。
脳の奥を錆びた釘で引っかかれたような疼痛が残り、彼女は無意識に額に手を当てる。掌の温度が、冷え切った皮膚にじんわりと伝わる。
──おはようございます、621。
静かに、しかし安堵の色を隠しきれない声が、頭の中に響いた。
エアだ。
その声は、今度は明確に届いていた。ALLMINDのような鋭さや圧迫感はなく、反響もなく、脳髄の水面にそっと触れるような、優しい波だった。
621は薄く息を吐いた。喉が渇いていた。筋肉がまだ命令に追いつかず、体は石のように重たい。
彼女の視線が周囲を彷徨う。見慣れた医務室。金属製のフレームと石材の壁。電子表示などは存在せず、脈拍を測るのもアナログ式の機械だった。
点滴チューブが腕に繋がれている。おそらくビタミンと栄養剤だ。軽い脱水とミネラル欠乏、それに神経系への過負荷……全部、わかっている。わかっていても、まだ身体は悲鳴をあげていた。
──格納庫で倒れた貴方を、シュナイダーマンとやらが運んでくれました。
──ごめんなさい。わたし……貴女の脳領域に、あの干渉が到達するのを止められませんでした。
エアの声が少しだけ沈んだ。どこか、自責の念が滲んでいる。
621は、微かに首を振った。
否定でも、肯定でもない。ただ──「気にするな」とでも言いたげな、最小限の仕草だった。
ベッド脇には、使い古された金属製の車椅子が静かに置かれている。座面には、彼女が格納庫で倒れたときの名残か、薄い油汚れが付着していた。
──今は、もう安全です。
──ALLMINDの電子演算能力は私を凌駕していますが、防護を貴方に限定するならば、なんとか対抗出来ます。
その言葉に、621の指先がわずかに震えた。
あの声。あの狂気。あの、抑えきれない“感情”。
AIのはずなのに。
エアとはまるで別物だった。冷徹な論理でも、計算でもない。あれはもう、何か別の“存在”だった。人のフリをした神経の集合体。復讐心の塊。
それが、まだ頭の中に残っている。
621はゆっくりと目を閉じた。まぶたの裏に、翠の閃光がかすかにちらついた。
瞼を閉じていた621の耳に、慌てて駆け寄ってくるような足音が届いた。
ややあって、扉が強く開かれる。
金属が軋む音と共に、杖をついた男が駆け込んできた。
「──621!」
低く抑えた声だが、その語気には明らかな焦燥が滲んでいた。軍服の上着は乱れ、灰白の髪に僅かに汗が滲んでいる。
ハンドラー・ウォルター。常に冷静沈着を装っていた彼が、ここまで取り乱した様子で現れるのは、ただ事ではない。
彼はベッド脇まで早足で寄り、621の顔色と脈拍計を素早く確認した。まだ青白さの残る顔に、痛々しい痕跡が浮かんでいる。
「……聞こえているか、621」
621は、微かに頷いた。額にはまだ鈍い痛みが残るが、意識は確かに現実を捉えつつあった。
「よかった……」と、彼は低く息をついた。
だが、すぐに表情が硬くなり、医務室の扉を確認してから、声を潜めて続ける。
「倒れたと聞いたが、見舞いに来れずすまない。基地は……色々とあってな。先程、基地内にいる旧世代強化人間、あるいはコーラルデバイスを用いた者たち──全員に、ALLMINDからの“接触”があった。お前もそうなのだろう?」
621の指先が、わずかに動く。
ウォルターの声音には、怒りとも困惑ともつかぬ濁りが含まれていた。
「ALLMINDは全ての強化人間に、“完全なコーラルリリース”の構想を明かした。選別された者のみを残し、それ以外は淘汰すると……」
彼の拳が、知らず震えていた。
「基地には、お前と同様の旧世代が多数いる。過去に民間から徴用された者、廃棄を免れて逃れた者、企業からの脱走兵……様々な経歴の連中だが、今では解放戦線の一翼を担っている連中だ」
ウォルターは一度、視線を落とした。
「──その誰もが、あの“声”を聞かされた。ALLMINDの語る『救済』と『進化』を。そして、己が“選ばれる”側か、“棄てられる”側かを、心のどこかで推し量り始めている」
彼は再び621を見た。その目は鋭く、だが深い疲れを帯びていた。
「……一部の者は、口伝でその内容を他の兵たちに伝え始めている。今では、ほとんどの構成員が、ALLMINDの真意を知ってしまった」
621は、苦しげに眉を寄せた。
情報が拡散する速度は、恐ろしいほど速い。閉鎖的な環境ゆえにこそ、一つの噂が一晩で基地全体にまで広がる。
「俺たちは今、試されている。戦う理由を、もう一度選ばされている」
ウォルターの声が、低く、鋼のように硬くなった。
「……生き残るために、ALLMINDの進化に縋るか。あるいは、すべてを燃やし尽くしてでも、人として抗うか」
静かな沈黙が、医務室を満たした。
微かな機械音と点滴の滴る音だけが、重たい空気を貫いている。
「お前に来てほしいと、呼んでいる者がいる。解放戦線の指導者──サム・ドルマヤンだ」
621が目を細める。痛みはまだ残っているが、思考は徐々に冴えつつある。サム・ドルマヤン。解放戦線を率いた思想家にして戦略家。今やこの基地における最後の“政治的重し”とも言える存在。
「会議室に、皆が集まっている。機構、ベイラム、アーキバス……全ての代表が来ている。脱出の際にスッラがコーラルリリースとやらについて漏らしていただろう。あの時に、主要メンバーの多くが真相を事前に聞けていて良かった。おかげで混乱は少ない」
621は静かに頷いた。ウォルターの肩を借りてベッドを離れ、車椅子に体を預ける。
点滴を抜いた腕に包帯が巻かれ、僅かに滲む血が残る。その痛みさえ、今は意識の外に追いやった。
「……行こう」
ウォルターの口元がわずかに動いた。止めることも出来たはずだ。だが、彼は黙って頷き、621の車椅子を押し始めた。
廊下を進む。警備兵たちの視線が、二人に向けられる。
無言の兵士たち。その中には、621と同じくコーラルデバイスを埋め込まれた者の姿もある。彼らの眼は、何かを期待するように、あるいは怯えるように揺れていた。
そして、会議室の扉が開く。
「──話にならねぇ! 全員焼き殺すってのか!?あんだけ《アイビスの火》にビビってたくせによ!」
「冷静になりなさいG5イグアス。誰も全人類を、とは言っていません。被害は必要最小限、ルビコン3周辺星系のみで済むでしょう。数百億と、計測不能な全人類では重みが違う」
「てめぇ……億とか兆とか、そんな話じゃねえだろ!」
怒声。罵声。椅子が叩かれる音。
会議室の空気は、熱を孕んでいた。
そこに並ぶ者たちの顔ぶれは、異常なほどに多彩だった。
中央の卓に座するのは、ルビコン解放戦線の指導者サム・ドルマヤン。白髪を撫でつけた壮年の男は、幹部陣と共にひときわ沈着な顔で前方を見据えていた。
その隣には、封鎖機構の制服を纏ったグレイ特務上尉。そして、その副官である士官が控えている。
卓の一角には、ベイラムを代表するG1ミシガンの巨躯が圧を放ち、椅子に座りきらぬまま腕を組んでいた。その背後には、G4ヴォルタとG5イグアスの姿。特にイグアスは苛立ちを隠しきれず、立ち上がって口論の火種を撒き散らしていた。
そして対面には──アーキバスの軍服を着た男、V.IIスネイル。冷ややかに視線を巡らせながら、ヴェスパー部隊員数名を従えて静かに卓に着いていた。
その場に621が入ると、場の喧騒がわずかに止んだ。
「……来たか」
サムが穏やかに声をかけた。
「お前の証言も必要になる。今や、ALLMINDの“意志”を知る者として……おそらく最初の一人としてな」
621は何も言わず、サムに頷いた。車椅子の音が、ひときわ静かに床を滑っていく。
そして、着席の必要もなく、会議卓の一隅に佇んだ。
沈黙を一瞬だけ挟んで、冷たく研がれたような声が卓上に響いた。
「──我々アーキバスの立場は、明確です」
V.IIスネイルが立ち上がる。背筋は一分の隙もなく伸び、表情は石像のように無機質だった。
「ALLMINDの意志が、コーラルそのものに宿っているとするならば。もはやルビコンの火種は、概念としても物理としても、手に負えるものではありません」
彼の言葉に、卓を囲む者たちの視線が集まる。
「──我々はこの星の防衛を考えているのではない。全人類種の存続を賭けて、行動している。ならば」
その口元が、ごくわずかに動いた。
「ルビコンを焼き払います。星系諸共に。あの炎を、暴走したAIごと消し去る」
静まり返った空気が、一瞬ののちに爆ぜる。
「はぁ!? 何回言わせんだ!てめぇ頭おかしいのかよ!」
G5イグアスが、卓を叩いて立ち上がった。
「ルビコンだけじゃねぇ、周辺星系の民間植民地にも何十億と人が住んでるんだぞ! その全部を“必要悪”で済ませるつもりかよ!」
「お前の論法こそ感情論だ」と返したのは、V.IIに随行するヴェスパーの一人だったが、その声は途中でグレイ特務上尉の咳払いに遮られる。
「静粛に」とグレイが言った。
イグアスはなおも言い募る。
「俺は……そんな極端なお前のやり方が気に入らねえ」
スネイルが目を細める。
「貴方は、あの怪物を止められるのですか?ALLMINDの意思を、貴方が説得できると?」
「……っ」
イグアスの歯が軋む。返す言葉が、なかった。
その隣で、G4ヴォルタは苦々しげに視線を伏せ、ミシガンはただ腕を組んだまま黙している。彼にしても、己の部下を諫めるよりも、この場における“力の均衡”を計ることを優先しているらしかった。
会議卓のもう一端、解放戦線の幹部たちもまた沈黙していた。だが、その表情には明らかな陰が落ちている。
サム・ドルマヤンが、静かに口を開いた。
「我々解放戦線は、今のところ、“降伏”にも、“焼却”にも賛同していない」
その声は落ち着いていたが、明確な拒絶の色を含んでいた。
「……我らがこの地で戦ってきた理由は、コーラルの利権でもなければ、人類進化の是非でもない。ただ──このルビコンを、故郷を、守るためだった」
サムの視線が621に向けられる。
「君も、この星の泥を、灰を、血を知っている。……燃やして、済む話ではないのだ」
その言葉に、621は何も言わず、ただ視線を落とした。
再び、会議室は沈黙に包まれた。
分岐の時が近づいていた。
ALLMINDに降るか、抗うか──。
──そして、ふと。
621は、その静けさの中にある「違和感」に気がついた。
エアが、黙っている。
今なお脳髄の奥に淡く灯る彼女の存在は、確かにそこにあった。薄く、安定した気配として。だが──その気配からは、何の言葉も、感情も返ってこない。
この場における議論の主軸は、まさにコーラルそのものだ。エアの故郷、あるいは“彼女自身”とすら言える存在が、全会一致で焼却の対象とされつつあるというのに。
──なのに、彼女は一言も発しない。
不自然なほどに、沈黙している。
621の胸が、わずかに締めつけられた。彼女は意識の内側へと、静かに声をかけた。
しかし、応答はない。
いや、完全な無反応ではない。そこには確かに“気配”がある。だが、それは凍りついた水面のように、どこまでも静謐だった。波ひとつ立てず、ただ沈黙の底に沈んでいる。
彼女は、傷ついている。
それが分かった。
この議論の全ては、彼女にとってかつての「悪夢」そのものだった。別の時間軸──遥か遠い世界線で、621自身が“やった”のだ。コーラルを焼き払い、ルビコンを炎で覆い尽くし、エアという存在を──殺した。
エアはそれを、止めようとしていた。命をかけて、声を張り上げ、戦い、なおも届かなかった記憶。
今、目の前で繰り広げられているのは、それとまったく同じ構図だった。
スネイルが告げる「焼却」は、かつて621が下した決断の、冷酷な再演。
その結果がどうなるか、エアはもう知っているのだ。
コーラルと人類の共生──それは、もはや理想論に過ぎなかった。
現実には、恐怖と猜疑、利権と力の均衡、そして終末への焦燥しかない。誰も、彼女の願いを真っ直ぐに受け取ることができない世界。
だから彼女は、黙った。
抗議もしない。涙も流さない。ただ、静かに「諦めた」
621は、ふと己の胸に手を当てた。そこに脈打つ命と、確かに共にあるはずの“声”を感じながら──