東方麒楽走~冴月麟は公道最速を目指すそうです~ 作:Awino
母の車に乗るのが好きだった。
風を切って、次々と景色が変わっていくのが堪らなかった。
エンジンの音、タイヤのスキール音、落ち葉が擦れる音…そのどれもに聴き惚れた。
普通は時速100km以上で歪に曲がる峠道を走ろうものなら、振動やGが激し過ぎて気分が悪くなるもの。
しかし母の車ではそんなものは起こらない。アスファルトの上を、まるで舞台で躍るかの如く駆けていく。
その時間が、私にとって何よりも心地よく好いたものだった。
そしていつしか、自分も母の様にステージで舞える様になりたい…そんな気持ちを抱く様になった。
自分の愛車を手に入れて、誰よりも華麗に走りたい…誰にも追いつけない様な妖美な存在に…
その為に、懸命に準備をしてきた。
バイトに兎に角行きまくって資金を集め、車について本やビデオで沢山勉強した。
そしてこの夏、遂に運転免許証を手に入れた。
まさかこれが、生涯忘れる事のないであろう目が眩むような一幕の序章になろうとは、この時知る由も無かった。
蒼天が澄み切る学校の屋上。
4限の授業を終え、解き放たれた生徒達が各々自由に過ごす場所。
そして、昼食を摂りながら雑談に華を咲かせる少女が3人。
「麟も遂に免許獲得おめでとう!乾杯ー!」
そう言って缶のオレンジジュースを高らかに掲げる少女。もう1人も「乾杯ー!」とジュースを一緒に掲げる。
「ちょ、そこまですることでもないから汗」
祝われているであろう麟なる少女が制止を掛けんとする。
「なーに言ってんの!漸く3人免許取得完了したんだよ?これ祝わずして何祝えってのさ」
「そうだよ謙虚ぶってないで喜んどきなよ!」
だが2人の勢いは止まる気配がない。それどころか逆に発破をかけたみたいになってしまっている。
「今日のこあテンション高いな…」
麟は困惑と勢いに押されほぼ諦めざるを得なくなってしまった。
「…で?リリーにこあは車で楽しめてる訳?」
麟は主役を置き去りにして2人で冒険してしまっている友人に近況を聞いてみる。
「ったり前じゃない!週末の夜までにやる事全部片付けて山で周回しまくってるわよ!」
テンション全開で問いに返答するリリー。発する熱量が尋常じゃない。
「ゲームみたいな言い方しないでよ汗GE8だっけ?」
何気なくうろ覚えだったリリーの愛車を聞いてみる。
「そ。2代目のフィット。グレードはRSだからその型式で合ってるよ」
フィット…本田技研工業が大型化したシビックに代わる新たな提案として2001年に世に送り出したハッチバック。
デビュー当時の人気は凄まじく、長年販売台数トップを死守してきたカローラを一度だけ上回った経歴を持つ。
「2代目はi-VTEC搭載だっけ…?」
「It's exact…!」
リリーは嬉しそうにキメ顔で返答してきた。無駄に発音良いのが引っかかる。
「VTECって聞くと皆シビックだとかK20Aだとか言い出すけど、あれはtypeRのエンジンが凄いのであってVTEC自体はどの車にも搭載されてるからね」
噛み締める様な表情で語るリリー。愛車に対する自信が感じ取れる。
「だからマフラーを換えてやればイメージ通りのVTECサウンドが響いてくれるよ。トンネルなんか最高だね」
VTECサウンド…自動車愛好家が最重要とするものの一つに数えられる搭載エンジン。
それは、そこから奏でられる機動音も然り。ホンダを筆頭にエンジンに搭載する可変バルブタイミング・バルブリフト機構は、そんな快音に更なる味を与えてくれる。
「あんな可愛い車から震え上がる様な咆哮が聴こえてくるとギャップが凄いよね…」
「だからこそ良いんだよね…まさにギャップ萌えだね〜w」
改めて自身の愛車に惚れ直し舞い上がるリリー。
暫く放置する事にして今度はもう1人の少女に視線を向ける。
「こあはAT210だよね?」
「うん。カリーナのGT。お父さんのだけどね汗」
カリーナ…トヨタ自動車が長年販売してきた4ドアセダン。
常にクーペのセリカと基本構造を共有しており、走りの面でも高い評価を受けてきた。
「普通のカリーナはテンロクだっけ?」
「正解。有名な4A-Gだよ。EDの3Sみたいにパワーがある訳じゃないけど、バランスよくて使いやすいんだよね」
カリーナには、EDという派生車が存在する。
デザインは流線形を意識した滑らかなもので、スペシャリティな雰囲気を演出する。
4ドアではあるものの、Bピラーを持たないハードトップと呼ばれるボディタイプを採用しておりセダンとの差別化が図られている。
「4A-Gは人気だからチューニングの幅凄いよね…名前変わっちゃうし…」
「そういえばあったね…ノーマルから5、6、7、8…9まであって、それぞれ中間があるんだったかな?」
現役当時もハイパワーという訳ではなかった4A-Gエンジンには、HKS製のクランクシャフトを搭載する等して排気量を増やすというチューニング法が取られてきた。
その先のステップに、同系列の7A-Fエンジンにシリンダーヘッドのみを移すというチューニング法が存在する。
これにより排気量を約1800ccまで増やし、尚且つ4A-G元来の高耐久度を維持するという夢のようなパワーアップを実現する。
これを7A-Gと呼び、更にクランクシャフトの偏心加工を施し、排気量を約2000ccまで増加させた物を9A-Gという。
「ハチロクは遅いっていう常識が覆ったんだよね…940kg程の重さで220馬力越えるんだもん…」
「7A-Gにはしても良いと思うんだよね…耐久性損わないし街乗りでも快適になるし」
カリーナのサイズに対し4A-Gのスペックでは少し物足りなさを感じ、7A-Gへのグレードアップを検討するこあ。
麟は「そっか」と返答し、誰もいない方を向いたかと思えば楽しさと期待を持ち併せるような表情で空を仰ぐ。
「麟は車何にするかとか決めてるの?」
「うん。決まってるよ?随分前からね」
リリーの質問に麟は自信ありげに返答する。それに対し、「へえ、何?」と聞くこあ。
「内緒。納車したら教えるから、その週末一緒に山にでも行こ?」
口元に人差し指を当て、悪戯を思いついた子供のように微笑みかける麟。
それに対し2人は一瞬困惑の表情を浮かべながらも、「そっか。楽しみにしてる」…と笑いながら返すのだった。
学校が終わると麟は急いで支度を済ませ、リリーとこあには「急ぎの用事がある」と言って1人で電車に乗り隣町に向かった。
目的地に着くと、建物の看板には「河城自動車」と書かれており、多くの車が陳列されていた…
「麟ちゃんも遂に免許取得か…18になってすぐに教習所通い始めたもんね…」
特徴的な帽子を被った赤髪の女性が感慨深そうに話す。
「そりゃ一つの夢みたいなものでしたし。何よりあんな光景を見せられたら一層気持ちも煽られますよ」
「確かに私も
女性…河城みとりは納得と興奮が混じった声音で話す。
冴月楽器の倅であり、麟の兄である玄重。
彼は数年前、関東圏の峠で下り最速となった伝説の走り屋で、スカイラインKPGC10に乗っていた。
初めは母の所有するランサーCE9Aに乗っていたが、ある事を理由に乗り換えを余儀無くされ、友人の実家の中古車屋に転がり込んだ車を貯金の大半を使って格安で譲って貰った。
今もメンテナンスを欠かさず行いながら乗り続けており、車体に秘めるS20エンジンは勇猛な咆哮を上げる。
現在は薬剤師を目指し友人に薦められた大学で勉強しながらマンションで暮らしており、交際中の彼女と同棲する形となっている。
因みにその少女も元走り屋であり、玄重との県外遠征では愛車のインテグラDC2で登りを担当していた。
「それで麟ちゃん?もうどの車にするかは決めてるの?」
麟は「はい!」と元気に返答すると辺りを見回し、目当ての物を見つけたのか真っ直ぐその前へと向かう。
「私、この子にします!前から決めてたし」
見つめる先には、ストラトブルーマイカに身を包んだ曲線の鮮やかな車があった。
フロントバンパーの頂には、頭文字である(M)を模したメーカーロゴが付いている。
「成る程…SEか…良いチョイスね…」
マツダ…RX-8。型式番号のSE3Pより、通称SE。
伝説のピュアスポーツ…RX-7の血統を引き継ぐスポーティセダンとして開発され、発売当時話題を呼んだ。この車はその性能を更に引き上げたmazda speed versionである。
「この車は決して加速を自慢できる訳じゃないけど…それでも良いの?」
「はい。この子の最大の武器は減速した時にあるって事は分かってますから」
麟は「それに…」と付け加えると、強気な表情を見せて告げる…
「加速力なんて気にならなくなる位、この子を舞わせてみせるので!」
その後…無事手続きは完了し、7時になろうとしていたので麟は若干急ぎ足で帰宅した。
1週間後の週末に納車が完了し、翌日リリー達と集まる事になるのだが、それが新たな公道伝説の序曲となる事は、誰も思う筈はない。