異邦のグルメ   作:ぱらさいと

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ロウアー・サウスサイドのイタリアンダイナー ビステッカ・アッラ・フィオレンティーナ

 アーカムの街の歴史は古い。最初の入植は1692年のことだ。ミスカトニック川をはさんで両岸に都市が建設され、たいへんに由緒ある王朝様式の家々がたえまない歴史の流れとともに腰折れ屋根を歪ませ、通りへ覆いかぶさって仄暗い影を落とす。あるいはダニッチやインスマス、セイレムといった数々の伝説と奇妙な風土で知られる土地に囲まれ、怪異な風習に触れやすいために迷信と無知が混同していったのか。しばしば魔女であったり悪魔崇拝、黒魔術といった事々を容易く受容する傾向が見られる。

 デヴィッド・スコッツデール教授はこうした異なる文化の融合、あるいは習合を『人種的純粋性を損なう堕落した行為』であり、これらの結果生まれた新たな文化は例外なく現代社会にとって有害であるから、我々は『先祖から受け継いだ人種的、文化的な純粋性を護持する』ためこれらの冒涜的な人種・文化における『異種交配と混血化』を()()()()()()()()という主張を講義で繰り返している。

 そんなスコッツデール教授が民俗学の基礎講義を私に任せたのは、私の研究している内容がまさに文化の混血であるからだろう。

 私としては異なる人種や文化の間に差異はあっても優劣は認め難い。

 だが、差別というは気楽な価値観だ。染まるのは早く、抜け出すには難く、そしてコミュニティの結束につなげやすい。

 価値観の隔たりを()()してでも拝命したのは、スコッツデール教授が人間行動学部でもとりわけ生徒から注目されているからだ。社会ダーウィニズム、流行ってるんだ。社会主義の方がいくらかマシには感じる。唯物論でもって伝統的信仰を破壊し、新たに社会主義革命という宗教を植えつけるのはコンキスタドールの仕草と大差ないが。

 

「例えば昨年にインスマスのダゴン秘密教団が州政府により摘発されたことは記憶に新しいかと思います。この教団は古代ペリシテのダゴン神を崇拝し、人類はいつか海に還るという海洋信仰に類すべき教義を掲げていました。残念ながらアーカムにおいて彼らの宗教は受容されませんでしたが、ニューイングランドにおける新宗教の代表例としては重要な地位を占めています……」

 

 要は教授のご要望は「いかに文化の混淆が忌避すべきものであるか」を示すことであろう。

 だいたいインスマスとダニッチの話をすればよい。反応がいい。新入生たちもちょっとした怪談気分で集中している。魚の捌き方や野菜のアク抜きについて教えるよりよほどやり甲斐を感じる。あんなもの外食すれば覚える必要ない。事実、私は自炊できなくて困ったためしがない。

 

「注目すべきはダゴン秘密教団を創設したオーベッド・マーシュ船長の血脈と、インスマスに蔓延したという謎の皮膚病が不可分である可能性が浮上した点です。私が二度にわたりインスマスを来訪し調査を行なった際、新しく移住してきた人々はみなマーシュ家の相貌を有しておらず、風土に起因する感染症とは異なる事実が疑われ……」

 

 実際のところアレは病気ですらない。深海より来る怪異との交配によって、血が呪われた、そうとしか形容できない。変貌していくのは肉体だけでない。精神すらも海魔のものへと転じゆるやかに人間性を喪失する。だがまあ、そんなことを教えても仕方がない。そこはあらかじめ省略して講義を進めようとしたが、ここで「待った」がかかった。新入生の1人が手を挙げている。「どうぞ」と発言を促す。

 立ち上がった白人青年は困惑を隠せない表情で言った。

 

「階さんはインスマスへ二度も行かれたんですか?」

 

「そうですよ」

 

 当時は直通バスが出ていたのでダニッチより交通の便で優れていた。あの運転手もそういえばカエルか魚類のような顔立ちだった。彼も逮捕されたのだろうか。もしかすると摘発に抵抗して……だとしたら見知った顔が一夜に二人も死んだことになる。

 

「あの……祖母から、インスマスは穢れているから、もし踏み入ったら生きては帰れないと……」

 

「幽霊のようとは良く言われます。ご心配なく、今晩あなたの枕元に立ったりしませんから」

 

 地下大講堂に忍び笑いの声が沸き起こった。ちょっとくらい冗談を言う方が生徒からの評判はよくなるらしい。アメリカ人というのは根っこが陽性らしい。

 

「アイラ島のスコッチ・モルトがあれば喜んで伺いますよ。さて、いま指摘があったように()()()()()()()()というのがなんであったのか。本来であれば病理学の面から調査すべきだったのでしょうが……残念ながら行政はインスマスをほとんど完全に破壊してしまった。ただ配布した資料にもある通り、比較的新しい分野ではありますが、遺伝性疾患の一つとして『ガン』があるわけです。マーシュ家が住民への布教を広める過程で婚姻を用いた事実は確認できていますから、血脈の拡大と教団の成長が連鎖することで遺伝性疾患が街全体へ広まった経路が見えてきます」

 

「アレって呪いじゃなかったんですか?」

 

「呪いというのは何らかの因果関係に基づき信仰上の最高存在がもたらす『制裁』ですね。インスマスで行なわれてきた犯罪行為は……詳細は省きますが、センセーショナルかどうかはさておき、詳しい事は新聞を読むように。現代的な司法に背けば呪われるなんて、アーカム市警もさぞ仕事がやりやすくなるでしょうね。冗談はさておき本筋に戻します。秘密教団はペリシテのダゴン神を奉じておりましたが、この信仰の起源となるのは南洋のフランス領ポリネシアです」

 

 ようやく本題に入れた。危ない危ない。フレイザーの金枝篇を紹介する前振りに熱をこめすぎた。どのみち民俗学をやるならあの大著は避けて通れない。安楽椅子の学門であれ学門だ。偉大な先達の研究に触れるきっかけが地元の迷信であって何が悪いのか。

 隔絶された文化の接触。それがもたらす新たな信仰。独自の教義。未知の祭祀。

 私はただ実例を挙げるだけだ。インスマスで見聞きしたこと。過去の研究と発見。出来ることならばなるたけ純粋に比較し、類型ごとに整理するだけの道に進んでほしいものだ。大衆に受けたところですぐに飽きられるのがオチだ。

 たった一ヶ月で女子高等学校の教壇を去ったのもそう。無知蒙昧を地で行くうえ、無明のままを是とする生き物に、何を教えろというんだ。バカらしい。やっていられない。それに比べれば……開明的でなくともミスカトニック大学の学生はずっと話が通じる。

 教職時代を思い返すと愉快な記憶がなさすぎる。

 さっさと忘れよう。忘れて現実を見よう。

 

 長い一日を終えるとすっかり夕暮れである。グロテスクなほど赤く燃える夕焼けが地平線へ沈みきる間際の、夜の黒々とした空色に一際に鮮烈な赤い色彩が混ざる様は、昔から言いようがなく好きだった。バケツの水面に黒い絵の具と赤い絵の具を垂らしたような。あの境界線がおぼろげなまま揺らめく感じ。不思議と目が話せない。奈良で何度となく眺め、アーカムでもやはり見つめてしまう。

 下宿先へこのまま引き上げようと自転車にまたがる。

 ペダルに足をのせ、グッと漕ぎだした瞬間。グルグルと腹の虫が呻く。

 そういえば今朝はなにを食べたのだったか。白ブドウのフレッシュジュースをコップになみなみ注いで、ほかは……面倒だから抜いたんだ。昼食も混雑した学生食堂はわずらわしいと選択肢から外していたからミネラルウォーターだけか。液体しか摂取していなかった。またやってしまった。道理で猛烈に空腹だ。

 明日は土曜日。急ぐ用事はない。だったら今晩はガッツリやりたい。肉、肉だ。血と脂のほとばしる肉塊。シーフードも悪くないがジャンキーさが欲しい。そうと決まれば行き先は一つ。ロウアー・サウスサイドのイタリア人街へ全速力。出発進行だ。体力の許すかぎり猛スピードで突っ走れ。これで定休日だったらこの世の終わり。天使にかわって七つのラッパを吹き鳴らしてやる。

 ウェスト・ピックマン・ストリートを直進で驀進。曲がりくねったフレンチ・ヒルでサウス・パウダーミルに入り、そのまま南に一直線。まばらに置かれた街灯の弱々しい照明と1世紀近い年月を刻んだ家屋がひしめきあう。夜の暗さとアーカムに蔓延する陰気さを吹き飛ばすようにイタリア人たちが独特なくぐもった口調で笑い合っている。なんとなく母の生まれ故郷を思い出して妙な気分だ。田舎っぽいのだこの地域は。それも大阪人の陽気さと内輪でまとまりたがる気性が、どことなくあの山間部によく似ている。姉たちは彼らの性格をひどく嫌っていた。腐っても看護師として自立しているから、世間的にはアウトサイダーなのだ。二人も。

 目当てのダイナーは看板すらない。中から酔っ払った男性客たちの笑い声がするから、今日は営業しているだろう。雨風にさらされて黒ずんだ扉をえいやと開く。中では数名のイタリア系が赤ワインでよろしくやっている。黒ずくめの東洋人には目もくれない。適当な空席に腰掛けて店主を呼ぶ。イタリア人でなければ扱いはこんなものだ。ミスカトニック大学の周辺が異例なだけである。

 丸々と太った初老の料理人は縁の欠けたグラスとデキャンタいっぱいの水を置いて行った。

 メニューなんてなくても()()なら分かるだろうというのだ。なので私も遠慮なくありそうなものを叫ぶ。声を張らないと酔っ払いの喧噪に呑まれてしまう。

 

「すみませーん、生のアンチョビください。あと白ワイン」

 

 返事はない。聞こえてるんだかいないんだか。

 これもいつものこと。最初は面食らったけどもう慣れた。かすかに聞こえる蓄音機の歌声に耳をそばだてているうち、ふてぶてしい顔のオヤジさんが厨房から出て来た。適当に盛りつけたと一目でわかるアンチョビに新鮮なカットレモンが添えられている。それとよく冷えたシチリアワインの白。使い古された栓抜きまである。遠慮なく栓を抜く。ぽんっと心地良い音。贅沢にワイングラスへどぼどぼに注いでやった。

 塩漬けにしたイワシはオリーブオイルをまとって艶めく。この透明なグリーンがまたいい。一切れ頬張ると凝縮された魚の旨みが押し寄せ、あとから強烈な塩辛さとフレッシュなオリーブの風味が追い上げる。ここでグラスの白ワインを一口。いやらしさのない爽快な酸味が口の中を洗い流してくれる。そういえば黑佳姉さんの旦那さんは和歌山の漁師の生まれだと聞いたが、やはり干物はあるのだろうか。

 燻製の方が好きだが、干物も日本酒が進むから嫌いじゃない。

 そんなこと姉さんに言ってたら怒られそうだな。あの人は下戸だから。

 生真面目な長姉の記憶も白ワインで流す。小洒落た男子学生たちは青リンゴやらパイナップルがと言っていたがよく分からん。美味ければそれでいいんだ私は。だいたい酔っ払ったら味なんて分からなくなるじゃないか。料理人になるわけでもあるまいに。

 気づいたらアンチョビをすっかり食べきっていた。

 生ハムでも頼もうかと思ってやめた。今日はガッツリ肉だ。ここで初心を忘れてどうする。

 オリーブオイルで胃のコーティングが済んだなら次は野菜だ。南イタリアはナスとトマト。ウリ科の野菜ほど熱して美味しいものはない。

 

「ナスのパルミッジャーノを一つ!」

 

 ワインが入っていくらか遠慮がとれてきた。

 大声で注文をするのはいつも気が引ける。まあ今は仕方ない。ここの作法だ。

 皿の上ではオリーブオイルの海にレモンが沈んでいた。もったいないので囓る。アンチョビのエキスが染み込んだオイルとレモンの酸味でまたワインが進む進む。落ち着け。慌てるんじゃない。まだナスのグラタンが控えているんだ。二本目の白を開けてしまっては流石に赤ワインまで入らなくなる。はたとボトルの中を確かめる。よしよし。まだ半分はある。これならペース配分は問題ない。

 ホッとしたところで手帳を開く。三度目のインスマス来訪……マーシュ家とダゴン秘密教団の壊滅した、あの夜。数少ない知人が本懐を遂げた日。青春の一ページが焼け落ちたあのとき、目にしたすべてを書き記し、描き写し、刻みつけたこの一冊。変異の最終段階に達した相貌。上海でカラテを修めたと嘯いたニンジャ……というか殺し屋たち。地下に秘された聖域。街とともに滅び去ったオニシェフラス教主。なにもかもなくなってしまった。畜生、あの石碑だけでも回収していれば……。いやどのみち没収されていたろう。そうでも考えなければ未練が吹き上がってくる。

 口惜しさに歯がみしているとナスのパルミッジャーノが運ばれてきた。

 オーブンで焼き上げられたチーズとトマトソースがぐつぐつ煮えたぎる。輪切りのナスも大きい。スプーンで取り皿に移す。そのまま口へ放り込むと舌を焼くくらい熱い。慌てて白ワインで冷やすと、後味にはしっかりニンニクがいる。コレ、本当は少し冷まして食べるものらしい。いわゆる常温。でも私は熱いものは熱いうちに食べたい。この辺が欧米と日本の差違。常温って本当に漬け物とかご飯のおとも系だけの気がする。あとはおひたしか。

 このナスの食感も面白い。中はとろとろ、外はシャクシャク。

 トマトソースも濃厚さの中に酸味があって飽きない味。トマトは生でも切っても焼いても煮ても美味しい。まさに万能食材だ。見た目もまんまるでカワイイ。白ワインのおかげでナスもすぐに消えてしまった。

 ボトルはまだ少し残っている。

 このまま肉へ進むのは尚早か。

 今か、いいや、まだか。考える。

 先に主食を入れよう。パスタ。パスタだ。

 南イタリアの重くないものを。だったらボンゴレに限る。

 今度は堂々と「ボンゴレ・パスタを!」と叫ぶ。

 うん。老後は日本へ帰ることも考えたけれど、シチリアもアリだ。

 地中海の恵みには無視し難い魅力がある。

 …………潮風に吹かれながら海を眺める。ワイン片手に。ゆったりした昼下がり。

 想像してみるになかなか素敵じゃあないか?

 台風も吹雪もないなら文句なし。

 あとはイタリア語だ。これがサッパリなのだ私は。

 次のセメスターでいきなり外国語をねじ込むのもどうだ。

 誰かに教えておうたって、イタリア系の友人がいない。まず友達がいない。

 そんなこと36歳になる前からだったろう。

 女子高等学校のときからちょっと浮いてた。嫌われなかったのが不思議なくらい。

 なんで10代のときの私はあんなにイヤな性格だったんだ。我ながら不思議だ。

 ウンウンと首をひねっている私の前へパスタが来た。ハマグリとムール貝で麺が埋もれている。そうそう、漁師町の料理はこうでないと。豪快な男の手料理は大好きだ。

 スプーンとフォークでパスタを口へ運ぶ。ほどよく芯の残ったアルデンテ。出汁も最高だ。貝の旨みの直球勝負。なのにハマグリもムール貝も噛みしめるほどエキスが染み出る。信じられないくらい質がいいんだ。こんなに美味しいボンゴレを知ったら自炊なんて……。もうイタリアに住まなくっていい。一生アーカムでいい。ここに骨を埋めるんだ。私の学問を邪魔したあの国になんて誰が帰るもんか。

 顔がほころぶのも隠せない。隠す理由あるのだろうか。

 スープの一滴まで飲み干したころには白ワインのボトルも空っぽだった。

 身体の方もいい具合にエンジンがかかってきた。

 いざ、メインディッシュ。以前食べた骨付きステーキ、アレだ。

 

 ビステッカ・アッラ・フィオレンティーナ……そんな名前の豪快な肉。

 南じゃあなくって中だか北だかの料理らしいが食べて美味ければいいのだ。

 だいたい私、料理できないし。ホントどうやって高等学校と師範学校を卒業したんだろ。もしかしてあのころは出来ちゃったりした? それにしたって教室で悲鳴と溜息が飛び交ってた記憶しかないのは何故? 何やったんだろう子供の私。今だって子供みたいなもんだけど。きっと一生このままだけど。いいさいいさ。アーカムに昔の私を知ってる人間なんていないんだもの、掘り返されたくない思い出なんてみんな忘れちゃったよ。どこに置いてきたかもサッパリ分からん。多分間違えて捨てたんだ。私はただの留学生で、黒色がよく似合う美女。それで十分じゃあないか。

 やれやれと肩をすくめる。まったく同じタイミングで巨大な骨付き肉が現れた。

 いかん赤ワインを忘れた。ハッとしてオヤジさんを見上げると、巨体の中年は仏頂面のまま赤ワインをドンとテーブルへ置いた。ご丁寧に栓も抜いてある。そんな気遣いできたのかオヤジさん。

 

「嬢ちゃん、インスマス帰りなんだってな」

 

「へ? そうですよ? 僕、宗教学アドバイザーやってましてね」

 

「そうかい。俺ァあの魚ッ臭ェ連中が(デェ)ッ嫌ェでよ」

 

 そんなに嫌われていたのかダゴン秘密教団。

 顔がちょっと変なだけでアーカムの住民と大差ないだろ。

 

「コイツァ……勇者への俺からの気持ちだ」

 

 オヤジさんはそう呟くと、新しいグラスへたっぷりと赤ワインを注いだ。そしていつものようにノソノソと厨房へ引き返していく。先客たちはとっくに引き上げ、酒宴のあとも片付けられていた。客席に残っているのは私とステーキと赤ワインだけだ。

 光にかざすと黒々とした中に血色が現れる。神の血とはよくいう。古代人の詩才には脱帽だ。ワインでパンを食べようとするセンスは謎だけれど。やはり赤ワインにはステーキだ。塩胡椒だけのストイックさ。1キロは軽く超えたボリュームも素晴らしい。ナイフとフォークで切り分けてはガンガン頬張る。スープのように溢れ出る肉汁。フルボディの渋味と酸味がピリピリと舌を刺激する。それでいて花の香りとしっかりしたコクがある。血でこれならイエスの肉はどれほど美味しいんだ。想像がつかない。

 噛みしめるとしっかり肉の食感が伝わってくる。

 けれど飲み込むのにまったく苦労しない。絶妙な火加減と脂身。牛肉は塩胡椒だ。割り下なんて甘ったるい汁で煮るなら狸でもなんでもいいのだ。こと美食においてイタリア人は世界を牽引するに相応しい。やっぱり老後はイタリアに移住しようかな。文明の中心に住むのだ。

 ガツガツと牛肉を平らげれば空腹感は影も形もない。

 ワインも入って良い感じに酔っ払った。美味しい酒でゴキゲンだ。ここから北にちょっと行って左に曲がれば下宿先だ。たまにはのんびり夜風に吹かれて帰るのもいい。

 

 過ぎ去りし日々の情景をぽやぽやと脳裏に浮かべて。

 郷愁を抱けるほどの思い出も、語り明かす相手もなければ、感傷に浸れやしない。

 不肖の末っ子は遠くアメリカで気ままにやっております。

 兄君たち姉君たちにおかれましては信念を完徹なさいますよう。

 いずれみんなの顔も忘れてしまうに違いない。だからこれでいい。

 

 

 さあ、明日は何をしようか。どこへ行くかも誰に会うかも私の自由。

 縛られて、干渉されて、不自由に窒息する人生はもう終わったんだよ。

 昔の私がいまの私を知ったら驚くだろうな。こんなにのびのびとしてる。

 未来のことなんて分からないけれど。後悔なく。全力で。

 

 

 

 そのためにもどこかでミネラルウォーターを買わないと……。

 ウッカリ忘れて帰ったら翌朝ぜったいに後悔する。

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