ホテルの浴槽でぼんやり微睡む。旅の楽しみのひとつ。
ちゃぷんという音すら睡魔を呼ぶ。
全身をあたたかなお湯に包まれて、心まで若返りそうだ。
交通費はいくらでもケチる。そのくせ宿泊費だけは切り詰めたくない。見栄なんかじゃなく、モーニングも含めて『楽』をしたいから。ホテル代というのはあるラインを越えるまでは快適さを買っている。だから本当に安かろう悪かろうという宿だけは避ける。
その分、ほかのところで予算が足りなかったりするのはご愛嬌。
でもたまに食事に奮発したくなる。そんなときもあるっちゃある。けど、旅行先で贅沢な料理って、美味しさより経験が目当てのところが大きい。
アーカムからボストンには車で何度か行った。
冬場に。ベスネル教授の付き添いであったり、個人的な研究であったり、はたまたプライベートの事情で。
必ずたらふく牡蠣を食べたのはよく覚えている。
大皿に敷き詰められたカチ割り氷。その上にきれいに並べられた殻つきの牡蠣。真ん中にはレモンがあって、テーブルには必ずタバスコの瓶が控えていた。
薄い刃のナイフで弾力のある身を殻と切り離す。そうしたらあとは汁ごと一息に啜るだけ。ほんのり潮の香りがする。噛めば噛むほど濃厚な牡蠣の旨みが押し寄せる。あらゆる貝の中で牡蠣は王様だった。アサリもハマグリもホタテも、もちろん大好き。でも旬の季節に食べる新鮮な生の牡蠣にはちょっと及ばない。次元が違うんだ。
レモンもタバスコも必要不可欠。これナシに牡蠣は始まらない。
一皿目は味つけをしなくって十分。でも二皿目、三皿目となるとハナシは別。
舌が飽きてくる。だからアクセントに次の皿はレモン、その次はタバスコ、そのまた次はレモンとタバスコのダブルで。そうして舌どころか脳みそも飽きたところで〆る。そしたらちょうど満腹という寸法だ。
周りはよくラガーをやっていたように思う。私としてはビールより、アイラモルトのソーダ割りも悪くないのだが、なかなかウイスキーソーダへの支持は集まらなかった。みんなしてロックか水割りだという。
美味しいのには変わらないんだから試せばよかったのに……。
気取った輩はシャンパンなんか開けていたっけ……まあ白ワインだから
、そりゃ海鮮にあわないワケないか。でもやっぱり潮の風味があるアイラ島のスコッチほど牡蠣に適したお酒もないだろう。なんせ本場のアイラ島では昔から牡蠣に地酒(つまりはアイラモルト。ああ、なんて羨ましい!)を数滴垂らしてくいっとやるんだそう。いつかやってみたいと思いながら最後にボストンを訪ねたのはいつのことやら。もう忘れてしまった。
……また行ってみたいなあ。
行ってみたいなあ、が私は多すぎるな。
誰に気をつかうことがあろう。行けばいい。遠慮せず。
禁酒法があろうがお構いなしにモグリ酒場へ通った。女はタバコを吸うなという風潮もあったが、気にしたこともなかったし、なんなら黒人街もスラヴ人街にもしょっちゅう足を運んでた。向こうもアジア人は嫌いだったろうけれど。私はただお腹が空いていて、美味しいご飯が食べたいだけだから、そんな事情は知ったことではないのだ。
つくづく人種がどうの肌の色がどうのというのはバカらしい。
端から見ればただ奇怪な祭礼も、その文化の中ではごく正統なものなのだ。なんならサンクスギビングだからと鶏だか七面鳥の丸焼きを食べるのだって、私は当初かなりビックリした。後処理大変だろうに。
結局のところ、分からないものを分からないなりに受け入れるか、せめて受け流せばよいのだ。それを己の狭い世界観の中で理解できなったというケチな根拠で難癖つけるから話がこじれていく。だいたいアメリカ人はジンやウイスキーと同じくらいラム酒やウオッカをありがたがる癖に、カリブ系やスラブ系の移民を毛嫌いする。そんな筋の通らないことあるだろうか?
そういう意味でスピークイージーはまともだった。
なんせ合言葉さえ知っていれば誰でも入れる。私もときどき行っては見慣れないお酒を頼んだものだ。フランス産のブランデー、イタリア産のグラッパ、変わり種だとスウェーデンだかノルウェーだかのアクアビット……アレはキツかったが不思議と癖になる。思えばあれこれ試したものの必ず〆の一杯はウイスキーだった。バーボンやらスコッチやらバラバラではあったけど。アイリッシュもカナディアンもたまに呑んでた気がする。何故か。美味しいから……全部……。
はて今晩は何を嗜んだのだっけ。
流石に旅先で泥酔するほど浴びてはないから、忘れたなんてことあるまいが。
チェックインしてからの記憶を辿る。
荷物を整理して。それから喫煙室で一服して。近所の喫茶店と古沢屋をハシゴして。それから?
タバコ屋でシーシャなる喫煙具を紹介されたのだ。アラビアで発明された水タバコがいま若者から人気だとかで。そんな歳に見えたらしい。それで機嫌をよくして何かしら葉巻を買ったのは覚えている。土産のつもりが一本吸いきってしまったのも。
それでそのあとは?
ホテルに帰って?
うたた寝して?
いまお風呂で一休み中。
なるほど、夕飯を忘れた。
時刻はすっかり夜。ホテルを出てみたはいいが、周りは観光客を狙った流行りものの店ばかりだ。
ふらふらと彷徨ってなにかないかと探してみたが……ダメだ。
餃子バル、創作割烹、肉寿司、あとはもうなにがなんだから分からない店ばかり。残るは全国チェーンの居酒屋かファミリーレストラン。旅先で入るにはいくらなんでも風情がない。焼き肉や鉄板もそんな気分ではない。牡蠣はないのか牡蠣は。いまなら在庫みんな食べきれそうなのに。
見ず知らずの路地裏まで制覇したものの成果なし。
怪しい雰囲気のカレー屋は興味深いものの、営業時間を過ぎていた。
なんだかもう牡蠣もどうでもよくなってきた。
とぼとぼと大通りを引き返す。ファストフード店の不躾なネオンが月のない夜道を照らす。こんなこともあろう。それも旅の醍醐味よ。マスコットキャラクターの微笑みが、そんな風に語っている気がした。
慰められたようで腹が立つ。
むしゃくしゃするばっかりだ。
このまま不貞寝する選択肢も見えてきた。自暴自棄に陥った私の前に現れたのは、コンビニエンスストアの清々しいくらい無愛想な店構えだった。どこでも完璧に同じルックス。一目でそれと分かるテンプレートが、失われた冷静さを取り戻させる。
頭がカーンと冴え渡る。
いざ深夜のコンビニへ。
もう迷うことはない。気になったものは全部買おう。
品揃えと陳列は大まかにはどこも同じ。そこが罠。微妙に違っているから一通りチェックが必要になる。
買い物カゴを手にしてまずは主食。おにぎり類は外せまい。ツナマヨのジャンキーながら素朴な佇まい。これは一周回ってキャッチーさすら感じる。ここでイロモノな気配が漂う韓国風焼き肉もノミネート。食べる辣油なんてのも斬新なのに味の想像がつく親しみやすさ、実に国民的だ。これだけでは均整を欠く。白むすび、はむしろシンプルすぎてアンビバレンツに陥る。そして具材に依存しないものとなると、必然、炊き込みごはんの存在は無視し魔力かある。大胆に二個も入れてしまった。
続く惣菜コーナーはいくらか閑散としていた。やはりランチや夕食を想定するのか、夜間はあえて補充をしないようだ。蕎麦やうどんの定番は軒並み全滅。値札をあらためると「サラダスパ」の文字。
サラダは分かる。野菜やら果物をドレッシングにひたしたもの。
で……すぱ? スーパー? なんのことだろ。
ただまあ大人気品切れ中なんだけれど。余計気になる。
残っているのは「ホルモンごろごろ大盛り塩焼きそば」と「四種のチーズとキノコのホワイトクリームパスタ」だけ。どちらもちょうど一つずつ。焼きそばを夕食に、キノコパスタを朝食に。となるとあっさりしたコンソメスープが……あるかな……あったらいいな……。パン類はいくらか選択肢があった。メロンパン、あんパン、ジャムパンに焼きドーナツ。
なんなんだ焼きドーナツ。揚げないの? それは……ドーナツと呼んでいいの? カロリーが気になるならドーナツ食べなければいいのに。若い子の考えることはむつかしい。
喉に小骨が引っかかってパンは手が出なかった。
棚の下にあったバナナはカゴへ放り込んでいた。
そのまま冷たい飲みものを揃える。緑茶を一本にコカ・コーラ。あと紙パックのフルーツオーレ。
そのままお菓子コーナーへ。サクサクのスナック、キャンディー、チョコレート、グミ。目移りする。とりあえずでサラダ味のチップスを二袋。王道がいい。そんな夜もあるさ。あとは夜食に海苔煎餅も追加して、ふと冷蔵品へ目をやると、かた焼きプリンがある。ドロドロしたイマドキじゃない、カッチリ硬派なイエロー。素敵なワンナイトの予感がする。
さらなるは缶詰めとインスタント食品。あと瓶のお酒。
おにぎり買ったからには味噌汁が必要だ。即席スープのコーナーの充実ぶりはいつも感動する。まず豆腐と薄揚げを確保、赤出汁にワンタン春雨と豆腐チゲもあればうれしい。カップラーメンも醤油味を一つだけ。これは一杯で終えるからこその味わいなのだ。これで満腹感を得てはいけない。「とりあえず入れておく」のがミソ。スープは醤油だけど。
バーボンやワインの並びがつい懐かしくって足が止まる。
若かりし青春の日を思い出す。アップタウンの駅前近くにある、あの
ここは一つ昔なつかしい面々で一献やろう。
まずはポーク缶。牛肉もこっちへ。アンチョビとコーンなしに缶詰めは語れない。あとはそうだな、イワシ……オイルサーディンとやらも美味しいはず。
そしてコレ。ケンタッキーバーボン! これぞアメリカの
ということはコーラを買い足さないと。一番大きいのにしよう。
気がついたらカゴはとんでもない重さ。肩が外れそう。エラい買い物をしてしまったなあ。ハメを外しすぎちゃった。
なんとかレジまでは辿り着ける。
そこで目にしたおでんがなければ……帰りはタクシーだ。
温まった具と出汁の香りが私を狂わせる。
「すみません、大根とたまごと牛すじください」
レジに立っているのは若いお嬢さん。立派な黒髪のロングヘアに地味すぎないていどのお化粧。そばかすも愛嬌があっていい。こんな子が夜中にコンビニで働けるならそう悪い時代でもあるまい。ここは温かいし明るいし、なにより忙しくないし。追加でタコとコンニャクとダイコンを二つもらってお会計。いやあ買った買った。贅沢した。
さあタクシー呼ぼうと思ったそのとき。
旅先の深夜のコンビニで
私の理解が及ばない文化が、こんなところにあろうとは……。
「あの……コレ、ピザまんってなんですか」
「はあ。いやピザまんスけど」
キョトンとされた。そうか若い子はピザまん知ってるんだ……。
ただこんな夜中にあれこれ仕事を頼むのも罪悪感がある。どのみち明日も泊まるし、朝ごはんに買いに来よう。
そのあと拾ったタクシーでホテルへ帰ることができた。
底が破れる寸前のレジ袋をやさしく労わりながらゴミ箱へ。
買ったものをすべてテーブルに並べるととんでもない景色が生まれた。どうするのこれ。ものすごい量だ。流石に明日のモーニングビュッフェはムリかもしれない。
悩んだってしょうがない。食べたらいいんだ。さっそく自動販売機で買ったミネラルウォーターを電熱ポットに移す。お湯が沸くまではおでんと缶詰めとでバーボンを舐めていよう。
ペラペラの透明なフタを開けると部屋中へ出汁が香る。スープを一口。昆布の甘い関西味。大根を口の中でほろほろと崩す。滝のようなあつあつの出汁とともに飲み込んで、続けざまにタコへ齧りつく。粒々の吸盤に翻弄されつつバーボンを流し入れて気分は上々。胃袋がカッと熱を帯びる。
口直しにポーク缶もいただく。刺々しい塩辛さよ。それをゼラチン状の脂が体温でとけてやわらげてくれる。また琥珀色のお酒を舐めて、次は柔らかくほぐされた牛肉。こちらはいくらか肉らしい旨味を感じる。
ああ、あんまり忙しくてもう食事どころでないときはよくやったんだコレ。辛かったけど、この食事自体は楽しかった。
こういうのは脇目もふらずガツガツ食べるに限る。マナーとかそんなの構いやしない。ここにいるのは私一人。
酔っ払って床で寝ようが椅子で寝ようが、困るのは明日の私。
今日の私は散々にお腹が空いてどうにかなっている。塩分もアブラも砂糖も人生には不可欠なんだから、摂取してなにが悪いのか。だから食べているんだよ私は。
ポットのお湯が沸いたらそのままカップ麺へ注ぐ。
あとは二分と三〇秒。
じっと見つめる。時が来れば思いっきり食らいつく。
塩っけと脂でいっぱいのスープまで胃袋へブチ込んでやった。
ひと通り開封したものを食べきって、ふと冷静になる。熱いものばっかりだったから汗ばんでる。うなじや生え際に小さな汗の滴が。せっかくお風呂に入ったのにまた流さないといけない。正直、シャワーも面倒くさいくらいに満腹感がある。コーラをちびりちびりしながらテレビを見たい気分。なにか口実が欲しい。こういうとき独り身は不便だ。さあどうしようとソファへ身体を埋めながらぐずる。さっさとシャワー浴びて済ませたらいいのにそうしない。これも独り身ならではのワガママだ。
…………そういえばこの部屋の風呂にはテレビがあった?
壁に埋め込まれた液晶画面、あれ操作パネルにしては大きかったような。重い腰とお腹を引きずってなんとか浴室へ向かう。まだ湿気が残った中で画面周りのボタンを触ってみる。
パッと光が灯った。
なんだ随分とハイテクな風呂だ。
そうと決まれば行動すべし。
さっさと湯船にぬるめのお湯を溜め、じっとり汗を吸った衣類はまとめて脱ぎ捨てる。コーラのペットボトルとガラスのコップを連れて、まだほとんど空の湯船へ座り込む。
バラエティの気分じゃない。旅先で旅行モノというのもヘンなハナシだ。通販もなあ、そんなに面白いと感じない。アニメ……これ続きモノの終盤だな。全然ハナシが分からん。男の子同士でイチャついてるのは分かる。無難にニュースでいいや。退屈だけど中身が分かるだけいい。
ゆっくりと満たされていくお湯。
やさしいぬくもりを太ももの裏で感じながら、画面に映ったロマンスグレーの男性キャスターは、緊迫した面持ちである。
兵庫県の方で大きなテロ。ずいぶん被害が出ているという。
おやまあ、カルトの暴走なんてアメリカみたいなこと、日本であるんだ。まさかインスマスみたいなことはあるまい。
ヤクザの抗争だったりしないのかな……カルト、カルトか。どんな教義なのかちょっと気になるけれど、コレは手遅れだ。
貴重なサンプルが遠く離れた場所で消えていく。
光景は目の前にあるのに手は届かない。
もどかしい気持ちと、早く解決しますようにという気持ちと、現実感のなさから来る困惑で、一口飲んだコーラはよく分からない味がした。