糸師冴の相棒   作:まっしゅないも

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前回までのあらすじ

主人公がコートで芝を食べてイエローカードをもらう。


U20日本代表戦 後半3

 "青い監獄"11傑の監督が交代を指示し、試合に余白が生まれる。

 

 センターライン付近で、居駒真澄は静かに立っていた。何の感情も宿っていない、硝子玉のような瞳。口元には、先ほど噛み締めた芝生の緑が微かに残っている。呼吸さえ忘れているような無表情で、彼はただ、静かに立っていた。

 

「……なあ、冴」

 

 怒涛のイエローカードに放心していた閃堂が、青ざめた顔で冴に話しかける。

 

「あいつ、マジでどうしちまったんだよ…?」

「……知るか」

 

 冴は心の底から疲れた顔で吐き捨てる。だが彼の脳裏には、スペインでの惨劇が嫌でも蘇っていた。

 

「一度だけ、あいつがあのままプレーした試合がある」

 

 冴の独白のような呟きに、近くにいた士道と愛空が聞き耳を立てる。

 

「そん時、俺はピッチにいなかった。スコアの上では勝ちだ。だが、チームの戦術は跡形もなく崩壊したらしい」

 

 冴の言葉遣いは、冷たく、淡々としていた。

 

「当時の主将(キャプテン)が、『彼の動きには我々の理解を超えた意図がある』と寝言をほざき、チーム全体がそれに感化された結果だそうだ。監督は真澄をチームそのものを壊す異物と判断した。それ以来は真澄が芝を食った瞬間、問答無用で交代だ」

 

「まあ普通に考えて、芝食うようなやべえ奴をピッチに置いときたくねえよな」

 

 閃堂がこの場の誰よりも真っ当な意見を返す。冴はこれまで心底、閃堂のサッカーに対する姿勢の甘さを馬鹿にしていたが、この状況で常識的な反応ができる一点だけは評価した。真澄のせいで正常な思考回路が恋しかったのだ。

 

「さっき居駒がお前に芝渡そうとしてたけど、お前も食ったりすんのか?」

「……お前は二度と俺に話しかけるな、グラドル小僧」

 

 だからお前は世界でプレーできねぇ雑魚なんだよ。試合外で碌に空気も読めない愚か者が、相手の戦術を読めるはずがないだろカス。冴は上げかけた評価を即座に地の底まで引きずり下ろした。

 悲しい顔で退散する閃堂の背中に、「お前もう糸師に絡むのやめろよ……」というチームメイトの憐れむ声がかけられた。

 

 その時、これまで静かに話を聞いていた愛空が、一歩前に出た。たったそれだけの動きで、U-20の選手たちのざわめきがピタリと止む。場の空気を支配する、主将としての威厳が彼の全身から放たれていた。

 

「糸師冴」

 

 愛空は、静かな、しかし有無を言わせぬ圧力を持って問いかける。

 

「弟くんのことは、どう思う?」

 

 その問いは、真澄のことではない。真澄に共鳴するように、同じく芝を口にした糸師凛についてだった。

 

「……知らん。あいつはもう、俺の知ってる凛じゃねえ」

 

 冴の答えには、諦めと、ほんのわずかな苛立ちが滲んでいた。昔から、凛の突飛な言動には手を焼いていたが今の凛はもはや理解の範疇を超えていた。なんで芝生なんか食ってんだあいつ。

 

「そうか」

 

 愛空は短く応えると、一度強く瞼を閉じ、そして開いた。その瞳に迷いはなかった。覚悟を決めた目でチーム全員に告げる。

 

「聞け。こっから先の話をする」

 

 凛とした声が、ピッチに響く。

 

「居駒真澄は、俺たちの戦術における『特異点(ジョーカー)』だ。奴の動きは予測するな。連携も求めるな。ただ、奴が創り出す『混沌』の余波にだけ備えろ。それぞれが、自分の持ち場で最高の仕事をしろ。以上だ」

 

 それは、匙投げ宣言などではなかった。制御不能の天才を、チームという枠に無理やり押し込めるのではなく、「災害」として受け入れた上で、自分たちは自分たちのサッカーを貫くという、極めて高度で、覚悟に満ちた決断だった。

 

 冴は、その判断を馬鹿にしなかった。むしろこの状況下でチームをまとめ上げる愛空の手腕に、内心で評価を少しだけ上げた。

 

「キャプテンの許可が出たわけだ。俺の細胞が爆発するのを、誰も邪魔すんなよ?」

 

 士道が、恍惚とした表情で歓喜の声を上げる。

 

「ああ。お前のエゴで、点を獲れ」

 

 愛空の許可に、士道は満足そうに笑い、背中を向けた。

 だがその士道の肩を、背後から糸師冴が掴んだ。

 

「悪魔くん」

 

 低い密談の声。周囲には聞こえない二人だけの会話。

 

「ア?……ああ。ゴマちんもリンリンも、好きにしていいんだろ?」

 

 冴は愛空の判断を評価するが、乗りはしない。なぜなら真澄の使い方をこの世で最も熟知しているのは冴だからだ。

 

「あのバカは、必ずピッチのどこかに何もない『ブラックホール』を創り出す。お前の仕事は一つだ。その穴に誰よりも速く飛び込め。ボールは俺が届けてやる」

 

 それは、愛空の「守り」の決断とは真逆の、あまりにも攻撃的で、あまりにも無謀な、「攻め」の密約だった。真澄の行動を「災害」としてやり過ごすのではなく、「兵器」として利用する。このピッチで、その発想に至ったのは冴と、そして本能でそれを理解した士道の二人だけだった。

 

 常人には理解不能な真澄の行動も、冴と士道にとってはただ一つの単純な事実に集約される。 

 

──あのバカは、何も考えていない。

 

「つまり、ゴマちんがぐちゃぐちゃにかき混ぜた子宮を、お前が固定して…俺が孕ませる。そういう『生命活動』だろ?」

「……」

 

 士道の言葉を聞いた瞬間、冴の整った顔からすっと表情が消えた。

 

 彼の脳が、今しがた耳から入ってきた情報の処理を、完全に拒否したのだ。

 目の前の男が、サッカーを、生命の誕生という最も根源的で、最も下品な比喩で表現したこと。

 

 そして、その冒涜的な共同作業(3P)に、自分も加担させられているという事実。

 ほんのわずかな沈黙の後、冴は、心の底から絞り出すように、一言だけを返した。

 

「汚ねぇ……」

 

 

 

 

 試合再開のホイッスルが鳴り響く。

 U-20日本代表は、主将の覚悟と、二人の天才の密約、そして一人の「特異点」を内包したまま、混沌の後半戦へと突入した。

 

"青い監獄"ボールで試合が再開される。OMFの位置にいた潔世一が、最初のボールホルダーだ。彼の視線が、鋭くU-20の陣形を探る。

 

(なんだ……?居駒真澄の位置…あいつ、一人だけ最前線に張り付いてる。守備に参加する気ゼロか?他の選手は引いてるのに……まさか、あれをワントップとして使う気か?愛空の奴、正気か!?)

 

 潔の思考が加速する。だが、いくら分析しても、あの感情の消えた男を頂点に置く戦術の意図が読めない。

 

 ボールは、潔からボランチの烏へ、そしてサイドの千切へと展開される。U-20の守備陣も、まずは自陣の守りを固めることに集中していた。

 一進一退の攻防が数分続いた後、U-20がボールを奪取。閃堂が、前線へと鋭いミドルフィードを送る。その落下点には──居駒真澄。

 

 彼は、まるでそこに存在しないかのように、音もなく加速した。

 "青い監獄"DFの二子が競り合いを挑む。だが、居駒はボールが落ちる寸前に、獣のようなしなやかさで半身を滑り込ませ、二子の体からボールを完璧に隠した。極めて柔らかなファーストタッチでボールを足元に収めると、彼はドリブルを開始した。

 

 そのドリブルは、常識から逸脱していた。

 細かくボールに触れる技術的なものではない。ただ、圧倒的な身体能力と予測不能なリズム。右に行くかと見せかけて左へ、加速するかと思えば急停止。DFが重心を崩した瞬間に、爆発的な加速で置き去りにする。それはまるで、嵐の中を舞う木の葉のようだった。掴もうとしても、するりとその手を抜けていく。

 

(速い……!だけど、コースがおかしい!)

 

 潔の脳が警鐘を鳴らす。居駒の進路は、ゴールではなかった。中央でもない。彼は、まるでピッチに引かれた見えない線路を走るように、タッチライン際を、コーナーフラッグに向かって突き進んでいく。

 

 DFの二子と、カバーに入った蜂楽が、その進路を塞ぐように挟み撃ちにする。もう逃げ場はない。誰もがそう思った、その瞬間。

 

 居駒はゴールに背を向けたまま、右足でバックヒールを繰り出すかのようなモーションを見せた。蜂楽の身体が、その動きにコンマ反応する。

 

 だがそれは罠だった。

 居駒は軸足である右足の横を通すように、左足のアウトサイドでボールを弾き出した。まるで鞭のようにしなる足首から放たれたボールは、ありえない軌道を描き始める。

 

 一度はゴールから遠ざかるように、DFの背後へと飛んだボールが、そこから急激にカーブしてゴール前の危険地帯へと侵入していく。

 キーパーとDFラインの間に存在する、唯一無二の「スペース」へと、完璧なラストパスとして供給された。

 

 神の視点からでしか描けない、物理法則を無視したかのような、奇跡の軌道。

 

 その光景に、潔は戦慄した。思考が追いつかない。

 

(パス……!?あそこにか!?誰もいない……!いや、いるはずだったのか?俺たちの動きの、さらに二手三手先を読んで、未来のスペースにパスを出した?俺たちが、追いつけなかっただけ……!?)

 

 だがそのパスコースにU-20の選手は誰もいない。士道も、冴も、そのあまりに常識外れのプレーに反応できず、ボールはただ見送られる──はずだった。

 

「──っ!」

 

 刹那、その「無人」のはずのスペースに、蒼いオーラを纏った影が、地を裂くようなスピードで走り込んできた。

 

 

 ──糸師凛。

 

(どうしてあそこに凛が!?)

 

 潔だけではない。ピッチにいる誰もが驚愕した。凛は居駒がパスを出すずっと前からその場所に走り出していたのだ。まるで未来が見えていたかのように。

 

 

 凛の脳内では全てが繋がっていた。前半終了間際に交わした芝の誓い。あれはただの狂気ではなかった。凛と真澄の魂の「共鳴」だったのだ。

 

 予測不能な回転のかかった難しいボールを、凛はまるで磁石のように足元に吸い付かせ、完璧なトラップを見せた。

 その光景を見ていた糸師冴の顔が、驚愕と、そして別の感情に歪んだ。

 

(は?なんで凛が……あんな場所にいるんだ?)

 

 冴の思考が、一瞬フリーズする。

 

(まさか『理解』したのか?今の一見、ただのゴミにしか見えないパスの軌道を……真澄の、あの空っぽの頭の中を……?)

 

 その光景を見ていた糸師冴の整った顔が、驚愕と、そして別の感情に歪んだ。

 

 冴の脳が、初めて明確な処理エラーを起こした。

 戦術、予測、確率論。彼がフットボールを構築する全ての言語が、目の前の光景を翻訳することを拒絶する。

 

 なぜ凛が、あの場所にいたのか。

 なぜ、居駒真澄の混沌を『正解』として受け取れたのか。

 

 そして、冴の脳裏に幼い頃の凛の言葉が不意に蘇る。

 

『凄ぇ奴とたたかって、ブッこわして、死んでみたい』

 

 あの時感じた、自分とは全く異質なものに対する、肌が粟立つような感覚。

 冴が求めるのは、全てを計算し尽くした上での、美しく完璧な「支配」だ。だが凛が求めるのは、全てが無に帰す、無秩序で衝動的な「破壊」だった。

 

 その純粋すぎる破壊衝動が、理屈も目的も持たない居駒真澄の『混沌』と、最悪の形で共鳴してしまったのか。

 

「狂ってやがる。二人とも」

 

 兄の心労など露知らず、ボールを支配した凛は、獣のようにぺろりと舌なめずりをし、その身を歓喜に打ち震わせていた。

 

 居駒真澄と確かに繋がった。その感覚が凛のエゴの原風景を呼び覚ました。

 

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