藤木裕次郎が旅立ち、伊良子清玄仕置き追放より半年。
掛川藩にある虎眼流道場では、現在も稽古に励む弟子と高弟、虎子たちの声が響いている。
しとしとと雨が降る日であるが、道場の中は熱気に包まれたままだ。
今日も藤木源之助が、弟子の一人を厳しく打ち据えたところであった。
「そこまで」
ゆるりと手を上げ制したのは、牛股権左衛門。
牛股は倒れた弟子を見て、内心溜め息を吐く。
弟子は腹を押さえ呻き、口からは汚液を吐き出していた。源之助の胴打ちが見事に決まった形なのだ。
源之助は変わった。
良くも悪くも、裕次郎という弟から離れたのだ。
裕次郎がいない今では、寡黙ではあるものの弟子や他の高弟たちの話をきちんと聞くような姿勢は取っている。時々は会話をしようとも試みていた。
剣の稽古もさらに苛烈に、そして精力的に励んでいる。
その結果がこれだ。
裕次郎というタガがいなくなったせいで、手加減はするが容赦がない。
確かに骨は折っていないし、内臓が傷ついていることはないだろう。しかし、弟子の打ち込みは全て躱されるか弾かれ防がれ、矢継ぎ早に筋肉の厚いところに木刀を打ち込まれる。
そう、筋肉の厚いところだ。今回の腹はたまたま綺麗に入ってしまっただけだ。
しかし、これがまた地獄の苦痛を生み出している。
他の弟子は両肩と両太股に、歪な形の
折れてはいないが、数日間はまともに箸が握れぬほどに腕力がなくなってしまったほどに。
「源之助……もう、なんというか……手心……うむ、手心は加えておるのだが……」
牛股も言葉を濁すしかなかった。
手心は加えているのだ。骨折、内臓破裂、筋断裂を起こすような攻撃をしていない時点で、前の源之助、ひいては虎眼流の中では優しい部類に入る。
負傷に関しても数日すれば完治するほどだ。今までの虎眼流の稽古を考えれば、遙かにマシとも言えるだろう。
だが、源之助は容赦しない。
攻撃の威力に手心や手加減といったものは加えているのだが、攻撃の方法に関しては一切の容赦はしない。
木刀を弾き飛ばす、足を引っかけて転ばせる、なんなら投げ飛ばす、いきなり殴りつけてくる……剣術道場と言うより兵法道場とも言って良い内容に、牛股は閉口するしかない。
だが、別にこれは源之助が悪いという話では無い。
そも、虎眼流は岩本虎眼が開眼せし戦場剣術、殺し合いを前提としたものだ。
普通に考えれば投げようとするなら小刀を抜いて刺せば良い。もしくは足をひっかけて同時に転んでから馬乗りになることもできるだろう。
殴りつけてくるならその腕を打ち据えてしまえばよい。事実、源之助ならばできる。
その程度の攻撃を予測できない門下生が悪い。
悪い、のだが……と牛股は迷う。
「師範。痛くなければ覚えませぬ。しかして、稽古ができねばそれこそ覚えることができませぬ。なので稽古が出来る程度の痛みにしております」
源之助には意外なほど流暢に語る内容に、牛股は再び言葉を濁しつつ、内心で溜め息を吐く。
間違ってはいないのだが、そう、なんと言えば良いのか……。
「源之助……そう、そうだ。これは稽古なのだ。指導もせねば」
「故に指導をしております。痛いのが嫌なら学べ、と」
裕次郎のおかげで源之助がここまで口が回るのは喜ばしいが、裕次郎のせいで源之助の屁理屈に納得できる部分ができてしまうのが、牛股の最近の悩みである。
言ってることは間違いではない。間違いではないのだが……!!!
稽古が終わり、門下生が帰宅する中で虎子たちは残って稽古を始める。
牛股は最近、疲れて重くなった肩を叩きながら屋敷の廊下を歩いていた。
ふと炊事場の方を見る。
あそこには、稽古後に涼しいところで寝入る弟子がいた。
一虎双竜、竜の片割れの一人。
才気溢れた若者、伊良子清玄。
しかし、その男も仕置き追放によりすでにいない。死んでいるのか、それともどこかで生きているのか。
もう昔のことだ、と牛股は考えるのを止めた。
それよりも、届けられた文を虎眼と三重に届けねばならない。
これがまた牛股の頭痛の種、肩をさらに重くする原因の一つなのだ。
牛股はとある部屋の前で正座すると、声を掛けた。
「三重様。よろしいでしょうか」
……中から返事はない。しかし、ごそごそと音がする。
「裕次郎より文が届きました」
その言葉に、中の音が激しくなる。
障子が少しだけ開くと、中から手が伸びてきた。
三重の手だ。
前と比べると、少し痩せている。
伊良子清玄が仕置き追放され、藤木裕次郎が旅立ったあの日から、三重は少し閉じこもりがちになってしまった。出てくるときには出てくるが、顔や体は細くなってしまっている。
拒食とまではいかず一応食事は取っているらしいが……前と比べると随分、量が少なくなってしまったと使用人達から心配の声が上がっている。
事実、風邪を引いたり体調を崩すこともあった。
何があったのか詳しく聞けず、確実に裕次郎のせいということだけはわかるのだが、何しろ裕次郎がいないので折檻ができない。振り上げた拳を向ける先がない牛股なのだ。
牛股は三重の手に文を渡す。
三重の手が引っ込むと障子は閉じられ、中から文が開く音が。
裕次郎から三重に当てられた文なのだ。これが、虎眼にも一通ある。
裕次郎は筆まめ……あんなもんを描いていたのだから筆まめなのだろうが……時折こうして、一ヶ月に二通か三通、文をしたためて送ってくる。
内容はほぼ近況報告だ。あとはこちらの心配だろう。
聞けばまともな文のやりとりでしかないのだが、内容が内容なので牛股は頭痛を覚えるしかない。
だが、まぁ、しかし。
「……ふふっ」
閉じこもりがちで食事量が減り、体調を崩しがちな三重にとってはこれ以上無く良い影響を与える文なので、牛股の拳はさらに向ける先をなくしてしまってもいた。
目の前にいたら拳骨するけど。
牛股は次に虎眼の部屋へと向かい、再び声を掛けた。
「先生……」
牛股が声を掛けると、こちらも返事はない。
中から音はない。
伊良子が追放されたとき、愛妾のいくも追放された。伊良子と繋がっていたからだ。
現在では虎眼の相手をするものはいないのだが……何をしでかすかわからない恐怖がある。
が、牛股は動じない。今回は裕次郎の文があるからだ。
「裕次郎より文が届いております」
「入れ」
先ほどの無言は何だったのか、しゃんとした声で中から返答が来た。
牛股は中に入り、虎眼の前で平伏する。その際、文を虎眼へと差し出した形だ。
少し見えたが、虎眼は寝ていたらしい。部屋の中は、布団が敷かれたままで乱れていた。
寝間着のままの虎眼だが、どういう格好で寝ていたのか……牛股は考えないようにする。
虎眼は文を開いて中を読み始めると、次第に笑い始めた。
「……牛股よ。面を上げよ」
「はは」
「そしてこれを読めぃ」
表を上げた牛股に、虎眼は文を差し出した。
それを受け取った牛股が中を読むと、段々と目を見開いて読み込んでいく。
そして、肩が震えだした。
「先生……これは……」
「立派にやっておる喃……裕次郎は」
虎眼は誇らしげに語るが、牛股はこめかみに青筋を立てていた。
内容は簡単に言うと、こうだ。
江戸に着いてから江戸建立許し虎参りを勝手にやりました。ごめんなさい。
数件の道場が潰れました。迷惑をかけたようで申し訳ないです。
あと一刀流に喧嘩を売りました。小野忠明から奥義を奪いました。
今ではある道場にお世話になってます。
あ、弟子を取りました。
怒濤の勢いで流れ込んでくる内容に、牛股は落ちつくので精一杯だった。
虎参りは良い。だが江戸建立許しとはなんだ、ただの道場破りであろう。
それで道場破りに成功して、さらには一刀流の小野忠明と戦ったとはなんだ。
弟子を取ったってなんのことだ!?
「あの小野忠明を相手に奥義を奪い、一刀流を虚仮にするとは……っ!」
誇らしげに語る虎眼を前に、牛股は正直なところでやらかしたな、という感想しか出てこない。
出てこないのだが、ここでようやく、一つの事実に気づいた。
「まさか、ここ最近の入門希望者の数の多さは……!!」
「裕次郎の手によるものであろう。あやつ、道中でもそこかしこで虎参りのようなものをしておったから喃」
やはりか! と牛股は文を握りつぶしそうになるのを堪えた。
裕次郎が旅立ってから、なんかやたらと入門希望者が増えたのだ。
無論、伊達にして帰すことと虎参りの影響もかなりあったと思われる。
が、ここ最近、江戸に着く前の裕次郎が筆をしたためて送ってきた内容と合わせると、理由がわかる。
あいつ、道中で虎眼流の名前を出して、盗賊を斬ったり斬り合いをしたり、なんか人助けをしたり、かといって悪さもしながら江戸に向かっていたからな! と牛股は納得した。
その鮮烈なまでの裕次郎の生き方や強さから、入門希望者が来るのだ。
で、本人は今いないと知るとがっくりと肩を落とす。それでもなんだかんだで入門してくる。
ここは出会い茶屋ではないのだぞ!!! というのが牛股の本音だ。
「帰るのは数年先か……それよりも、あやつも弟子を取ったとは……」
ふむ、と顎をさする虎眼に対し、牛股の胃は痛むばかりだ。
あの、あの裕次郎が弟子を取り、教えているのだ。
どんな化生か、おかしな奴か……考えるだけで胃が痛くなるので、牛股は自然と腹をさする。
「権左……源之助はどうじゃ」
「源之助は良くも悪くも、弟離れができておるようです」
「そうか……あの兄弟、良い拾いものであったようだ喃」
感慨深く語った虎眼は、そのまま「下がってよし」と牛股に伝えた。
牛股は平伏してから部屋を出て、再び廊下を歩く。
激増した入門希望者。
江戸で起こしている騒動。
あちこちでやらかしている亜種虎参り。
それらを考えて、牛股を道場の外に出て空を仰いだ。
「裕次郎――――――――――――!!!!」
それはそれは見事な、大きな咆吼であった。