万事休す。
虎眼にレイピアを捕獲されていた夕雲が脳裏に己の死を予感した時、虎の拘束が緩んだ。
咄嗟にレイピアを引き抜き、後退して距離を取る夕雲。
しかし、虎眼はそれに対して追撃するような姿勢は見せなかった。
虎眼はただ、夕雲を見ていただけだ。
いや、夕雲の、その背後を見ている。
虎の眼が見ているのは、夕雲ではないのだ。
夕雲の後ろ、戯れが見える座敷に正座するは――――――。
(清玄……)
かつて己が破門にした男。裕次郎によって完膚なきまでに打ちのめされ、己の手で目を奪った。
在りし日の清玄、そして己の情婦だった女、いく。
その二人が、この戯れを見に来ていた。
虎眼が感じた驚きは、弟子二人にも伝播している。
源之助も牛股も、驚いていた。
「伊良子」
思わず源之助が声を掛けたが、その声は伊良子に届いていない。
そも、声を掛けられる身分差では、なくなってしまっている。
清玄の装いは、肩衣付きの裃姿。
これは岩本家若党という身分の源之助には着用することの許されぬ出で立ちである。
その伊良子清玄が、薄く微笑んでいた。
「夕雲どの。今宵のお相手は虎にございまするか」
夕雲の顔に、明らかな怒りが浮かんでいた。笑うような仕草など、ない。
不快感極まりない、といった感じである。
再び夕雲がレイピアをしならせ始めた。日本剣術にある正中線を捕らえつつも、視覚的に狙いが絞りにくい構えだ。なんせ、レイピアの鋒は常に動き続け、どの位置を狙っているのか定かになりづらい。
片手での相手はできぬ。
虎眼が判断した瞬間、夕雲の体が沈んだ。低い態勢になるまでに前進したレイピアは、虎眼のヘソを貫いた、はずだった。
瞬時に狙いを見抜いた虎眼が、その突きを木刀の柄で受けたのだ。
しかし、そのレイピアは木刀を貫通し、僅かに虎眼のヘソに触れている。
貫通、刺傷、そういった傷を与えるには至っていない。
が、次は貫くという気概を感じさせるには十分だった。
このまま木刀を捻りレイピアを持つ夕雲の手首を破壊する。
そのつもりで虎眼は動こうとしたが、瞬時にレイピアは引き抜かれ、夕雲は元の位置に戻っていた。
速い。
前進、突き、後退。
一連の流れに一切の淀みがない。まるでからくり人形の動きが逆になっているかのようにブレがない。
「いかん。検校さまお抱えの剣士であり裕次郎の弟子であるがゆえ、先生は躊躇しておられる。そのまま斃してしまうには問題がある」
武士階級の身分制度。
検校は、虎眼よりも社会的地位が上にある存在だ。その検校が召し抱えている小姓を、一切の手加減なく打ちのめしてしまえば、検校に口撃の糸口を与えるに等しい。
曰く、虎眼は召し抱えた小姓を残虐に殺すようなものである、と。
口撃で済めば良いが、良くも小姓を殺したなと糾弾し切腹を命じられる危険すらあるのだ。
さらに、相手は裕次郎の弟子である。
「戯れるには手強き相手。一連の動作、あまりにも速く、隙が無い。虎眼先生の茎受けを貫くほどの威力……さらには体捌きも十二分。あの足……そしてここまで激しく速く動いておきながら疲労が一切見受けられん」
服の下から見える二の腕、手首、首、僧帽、足首、ふくらはぎ。
どれもが苛烈な鍛錬を乗り越えたものにしか現れぬような大きさと太さ、筋肉の溝の深さ、浮き出るほどの血管。
あの威力と速さ、技術を支える土台たる肉の塊が、夕雲には備わっていた。
普通であれば、それだけの肉を備えていれば目方も相当なはずなのに、夕雲の動きは至って羽の如く軽やかであった。
海外の剣術をしっかりとした土台の上に成り立たせる。鍛錬によって得た技術、それらを発揮するに足る肉体、冷静に相手を見据える胆力。
「見事なものよ。あれだけの弟子を育てるのに、裕次郎はどのような手を使ったのか……そして、その夕雲をどのようにしてこの場に引きずり出し、虎眼先生と戦わせたのか。伊良子め、はめおった」
怒りで口が震える牛股に、源之助もまた鋭い目つきと握りしめた拳で、伊良子を見据える。
あの弟子は裕次郎を慕っていたし、虎眼流門下であると説明は受けていた。なのに、こうして剣を交えることになったのは、いかがなことなのか。
その疑問が明かされること間もなく、夕雲が次の手を打つ。
大きな踏み込みより、突きを三度。
手元へ一度。虎眼は手元を逸らして躱す。
足の甲へ二度。右足を下げて躱す。
喉へ一度、僅かに首を背けて躱す。
夕雲は相手の態勢が下がったことを脳が理解する前に、追撃を決意。体を縮こませ、溜めを目一杯作る。
解放。
虎眼の眉間目掛け、最大威力の突きを放った。
カン。
虎眼はそれを、再び茎にて受けた。
貫く。間違いない。
しかし、何故か夕雲の突きは貫通しなかった。
瞬時に悟る。
受けた瞬間に下がり、その衝撃を逃がしつつ、少し捻ったのだ。
故に夕雲の突きは威力を殺されつつ、手首の形を乱され、最大威力を失ってしまった。
虎眼が木刀から手を離す。
夕雲もまた、レイピアから手を離した。
虎眼の虎拳が夕雲目掛けて振るわれる――――――その前に、夕雲が腰の仕込み杖を抜いた。
「っ」
抜刀居合で虎眼の丹田目掛けて振るわれたそれを……虎眼は白刃取りで受け止めていた。
瞬間、虎眼の顎がかち上げられる。
夕雲の左の虎拳が、虎眼の顎を下から打ち抜いたのだ。
これで脳震盪を起こし気絶するはずだ――――――そんなはずがない!
瞬時に夕雲は悪寒を感じ、大きく下がった。
同時に、夕雲の鳩尾に虎眼の前蹴りが突き刺させる。
下がった、はず、なのに!
夕雲の脳裏に浮かぶは、かつて受けた師匠裕次郎の前蹴り。
ゆっくりなのに腹にめり込んだそれは、さながら丸太を打ち込まれたかのような重さと鈍さをもって、痛みと苦しみを与えてきた。
これは、その、何倍もの威力! それ以上!
夕雲は吐瀉物を撒き散らしながら、吹き飛び、伊良子の足下まで転がった。
「う、うげぇええええ!!」
慌てて座敷から降り、庭で吐くものの、立ち上がるには回復がかかる。
幸い仕込み杖は手元から離れておらなんだが、握る右手は痛みと苦痛、そして呼吸困難から震えが止まらない。
蹴られた衝撃で肺が驚いてしまい、呼吸するのに痙攣を起こしたかのように動いてくれないのだ。
それでも時間を掛ければ、動くことができるだろう。
虎がそれを、悠長に待ってくれれば、だが。
虎眼は転がった木刀を拾い、突き刺さったレイピアを引き抜いて捨てる。
まだやる気か。
「何の音ぞ?」
「夕雲さまが虎眼さまに蹴飛ばされた音にございます」
しかし虎眼は検校の方に向き直ると、一礼してへつらいの笑みを浮かべた。
「戯れなれば、当て身にて……」
その声に、夕雲は己の敗北を悟った。
「夕雲どの?」
それはつまり――――――。
「裕次郎は未だ、あなたの勝利を待って“茶”を飲んでいる最中なのですが」
伊良子の声が、夕雲の脳髄に響く。
……裕次郎が未だに、伊良子の策にて毒を呑み続けなければいけないことを、示していたのだ。