立ち上がった夕雲の形相は、一変していた。
吐瀉物と吐血にて汚れた口元、蹴られた腹に浮かぶ青痰。
何よりも、浮かぶ表情は怒気である。
一変していたのは形相だけではない。
仕込み杖の鋒が向けられたのは、対手の岩本虎眼ではなかった。
「虎眼先生」
夕雲が虎眼に声を掛けた。
「裕次郎先生は己のため、毒を飲み続けております」
その言葉に、虎眼は目を見開いて驚いた。
「一杯飲めば、一合の間、己は生かされます。相当な数をすでに飲んでいるはず。しかし裕次郎先生といえど……」
そして、夕雲は虎眼に向けて笑顔を浮かべた。
「己は忠義を理解できませぬが――――――恩義は理解できます。これにて御免」
忠義を理解できぬ夕雲の本性。
だが、夕雲はどこか心が晴れ晴れとしていた。
忠義は理解できない。
しかし、心の中にいる恩人への義理立ては、せねばなるまい。
あの日、己を拾い鍛え上げ、立派にしてくれた裕次郎先生に、これ以上迷惑を掛けられない。
そして……一人でも裕次郎先生の敵を、屠る。
夕雲は一気に検校目掛けて飛び込んだ。
瞬間、そこに飛び込む火傷面の大男。
夕雲の突きがその大男の肩に突き刺さる。直前に、夕雲は構えを変えた。
仕込み杖の刀身を左手で挟み握り、力を蓄える。
それを、解放。
その斬撃はまさしく虎眼流の秘奥、奥義であり、その瞬きは間違いなく骨子を得たものしか出せぬもの。
流れ星。
その死の流星が、大男の首を刎ねた。
「っ!?」
源之助は驚きのあまり目を見開いた。
流れ星を放ったのもそうだが、一連の技の流れ。
途中までは確かに刺突であった。なのに、夕雲は途中で明らかに剣術の型そのものを変えたのだ。
刺突剣を扱う術と、虎眼流としての術。この二つを融合させるのではなく、ハッキリと別けて使っているのだ。
その繋ぎや誤差が、全くない。
これが裕次郎が夕雲に叩き込んだ剣術。
斬術である虎眼流と、刺突術であるイスパニア流剣術。
この二つを切り替えながら斬り結ぶ異形の虎眼流剣士。
それが、夕雲であったのだ。
倒れる大男の影から夕雲が飛びかかろうとした、その瞬間。
火薬の破裂音が、響き渡った。
夕雲は体を震わせ、自分の腹部に目をやる。
そこには、鉄砲の弾によって抉られた腹があった。
友六が懐中で手にしたものは馬上筒と呼ばれる鉄砲である。
距離五間であっても、友六の技量ならば眉間すら打ち抜く。それよりも近い位置であり、致命傷たる肝臓を撃ち抜くのならば、絶対に外すことない。
腹部から流れる血を手で押さえながらも、熱が消える体から己の死を悟った夕雲。
手から仕込み杖が落ち、後ろによろけて落ちて倒れた。
空を見上げつつ、夕雲は涙を流して口を動かした。
「ありがとうございました。裕次郎先生」
口から漏れたのは、感謝だった。
そのまま夕雲は目を閉じ――――――動かなくなる。
酸鼻なる鮮血の匂いが、美剣士の鼻をついた。
「さすがは裕次郎の弟子。天晴れ」
誰にも聞こえぬ声で呟いた伊良子の声は、そのまま宙を漂って消えたのだった。
過程は変われど、結果は変わらず。
ならばこれは異聞譚とは言えないでしょう。