検校屋敷での魔の宴、悲劇の別れより六日後。
見付宿に、牛股権左衛門は訪れていた。ここは掛川から離れること七里、浜町にほど近き場所。
伊良子清玄の魔手より師を守るため、一刻たりとも岩本道場を留守にしたくない権左衛門であったが。
『これを怠けること、まかりならぬ!』
という虎眼の命令により、こうして道場より出ていた。
師の命令は絶対である。
牛股が訪れたのは、神道無双流という看板が掲げられた剣術道場であった。
門の前には胴着に身を包んだ屈強な男が二人立っていたが、門前にてその男たち目掛けて牛股は笑みを浴びせた。
感じた圧により止めることも話掛けることもできず、立ち尽くす門番たちの横をするすると通り過ぎ、悠々と道場に踏み入る。
そこで牛股は木刀袋から、巨大な木刀ことかじきを取り出す。
かじきを担ぎ、それを片手にて振るう。
常人ならば両手で振れるかどうかも怪しい巨大な木刀である。それを片手で振るうこと、そして剣の冴えを門弟たちに見せつけているのだ。
ほどなく奥へと通されると、道場主である須藤主馬は門弟指導の礼金なるものを差し出した。
その金子を受け取り、牛股は道場から出て行く。
これは間の月の十五夜近き頃、看板に『無双』と書かれた道場を巡り、同様の所作を繰り返す。
これは、「無双許し虎参り」と恐れられた、若き日の虎眼の路銀調達法であった。
ちなみに裕次郎がやらかした江戸建立許し虎参りというものもあったのだが、やり過ぎて江戸中の道場から恐れられて門弟で塩を浴びせられるほどの問題が起こってしまったため、裕次郎はそれ以降、江戸建立許し虎参りをやっていない。
そして、何気に裕次郎はこの無双許し虎参りを止めなかった。むしろ楽しそうだからと嬉々として参加し、本当に指導して感謝されていた。
これがバレて牛股にゲンコツを喰らったのだが、裕次郎の言い分である門弟指導料をもらってるんだからちゃんとやってるだろ!! に対して、馬鹿たれ、これはそういう意味のものではない! という牛股の意見の食い違いで言い争いになってまたゲンコツを喰らったのは、別の話である。
昔を思い出して苦い顔をしたり思い出し笑いをした牛股であったが、内弟子衆で手分けてしていたこの仕事を、この夏は一人でやらないといけないことを思い出して憂鬱になる。
現在、岩本家で師を守るのは藤木源之介と、濃尾道場より呼び寄せた免許皆伝の者が三名。
裕次郎は夕雲の遺体を引き取り、葬儀を挙げたあとの初七日の準備に追われており、それが理由で今回の虎参りは免除されている。
虎眼も己の孫弟子にあたる夕雲の葬儀に関しては思うところがあったのか、裕次郎の葬儀と初七日をしたいがために虎参りを勘弁してほしい、という要望を受け入れたのだ。
牛股もまた、それを受け入れている。
山道を抜けつつ、握り飯を口にする牛股の視線の先に、見覚えのある服を来た男が立っていた。
検校屋敷で奉公人が来ていた服――――。
その男は先に見た大男よりも小柄であるが、立派な体躯であることは間違いない。
だが右手に付けているのは、あの大男が身に付けていた手甲鉤。
同時に周囲から聞こえる、足音。
「うぬらは……」
いつの間にか、牛股の周囲には検校屋敷の奉公人たちによって囲まれていた。
その手に持つのは、鏢(棒手裏剣)だ。
多くの検校が身分と財産を守るために、奉公人に手練れを雇った。
この棒手裏剣を持つものたちもそうであり、友六も、手甲鉤を持った大男も、そして夕雲もそうであった。
そんな大名並の身分を誇る検校が一介の牢人であった伊良子清玄に手を貸すのは、芸や学識において目開きを上回る能力を持つ検校が絶対に叶わぬと諦めていた最後の領域……。
“武”の領域。
その領域においても清玄の肉体は目開きを凌駕する神秘を秘めていたからだ。
とはいえ、清玄は厳密には盲目ではなく、裂傷による弱視である。極端な話、周囲の色や光、そして雰囲気くらいならわかるのだ。
濃すぎる霧を目の前にし、僅か一寸先でさえも見通すのが非常に困難なほどの状態、と言えばわかるだろうか?
それでも、検校は手を貸した。
理由は、裕次郎にある。
裕次郎は点字絵巻というものを持ってきた。
これは規則性のある突起を書物や巻物に特殊な方法で印字し、盲目の人でも字が読めるようにと開発されたものだ。
あまりの革新的な技術に、検校は驚き腰を抜かしたほどだ。
誰でも字が読める、の中に盲目たちもいる。
最初、幼い頃に裕次郎が検校屋敷に忍びこみ、寝床にやってきて見せたもの。
検校はこれに食らいつき、その際にいくらかの謝礼と、定期的な点字使用料として金銭を支払ってきた。
だが、これが惜しくなった。
広まれば広まるほど儲かる点字というものは、裕次郎の予測を遙かに超えた革新的な技術だっただのだ。
盲目にしか読めぬのではなく、目開きでも学べば読める。
一種の暗号にも使えてしまうのだ、これは。
それから得られる莫大な金銭をさらに金貸しとして増やしてきたのだが、検校は段々と裕次郎に対して払う使用料が惜しくなった。
たとえ、全体の利益から見てどれだけ矮小でささやかで、良心的な値段であっても、だ。
故に、裕次郎に恨みを持ち、かつ弱視でありながら敵わぬと諦めていた“武”の領域をも凌駕する可能性を持つ伊良子清玄に、手を貸した。
全ては、己のためである。
牛股は、己の油断を恥じた。すでに夕闇を過ぎ、辺りは暗くなっていく。
帰路を急ぐあまり、生じた隙であろう。
いかに腕の立つ剣士であろうとも、開けて遮蔽物のない場所で鏢術で狙われてはひとたまりもない。
直打法によって打ち出される鏢は、打たれる側からすると僅かな点でしかなく、剣では落とせない。
牛股の額に、冷たい汗が流れる。
「命じたのは伊良子清……」
牛股の言葉を待たず、男達は鏢を放った。
背後、側面から打ち出される鏢は、周囲の薄暗さも相まってもはや見えない。
だが、見えなくてもいい。打ち出されたのがわかりさえすれば。
それすなわち、検校の奉公人たちの誤算。
この日、牛股が携えていた盾となり得る木剣、「かじき」の存在だ。
すかさず牛股は腰の刀を抜き、瞬時に振るう。
三間(約5,4メートル)という直打法の間合いは本来、剣術の及ばぬ安全な位置と思われたが虎眼流には関係ない。
一度牛股が振るえば、流れの間合いの内である。
瞬時に奉公人三名の額は三寸深く切り裂かれ、絶命した。
牛股がかじきを背負い直した頃、後ろにいた男が手甲鉤を片手に迫る。
が、これも牛股の流れによって瞬時に斬り伏せられ、絶命してしまう。
「……もうおらぬか」
牛股は周囲を観察し、敵の存在を確認する。ふと倒れた男の手甲鉤を見た。
怪しんだ牛股は一歩遠くに離れ、男が動かぬことを確認してから走り出した。
「もしや先生の身に何かが……!!」
ここで己を食い止めんとする動きを見て、牛股の悪い予感が全身を包む。もはや虎参りをしている場合ではない、外に出ている己にすら刺客を差し向ける状況なれば、先生を守らねば!!
牛股は全身全霊では走る。
虎眼流が無双の名を失うのは、まさにこの夜であるのだが。
そして、鵺が真に覚醒するのも、この夜であったのだった。