満月が浮かぶ、夜。
虎眼が奥義を開眼した聖地であり、かつて伊良子清玄の仕置きが行われた秋葉山崑獄神社。
そこで源之助は、戦いに向けて準備を行っていた。
宙に向けて振るう、虎拳、鉄拳、鉄槌という拳の型を、体の各所を解すように動かしていく。
そして、最後に源之助は己の手首を曲げた。
手のひら全体が手首にぴたりと付くほどに、柔軟性と強靱さを持つ手首の調子を確かめていた。
清玄から果たし状が届いた。
かの検校屋敷の魔の宴の後、伊良子の顔を見ることなく帰った源之助たちであったが、虎子の間に置かれた文を源之助は見つけていた。
文に染みついた、悩ましい匂い。
そこに書かれた果たし合いの申し出。
清玄からの果たし状のことを、源之助は誰にも漏らさなかった。
自分一人の力で清玄に勝利することこそ、裕次郎ではなく己が虎眼流の跡目であることの証明。
源之助はそう、信じていた。
中秋の十五夜。武家では屋敷を開け放し、月を観賞するのが習いである。
岩元屋敷に集うのは、主である岩本虎眼、内弟子である根尾谷六郎兵衛、金岡雲龍斎、息吹半心軒、そして娘である岩本三重。
その三重の隣に座るのは、藤木裕次郎であった。
裕次郎は初七日法要の準備を終え、一度岩本屋敷に戻ったのだ。何故か屋根伝いに戻って来たので、内弟子たちからは驚かれて刀を抜く騒動が起こってしまったが。
月を見上げながら、三重は隣の裕次郎の体温を感じていた。
心離れた相手であるとはいえ、それでも、である。
誰のためでもなく、三重の肉体は再び潤い、妖しく艶めいていた。
その艶美な香りが裕次郎は届いてるはずだが、裕次郎は何も言わずに月を見上げ、酒を舐める。
酔うほどに飲まず、舌で味と香りを楽しむだけだ。
「美しゅうございまする」
「本当にね」
誰に言うでもない三重の言葉に、誰に言うでもない裕次郎の言葉が返される。
その一時の交流だけであっても、三重の心は再び蘇るのだ。
あの日、雪の別れの日。あれ以来となる交流なのだから。
ちなみに裕次郎はそうした三重の態度に反して、内弟子三人から浴びせられる圧で心の中は冷や汗だらだらであったが。もうそういう恋心はないと言ってるよ三重ちゃ~ん! とか心の中で絶叫しつつ、違うんです兄弟子そういう関係じゃないんです! と心の中で弁明していた。
誰にも届いて、ないけれど。
このときの虎眼が曖昧なのかどうか、それは三重にも裕次郎にもわからなかった。
ただ、虎眼が杯を噛み砕く、パキンという音だけが、目立っていた。
その頃、源之助は鉢巻きを額に巻き、たすき掛けで戦いの準備を終えていた。
夜空に浮かぶ月が、覚悟を決めた源之助の瞳を妖しく輝かせる。
人の気配がする――――と、源之助は立ち上がり、剣を抜いた。
神社の階段を上ってきたのは、伊良子ではなかった。
検校屋敷の友六である。
その手には短筒が握られ、すでに火が灯っている。その銃口は、源之助に向けられていた。
無双虎眼流は、火縄に対していかに処するか?
源之助が取った行動は、前進。
接近である。
短筒に狙われて動じることなく無造作に歩み寄る標的は、友六にとって初めてである。
源之助の鬼気迫る接近に、友六はある事実に気づいた。
一発で仕留めねば次の弾を装填する間に、手負いの虎の牙によって自身の首が狩られる。
となると、狙うべきは頭と心臓の二箇所どちらかだ。
夕雲の時のように極近距離で肝臓を撃ち抜けば関係ないだろうが、まだ間合いは五間ある。
距離五間。
友六の技量ならば、絶対に外さぬ間合い。
源之助は右半身を前にした、半身の態勢になる。
半身になった源之助の心臓は、肩の肉で覆われた。
互いの狙い、互いの呼吸。
それが、額へと集中した。
源之助は額にひりひりと熱を感じている。
友六は額に照準を合わせて呼吸していた。
呼吸一つ。
友六の指が、動いた。
同時に銃口から吐き出す、黒煙と鉛玉。
源之助は、その呼吸を読んだ。
ガイイィン!!
源之助は右手に握った刀を、友六が引き金を引く瞬き以下の時間前に、己の額に合わせた。
まさにそこに弾丸が撃ち込まれる。
刀の
源之助が弾丸を避け得たのは、強運と、攻撃部位を頭部に特定すること。そして、友六への激情、剣士として友六の呼吸を読む技量が合わさった、神業と言える。
そう、源之助は腸が煮えくりかえっていた。
友六は、あの裕次郎の弟子である夕雲を殺した男だ。本当は裕次郎の手で殺したかっただろう、己の弟子の仇である。
源之助と夕雲は親しく話すような間柄ではないし、そこまで面を合わせたこともない。
だが、それでもだ。
それでも夕雲は虎眼流の虎子であったのだ。
源之助は、だからこそ許せなかった。
源之助から感じる怒気と殺気から、己の危機を察した友六は踵を返して走り出した。
逃げ、間合いを取り、装填し、今度こそ撃ち殺す。
そのためにも時間と距離が必要だ。
五間もあれば大丈夫。
など、虎眼流には通用しない。
「ぬんっ!!」
源之助は一歩大きく踏み出しながら、流れのために担ぐ。
しかし、遠い。友六がすぐに逃げ出したがため、距離が少し開いた。
だからどうした。
逃がすつもりはない。
ここで、仇を取る!
源之助は流れを放ちながら、体ごと投げ出すように前に出る。
もはや踏み込み足などという概念はない。友六の首を斬る。ただそれだけのために身すら投げ出すようにとして飛ぶ。
流れによる握りが、小指、薬指、中指と滑り、人差し指と親指で握るのみとなっても。
源之助は諦めず、その剣を振りきった。
源之助の剣はものの見事に友六の首を皮一枚残すほどに両断、友六は階段を転がるようにして落ちていき、死んだ。
体を起こしてそれを見届けた後、源之助は気づく。
源之助の鼓動が早まり、生ぬるい汗が全身を伝った。
己がまんまと策にはまり、岩本家を離れるべく陽動されたことに気づいたのだ。
しかし、すぐに冷静になる。
まだ岩本道場には、裕次郎がいるのだから。
走れば、きっと間に合う。何があっても裕次郎が食い止めているはずだ。ならば、間に合う。
兄弟子牛股もまた、気づいて戻るはず。
源之助はすぐに納刀すると、友六の体を越えて階段を降り始めた。
この夜。岩本道場に竜虎と恐れられた二名の弟子は居ない。
夕刻以降、武家の正門は完全に閉ざされ、開かれることはない。
ゴトン、と閂を外す音がした。