腰に大小を差し、急いで走っている藤木源之助の姿があった。
とある家の前に着くと、源之助は片膝をついた。
長屋を前にして、声を掛ける。
「いく様。虎眼先生がお呼びでございます」
長屋の中から出てきたのは、美しい菩薩のような女性。口元にほくろがあり艶美な魅力がある。
いく。それが彼女の名前だった。
いくは掛川藩武芸師範役を勤める岩本虎眼の愛妾で、こうして虎眼に呼び出されて慰撫していた。
いくは自身の家の前で片膝を着く源之助に、勺を出した。中には水が入ってる。
「ゆすぎなさい」
勺を受け取った源之助は言われるがままに、勺を仰いで水を口に含む。口内の裂傷や乾きを癒やすようにゆすぐ。
その間にいくは中に入る。
「上がりなさい」
いくの言われるがままに源之助は家に入る。
「脱ぎなさい」
源之助は再び、言われるがままに服を脱いだ。
顔、胸、腕と、体中に木刀の打突跡がある。日々の稽古で刻まれた傷だ。
いくは源之助の体を触り、異常が無いかを確認する。
虎眼流の内弟子には、手加減なき稽古が加えられる。
虎眼流に入門して間もなく、幼い藤木源之助も例外ではない。
体中の傷は、その稽古の結果だ。
研屋町に馳せ参じる道中で吐血して果てたある内弟子は、肋骨が折れて肺に刺さっていた。
いくは、源之助の骨折がないか確認したのだ。その後、ずりむけた左の拳を、焼酎で消毒した。
怪我の治療をしながら、もう一人の新たな虎子について考える。
いくの脳裏に浮かぶのは、あまりにも無作法で不調法、なのに親しみのある童だった。
おそらくは源之助と共に稽古はしているのだろうが、ここに来るときは傷一つ無い。
源之助に比べたら、あまりにも肌が綺麗だった。確かに稽古はしているのだが、源之助に比べたら負傷は全くない。
そんなことを考えながら、いくは源之助に白米と味噌汁を差し出した。
「食べなさい」
源之助は命じられるままに食事を取る。
こういったいくの命令口調は、源之助に遠慮させないためのものだ。
源之助が食事をしている間に、稽古着の綻びを繕った。
あまりにも無口なため、源之助は感受性に欠陥があるのでは、と噂されていた。
もう一人の虎子とは真反対だ。
もう一人の虎子は、とにかくおしゃべりで賑やかで、いくの食事を「美味い! 美味い!」と言いながら、美味しそうに嬉しそうに食べ尽くし「美味しかったです! ご馳走様でした!」とお礼を言うのだ。
食事を作ってる身としては嬉しいのだが……どうしてこう、正反対なのか? と悩むいく。
無惨歌の妾いくと、顔の腫れた源之助が歩くと、町の者は眉をひそめて道をあけた。
いくは、その背に話しかけた。
「虎眼流の跡目はきっと、源之助。あなたです」
源之助の首筋から耳にかけてが、紅く染まった。
「跡目はきっと、弟です」
珍しく源之助が返答したことに、いくは驚いた。
「己の弟は、凄い奴です。自慢の弟です。己に足りないものを全て持ち、己の足りぬ所を補ってくれる、弟です」
いくは驚きながら、心の中で確信する。
無口ではあるが、源之助は壊れていない。感受性に欠陥があるわけじゃない。
自身の弟を自慢するとき、決まって兄の源之助は嬉しそうに、照れたように言うのだ。
ただ……いくは考える。
「裕次郎はいつも綺麗な体で来ます。あなたと違い、体を虐めている様子はありません」
「いえ、裕次郎は己以上に体を虐めています」
いくの考えに、源之助は即答した。
「日中の稽古では遅れがちで兄弟子牛股に怒られていますが、毎夜毎夜離れの道場で虎眼先生に稽古を付けてもらっています。裕次郎は、凄いです」
これにもいくは驚いた。あの虎眼が、誰か一人を、それも来たばかりの童に稽古を付けてやっている。
あの傍若無人、さながら山男の如き蓬髪垢面、片手にカジキと呼ばれる巨大木剣を担いで各道場を荒らしていた男が、誰か一人に特別稽古を、と。
てっきり源之助はそれに嫉妬してるのかと思えば、そうでもない。
むしろ誇らしく思っている。普段、ほとんど喋らない源之助がこれだけ流暢に喋るほどにだ。
源之助にとって裕次郎は可愛い、自慢の家族で弟なのだろう。
壊れていない。感受性に欠陥があるわけじゃないのだ。
しかし、といくは呟く。
「だとしても……変な絵を描いて
「……銭は大切、だそうです」
前を歩く源之助が溜め息を吐いた。いくも溜め息を吐いた。
裕次郎は稽古の合間に、市中で買ってきた筆と顔料で紙に絵を描いて、それに文章を付け加えた草双紙を売っている。これがまた、なんとも売れるのだ。
いくのいる長屋でも愛読者がいるほどだ。ここにいくを迎えに来る度にあの草双紙の先生だ! ともてはやされるのだが、いくとしては複雑だ。
内容はくだらなく、若者向けというか荒唐無稽な妖怪話が好きな者には好まれるのだろうが、いくは好きになれなかった。
剣に生きるものが、銭が欲しいからと草双紙を書いて、せっせと蓄財する姿は虎眼流の跡目としてどうなのだ? と思わざるをえない、そんないくと源之助の道中だった。
ちなみに草双紙を書いて銭稼ぎをする度に、虎眼からは激怒されて死ぬほど殴られてるそうだが、殴られて怒られてるのにいつまで経っても裕次郎は止めないのも……いくにとっては不思議でしかなかった。