第二景 他流試合心得・その一 異聞譚
夏の暑さはどこへやら、蝉が啼く暑い季節においても、虎眼道場にて今日も稽古が行われていた。
そこでは十数人の門弟が、二人の木剣試合を観ている。
一人は門弟である男性。八相の構えにて裂帛の気合いを放っている。
「やー。とー。だーっ、いやーっ!」
しかして相対する二十代の若い男は、ものともしない。やや重苦しい感じではあるものの、均衡の取れた秀抜な顔貌をした男性は、ずい、と正眼に構えた木刀の鋒を向けるのみ。
「い……」
門弟は八相の構えのまま、斬りかかれば良いはずだった。そも振り下ろすだけの状態だ。
もう一度、ず、と前に出て剣先に気を込めた男性を相手にし、動けなくなる。
男性の名は、藤木源之助。
虎眼流の内弟子、虎子の一人であり、師範代となった男。
源之助の圧に耐えかねた門弟が、一か八かと捨て身にて打ち込む。
「うおーっ」
これに源之助は合わせ、木刀をかち合わせる。
かっ、と木刀の激しい音が、道場に響きわたった。
鍔迫り合いの間合い、門弟は押し返して崩し、打ち込むつもり……ではあった。
その前に、源之助が腰を入れて押し込む。
門弟を上から抑えるが如き形にて、さらに押し込む。
門弟は汗を流しながら、これに抗おうとした。
みしり。
木刀から奇妙な、軋む音が鳴る。
源之助の鍔迫り合いの押し込みが強すぎて、木刀が悲鳴を上げているのだ。
みしみしみし。
門弟は抗おうとするものの、すでに源之助が剣の重心を押さえ付け抵抗を阻止している。
下手に下がろうものなら、下がり際に小手を打たれ手首が砕かれるだろう。
前に出ようにも上から抑えられる形となっているのですでに不利、抗いようがない。
木剣を手放して逃げようなど、情けない真似はできない。
「藤木師範代の
一人の門弟が苦々しく呟く。
別の門弟も、応えるように言った。
「あれは辛い」
「参ったを言わせてくれぬ……」
源之助の鍔迫り合い、通称
その骨子は源之助の鍛え上げられた背筋により、
ただ腕で押すのではない。体全体の重さを木剣に伝えきることで、相手を崩して文字通り押し潰すのだ。
みしり。
ぴたっ。
とうとう源之助の木剣が、門弟の首に添えられた。
ここまで来れば、もう抵抗の術なし。門弟は声を上げた。
「ま……」
みりっ。
門弟が降参の声を上げる前に、さらに源之助は前に出る。
そして、
ずだぁぁん、と、門弟を押し倒した。あまりの勢いにて、壁にあった名札が床に落ちてしまう。
源之助はそのまま
「……、……が」
門弟が降参しようにも、声を出せぬ状況下。
源之助は油断なく押さえ続け、とうとう門弟は呼吸を乱して涙を流し――。
「それまで!」
道場に響く野太い声に、源之助は木剣を引いた。
門弟はようやく、ぐはっ、と息を吹き返し、傷ついた喉より出た血を吐き出す。
ごえええ、と苦しむ門弟をよそに、源之助は木剣を納刀した。
「藤木」
源之助にかかる野太い声。
声の主は、虎眼流道場で師範を勤める牛股権左衛門という男だ。穏やかな顔つきながら上背があり、体格も腕も足も全て太く、力が漲っている。
その牛股が、困ったように源之助に声を掛けた。
「もう少しこう何というか、手心というか……」
牛股が困るのも無理はない。
源之助の相手は、虎眼流の開祖たる岩本虎眼の一人娘、三重に惹かれてきて稽古をしているだけの未熟者だ。
毎日毎日荒稽古にて体を虐め鍛え抜き、技を磨いて虎眼のように精妙なる剣技を身に付けようとする内弟子、虎子たちとは練度が違う。
要するに、実力差がありすぎるのだ。
実力差に応じた稽古をしろ、と牛股は言いたかったのだが……。
「牛股師範」
これに対し、兄弟子たる牛股を慕う源之助が返答する。
「痛くなければ覚えませぬ」
ハッキリと、言葉少なく告げられたことに、牛股は苦笑いを浮かべる。
さらに源之助は続けた。
「裕次郎のように」
これにも、牛股は苦笑いのまま、何も言えなかった。
そのときであった。道場の廊下を急いで歩く音。
道場に入ってきた門弟が、正座をして言った。
「申し上げます。ただいま玄関に他流の者が……」
だが、門弟が案内する前に、その男は道場に足を踏みいれた。白い着流しに派手な帯、腰には大小を差して、笠を被った男。
男が笠を取った。
「
道場には似つかわしくない艶めいた芳香が、門下生の鼻をついた。
牛股は冷静に、伊良子と名乗った男に問う。
「ご用のおもむきは?」
「
一瞬で道場内が殺気立つ。
この男は道場破りに来た。
理解した瞬間には、道場内の門弟たちは木剣を手にして伊良子を囲む。
下手なことをしやがるものなら打ち据えて簀巻きにしてやる、と殺気立つ。
伊良子は冷静に、剣の鞘へ手を伸ばした。
「わかり申した」
一触即発の空気にて、牛股の言葉は良く通った。止めるように出して手を引っ込め、続ける。
「道場の約定により門弟の者二名と手合わせした後ということになるが」
「構いませぬ」
伊良子の黒く、妖しさを持つ目が、源之助を貫いた。
知らず知らず、源之助の右手に力が入る。木剣を握る手に、いらぬ熱さが宿っていた。
門弟が脇に控え、上座に牛股が座る。
道場の入り口側に伊良子、反対に源之助。
二人は木剣を持ち、これより他流試合を始める。
他流試合心得。
稽古磨きの為の試みとしての立会申候上は、勝負の善悪によって意趣遺恨の儀、決して有之まじく候。
源之助の脳裏によぎる、心得。
正眼の構えより左手を高めにして、一直線に突きを撃つ。
対して伊良子は右手片手にて脇構えを取る。時折剣先を上げ、源之助の不信を狙う。
二人の間の殺気満ちた剣呑な空気に、脇に控えた門弟たちは冷や汗を流しながら顔を強張らせた。
(寸止めないぞ、藤木師範代は)
(また見るのか……あれを)
門弟たちの間に、緊張が奔る。
虎眼流の剣名が濃尾一帯に広まり、最盛期には門弟千人を越えるほどの隆盛を示したのには理由がある。
「……他流のもの、丁重に扱うべし」
斃すこと、まかりならぬ。
虎眼流の掟にて定められし、道場破りへの対応。
それは、相手の顔を意図的に欠損させることなり。鼻を削ぐ、耳を飛ばす、頬を抉る、歯を折る、目を潰す……。
相手の顔へ消えぬ欠損傷を付け、その者が市中を歩けば、それは虎眼流の仕業と広まる。
いかな達人であろうとも、欠損傷からは逃れられぬ。かかる者の姿は「虎眼流強し」を世に知らしめ、道場の名声を高むるに至るなり。
……最近ではこの伊達にして帰す行為が少なくなり、傷が小さいかそもそもないか、ともなっているが……それでも、伊達にされる者は多かった。
無論、源之助は今回も伊良子を伊達にして帰すつもりである。
余裕の笑みを浮かべ、紅い唇の口角を上げる男を。
(……無用だ)
源之助の心が、僅かに荒れる。
(彼奴の紅い唇、剣術には不要だ!)
その源之助の背中を見て、牛股の脳裏によぎる印象。
(藤木の剣先、やや熱いか……)
いつも冷静に相手を打ち据える源之助の剣に、僅かながら力が入り乱れる。
その機先を見逃す伊良子では無い。
ふ、と伊良子が間合いを詰める。両手脇構えの体勢より、自然と。
予想外の動き、ではないものの、斬撃を打つ様子がない。伊良子の動きを“観る”のではなく、“見て”しまった源之助の体が、動かない。
間合いを詰める伊良子の手は、鍔迫り合い。
木剣が打ち合わされ、かっ、と音が鳴る。
門弟の皆が、沸き立った。
「彼奴め!」
「飛び込みおった!」
打ち込みではなく、鍔迫り合いでの勝負。
だが、
「だが、鍔迫り合いは藤木師範代の得意とする
門弟たちは、この時点で勝負ありと思った。
牛股でさえも、同様だ。
(今だ。鍔迫り!)
牛股の心の中での発声に答えるが如く、源之助は動く。
(つ……)
眼前にある伊良子の顔。
艶めいた芳香が強く強く、源之助の鼻につく。
紅い唇が艶やかに、源之助の目に映った。
(潰す)
冷静さを欠いた状態で、源之助は鍔迫りを行使。
みりっ。
木刀から、軋んだ音が鳴る。
あとは押しつぶし、馬乗りの体勢から唇なり鼻なりを削げば終わる。
――伊良子の手が動いた。
「!!」
一瞬で冷静になった源之助は、鍔迫り合いを中断、離れた。
門弟たちの間で、ざわめきが起こる。
「藤木師範代が……」
「鍔迫り合いから退いた……?」
門弟たちには、今の一瞬で何が起こったか理解できてない。それもそのはず、源之助と伊良子の体に隠れ、ごく僅かな動きが隠されていたからだ。
同時に驚いたのは伊良子だ。自身が思い描く勝利への絵図を悟られ、避けられた形となったのだから。
伊良子の動きを理解したのは牛股、そして。
「……経穴か」
それを受けかけた、源之助。
伊良子の顔に、苛立ちが浮かんだ。
源之助はその顔を見て、己の考えが正しかったと識る。
「手の内の二ヶ所。骨子術」
さらに源之助は続けた。
「弟と同じ技だ」
源之助は再び構えた。今度の剣先に、熱さはない。いつも通りの藤木源之助だ。
油断なく、相手を、伊良子を“観る”
同時に伊良子は心の中で舌打ちをした。表情では余裕のままだったが、心中穏やかではない。
己が使う骨子術を見破られ、さらには手の内すらも当てられた。
同じ技は、同じ形では通用しないだろう。
しかし、己と同じ骨子術を使うものがいるとは……とも、伊良子は興味が湧いた。
楽には勝てぬが、勝つことはできる。
伊良子の中で、再び勝利の絵図が定まった。
再び伊良子はふわりと動く。慎重に間合いをはかり、機会を探っていた。
同時に源之助は、相手の力量を測る。
伊達にして帰すのは難しい。だが、殺めるのは簡単だ。
弟との稽古が、毎夜の鍛錬が――源之助の実力を引き上げ、伊良子を前にして余裕を生む。
次に動くは、源之助。
前に突っ込むだけの構えから、いつぞやの如く左切り上げ。
伊良子はこれを小さく避け、源之助の胴目掛けて木剣を振るう。そこへ、切り上げから唐竹(切り落とし)へと変えた源之助の打ち込みが、伊良子の脳天を襲う。
カンッ。
すぐに伊良子は木剣にて受ける。脳天への一撃は防いだ。
しかし、先ほどまでの鍔迫り合いとは形が違う。
伊良子の飛び込みより始まった先ほどの鍔迫り合い。勢いは伊良子にあり、優勢であった。
しかし、今度の鍔迫り合いは源之助から飛び込み、さらには唐竹より始める。
自然と――鍔迫りに必要な上からの圧、有利な条件から始まる。
源之助は油断なく、このまま潰すつもりだ。伊良子の手が、再び動く。
だが骨子術は使えぬ。源之助には見破られ、すでに潰され掛けている。牛股でさえ、完全に機を捉えたと思えたほどに。
――伊良子の手は。
源之助の肘、その内側が拳打の形で打ち込まれる。
「っ!!」
一瞬で源之助の鍔迫りが解かれた。同時に、捉えたはずの機を逸する。
――肘の内側にある、少し突き出た骨。
ここに打撃を受けたとき、腕が痺れるのだ。
骨子術の一種。
これを源之助は、識らなかった。
握りが緩んだ源之助の右手指を、伊良子はしかとつかむ。
(指搦み!)
次に行われる動きを、牛股は瞬時に悟った。
指搦みとは、相手の指を掌で握りしめて、捻りあげる技。
いかに握りを鍛えようと、指1、2本と握り込みとでは力の差など、測るだけ無駄。
そのまま指を捻り上げ、源之助に足払いを仕掛けた伊良子は、投げた。
宙空を回転、上下入れ替わる景色、足が地より離れる感触。
――これも弟に受けた技だ。
指の骨は諦めねばならぬ。
しかし、勝ちは譲らぬ。
ぼきり、と源之助の右手人差し指と中指が折られた。
伊良子はそのまま源之助を地面に投げ――。
――源之助は瞬時に前受け身を取り、木剣を振るった。
左手一本に持ち替えた木剣。
そして、投げられ地面に叩きつけられた衝撃を受け身にて逃がす。
そのまま柔の技、猫の三寸返りにて、伊良子の鼻を狙った。
これにはたまげた伊良子が、大きくみっともない形で仰け反り避ける。
鼻先掠めた木剣が、伊良子の鼻を削ぐことはなかった。
しかし、その威力は鼻腔を伝わり、伊良子の鼻より血を流すに至る。
着地した源之助だが、指を折られたことに変わりはない。額より激痛の脂汗を流しつつも、左手一本で木剣を上段に構える。
伊良子の顔には、まだ微笑みがあった。手で鼻血を拭い、油断はしない。
「それまで!」
だが、試合は続かなかった。
牛股の止めの合図により、伊良子は納刀して礼をする。
意地であろう。源之助も木剣を回転させて納刀の形を取り、礼をした。
「し、師範代!!」
門弟たちが心配し駆け寄る。
源之助の右手の指は根元より破壊され、血が流れていた。
骨が突き出ている可能性すらある。
なのに源之助は脂汗を流すばかりで、表情が崩れるのだけは防いでいた。
「牛股師範」
そして、源之助は言った。
「もう一度。これからにござる」
元の位置に戻ろうとした伊良子の足が止まる。笑みを浮かべたまま、振り返った。
「さようにござるか」
余裕の笑みは、そのままだった。
源之助にとって、伊良子の表情を崩して潰さねば気が済まぬ。
一応の止めの形に従ったのは、敬愛する兄弟子の合図だからだ。
再戦の願い。
「それまでと申した!」
みし、と音をたてて牛股が立ち上がる。
「藤木……」
「これからにござる」
伊良子を前にしたまま、いつでも抜刀できるように立つ。
背より投げかけられる、兄弟子の声も遠くなった。
(これからに……)
源之助は負けられない。このままでは終われぬ。奴の笑みを消さねばならぬ。
――兄として、負けられぬ。
「そうよのぉ」
ぽふっ。
牛股の手が、優しく源之助の肩を叩いた。
振り返る源之助が見たのは、牛股の笑顔だった。
源之助は己の弟の笑顔と同様に、兄弟子の笑顔に絶大の信頼を寄せていた。
改めて礼をする源之助。
大人しく門弟の列に加わり、木剣を置いて正座した。
「師範代っ」
「て、手当てを!」
「かまうな」
門弟たちの心配の声を、源之助は拒絶する。
「裕次郎ならばこの程度の傷、なんともないと言う」
いや、それは……と門弟たちは口ごもった。
落ちた門弟たちの名札を元に戻されていた。
師範と、師範代、門弟と並び。師範には牛股、師範代には源之助の名がある。
それは道場内での序列、強さに応じた並びだ。
その門弟の末席に、名前がある。
藤木裕次郎、と。
門弟にとって、藤木裕次郎は憎悪の対象か、羨望の目標かの二極化に分かれる。
だが、それは剣や稽古に対する姿勢の話であり、全員がただ一つの同じ思いを共有していた。
――藤木裕次郎は、強い、と。
疑うことも侮ることも嗤うこともできぬ強さである、と。
確かに裕次郎ならば、骨折程度などなんともないと言うだろう、と。
今日は藤木裕次郎の姿がない。あの門弟の末席にて虎眼流の名を汚す不埒な男は、今日も今日とて稽古に遅れている。
相変わらず銭稼ぎにあくせくし、稽古に顔を出していないのだ。
剣の
ここに裕次郎が、裕次郎さんがいれば、とは、確かに門弟たちは思うのだ。
だがしかし、次に相手をする牛股師範に対する不信はない。
剣に対する姿勢、道場への敬意、稽古の指導とその強さ。
疑うところなど何一つない。
「師範!」
門弟の一人が全力で抱え上げ、牛股に一本の木剣を渡した。
重さ一
長身と強い膂力がなければ上下することさえ難しいその巨大木剣は、体長三メートルに達する海魚にちなんで“かじき”と名付けられている。
それを持ち、開始の位置に立った牛股。
伊良子は言った。
「素振り用の木剣とお見受けいたすが」
「無作法お許しあれ」
頭一つ分も大きい牛股を前に、伊良子の笑みは消えない。
再び伊良子は右手片手の脇構えを取る。
牛股は上段の構え。それよりもさらに、高く剣を掲げる。
伊良子は着流しの裾を掴み、動きやすくなるようにした。足捌きにて、牛股の剣を躱して打ち込むためだ。
試合は開始され、
「ちょっとお待ちくだされ!!!」
すぱん、と道場の戸が勢いよく開かれたことで、中断された。
すわ新手か? と思った伊良子が振り返る前に、一人の男が伊良子の横を通り過ぎた。
男はそのまま牛股の前にて土下座する。片手にあった木剣を脇に置き、平伏していた。
「牛股師範! 遅れて申し訳ありませぬ!!」
男は叫ぶようにして謝った。
試合の空気が削がれたか――と、伊良子は構えを解いた。
「藤木裕次郎、遅参致しました! どうやら道場破りが来た様子、そして我が敬愛し尊敬する兄上、藤木源之助が敗れたとお見受けしました!
牛股権左衛門師範! 兄の敗北の屈辱、弟であるこの裕次郎が
なるほど、この男……先ほど戦った男の弟か。
伊良子は笑みを浮かべたまま観察する。確かにこの男、背格好はどこか源之助と似ている。
ただ髪を剃ることなく髷を結わず、総髪のまま髪を後ろで乱雑にしばっていた。
自身の艶やかな黒髪とは全く違うもの。
次の相手はこの男か、と思った伊良子だったが。
「何を考えてる、裕次郎?」
激怒したまま木剣を上段に構える牛股を見て、おや、何か違うぞ? と疑問が浮かんだ。
「何を考えるなど……私はただ、兄上の仇を取りたいだけです!!」
「裕次郎。己は死んでない」
「藤木は答えんでいい!! 嘘を吐け!! おぬし、何を企んでおる!! 言え、今度は何をした!? 宝剣を持ち出したのか!? 三重様を連れて町で問題を起こしたのか!? 銭湯で酒を飲んで大騒ぎをしたのか!? 伊達にした者どもをまとめて大馬鹿でもしたか!? やらかしを誤魔化すために道場に来るなど……恥を知れ!!」
「それは!! ……半分しかしておりませぬぅ~……」
「どれだ!? どれをした!?」
「いえ、今はそれはどうでも良いのです!」
「どうでも良くない!!」
「私は、ただ!」
裕次郎と名乗った男が立ち上がり、伊良子の方を向いた。
伊良子の目に映ったのは、自身よりも輝きを放つ男。
美貌で言えば伊良子の方が圧倒的に上である。髪の艶も、顔の造形も、百人が百人伊良子の方が整っていると言うだろう。そう評価するのは間違いない。
だが、源之助の顔に似ていながら、全く違う表情をする男の顔は、楽しそうだった。
剣に邁進する門弟と求道者どもの中で、ただ一人、伊良子の識らぬ輝きを見た。
自由な男だ。
己が目指した権力や地位、そんなものなど矮小に思えるほど……活力溢れた自由を体現していた。
伊良子の脳に、裕次郎の顔がハッキリと刻まれた。
「この道場破りに勝ち、兄源之助の無念を晴らしたいのです!」
「裕次郎。己は死んでない」
飄々としながら親しみがあり、どこか不気味でありながらも近寄りたい魅力を放つ。
裕次郎の言葉に冷静に答えた源之助のやりとりを前にして、伊良子の背に冷たい汗と、胸に熱い鼓動を覚えた。