シグルイ。
南條範夫先生原作の駿河城御前試合を原作とした、漫画家山口貴由先生の作品。
俺が生きてた世界では完結済みの作品で、なんと言っても特徴的なのは残酷無惨で容赦のない展開と、山口貴由先生テイストによる圧倒的画力から繰り出される戦闘とトラウマ描写。
そしてネットミームにもなった「もう少しこう何というか、手心というか……」とか「痛くなければ覚えませぬ」とか「ちゅぱ右衛門」というシュールギャグ。
最後に階級社会における封建制度の恐怖がこれでもかと描かれている。
シグルイはなんといっても、どこまでいっても救いのないストーリーが売りだ。
先生を殺され、兄弟子や仲間を殺され、仇討ちをし損じて生き恥を晒し、やっとラスボスを倒してもヒロインが自害する超弩級バッドエンド。
「冗談じゃねぇ~……」
俺は鍬で畑を耕しながら呟いた。
現代っ子で社会人一年目だった俺は、仕事が終わって家で酒を呑みながら、シグルイを読んでた。
まぁ、好きだからね、シグルイ。
胸くそだらけだけど、戦闘描写とかキャラのストーリーがさ、凄く魅力的なんだよ。
面白いし。あと虎眼流、かっこいいよね。流れとか練習した。
好きだからってシグルイの世界に入り込むとかねぇだろ!!
「逃げ出してぇ~……」
「……」
現代っ子の俺に江戸時代の農家の貧農の四男とか、キツすぎる。
今だってどんよりとした空の下で、猫の額くらいしかない畑を耕してるんだ。
大根を植えるんだってよ。
だから働いてる。
働かないと食えないし死ぬから。
「あー……ラーメン食いてぇ……シュークリーム食いてぇ……」
「……」
シグルイの世界では、いつどんなときに酷い目に遭うかわからない。
イケメンに着いて行ったら殺される、神社にお参りしたら襲撃されて殺される、突然大猿のいる檻に閉じ込められて殺される。
いつどこで殺されるかわからんから、俺がこの世界で自我を得て目覚めてから、ずーっと警戒しっぱなしだ。
この村には確か、藤木源之助っていう、主人公と同じ名前の武士の子供がいるはずだ。
そいつはとんでもない悪童で、尻に木の棒を突っ込むわ、頭上から石を落としてくるわ、口の中に馬のうんこを詰めて絞め技してくるわでやべぇエピソードに事欠かない。
というか現代だったら犯罪だわ。一発でおまわりさん案件だろ。
警察機動隊が出てきて射殺してもいい外道の類いだろ。
とにかく、今はそいつとエンカウントしないように警戒してる。
「……」
「あの~……アニキはなんで俺をジッと見てるん?」
目下の問題は、この主人公源之助くんだ。俺と一緒に畑作をしてる。
ずーっと何も言わないし、笑わないし、怒らない。
なのに俺をジッと見つめてる。鍬を振りながらも、俺を見てるんだ。
こわいよ。
「……」
「まぁいいけどさぁ……アニキ、手元を狂わせて足に落とすなよ。気を付けようぜ」
さらっと言葉を交わし、目の前のことに集中する。
同時に俺は、これからの方針を考える。
ここがシグルイ世界で、さらに駿河城御前試合世界と繋がりがあるなら、即死イベントは其処ら辺に転がってる。
悪童藤木源之助イベントを乗り越えないと、俺は死ぬ。
さらに、源之助逆さ吊りイベントを越えても岩本虎眼に連れて行かれたらアウトだ。
強制的にシグルイストーリーに飲み込まれ、死ぬ。
ていうかよぉ! シグルイ自体は駿河城御前試合という小説では、たった30ページくらいのエピソードなんだよ! それを数年掛けて連載して15巻にまで構想を膨らませて描いてるんだよなぁ!
濃密な即死イベントがそこかしこに転がってる世界だ!
残酷無惨の名前に恥じねぇな、クソが!
なのですまねぇ、源之助のアニキ。あんたは悪童藤木源之助を殺してくれ。
そして岩本虎眼に連れて行かれてくれ。
俺はここに残る。
残って、貧農として畑を耕して、体が大きくなったらトンズラだ。
どこまで生きれるかわかんねぇけど、ここにいるよか百倍マシ。
なんちゃって現代知識で商売でもして生き残ってやる!
「アニキ、その握りだと手を痛めるぜ。こう、人差し指を浮かすようにして、小指と薬指で握ってみろよ。手首が楽に動かせるからよ」
「……」
「マメができても大丈夫だからさ。潰れて血が出ても、また皮ができて硬くなるって。硬くなったら鍬を振るのも楽になるからよ」
しかし、この時代の源之助はまだ純朴というかなんというか。
俺の鍬を振る姿をジッと見てるだけなのだが、鍬を振る姿がおぼつかない。
仕方ねぇよな、まだ子供の体だしよ。でも鍬を振る度に体軸がブレてるのがおっかねぇ。
「腕じゃなくて、胸と背中、あとは腹を使ってみろよ。んで、足の裏に根を張っているように想像してみな、揺れないから」
一応、俺は子供の頃から剣道だのなんだのとスポーツはいろいろとやってたから、体を動かすのもこういう指導は慣れてる。
慣れてるけど、慣れてるけどさぁ。
「やっぱ逃げてぇ~……腹減ったぁ~……」
さっさと大人の体になりてぇもんだな。
曇り空が晴れないまま、俺は畑作を続けるしかなかった。
――
源之助にとって、裕次郎は唯一、己を愚鈍と罵らない存在だった。
というよりも愚鈍と罵らなく“なった”存在だ。
ある日、特に腹を空かせた日。裕次郎の呼吸が浅くなったときがあった。
飯時になっても目を覚まさない源之助は、心配で裕次郎を見ていた。
見ているしかなかった。どうすればいいかわからなかったから。
だが、いきなり起きた裕次郎はキョロキョロと辺りを警戒して言った。
「え、まさか……これ、しぐるいのせかいぃ……?」
謎の言葉を発したあと、裕次郎は再び寝ようとした。
母に叩き起こされてゲンコツを喰らって気絶し、起きて飯を食うハメにはなったが。
それから数日、源之助は裕次郎を見ていた。
またあんな風に眠らないか、心配だったのだ。
しかし源之助はなんと言えばいいかわからない。口から上手く言葉が出ないのだ。
それに比べて、
「逃げ出してぇ~……」
裕次郎は実に、口達者に喋った。
呼吸が浅くなる前の裕次郎は幼さもあって舌足らず、さらに母の影響で源之助を蔑んでいた。
なのに目覚めたあと、裕次郎は源之助を「アニキ」と呼んだ。
今まで一度も自分を兄と呼んだことがないのに、だ。
さらに観察すると、裕次郎は見事に鍬を振るった。自身より小さな体躯であるにも関わらず、鍬を振る姿は堂に入っている。
源之助は裕次郎を見て、どうしてそうなってるのかわからなかった。
すると裕次郎は源之助の視線に気づくと、笑いながら言ったのだ。
「アニキ、その握りだと手を痛めるぜ。こう、人差し指を浮かすようにして、小指と薬指で握ってみろよ。手首が楽に動かせるからよ」
裕次郎の話すことはよくわからない。裕次郎が見せていることを、話したことを真似してみる。
すると不思議なことに、源之助の鍬の振りが鋭くなった。
さらには、
「腕じゃなくて、胸と背中、あとは腹を使ってみろよ。んで、足の裏に根を張っているように想像してみな、揺れないから」
助言に従い、腕ではなく腹に力を入れてみる。想像に関しては上手く理解できないが、足の裏がしっかりと地面に触れてることを意識してみた。
これも不思議なことに、源之助の体が揺れなくなったのだ。
いつの間にこのようなことができるようになったのか? 誰ぞに師事したのか?
だが、裕次郎は母の声に「うるせ~ばばぁ! ひすてりっくにさけんでんじゃねぇ~!」とよくわからない悪態を吐いてはゲンコツを喰らう毎日で、自分たちの目から離れることがない。
一人になることなど、ないはずだ。
裕次郎は変わった。同時に裕次郎は変わっている。
己は愚鈍である。愚鈍であるが故に、待遇が変わっても仕方が無い。
なのに裕次郎は母を怒鳴り付けた。
「自分の子供に優劣付けてんじゃねぇぞ山姥ばばぁ! アニキにも飯を出せや!」
母にゲンコツを喰らって飯抜きにされた裕次郎だったが、
「俺の分もアニキが食えばいいよ」
源之助にそう笑って言った。本気のゲンコツを喰らって痛がってるはずなのに、すぐにけろりとする。
さらに源之助が見ると、転んで膝をすりむいたはずの裕次郎の膝が、まばたきしたころにはあっという間にかさぶたになっていた。
すわ、寝ている間に妖怪とでも入れ替わったか? 妖術の類いかと疑った。
警戒した源之助だが、裕次郎は母に源之助の食事のことで文句を言い、源之助のことを悪く言う兄たちと喧嘩をし、父には「文字でも読めるようになって稼げやクソじじぃ! なんで読めねぇんだよこんな簡単な漢字がよぉ~!」と言って本気で蹴られて、蹴って、喧嘩していた。
その姿が何故かわからぬが、妙におかしく映った。
源之助にとって裕次郎はただ一人、自身を「兄」として「家族」として見てくれる、「弟」だった。
その裕次郎が、あの悪童藤木源之介と喧嘩をして、向こうの腕を折りながらも裕次郎の腕を折られたとき。
源之助の心に僅かな波紋を生んだ。
結果として源之助は、悪童藤木源之介をズタ袋のように振り回し、さらに髷を引きちぎり、両手両足の骨を砕き、顔面を本人と判別できぬまでに壊して士果たすこととなる。