日坂にある舟木流、そこには舟木一伝斎の子が三人いた。
舟木道場の末の娘、第三子の千加は舟木一族に代々伝わる怪力の特性と、双子の兄同様の
屋敷の軒先、その庭にて竹竿をいくつも束ねてその上を藁で包んだ巨大な巻藁の上に兜を置いたものの前に、刀を大上段に構えた千加がいた。
それを見るは、舟木流開祖の小柄な老人、舟木一伝斎。
千加の服装は淑女にあるまじき上半身裸に袴という有様。日の下にさらされた肉体は、しかして女性のものにしては筋肉が浮き出ており、目の前の巻藁と兜を前にして力が漲っていた。
千加の咆吼が響く。
そのまま振り下ろされた刀は、兜を両断し、巨大な巻藁を両断するに至る。
ズンッ、と。
巨大な巻藁が真っ二つになり、台座から崩れて落ちた。
大の男でも困難であろう、置かれた兜を両断する業前。さらには巨大な巻藁すらも同様に真っ二つにする怪力。
見事な腕前であるが、千加の顔には一切の喜びはない。それどころか悔しさに歯を噛みしめていた。
半年くらい前から来ている虎眼流からの来訪者、藤木裕次郎はこんなものなど片手で両断する。
さらには兜ではなく鎧すらも切り裂く。
いくら鍛えようとも身体をいじめ抜こうとも、あれに追いつく想像ができない。
「千加よ」
肩で息をする千加に、一伝斎が言葉を掛けた。
「そこまで」
思わずもう一度、と言おうとした千加の考えを先回りした形になる発言。
千加は大きく息を吐き、落ち着こうとした。
「裕次郎は?」
「そろそろ道場で稽古が始まる。兵馬数馬もそこにおるであろう」
「そうか」
千加は地面に転がっていた鞘を拾って刀を納めた。
そのまま屋敷に上がり、自分の部屋に向かう。稽古着に身を包むのだろう。
一伝斎はふぅ、と息を吐く。
「変わったの。千加は」
今までは稽古も、試合も、どこか怪力を用いて遊んでいる印象が強かったが、最近では本気で腕前を磨こうと足掻いているように見える。
淑女がそんなことをする必要はない、とは本来の話ではあるものの、己が子が剣術に対してひたむき努力する姿を見るのは、どこか嬉しく思う。
道場にて、千加は試合に臨む。
いつもは胴着に袴と簡素な格好であり、僅かに覗き見る肌のことなど気にしていなかった。
ところが最近では晒しを巻き、袴の下にも肌が見えぬように胴着の長さを調整している。
肌の露出面積を減らした形であるが、道場の門弟としてはそれはそれでどこか乙女の初々しさを感じるのだ。
千加の前に、門弟の一人が立っていた。蟇肌を手にした男だ。
「参れ!」
男は瑞々しい千加の肢体と、晒しや胴着によりわずかに隠されたその下の肢体に鼻を伸ばしつつも、気合い一閃。千加へと打ち込む。八相の構えから打ち込まれる。
だが千加は蟇肌を左手に、右手は相手の袖口を掴み、怪力の元に引き込む。
そのまま袖口を捻り引き込み、男の体勢を崩す。こうなってはどうしようもない。
千加はそのまま男の重心の下に潜り込み、蟇肌を加え、両手で男を持ち上げてしまった。
未だ幼さの残る女性が大の大人の男を持ち上げてしまうという、あまりにも現実離れした光景。
おおおお、と、見学する門弟たちから声が上がった。
だが、持ち上げられてる男はたまったものではない。ここからの反撃など不可能である。
「ま、参ったァ!」
男の降参を聞き、千加は男を優しく下ろす。
男は尻餅を突きながらも、胴着の合わせからちらりと見える千加の胸に、再び鼻の下を伸ばす形となった。
千加はそれに対して、興味はなさげだった。
門弟たちを見て、声を掛ける。
「次は誰ぞ」
門弟たちは目を逸らして逃げてしまう。あれだけの怪力を見せられては逡巡するもの。
いや、その胸中には女子に負けるなど情けない、という男の矜持があるのだろう。
「誰もいないならオレと兵兄ぃが試合をしていい?」
門弟たちの中から声が上がる。
藤木裕次郎。
ここ最近、千加の胸を騒がす男だ。半年前に突如として現れた男は虎眼流の門弟を名乗り、双子の兄たちと激しい鍛錬を行っている。
裕次郎は躊躇なく虎眼流の秘伝を披露し、周囲にその対策や感想を聞いており、その剣に対するあけすけだが真摯な態度は、千加にとって好ましくある姿だ。
最初に出会った頃は双子の兄を前に大見得を切り、そのまま双子を倒し、何故か舟木一門として馴染んでしまっている不思議な男であった。
だが一ヶ月もすれば皆は受け入れ、千加もその姿にどこか惹かれたものだ。
「やろうぜ、兵兄ぃ」
「おうとも」
上座に座っていた舟木兵馬と、門弟たちの中から出てきた裕次郎は、蟇肌を持ち間合いを見計らう。
上座に座る数馬は、その様子を真剣な目つきで集中している。繰り出される技の一つ一つを見逃さぬ、その視線の強さがありありと浮かんでいた。
裕次郎は虎の握りで、兵馬は八相の構えで睨み合う。
突然裕次郎が踏み込む。虎の握りより繰り出される打突が、兵馬の額を狙った。
蟇肌の三寸ほどの切っ先が命中するような形。
兵馬は額を反らすようにして首を後ろに傾け、それを躱す。すぐに兵馬は八相の構えから右脇構えへと変える。さらに下がった形となった兵馬の首があった場所を、返す刀の裕次郎の攻撃が通り過ぎた。
裕次郎は虎の握りにて流れを出していたのだ。本来、流れは道場稽古での使用を許されぬ禁じ手であるはずが、裕次郎は躊躇なく使用する。
流れによる間合いの延長まで読み、兵馬は脇構えにて自然と流れの死の範囲から身体を逃がしていたのだ。
そのまま兵馬の全力の右薙ぎが裕次郎の脇腹に命中した。ズバン、と大きな音が鳴る。
見事な後の先の技。
裕次郎の顔が苦痛に少し歪んだが、すぐに平気な顔となる。
「ちぇ。流れ返しが決まったと思ったのに」
「やるなら最初からであろうな。そうであれば、己も身体をもっと反らさないと逃げられなかった」
「あそっか。最初の回避で次の構えの移行に必要な重心の移動の準備が整っていたのか」
「よく言う。己の胴打ち、本当なら躱せたであろう」
「身体に刻んでおきたかったんだよ。全力の流れと流れ返しをいたずらに使うとやられるぞって。という言い訳をなしにしても、見事な後の先だと思うけど」
裕次郎と兵馬は、互いにあけすけに技術を論ずる。周りの熱心な門弟は、その論じた内容を一字一句、覚えようと必死だ。虎眼流の秘伝すら、みなに見えるように使うのだ。
――対策があるなら、やってくれ。
――こっちは対策の対策を思案し、より技を洗練させたい。
裕次郎はそう語って、皆の前で技を使う。
「はははは! 相変わらずの謙虚さよな! その謙虚さ、我らと茶屋に出かけた折ですらも出てしまうのはよくないぞ!」
「いや、あそこで遊ぶのはオレの趣味じゃ――」
「兄者よ! そこまでであろう、今度は己の番よな!」
「そうだな数馬! 数馬との稽古終われば、今日は茶屋で溺れる日であろう! ハハハハハ!」
「いやだからオレはあそこで遊ぶ趣味は――」
双子の兄が仲良く、裕次郎と剣の稽古に打ち込む姿は、かつて陰間茶屋で乱暴を働いていた頃のものではない。どこか清廉、清々しさある。
三人の会話に入っていけぬ千加は、随分と前のことを思い出す。
双子を倒し、双子と親しくなり、道場で一目置かれ親しまれ、かつ畏れられる業前を持つ裕次郎に惹かれたが故に、興味本位で夜這いを掛けてみた。
好いておったか、と言われると好いてはいた。そこは間違いない。
しかし、今のように焦がれていたか、と言われるとそこまでではないと言えるだろう。
今は、焦がれてる。
思い出すは、夜這いを掛けた日。己も知らなかった身体の一部の変化を、裕次郎は優しく受け入れてくれた。
慰め、共にいてくれた。励ましてくれた。
その日のことを思うと、興味と肉欲に溺れたあの日の夜を、酷く恥ずかしく思うのだ。
今では夜這いが出来ぬほどである。
ただ、こう、仲睦まじく町を歩くときがあるが、それだけで良いと思うほど、心を占有しているのだ。
裕次郎が照れくさくなって道場から逃げ出す背中に大笑いしていた双子であったが、裕次郎と入れ替わるように入ってきた男に顔をしかめた。
舟木流の門弟の一人、屈木頑之助。
その顔は蝦蟇の如くできものが多い醜漢であり、頭部は異様に大きい。背丈も門弟たちの中で一番の小柄である。ただ、頭部の大きさから小柄といえどどこか大きさを覚える、異形である。
この男はかつて、一伝斎が雪の日に行き倒れた浪士の孤児を、養育したものである。
その醜悪な顔と不幸な生い立ちに、不憫さから同情したのだ。
そのような頑之助は、かつては道場に来れば他の門弟たちに殴られ、蹴られ、私刑にあうのが日常であった。
なんせ頭部がでかすぎてまともに蟇肌を振りかぶることすら出来ぬ。
その特異な重心により、容易に転倒を招くのだ。
このような有様なのだから、笑いものにされてしまい、皆から迫害を受けることとなってしまう。
かつて、千加はそれを何度か見かけて止めることはあった。
弱い者いじめを止めているのではない。
蝦蟇を、頑之助を家畜以下の生物と見なしているからに他ならず、ただそういう気分だから止めただけだ。実際、頑之助の前では無防備である。
この男の脳内ではこれが……語るまでもなかろう。
しかし、最近では誰も頑之助を虐めるようなことはしない。ただ、己の稽古をして反応せぬようになった。
要するに、無視しているのである。
かつてのように虐めをするような時間があるならば、裕次郎と稽古をするか双子や千加に剣の教えを乞う方が遙かに良いと気づいたからだ。
「頑之助か」
千加が声を掛けると、頑之助の蝦蟇のような口が、ニタリと笑った。
「お千加様」
蟇肌を手に、頑之助はニタニタと笑っている。
正直、千加は内心で気色悪さを感じてはいたものの、表に出すことはしない。
それをすれば、外見の醜悪さに対しての悪口を論じてしまえば、あの日、自身の身体の変化を受け入れ励まして慰めてくれた裕次郎に、顔向けできぬと思ったからだ。
「頑之助。お前は裕次郎がいるとおらぬな。裕次郎とすれ違うことが多いが、たまには共に稽古をせぬのか」
千加がそう訪ねた瞬間、ほんの一瞬だが、頑之助の顔から感情が消えた。
それを見逃す千加ではない。しかし、問い質す前に頑之助はニタニタとした笑顔を浮かべている。
「へぇ。どうも会う機会が少ないもんで……」
「千加がとりなしてやろう。裕次郎から学ぶことは多いぞ、ためになる」
なんとなく。なんとくなくだ、千加はなんとくなくで誘っただけだった。
この醜漢も、裕次郎と接触すれば何かが変わるか、とほんの僅かな興味で言っただけ。
しかし、頑之助は己が持つ蟇肌を、強く強く握りしめていたのを、千加は見ていた。
男として、剣士として。頑之助ははっきりと裕次郎を敵視している。
いったい何が頑之助をここまで拒絶させるのか、皆目見当が付かぬ千加である。
「いえ、いえ。お師匠さまやお千加さまたちに認められる裕次郎……さまに会うには、この頑之助、まだ未熟なもので……それでは……」
頑之助は蟇肌を片手に道場から去って行った。
かつては握り飯を施した千加であるが、頑之助が何故ここまでああなのかはわからぬままだ。
施しただけで、頑之助のことを理解しようとしていたわけではない。
ただ、家畜以下の生物として見ていただけで、理解しようなどと思ったことがないからだ。
だが、己の身体の変化を裕次郎に受け入れてもらってから、あの男も他のものと違うこと、そこに何かあるのか? と、今までになかった興味が、ほんの、ほんの僅かにだけ浮かんだだけなのだ。
理解からは、もっとも遠い、哀れみの心であるが故に。
頑之助が道場を出たとき、その片手に握られていた蟇肌がぎしぎしと軋みを上げていた。
のそり、と誰もおらぬ屋敷の陰へ、その床下へと戻って行く。
「あの裕次郎に、この頑之助が教えを乞う?」
その声には、隠しきれぬ苛立ちと怒りが、これでもかと溢れていた。
「お千加さまはこの頑之助と結ばれる
頑之助を差し置いて、運命をねじ曲げた、あの裕次郎に?」
床下の地面に頭を打ち付け、ゴリゴリと擦る。
その顔は、今までのようなニタニタとした笑顔ではない。
怒りと憎しみに支配された、醜き蝦蟇のようなものである。
「裕次郎の足は曲がっていて醜いはずだ……裕次郎の鼻は低く潰れているはずだ……裕次郎はお千加さまと結ばれぬ運命だ……」
ごりっ、と一際強く、地面と額をこすりつけた。
「なのになぜ、あやつの足は曲がって折れておらず鼻は低く潰れておらず、醜いものではないのだっ……!!! 何故、なぜあやつは輝いて見える……!! 眩しく見える……!!」
あまりの嫉妬と怒りで、頑之助の頭は狂いかけていた。いや、すでに狂っているのだろうか。
そのいぼ面の額に、血が滲み厚いかさぶたができるまで、頑之助は呻き続ける。
あの日。
裕次郎が来て、一ヶ月目の夜。
千加が裕次郎のいる牢座敷へ夜這いを掛けた日に、頑之助はその床下にいた。
その行為を、千加の変化を、乙女の秘密を知った。
「俺の身体は他人とは違う。でも、お千加さまの身体も……だから、俺とお千加さまは……」
他人と違う同士、結ばれるはずだ。蝦蟇の脳内で独自の世界観が構築され始めた。
頑之助にとって、水に、鏡に映る己は美しく聡明な顔立ちの青年である。
他の男など、醜漢極まる異形ばかりだ。
俺は美しくなった。
頑之助はそう信じ込んでいた。
なのに。なのにだ。
「どうして……!!! どうして裕次郎だけが、俺と同じ、俺以上に輝いてるんだ……!! そんなはずはない。お千加さまと俺は、他人と違う同士、互いに美しいはず、結ばれる運命のはずだっ……!! なのに、なのに何故だ、何故、何故、裕次郎だけ、あのように美しいのだ……!! お千加さまの隣に立てると、思えてしまうほどに美しいと思えてしまうのだ……!!」
蝦蟇と千加は他人とは違う。
他人と同じ裕次郎は、そこに入り込む余地はない。
はずなのに、千加の隣に立つ裕次郎がお似合いに見えてしまうのだ。
互いに笑い合う姿が相応しく見えてしまう。
それを脳では理解していて、しかして心と体では認められぬ蝦蟇の脳内は、再び自分にとって都合の良い独自の世界観を構築し始めていた。
だが、それを幾度となく繰り返しても。
何度も独自の世界観を構築しても。
裕次郎は裕次郎のまま、美しく見えてしまうのだ。
だから、いつか殺さねばならぬ。
お千加さまと俺の間に入り込む、あの異物を、怪物を殺さねばならぬ。
しかし裕次郎はあまりにも強い。寝込みを襲うことすらできぬほど、隙がない。
どうすれば、どうすれば。
頑之助はずっと、懊悩し続けるのだった。
頑之助は知らない。
裕次郎は、ある意味で頑之助と千加以上に“違う”のだ。
二度目の生を受けたが故、転生を経たが故の“
世界の外側から来た、
“違う”者同士の頑之助と千加が美しいと思い、他の“違わない”者たちが醜悪になる、その脳内の世界において。
この世界の誰よりも“違う”裕次郎が至高の美しさを持ってしまう理由に、永遠に気づけぬのだ。
裕次郎を憎み醜いと思いながらも美しいと気づく矛盾、その原因がわからぬままなのだ。
本来、人は死ねば終わるはずなのだから。
死んで終わらなかった裕次郎以上に“違う”ものが、生きてるものの中にいるわけがない。
矛盾を解消するためには、矛盾を消すしかない。
頑之助の頭は、いかにして裕次郎を殺せばよいのか、というものに染まってしまうのだった。