「本当にごめんなさい」
蘇生した裕次郎を連れた虎眼流剣士たちは、いつも使っている浜辺の家屋にて頭を下げる裕次郎を前に、少し驚いていた。
きちんと正座し、頭を下げ、礼と謝罪を述べる裕次郎の姿など、この場にいる誰もが想像していなかった。
てっきり、
『本当にごめん! ちょっとバカやって溺れちまった! 助けてくれてあんがとな!』
くらいの砕けた口調になると思っていたからだ。
だが、現実として裕次郎は綺麗な所作で述べている。
これには誰も、裕次郎を深く追求する気になれない。
虎眼流の稽古において水練は確かに安全な部類に入るものの、それは幾分か生還率が高いというだけで危険であることには変わりない。事実、この水練で溺れ死んだものだって、牛股は見たことがある。
助かっただけ、儲けものなのだ。
「うむ。裕次郎よ、生きていて何よりだ」
「はい、牛股師範。ご心配おかけしました」
だが、さすがにここまで殊勝な態度だと不気味さすら感じる。牛股など、どうせそろそろ化けの皮が剥がれるだろうと思って右拳を握っていたのに、所在を無くて開いて閉じてを繰り返しているばかりだ。
「伊良子」
は、と顔を上げた伊良子に、牛股は裕次郎を見据えつつ言った。
「よう助けてくれた」
士が、己に礼を言っている。
もとは夜鷹の生まれ、最底辺の身分で生まれた伊良子にとって、誰かを助けて礼を言われることなど滅多にない。あったとしても、それはどこか身分違いの、上から目線の言葉であり上っ面でしかない。
牛股の言葉に、そんな見栄や上っ面のものは何一つなかった。
誰かから、一切の他心も邪心もない、心からの礼を言われるという経験は、伊良子にとって初めてであった。
「牛股師範、申し訳ありませんが……オレは少し、疲れました。休んでもいいでしょうか」
「何が狙いだ?」
「何も、ありませぬ。ただ、死地より生還した実感が強く、膝が震えておるので……これ以上、情けない姿を見せるわけにはいきませぬ」
「お前、何者だっ」
牛股が思わず立ち上がり拳を握るが、裕次郎は頭を下げたままだ。
まるでこれは、下級武士が上級武士に向かって媚びへつらっているような姿ではないか。
伊良子の心に、どこか棘のようなものが刺さった気がした。
「藤木裕次郎でございます」
一言だけ、たった一言だけ裕次郎は答え、尚も顔を上げようとしない。
心から反省し、相手の慈悲を願っているようだった。
その姿に牛股は天を見上げ拳を開き、目を閉じた。
源之助もまた、同じように目を閉じて天を仰いだ。
裕次郎によって様々な事に巻き込まれてきた同門の士が、心を繋いだように感動する。
互いの目から涙が溢れるほどだった。
あの、あの裕次郎が。
婆娑羅もので粗忽で予想不可能な行動をする裕次郎が。
こうも士としての姿を見せるとは、と。
溺れたことで何があったのかはわからないが、牛股と源之助にとって裕次郎の落ち着きは、まるで我が子が初めて立ち上がったかのような感動を覚えたのだ。
幼き子が、弟が、弟弟子が、死を前にして生還することで、心身共に成熟し士となった。
すぅ、と涙が溢れるほどの感動であり、喜びであった。
「うむ。わかった。分かった、裕次郎。まずは横になるがよい」
「はい。源之助兄上、兄弟子の皆様。申し訳ありませぬが、この末弟、恥を覚えるものではありますが……少し、休ませていただきます」
そういうと裕次郎は家屋の隅で横になり、目を閉じた。すぐに穏やかな寝息を立て始める。
一連の姿を見た伊良子の心に、ほんの少し刺さった棘が、魚の小骨のような何かが、その正体が伊良子自身なんなのかはわからない。
考えてみるが、どうにも結びつくものがない。
「源之助……」
「師範。少し外に出ます」
「うむ……皆もどうだ」
「では」
「ご一緒に」
え? と伊良子が顔を向けると、なんと丸子と九朗右衛門すらも泣いているではないか。
みんなが同様に家屋の外に出始めたので、伊良子はえ? え? と戸惑うばかりで動けなかった。
伊良子と寝ている裕次郎だけが残されるハメになった。
伊良子は改めて裕次郎を見る。
ふと考えるが、なぜ伊良子が溺れた裕次郎の状況を、幽鬼がいたことを牛股に話さなかったのかはわからない。
助けて、一緒にここに来ただけで、一部始終を誰かに話したわけではない。
裕次郎について何かを知っていた幽鬼と、幽鬼のことについて何かを話していた裕次郎。
誰も知らぬ秘密が、伊良子の胸にある。
それが棘と一緒に心に残り続けていた。
あと気になって家屋の外を見ると、源之助たちが互いの肩を叩いて「立派になった……! 裕次郎は立派になった……!」だとか、「兄上と呼んでくださいました……!」とかで泣いてめちゃくちゃ喜んでいたので、そっと家屋の扉を閉めて伊良子は見なかったことにした。
それくらいの優しさが、伊良子にもあった。
久しぶりです。
資格試験に合格して帰ってきたよ!
もう、朝四時起きの毎日とはおさらばさ!