シグルってたまるか   作:風袮悠介

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第三十六景・同胞 異聞譚 その三

 伊良子以外のみんなが裕次郎の成長(?)を喜んでいたその夜、虎子たちは海亀の産卵場面に出くわした。

 全員で浜辺の小高い場所にうつ伏せで隠れて、その場面を観察していた。

 

 海亀が常に養分を排出していることを知らぬ者にとって、これは苦しみに耐えて命を生み出さんとする神聖な涙に映った。

 ジッと、黙って……その神聖な場面を見る虎子たち。ふと、牛股が口を開いた。

 

「わしはうれしい」

 

 ずっと海亀を見ながら、牛股は穏やかに言った。

 

「おぬしらが並んでいる」

 

 伊良子と源之助が、牛股の顔を見た。

 優しい顔つきの、剣士や士という身分が剥ぎ取られた、男の根っこのような顔であった。

 

「我らは虎子。共に汗を流し、剣を磨く同胞ぞ」

 

 同胞(はらから)

 

 牛股の口から出た言葉。

 皆が武家社会、この日本(ひのもと)における封建制度の下で生きるこの世の中で。

 一瞬。

 この一瞬だけ。

 そんな身分から解放されたような清々しさと心地よさがあった。

 

「ところで牛のおっさん! 外国だと海亀の出し汁って高級料理らしいぞ! あの海亀も卵を産み終わったみたいだから料理して喰おうぜ!!」

「ふんっ!!!!」

 

 飛び出して海亀を捕獲しようとした裕次郎を、咄嗟に牛股が鳩尾に拳を沈めることで鎮圧。

 無事に海亀の命は守れた。

 

 はぁ、と溜め息を吐く虎子たち。なんだかんで裕次郎はいつも通りであった。

 だが、身分も何もかも剥ぎ取られ、(しがらみ)が無くなったこの一瞬だけ、すぐに全員して大笑いしだした。

 源之助すらも声を出して笑った。

 

 伊良子も一緒に笑っていた。

 

 御前崎(おまえさき)から伊良湖岬(いらこはん)まで三十里に及ぶ砂浜に海亀の産卵によって描かれる風紋は、幻想的ですらある。

 海亀の産卵を見終え、朝日が昇り始める頃に、伊良子はなんとなしに砂浜を歩いていた。

 そのような景色に包まれたせいだろうか、自己のみを信じて生きてきた清玄の胸に、牛股の口にした同胞(はらから)という言葉が響いた。

 

(虎眼流の奴らは、己の知る(さむらい)とは違う!)

 

 岬の縁に立ち、波打ち際での水しぶきを浴びながら、伊良子は思案する。

 

(士の家に生まれた……ただそれだけのことでふんぞり返り、己を見下している奴らとは違う)

 

 伊良子は波の向こう、海の彼方……朝日に照らされた水平線を見て、過去を思い出した。

 

 かつて、伊良子が幼い頃。

 貧民街に与三(よざ)という人足がいた。与三が昼間から泥酔して道の中央を歩いていたら、向かい側から上級武士が歩いてきた。

 すれ違いざまに与三を呼び止めた上級武士はそのまま抜き打ちで一閃、無礼打ちにした。

 

 伊良子は上級武士の呟きから知った。

 あの無礼打ちの理由は、ただ肩が触れたからだと。

 それだけである。

 

 再び伊良子は歩き出す。

 再び、虎子たちのいる家屋へと。

 

 戻ると、そこでは丸子と九朗右衛門が足を海に浸して角力(すもう)を取り、源之助は浜に膝を突いて何かを拾っていた。

 

 その姿を見て、再び伊良子は思う。

 

(あの士とは違う! あのくず共とは……)

 

 ひたむきに稽古に励む丸子と九朗右衛門。

 静かに砂浜を見る源之助。

 

 そして、ここにはいない裕次郎。

 

(特に裕次郎は違う)

 

 伊良子は思い返す。

 

(あの士は、違うどころじゃない。あれは士とは別の何かだ。くず共とは比較にならぬ)

 

 伊良子にとって裕次郎は、眩しい存在だ。

 岩本虎眼に認められ、剣の腕も一級品であり、人徳も備えている。

 

 さらには、その気性は士の範疇にあらず。どころか常識外れの何かであった。

 裕次郎が卍手裏剣先生であると知ってからの伊良子は、裕次郎を相手に複雑な感情を抱いている。

 己の立身出世を阻む壁であり。

 己が目指す野心の果ての夢とは違う理想であり。

 己が昇る先にある空のような何かであった。

 

 妬ましくもある。

 羨ましくもある。

 嫉ましくもある。

 眩しくもあり、そして。

 超えねばならぬ相手である。

 

 それは立身出世のためではなく、ただ純粋に、裕次郎を超えたいのだ。

 剣の腕で。

 

(裕次郎は特に違う。……藤木……)

 

 彼らの姿を見て、伊良子はさらに思いを深くしていった。

 

 山崎九朗右衛門と丸子彦兵衛は足軽出身であり、上級武士に無礼打ちにされても文句は言えぬ身分だ。

 同じ高弟でありなあらもこの場にいない興津三十郎と師範である牛股権左衛門は郷氏の身分。

 これも白米などは口に入れられぬ身分なのだ。

 近藤涼之介に関しては、まだ伊良子は深く身分のことを知らぬので、詳しくは何も。

 藤木源之助など、本来は貧農の三男であり愚鈍であることから肉親にすら迫害され殺されかけた。

 

 裕次郎はそう語るが、源之助自身は決して過去を語らない。

 伊良子清玄と同じように、口を閉ざすのみ。

 

 その寡黙さと。

 過去に対する一線を引いた姿勢が、どこか親しみを感じさせる。

 

 思い出すのは、割れた風鈴が不快な音を鳴らす貧民窟の家。

 そこにいる、夜鷹の母。

 

「藤木……」

 

 いつの間にか、伊良子は源之助の隣に立って話し掛けていた。

 

「知っているか?」

 

 源之助は顔を上げて伊良子の目を見る。

 その視線は丸子と九朗右衛門、さらに先の水平線へと向けられていた。

 

「今や東照大権現として神に祀られている大御所家康はな、その実、(ささら)者の娘と浮浪の祈祷僧の倅から成り上がったのだ。……嘘ではない。江戸の楠不伝の道場で聞いた話だ。

 我らとて、己の腕で成り上がり、天下を取って人の上に立つことができる!」

 

 伊良子が“我ら”という言葉を使ったのは、これが初めてである。

 身分も、柵も、何もかも剥ぎ取られたあの産卵の場所で、清玄は初めて心から人の隣に立ったと思えたのだ。

 下でもなく、上でもなく、横並びでもない。

 

 隣、である。

 

 源之助は視線を下に向け、貝殻を拾った。

 真っ白で美しい貝殻だ。

 

「伊良子」

 

 源之助はその貝殻を大事に両手で持った。

 

「藤木源之助は生まれついての士にござる」

 

 伊良子の目が見開かれた。

 

「士は貝殻のごときもの。士の家に生まれたる者のなすべきは……」

 

 源之助は、力強く貝殻を見つめ、いつもより語気を強めて言った。

 

「お家を、家族を守る。これに尽き申す」

「源之助……」

「……」

 

 源之助は何も答えない。

 貧農の三男であった自分を士分に取り立ててくれた虎眼の大恩に、報いる覚悟を述べただけである。

 心から、虎眼に恩を感じているからだ。

 

 裕次郎は言っていた。

 源之助と裕次郎は、元は貧農の三男と四男であると。

 士の子を殺し、あわや殺されかけたところで虎眼に救われた身分である、と。

 だから、その恩に報いたい、と。

 

 最下層出身の伊良子にとって、この言葉は……源之助が心からの思いを吐き出したものだとはわかってる。

 わかってはいる、だが。

 だが、だ。

 

「伊良子の兄者」

 

 心に何かが刺さる寸前、その肩を誰かが叩いた。

 

「源之助アニキは、ただ心から、士分に取り立ててくれた恩に報いたいから言ってるだけだ」

 

 伊良子がそちらを向くと、眠たそうな顔をした裕次郎が立っていた。

 

「あの話をした後でさえ身分に固執するような人じゃないさ。ただただ、あの場所から連れ出してくれたことへの感謝なんだよ。

 俺たちは、そこから逃げ出すには幼くて弱かったからよ」

 

 にこりと笑いかけた裕次郎の顔を見て、伊良子の胸に刺さろうとしていた棘は、消えていた。

 

 どこか胸がざわめくものがあったのだが。

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