「? どうした、裕次郎」
「あ、なんでもないよー……」
アニキからしたら背中側に牛のおっさんと伊良子の兄者の位置は背中側になるのでちょうど見えないことになる。
だが、オレからしたら丸見えなので、何故二人がここにいるのかわからずじまいだし、万が一にも見つかると面倒くさいだろうなと思って顔を隠してしまった。
あの二人が呑みに出るとか珍しいな……。なんの話をするつもりだ?
牛のおっさんが酒と肴を頼み、運ばれた酒をきゅっと一杯を呑んだおっさんが伊良子の兄者より酒を盃に注がれているときに、口を開いた。
「伊良子」
ずん、とあの周囲の空気が重くなるのが見えた。牛のおっさんの声が固い。
「? 師範の声か」
「待ったアニキ」
振り向こうとしたアニキを止めて、オレはアニキを真剣な目で見た。
「なんか話が不穏だ……ちと聞き耳を立ててみようぜ」
「それは……わかった」
オレの様子から真剣さというか、事の重大さを感じとってくれたらしいアニキが、同じように気づかぬフリをしてくれた。
さて、なんの話をするつもりだ?
「先生はおぬしか藤木を、三重どのの婿……にと、考えておられるご様子」
「っ」
「待った、アニキ……まだだ……」
アニキが牛のおっさんの言葉に振り向こうとした瞬間、オレが止める。
なんかこの場面、覚えがあるんだよな……もう少し後で、衝撃的な展開があったような気がする……。
「それがしが虎眼流の跡目……もったいのうございまするが、裕次郎は?」
伊良子の兄者の嬉しさとも困惑とも取れない言葉が出る。待て、何故そこでオレの名前が出る?
「……裕次郎は孕石様より『虎眼流の跡目にすること、これあり得ぬこと』と申されておる。跡目に据えるには問題がありすぎる、これは先生もご承知のことだ」
「ま、まぁ……その、確かに……いえ、しかしあの腕と才覚があれば」
「士として覚悟や礼節が絶望的に、絶望的にっ足りておらぬ。故に、あり得ぬこととのこと」
牛のおっさん、多分だけど、その絶望的な部分はおっさんの心情がかなり混ざってない?
すげぇ力が籠もってて怖いんだけど。
「……ひとつ、申しのべておく」
牛のおっさんの言葉が続いた。
「研屋町の奥方様のもとへ通うのはやめにいたせ」
!!?!?!?!?
「はて? 何のことか」
「尾けたのだ。湯屋の帰り……」
「あれは湯あたりなされた奥方様をご自宅までお送りしただけのこと。その後も足を運びし理由は、奥方様はいたく、天井裏のねずみに怯えておりますゆえ、時折それを片付けにお伺いしておりまする。
やましいことは、何ひとつ」
「とぼけまいぞ」
ず、と牛のおっさんが机に手を掛け、盃や机の上のものを片す。
ただ、それだけの動作だった。
だが見えた。
あの一瞬の抜き打ち勝負。
刀に手を掛けた牛のおっさんだったが、それよりも早く剣を振りきる伊良子の兄者。
断ち切られる机と、割られる牛のおっさんの額。
互いに漏れた一瞬だけの殺気が、オレに幻視を見せた。
それでようやく思い出した、これってアレじゃん!!!!!
伊良子がいくのところに通ってるのを、牛のおっさんに止められてる所じゃん!
つーかあいつ、結局いくに手を出してんのかい!!!!
くそが!!!!
あれだけ頑張ってもこれかよ!!
「伊良子。もしもお主の所業が先生の耳に漏れたら……」
にぃ、と牛のおっさんが笑みを浮かべた。あまりにも異形の、不気味な笑みだった。
それを見た店員が後ろでとっくりを落として割ってすらいた。
伊良子の兄者はそれを見て一瞬だけ怯み、
「委細承知いたしました。奥方様のもとへは、金輪際……」
とだけ言い、上着を掴んで椅子から立った。
思い出したぞ、完璧によぉ! このあと結局、いくのところにいって〇首涎小豆をするんだよなぁ!
なんか腹が立ってきた。
「御免いたします」
伊良子の兄者は上着を手に椅子から立ち、店から去ろうとする。
が、その前に立ってやった。
驚く伊良子の兄者、びっくりする牛のおっさん、相変わらずの源之助アニキの無表情。
「ちょっと待てよぉ色男ぉ。オレと一献交わそうぜぇ」
酔っ払ったフリしてオレは伊良子の兄者に雑に絡んでやった。
「ゆ、裕次郎? どうした、何故ここに?」
「なんだっていいだろぉ、ほら、ほら一杯!」
「い、いや、某はここで……」
「しけたことを言うなよぉ! おいおいそこのべっぴんさんなお兄さん、オレの酌が受け取れねぇのかい? 受け取れるのかい? どうっなんっだい!?」
なんかもうここで足止めするしか手が思い浮かばないオレを許してくれ。