シグルってたまるか   作:風袮悠介

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第八景・獣 異聞譚 裏面 その一

 それは、裕次郎が道場ののれん分けを命じられた日より、さらに遡る話となる。

 

 

 

 

 牛股と裕次郎にいくの元へ通うことを詰められた日。

 店から出て少し歩いたあと、伊良子清玄は後ろを振り返ってからほぅ、と安堵の息を吐いた。

 季節的に寒くなり、時間も夜のため特に冷える。師走の稽古納めまでもう目の前だ、息も白くなるもの。

 

 伊良子は裕次郎たちの圧を感じぬ場所まで移動して、ようやく警戒を解くことができたのだ。

 あの虎の名を騙る妖怪、鵺から離れねば安堵などできようはずもない。

 

(三重をくれるのか)

 

 さらに伊良子は考える。

 

(あの未通女(おぼこ)を)

 

 岩本虎眼の一粒種、たった一人の子である、三重。

 彼女との婚姻の許しは、そのまま岩本家を継ぐことに繋がる。そう思えば心躍るものよ。

 

(裕次郎が相応しかろうと思うたが、師の仰せとあれば無碍にもできまい)

 

 確かに伊良子は裕次郎を認めている。いずれ虎眼に認められ、跡目となるだろう。何があっても最終的にはそうなる。

 しかし、その線が牛股の言葉により完全に消えた、と思うて良い。

 家老、孕石様にあれだけ嫌悪されていては出世などできようはずもなかろう。

 

 ふふ、と伊良子はほくそ笑み、歩みを続ける。

 

 最中に、足下を猫が通り過ぎた。桶の中を見て、残飯がないか漁ったあとなのだろう。

 すれ違い、猫が数歩だけ進んだのちのことだった。

 

 その首が、コロ、と切断された地面を転がる。

 

 目に見えぬほどの速度による抜刀。伊良子はさらに、自身の腕が磨かれておるとさらにほくそ笑む。

 伊良子が沸き立つ心のままに訪れたのは、いくの長屋であった。

 中から灯りが漏れている。どうやらまだ寝入っておらぬらしい。

 

 伊良子は、いくの元への通いをしていた。

 裕次郎に何を言われようとも、もはやあやつに跡目の線はない。いずれは自分が当主となる。

 そうなれば己を止められるものなどおらぬと高をくくっていた。

 

 手で、瞳で、女を絡め取っていた伊良子にとって、いくもその手にかけるなど造作もなかった。

 

 そも、虎眼はいくをぞんざいに扱いすぎなのである。

 いくの婚約者を斬り、自分の手元に置こうとした。

 いずれその所業はいくの耳に入ろう。欲しい女のために手を尽くしているのは師も同じではないか。

 己がしてはならぬ、などという道理はなかろう。

 指をくわえて唾で濡らす。

 だが、障子に手を伸ばそうとして、ふと伊良子は止めた。

 都合の良いことばかり並べ立てる心とは別に、もう一つ、己の中で声がするのだ。

 

 それで良いのか、と。

 

 何度も何度も己の中で言葉が反響するのだ。それで良いのか、と。

 裕次郎の姿を見て、それで良いのかと思う己がいる。あの男もまた、己と同じく(さむらい)らしからぬ行動を取るではないか。何が違うのか、と反論する。

 何もかも違うだろう、と返答がくるだけだが。

 

 裕次郎の立ち振る舞いは(さむらい)らしからぬの周知の事実である。

 しかし人としての道理を弁え一線を越えぬ男でもある。

 

 その一線を越えぬという感覚が、非常に優れておるのだ。

 

(他人の女に手を出し、裕次郎のおこぼれで跡目を手に入れる)

 

 ふと思ってしまうのだ。

 

(それで良いのか?)

 

 剣の腕で勝っているわけでもなし、人柄に優れ慕われておるわけでもない。

 裕次郎を見た己が、卍手裏剣の草双紙の愛好家としての己が、それで良いのかと。

 

 卍手裏剣の草双紙ではいずれも、反権力反体制を謳う物語である。強大で巨大な権力を前に、一個人が蛮勇を持って行動し、人々を救う。

 自由に振る舞う。

 

 己の所業は、それらの草双紙とは違う、悍ましいものではないのか? と自問自答する。

 

 次第に伊良子の中でいくへの思いが萎み、手を下ろした。大人しく帰宅するのが良かろう、と。

 何度も手を出しておいて、いくの心を絡め取っておいてなんだが、もう止めねば。

 

 心の中でそう思うのだが。

 

「お引き取りくださいまし」

 

 中からいくの声がした。

 

「もうおいでにならないと、約束した筈」

 

 その声を聞いて、確かに自分はそう言ったなと思い出す。寝所を共にして抱いて、事後、いくに言われたことだ。

 だが、伊良子は己の中の何かに抗えなかった。女の声、それだけである。頭の中の何かが切り替わる感覚。

 

 下ろした手をあげ、指で障子に穴を開ける。

 

「なりませぬ。このようなこと、もしだんな様に悟られでもしたら」

 

 その障子の穴から、伊良子はいくを見た。己の黒く妖艶な瞳で、いくの服の下を見透かす。

 恐怖するいくの表情に、どこか艶めいたものを見た。着物の下の肌にはうっすらと汗を掻いていることだろう。湿った肌が、蝋燭の火に照らされ、彼女の内面をさらけだす。

 

 良いではないか。

 女など、所詮。

 

 伊良子が中に入ると、逢瀬の後にいくを縛り上げた。腕を後ろ手にし、目隠しを巻く。

 一切の抵抗ができない状況で、いくは震える声で問うた。

 

「伊良子さま。これは何のお仕置きにございましょう」

「案ずるな。手荒なまねはいたさぬ」

 

 伊良子は釜に残っていた米粒を一つだけ指で摘まむと、それをいくの胸へと伸ばす。

 胸の先に米粒を付着させ、伊良子は下がった。

 

「伊良子さま、いったい何を?」

 

 いくの質問に、伊良子は答えない。剣気を発しながら、鞘に手を掛け柄に手を伸ばす。

 いくの体が震え、先端にある米粒も位置が曖昧となる。

 

 (虎眼の跡目。掛川藩武芸師範(かけがわはんぶげいしはん)知行三百石)

 

 脳裏によぎる勘定。

 

(駿河藩剣術師範、田宮対馬守(たみやつしのかみ)八百石)

 

 伊良子もまた、興奮していた。

 

(将軍家剣術指南柳生宗矩(やぎゅうむねのり)三千石)

 

 剣の柄に、手が掛かった。

 

(己の剣は、どこまで昇る……あの裕次郎よりも、どこまで……)

 

 伊良子がここまで出世に拘るには、いくつかの理由がある。

 

 逆川(さかがわ)に面したなめくじ長屋と蔑まれる貧民集落に、お蓉という夜鷹がいた。

 女は子を孕んだ後も、生活のために客を取らねばならなかった。

 

 だが、その子は十月十日経っても腹が膨れるばかりで生まれてくる気配が、一向にない。

 常よりも半年遅れて生まれ出でた赤子は、生まれたその日に四つ足で這い歩いた。

 

 獣の子が、そうであるように。

 

 五月目には立ち上がり、四つの時には十三の子供の耳を噛み千切り、九つの時には定廻り同心の財布を抜き、十二の時には泥酔した浪人者と立会い、これをそこらの棒切れで打ち負かした。

 

 盗むより、遙かにたやすいことを知った。

 

 生まれ出でた頃よりの、剣才。

 

 入門して僅か二年足らず。

 夜鷹の子の剣が、鞘より抜かれ閃いた。

 居合いによる逆手の抜刀が瞬時に十字を描く。

 白銀が再び鞘に納められしとき、いくの体には一切の傷はついておらなんだ。

 さらにはいくの目隠しをも、いくに傷一つつけることがない。

 

 乳房についた米を見た伊良子は満足げに頷く。

 涎小豆よりも小さな米は、いくの体になんの影響もなく米のみを十字に切り裂いていた。

 夜鷹の子は虎眼流を、己のものとしていた。

 

 しかして、伊良子は思う。

 

 遅い。まだ、であると。

 

 藤木裕次郎が仮にこれを行っていたのならば、己よりもさらに速く、さらに研ぎ澄まされただろう。剣閃も一つ、多く放っていたかもしれぬ。

 抵抗できぬように、動かぬようにいくを縛ったが、裕次郎ならばいくを縛らず、いかに動こうとこれを為したであろう。

 

 やはり、あのバケモノを超えねばならぬ。

 裕次郎を超えねばならぬ。

 卍手裏剣先生こと裕次郎が示した新たな思想、理念、例え権力者を相手にしてもへりくだるのではなく取り入るのではなく、なんとなく仲良くなって隣に立つという圧倒的自由を手に入れるためには。

 

 野心と尊敬。野望と理想。

 

 伊良子は気づかぬ。

 己の中にある、二つの矛盾した在り方を。

 憧れるが故に、気づかぬのだ。

 

 裕次郎の生き様は、裕次郎だから許されるだけであり。

 伊良子には許されないという現実を。

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