シグルってたまるか   作:風袮悠介

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第十景・簪 類似譚 その二

 掛川(かけがわ)城下岩本虎眼屋敷。

 

 岩本三重は自室にて男雛と女雛を折り、微笑んでいた。

 父虎眼の判断によって、裕次郎は新たに道場を築くこととなった。

 元農家の四男という出自を考えると、破格の出世と言えるだろう。なにせ濃尾無双と謳われた岩本虎眼に認められたのだから。

 

 それは同時に、この道場から去ることを意味する。

 

 三重は己の中にあった恋心と向き合い、整理を付けようとしていた。

 一生分の幸せをくれた裕次郎は、三重の想いに対してもっと大人になり広い世界を見て、相応しき相手を見つけて決めることと言った。俺はその日を、心待ちにします、と。

 三重はこう思った。

 

 まだ三重は幼いのだと。もっと大人になり、淑女として成長すれば裕次郎は見てくれる。

 

 結婚適齢期の年齢ではあるものの、裕次郎にとって三重は妹のような存在……なのかもしれない。

 だからこそ、大人になって、もっと清楚でもっと貞淑になり、武家の娘としての教育に励めと。

 

 三重にとって裕次郎は、唯一の男だ。

 唯一、父に反抗し、父に認められ、三重を見てくれた男なのだ。

 絶対に振り向かせてみせる。

 別の土地で道場主となり、その土地で剣術指南役にまで出世すれば、きっとここ掛川ではない裕次郎のいるところに嫁入りすることができるだろう。

 虎眼もきっと、そういう思惑があったに違いない。家老の孕石様の手が届かぬ場所でなら、結ばれることができる。

 

 この男雛は裕次郎で、女雛は三重なのだ。

 

 その日を私も心待ちにします。

 

 三重の心に、暖かいものが宿っていた。

 

 

 

 

 

 武家の元旦に家族全員で屠蘇酒を祝うため、(めかけ)いくも屋敷にて虎眼に奉仕していた。

 

 虎眼の私室にて、あられもない姿で絡み合う虎眼といくの二人。

 この日の虎眼は特に曖昧な状態で、いくの体に触る手はさながら毛が生えた毒蜘蛛のようであった。

 

 わたくしの大切な良人を奪った憎い指――。

 

 いくは奉仕の最中にて、脳裏をよぎる嫌悪感と憎しみに囚われつつあった。

 

 ――いいえ、二人だけではない。伊良子さま……伊良子さままでも!

 

 いくは伊良子に聞いていた。

 何故にいくの良人は死んだのか、それも立て続けに二人も。

 それを教えてくれた伊良子はいくを慰め、包み、体と心を癒やしてくれた。こんな奉仕を行うような女を、伊良子は受け入れてくれたのだ。

 その指は、目は、いくを簡単に絡め取り、もはや逃れることができぬ。

 

 伊良子が言ったのだ。

 

「裕次郎がここを去ることになれば、もはや戻ってくることはない。家老の孕石さまに嫌われておる裕次郎が三重さまを娶り岩本家虎眼流道場を継ぐことはない。

 ……どうやら先生は己を選んだのだろう。形だけの結納かもしれぬが、虎眼流の跡目。三重の婿に選ばれたらしい。己の腕が磨かれていくのを見れば、先生もきっと心変わりなされる。

 と、なると……いくは己の母御。じゃれ合うのも……これ切……」

 

 嫌、嫌っ! いくは伊良子さまにとってただの女!

 渡せない!

 伊良子さまだけは!!!

 

 伊良子は三重の婿となり、いくとの逢瀬は終わる。

 その温もりを、指を、目を知ってしまっているいくには、それが耐えられない。

 情念の厚い女であるが故に、愛を失うことに、病的なまでの忌避感がある。

 

 思わず簪に指が伸びようとしたとき、別の声が聞こえた。

 

「いくさまよぉ。感情的になるときこそ、深呼吸だぞ」

 

 いつのことだったか?

 あれは源之助がいくを虎眼の奉仕のために迎えに来た、幼い頃。その次の日に来たのが裕次郎だったのではないか?

 幼い裕次郎は屋敷までの道すがらで、こう語ったのだ。

 

「オレもいつかは好きな女の子ができて、結ばれてぇもんだけど。その子に何かあったら耐えられねぇと思うんだよね。だから守れるだけの力があった方がいいんだけどさ。それでも失っちまうことがあると思うし、遺った人が道を間違えたら逝った人は悲しむだろうさね」

 

 何の話の流れだったか?

 あの日の裕次郎は幼子にしては酷く達観しており、年齢不相応に見えた。

 まるで未来を見るあやかしのような不思議な雰囲気であった。

 

 指が止まる。

 ここで虎眼を殺したらどうなる?

 仇は討てる。

 伊良子は失わずに済む。

 

 その後。

 

 その後は?

 

 その後はどうするのだ?

 

 伊良子を失わずに済んだとて、情婦として生きてきたいくには別の生き方があるだろうか?

 かつていた大店に戻れるか?

 

 無理であろう。

 虎眼が死ねば、どのみち誰かが岩本家を継がねばならぬ。

 それが伊良子になるか源之助になるかの二択に戻るのみ。

 伊良子が選ばれれば、意味がない。

 

 意味がない。

 恨みを晴らしても仇を討っても、結局伊良子を失う。己もここを追い出され野垂れ死ぬやもしれぬ。

 

 いくがすべきことは、この恨みを胸中に抱いたまま、別の男と重なりながら想い人たちを悼むことではなかろうか。

 そういえば、二人の墓参りもしておらぬ。忌まわしき呪われた女ということで、仏参りも墓参りもできておらぬ。

 生きること、呪われて忌まわし己の人生を嘆き、そんな自分を可愛がってくれる虎眼に奉仕することで精一杯で、どうにかしようとも思っていなかった。

 

 行こう。

 

 せめて墓前に花でも添えよう。

 

 そして謝ろう。

 

 今まで行けなかったこと、真実を知らぬままでいたこと、辛い記憶であるが故に忘れようとしていたことを謝りたい。

 そして、月命日には親族が来る前に手を合わせるくらいはしたい。

 それくらいなら、きっと、虎眼でも許してくれるのではないか。

 

 ピタ。

 

 唐突に虎眼の動きが止まった。

 それに気づいたいくに緊張が奔る。

 

 じろりと虎眼がいくの目を見る。

 すぐさまいくは虎眼から離れ、平伏する。どういう理由か知らないが、虎眼の意識が明瞭になったのだ。

 

「旦那さま、お目覚めでございまするか」

 

 いくの言葉に、虎眼は首元を摩って答えた。

 

「夢ん中で耳元で蚊にたかられたわい」

 

 いくの目が見開く。見抜かれた? 自分の殺意が、恨みが、憎しみが?

 いや、そのはずはない。簪へ手を伸ばそうとしたのはほんの一瞬、曖昧な状態の虎眼がそれを見抜くはずが――。

 

「お寒うございましょう、すぐに着替えを」

 

 不安を払拭するようにいくが言うものの、虎眼が立ち上がる音が聞こえた。

 

「寒うない」

 

 虎眼は、刀掛けにある刀に手を掛けた。

 

「いく」

「はい」

 

 いくが顔を上げると、虎眼が刀を抜いたところであった。

 それだけでいくの全身に冷や汗が噴き出す。裕次郎と接するようになってから虎眼の狂人性はそちらにばかり向くことが多かったが、それでもかつては戦場で戦い立身出世のために各地で道場破りを行い、果てには濃尾無双とまで呼ばれる剣客だ。

 

 そんな男が刀に手を掛ける。掛川藩武芸師範役の名は伊達ではない、その地位に身を置くものの刃がいつ自分に向けられるか、恐怖で動けないほどだ。

 

「剣客たるもの、刃紋を見ればその剣が幾人、どのように斬ったかおおよその察しはつく」

 

 虎眼の語りの意味を、いくは理解しきれない。剣など所詮人殺しの道具、人斬り長包丁としか思えないいくにとって、その(ひじり)の尊さについてはあまり知らぬことである。

 

「まして、これは儂の道具……儂の眠っておる間、手入れをしている者の姿がよう見えよるわ」

 

 ふっ、と虎眼が笑った。いくにとって久しく見る、虎眼の穏やかな笑みであった。

 

「出来ておる喃、藤木は……」

 

 刀の手入れをしていたのは、藤木源之助である。

 源之助は稽古のあと、刀をジッと見つめる時を作っていた。そうしていると、刀と一体化しているように錯覚するのだ。

 同時に源之助は刀の手入れを通して、師匠岩本虎眼の剣筋を学ぼうともしていた。そして、剣の使われ具合からどのような技を持っているのかを学びとろうとも。

 それを続けるうちに、虎眼が刀をどのように使い、どのような手入れをすれば良いのか、虎眼が好むのかを学びとったのだ。

 

 それがわかるからこそ、虎眼は出来ておると源之助を評した。

 

 刀を鞘に納め、刀掛けに戻す。

 

「いく。これへ」

 

 優しい声色。機嫌が良いのか、といくは安心して近づく。

 いくが虎眼の側によると、いきなり虎眼がむんずといくに抱きついた。

 

 いくの顔に、いきなり抱きつかれたことへの痛みと恐怖で歪んだものが浮かぶ。

 

 虎眼はいくの体を探る。胸、腹、足、それぞれ各所を手で、目で、鼻で。

 

「よう見えよるわ」

 

 虎眼の声色が代わる。

 

「権左にも聞いておる」

 

 いくの顔から感情が消えた。次の表情が変わる前の無の顔。

 

「いくは儂の道具ゆえ喃」

 

 そして、悟る。

 

「愚か者どもめ」

 

 プッッ!

 

 虎眼の右手が閃き、いくの左の乳首を千切り、右胸の肉の一部を削ぎ取った。

 

()!!!!」

 

 あまりの激痛にいくはその場に倒れ、胸を押さえ込んだ。両胸に走る激痛が、いくの頭から正常な判断力を一切合切消し飛ばした。

 何故、どこで、伊良子さま、何を聞いて、愚か者とは。

 氾濫した川のような情報量が、いくの頭を支配した。

 

「うぅぅう~~」

 

 いくの呻き声が部屋の中に響く。

 

 三尺七寸の太刀を神速にて操る剣客の腕は、無刀であろうと容易に人体を破壊しうる。

 ましてや虎眼は、あの裕次郎と稽古を続けていたのだ。いくらでも再生する体を持つ裕次郎との稽古は、虎眼の腕に神域とも評するほどの破壊の技を身に付けていた。

 どう破壊すれば苦痛を覚えるか、どこを破壊すれば効果的か、どのように破壊したらどこに影響が出るか。

 普通の剣客、達人と呼ばれるだろうものでさえも一生を費やしても得ることができないであろう膨大なまでの人体破壊の経験が、虎眼の腕を肉体最盛期よりも冴え渡らせる結果となる。

 

「やってくれた喃、伊良子!!! いくと懇ろになり、あまつさえ他家の子女にまで手を出すとは!!! 裕次郎の後釜で跡目になれると思うとは喃、自惚れにも程があるわい!!

 ……さて、いくよ」

 

 虎眼はいくの髪を掴み、無理矢理顔を上げさせる。

 胸の激痛と頭の痛みで、いくは苦痛に喘ぐしかできなかった。

 

「来てもらうぞ、この売女が」

 

 

 

 

「ん?」

 

 裕次郎が振り返る。掛川宿の外れの丘で稽古をしていた裕次郎は不穏な空気を察し、振り返る。

 

「なんか嫌な予感がしたが……気のせいか? 気のせいか」

 

 はだけさせていた着物を整え、刀を鞘に戻す。薄着であったために、木の枝に掛けてあった上着を羽織った。

 

「バッドエンドイベントのほとんどは回避したはずだし、三重ちゃんとの結納も上手い具合に断れたはず。伊良子の兄者も無茶してないはず……いくさんも変なことはしてないはずだ。だから」

 

 にやり、と裕次郎は目の前の木の切り株を見た。

 

「こうして流れ星、凶つ星、綺羅星をちゃんと完成させる時間が取れたし」

 

 裕次郎の目の前の切り株は、裕次郎の"星"によって両断された大木である。

 技の完成に興奮していて、だからこそ気づくことができなかった。

 

 どのように努力をしても、最後まで油断できないはずなのに。

 

 

 

 

 源之助は道場で一人、刀を手に正座していた。

 あの襲撃者との戦いで得た骨子と、心の成長を確かなものにするために。

 こうして刀を見つめていると、己と刀が溶け合うような錯覚を覚えるのだ。

 裕次郎曰く、「おお、悟りの境地か」というものらしい。

 

 そのような立派なものではない。

 

 ただ、そうするからして、そうしたいからする。

 そうすると、斬りたいから斬る、という場面で折れず曲がらずに刀を振れるようになる。

 刀のように、なる。

 

 あの殺し合いで、また一つ強くなった。

 裕次郎に近づけただろう。

 その裕次郎との離別が近づいてくる。

 

 ふ、と源之助は笑った。

 剣の腕で近づこうとも、側から離れることになろうとは。

 

 でも、もう大丈夫だ。

 己と共にいなくとも裕次郎は大丈夫だし、己ももう大丈夫。

 

 大丈夫なのだ。

 

 

 

 

 伊良子は自宅で、母親の布団の側で頬で両手で押さえ、小さく縮こまっていた。

 布団では母である蓉が寝ていた。

 小さく、息をしている。

 

 結局、手を掛けることができなかった。

 

 寸前で伊良子は、己が持ってきていた草双紙の表紙が目に入ったのだ。

 あの本では確か、主人公が家族の危機を救ったはずである。

 断じて自分の母親を、自分の目的のために手を掛ける話ではない。

 何をしようとしていた? 己は何を理解した気になっていた?

 

 己はなんなんだ?

 

 伊良子は懊悩していた。

 心中に抱くのは、裕次郎の顔。

 あの男なら決してこんなことはしない。こんな状態の母親でも、笑って支えて、看取って泣いて、そして前を向く。

 

 そんなことができるのは、裕次郎だけだ。

 できるからこそ裕次郎に憧れた。

 裕次郎は眩しかった。

 

 その光を、少しでも得たかった。

 得るためには、やはり母親の存在が邪魔である。

 しかし手を掛ければ裕次郎になれぬ。

 

 裕次郎にならなくても良いのではないか?

 

 ふと、そんな考えがよぎる。

 

 裕次郎を超えるのだから、裕次郎になるわけではあるまい?

 

 気づけば伊良子は太刀を抜き、蓉の心臓に刀の切っ先を当てていた。

 そのままズブリ、と心臓を貫く。

 一瞬の早業によって、蓉は苦しむ間もなく絶命。

 

 血が噴き出すその場から離れ、伊良子は家から出て行く。

 すでに外には誰にもおらず、周辺で聞き耳を立てているものもおらぬ。

 

 裕次郎、お前を超えるぞ。

 虎眼流の跡目を継いで、天に昇る。

 

 伊良子の足取りは重く、強く強く前に進むのだった。

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