時は少し遡る。
てっきり跡目に選ばれたか何かだと思っていたが、予想が外れたことに思考に耽る伊良子である。
(昆嶽神社……何ゆえかく場所へ……)
大事な話であるならば屋敷の方へいくはずだが……と思っていたが、それも階段を上りきったことで考えが吹き飛ぶ。
境内では虎眼流の高弟たちが脇に控える形で揃っていた。伊良子と藤木が現れると、一斉にそちらに向いた。
さらに、虎眼は具足を身に付けているではないか。南蛮胴に手甲足甲、兜と、立派なものである。さらに腰には大小を差し、これから戦にでも出るのかと思わんばかりの雰囲気であった。
盃に満たされた酒を飲む虎眼を見つつ、伊良子は目を伏せて膝を突く。
「伊良子清玄。ただ今
ここで伊良子は気づいた。
(……口元が閉じている……)
虎眼の口元が閉じ、目はハッキリとしている。曖昧な状態などではない、精神の平衡が整っている状態だ。
何を言われるのか、と伊良子が考える前に虎眼が口を開いた。
「伊良子清玄」
朗々と響く声が告げる。
「本日、この場にて。その方に流儀の秘奥を伝授いたす」
その言葉は、伊良子の目を潤ませ頬を紅潮させた。あまりの感激と興奮が、表情に表れてしまったのだ。
(ひ、秘剣『流れ星』!)
伊良子とて虎眼流。その名は聞き及んでいる。というか裕次郎が度々口にしては虎眼や牛股に折檻を受けている。軽はずみに秘奥のことまで口にされたらたまったものではないので理解できる。
それはそれとして。
秘剣『流れ星』。
道場稽古で使用を禁じられている『流れ』を平気で使用するあの裕次郎ですら、その技を人前で見せることはない。
やろうとして牛股に本気で止められたので、その姿は知らぬ。
だが、その偉大さは聞いていた。ここ昆嶽神社で虎眼が身に付けた秘剣。その威力たるや、罪人の首を数人まとめて両断しながらも胴の上に残したままだと。
虎眼流の秘奥、それを伊良子に授けるというのだ。
(やはり己が跡目なのだ! ついにくれるのか、三重と流儀の秘奥! 裕次郎が通った道を、己が通ることを許されたのだ!)
あまりの感激と感動に言葉が詰まった伊良子であったが、すぐに気を取り戻す。虎眼の言葉に、何も返答できていなかった自分がいたのだ。
「ぁ、ありがたき幸せ」
少しどもってしまったが、それくらいならばまだ大丈夫であると伊良子は考える。
だがここからは一つの間違いも犯せない、虎眼の機嫌一つ、評価一つで伝授は取りやめになるかもしれないからだ。
慌てて平伏した伊良子に、牛股が続いて言った。
「さすればまずこの権左衛門と手を合わせ、業前をお見せした後」
「承知」
さらに伊良子は内心ほくそ笑んだ。権左衛門は確かに強い、あの裕次郎と打ち合える数少ない剣士だ。
だが速さでは伊良子の方が勝る。見事な業前を師に見せる良い機である、と思ったのだ。
上着を脱ぎ笠を置き、牛股と伊良子は対峙する。
互いに木剣一つと小太刀を腰に差した状態。そこで互いに木剣をカッと打ち合った。
それが開始の合図となる。
両者の間合いは遠間。常人の剣士であるならば一歩大きく踏み込まねば相手に刃を届かせられぬだろう。
普通ならば、の話だが……二人は虎眼流。ここにいるのは高弟たち、道場ではなく秘剣伝授の儀式、その手合わせ。
『流れ』を始めとした虎眼流の技を使える。
そして、この間合いは流れの範囲内であった。
伊良子はまさに流れのために太刀を抱えた構えを取り、牛股は左手を峰に添えた突きの構え。
最速で振るために、伊良子は前に出した左足を猫足立ちに。
ここから膝、足首の脱力と落下による運動を腰の回転に変換し、『流れ』を放つ。
牛股は強い、だが伊良子よりも遅いのだ。威力はあれども、それでは先に殺される。
それが伊良子の結論である。
(しかと見るがよい。虎眼流の跡目は裕次郎ではなく、この清玄をおいて他にないと!)
この一撃で虎眼に認めさせ、堂々と虎眼流の跡目となる。
そして、裕次郎を超えるのだ。
牛股の左手がぴくりと動いた。
瞬間。
伊良子と牛股が同時に動く。予想通り牛股は最速最短の突き。しかし、機を捉えたのは伊良子。
足首と膝の脱力落下に加え、左足爪先をそのままに。地面との設置面積を減らした状態で回転すする。
軸足回転と腰回転の二つが合わさり、伊良子の木剣は牛股のそれよりも半呼吸も先に牛股の左目直前の寸止めとなった。
明らかな勝負あり。
(勝負あり!)
だから伊良子も油断したのだろう。
勝敗など決してない。
牛股の木剣の先が、伊良子の左肩口に突き刺さる。
ずむ、と肉に食い込む木剣の切っ先。そこから発生する激痛に、伊良子は顔を青くし、木剣を右手から取りこぼしてしまった。
肩口を押さえ、蹲る伊良子が呻き声のように言った。
「牛股どの……それがしの剣が先……」
同門の試合では、止めるのが作法であるのだ。
「清玄どの!」
牛股が伊良子に駆け寄ると、伊良子は脂汗を流しながら必死に答える。
「大事ない」
ズン。
牛股の追い打ちが、伊良子の背肉で爆ぜた。
木剣とはいえ、その切っ先を牛股の体重を、いや、青年男性どころか大人の女性が乗せて本気で突き刺せば、大の男が昏倒するほどの威力となる。
下手すれば、死ぬ。
そんな一撃を、同門の試合で牛股はやったのだ。
あまりの激痛と背中から全身に掛けて走る稲妻のような痺れに、伊良子は苦しむ。もはや返答すらまともにできない。
どういうつもりだ、と問い質すことすら不可能な状態。
その心中察してか、牛股が言い放つ。
「先生は止めよと申しておらぬ」
な……??
確かに虎眼は止めよとは言ってない。言ってないが、明らかに伊良子の勝利であった。
なのに、何故? と虎眼を見れば、口を閉じてジッと伊良子と牛股の試合を見るのみ。
何も言わないのだ。
(み、妙ぞ! こはいかなること?)
わけがわからない。まるで殺し合いをせよと言われてるようなものではないか。
その意図、その目的がまるで検討着かぬ。何のためにこんなことを?
「せんせい」
なんとか口を開いた伊良子であるが、虎眼は無慈悲である。
「次。藤木」
は? と伊良子が声を上げることすらできないまま、後ろで誰かが立ち上がる。
腰の太刀を高弟に預け、さらに差し出された木剣を持つ。
振り返ったそこに、藤木源之助が立っていた。
伊良子清玄は、藤木源之助の笑みを見た。