雪が積もる虎眼流の聖地にて、源之助が静かに歩み寄ってくる。
片手に木刀を携えたその姿に、本気だと悟る伊良子。
(正気か!? この深手で立ち会いなどやれるものか!)
伊良子は冷や汗を流し、背中の激痛に耐えながら源之助を見る。
だが、止まる様子も冗談であるはずもない。
源之助はそういう冗談を言わぬ男である。
(よ、寄るなっ)
激痛で言葉すら出ぬ中で、必死に伊良子は源之助に拒絶の念を送るも意味なし。
「やめにいたすか」
その場に声が響き渡った。
伊良子が振り返れば、様子の変わらぬ虎眼が威厳ありながらも静かに告げる。
兜の下の目つきを良く確認することはできない。しかし、声色から失望している……とは思われる。
「秘奥の伝授、やめにいたすか。清玄」
(やめ……)
虎眼の言葉に、伊良子はすぐに頭を回転させる。ここでやめれば、跡目に着くことなどできない。断ること、やめること、そんな選択肢はない。
伊良子がすぐに平伏しようとしたところ、虎眼はさらに一息吐いてから言った。
「裕次郎であるならば、やめるどころか儂に殴りかかってくるだろう喃。ふざけるな親父、とな」
「この清玄、裕次郎殿を兄弟子として尊敬しております。裕次郎殿がすぐにそうなさることは、想像に難くございません」
反射だった。
ほぼ、無意識の反射。清玄は平伏し、頭を下げたまま虎眼の言葉に賛同する。
周りからザワッ……と空気が変わる感触を覚えた。伊良子自身も、まさか自分がすぐにこういうとは思わなかったのだ。
何を言おうとしたのか忘れてしまいそうだったが、一呼吸おいてから口を開く。
口を回す。
「牛股どのとの立ち会いにて木剣を止め、深くを負うたは清玄の未熟。先生の
その後の言葉は、裕次郎へ向けた言葉に比べると、どこか演技がましく堅い。
だが、口の回し方としては良いはずだ。
「やめにいたすのだな?」
「先生……この日のため、清玄は精進して参りました」
中止を拒み、伊良子は体に気合いを入れる。立ち上がろうとぐっ、と膝に力を入れれば、背中の傷より血がさらに溢れ出るではないか。
激痛と流血で吐き気すら覚えるが、伊良子は丹田に活を入れる。
「何のこれしき」
痛みなど大したことはない。ここで出世の機会を永遠に失う、それこそ避けねばならない。
虎眼流の秘伝を貰い受けることは、伊良子がのし上がるためになくてはならぬもの。
三重を貰い屋敷を貰い、藩士となって城勤め。虎眼流をしゃぶり尽くした上で、そいつを踏み台にして、天下の伊良子清玄となる!
――そして、裕次郎の背中に追いつき、隣に並び、追い抜くのだ。
この徳川の天下の世で、あの男よりも自由に楽しく、幸せに生きるために――。
野心である。
立ち上がった伊良子の顔に痛みによる苦痛はない、それは野心がモルヒネのように激痛を麻痺させているからである。
そして……伊良子の脳裏に裕次郎が浮かぶ。
あの男ならば、これしきの傷など笑って流して立ち上がり、虎眼に斬りかかる。
そして、殺し殺されるような戦いをしたのに、互いに血が繋がらぬ親子としての絆を得ている。
殺意も敵意も、敬意も誠意も、ない交ぜにして清濁併せ呑み、場を賑やかすあの男を越えるのだ。
野心がモルヒネのように激痛を麻痺させているのならば。
憧憬がアドレナリンのように身体機能と反射神経を上昇させている。
間違いなく今の伊良子は、先ほど牛股と打ち合った時よりも数段強くなっていた。
源之助と伊良子が、木刀を手に向き合う。
互いに木剣を構え、気を整え、相手を見据えるのだ。
「藤木」
目の据わった伊良子が源之助に言った。
「あれ以来だな」
源之助の表情は変わらない。
静かに木剣を持つ。
源之助が木剣を持つ手は、二年前に伊良子清玄の骨打と指搦みによる折られ、それにより敗れた。
それ以来両名は剣を交えていない。
させなかったのは師範牛股である。やれば稽古ではすまない。
とはいえ、裕次郎とともいる藤木源之助はそこまでしないが、裕次郎がいない源之助はそこまでする。源之助とは、どこまでいってもそういう男である。
無論やったらあとで裕次郎に怒られて嫌われるので、源之助としてはそこだけは嫌なのだ。
どちらかといえば、稽古で済まないようなことをしているのは裕次郎の方である。
入門当初の伊良子に対して、苛烈なまでに打ち込むこと数度。牛股のゲンコツによって裕次郎は伊良子との稽古を禁止にされていた。
させまいとしたのは師範牛股なのだが、それを無視するのが裕次郎である。
稽古の範疇を越えるような阿呆の猛稽古で伊達にしようとする。裕次郎とはそういう男……いや、それ以上の男であり、「お前が負けて伊達になったら化粧して女装させて市中引き回しの刑な!」とか言い出して牛股にゲンコツをくらっている。
裕次郎とは、そういう意味ではそういう男である。
動く。
両者、動く。
初手、伊良子。
上段の構えより左片手による左薙ぎ。狙うは正面に剣を構える源之助の右手。砕いた指をさらに砕かんとする一撃。
源之助は冷静に左手を離し、右手を外回転させる。これにより伊良子の木剣は右手と左手の僅かな隙間を通り過ぎる。さらに源之助は手首を回旋させて素早く右薙ぎ一閃。
伊良子は首を傾けるだけでそれを躱し、すぐに飛びかかりからの振り下ろし。源之助は左切り上げ。
互いの剣が、伊良子の木剣が源之助の額を、源之助の木剣が伊良子の着物を切り裂く。
さらに一歩踏み込む伊良子、振り下ろした剣が止まり、左の掌にて押されるような突きが放たれる。近間にて、源之助は柄尻による攻撃を伊良子のこめかみへと。
両者回避体勢。体を仰け反らせ、無理矢理剣を避ける。
しかして源之助の顎を掠め皮を削ぎ、伊良子のこめかみを擦り肌を傷つける。
最後に二人が振るった木剣は当たることなく空を切り、互いの間合いが離れた。
息を呑むような攻防。わずか数秒間の攻防だった。
この数秒間であっても、互いの木剣はぶつかり合わない。
木剣であっても太刀をぶつけ合わないのが虎眼流。真剣はたやすく折れるという理由による。
互角に見えた双竜の攻防であったが、この時点で状況は変わっていく。
源之助の額の出血がまもなく目に到達する。
伊良子のこめかみの流血が左目に到達する。
源之助の顎の出血は影響なく、伊良子の腹部の疼痛は麻痺状態によって気にするほどでもない。
伊良子の片目が塞がれようと、源之助は両目が塞がれる。
その隙を逃す伊良子ではない。
刻一刻と、天秤が伊良子の方へと傾く。
(藤木……己と裕次郎がいなければ、三重くらいは貰えたろうに。あとは待つのみ……お前の両目が塞がる時を)
ほくそ笑む伊良子であったが、このとき注視すべき箇所は源之助の顔でない。
伊良子の注意が顔面に集中している隙に、源之助は木剣の握りを変化させていた。
虎の握り。
つ、と源之助の鼻から血が流れる。源之助の脳裏に蘇るものは、この握りの骨子を会得した日の屈辱と悔恨であろうか。それとも喪失感であろうか?
いや、これは――。
そのとき、虎眼の目が鋭くなり、右手がぴくりと動いた。
虎眼の目が見抜いていた。
あの握りは真似事ではない。裕次郎のものでもなく虎眼のものでもなく。
骨子を掴んだ――その凄みを。
結末は決まった。
とうとう源之助の両目に血が滴った。
(お前は這――)
すこん。
伊良子の思考の隙間を狙ったかのように、伊良子が一歩も動けず剣を振ることもできないとき。
片目に血が来た。源之助の両目が塞がった。機会が来た。
様々な要因に対する思考の過り。
源之助は見事に、伊良子の顎を木剣にて掠めるように打ち抜き、伊良子の意識が喪失した。
後ろに倒れるようと伊良子の体が傾く。白目を剥き、背中から倒れる。
はずであった。
「おっと」
その背を、裕次郎が片手で受け止めた。
飄々としつつ凜然とした裕次郎が、その場にいる全員の顔を見据えて、話す。
「親父。呼ばれる前に出てきたが……いいか?」
虎眼は何も答えぬままであった。
源之助は裕次郎の顔を見る。いつもと同じだ。いつもの裕次郎だ。
代わらぬ弟だ。
「伊良子、寝たふりは止めなよ」
裕次郎が伊良子に話し掛けると、伊良子は白目を剥いたまま源之助に躍りかかった。ほぼ無意識化の反射行動である。奇襲による不意打ちであった。
が、その背中を裕次郎が掴み、止めた。
「そこまでだ」
裕次郎が静かに告げる。
「そこまでだ、伊良子」
伊良子の動きが止まる。裕次郎が手を離すと、伊良子から一歩引いた。
「終わりだよ」
伊良子は動かぬままだ。その顔は、源之助しか見えない。
だからこそ、源之助は見たのだ。伊良子の虚無の顔を、虚ろのような目を。
「剣を取れ」
鞘から剣が抜き放たれる音で、伊良子は完全に覚醒して振り返った。
裕次郎が、刀を抜いている。
しかも、刃引きしていない真剣だ。これは、どういうことだ、と伊良子はさらに混乱した。
「オレは止めたはずだ。三度も止めた。だが、お前は女に手を出し、いくさんに手を出し、武家の子女にまで手を出した」
恐怖である。伊良子の目は恐怖で瞳孔が大きく見開かれ、冷たい汗が止めどなくながれ続ける。
「仏の顔も、三度まで」
目が細まった。
「秘剣が欲しけりゃくれてやる」
裕次郎の目が、ただ伊良子の目を見つめるように細くなった。
「剣を取れ」
ちなみにスマホは当時、必死にお金を貯めて買ったiPhone14ProMaxです。
泣きたい。