シグルってたまるか   作:風袮悠介

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第十五景・産声 因果成立譚

 それは少し話を遡る。

 裕次郎が三重の想いを断ち切り、三重は裕次郎への想いを整理したときよりも、もう少し。

 数時間前の事。

 

 

 

 

 掛川(かけがわ)城下(じょうか)岩本(いわもと)虎眼屋敷(こがんやしき)の前。

 雪降る夜、雪と雪が擦れて落ちる音が聞こえる中で、三重は屋敷の前に立っていた。

 中間の茂助がその後ろで提灯(ちょうちん)を持ち、三重の心配をしている。

 

「三重さま。お体に障りまする」

 

 茂助が三重に声を掛ける。

 

「この上は屋内(なか)でお待ちになられては……」

 

 茂助の心配も当然である。雪が降る夜というには酷く冷える。凍死者が現れても不思議に思わぬ、極寒の死の世界も同然。

 着込んでいるとはいえ、細身小柄の三重の体に雪を含んだ夜風は酷く冷えるものだ。

 これで風邪を引いてしまえば命に関わろう。

 

 だが、振り返った三重の顔には、凍えた様子など一つもなかった。

 それどころか頬を紅潮させ、ほんの(わず)かに昂ぶらせている。

 

(さむ)うない」

 

 はっきりと告げた三重の顔を見て、茂助は驚く。はっきりと寒くないことがわかるほどに、三重の体に凍えた様子などなく、震えもないのだ。

 再び三重は秋葉山の方へと振り返り、そこにある神社へと目を向けた。

 

「秋葉山じゃ。お父上は今、秋葉山で裕次郎さまと共にある。きっと、流儀の秘奥以外のなにか、大切なものを伝授なされている。……虎眼流の跡目となる方に」

 

 三重は慶びのあまり、微笑んでいた。

 茂助はその顔を見て、思う。

 

 三重さまが笑うていなさる。

 ご苦労ばかりの中、あの裕次郎と出会うまで笑みを忘れていた三重さまが……こうまで笑顔を取り戻されるとは。

 

 三重の苦労はいくつもある。

 

 三重が七つの時、屋敷に住みついた燕を可愛がっていた。母屋の軒先で巣を作り、卵を産み、赤ん坊を育てる姿を見ていた。

 しかし、可愛がっていた燕の親子が父、虎眼に葬られた。

 ――後にこのことを裕次郎に話すと「可哀想だなぁ。うん、屋敷のあちこちに鳥の糞をばらまかれるのは迷惑だけどなぁ……だとしても迷惑だなぁ……」と同情してくれた。なんか同情の方向性が違う気がするが。

 

 十一の時、座敷牢に送られていた実母が首を吊って自害した。それを三重は目撃してしまっていた。

 虎眼はそれを見て、たった一言。

 

「たわけ」

 

 とだけぼやき、その場を去った。死んだ母の心配もせずそれを目撃した娘の心に寄り添うことすらしない。呆然と、首を吊った母を見上げることしかできなかった。

 ――これに関しては裕次郎は激怒し、虎眼に殴り掛かって返り討ちにあった。まだまだ少年の相が抜けておらぬころなので、仕方が無いとは思う。

 仕方がないが、それでも、悲しんだ三重の心に寄り添い父への怒りや不満を代わりに代弁して殴ってくれた裕次郎に、三重は感謝していた。

 

 

 その日々が、三重の胸中に去来する。

 思い出すだけで、三重の心身は暖かくなるのだ。

 だからこそ、それを見た茂助がまるで天女の笑みであり、三重の温もりで雪が融けているかのような錯覚をするのだ。

 

(春じゃ。じきに春じゃ)

 

 三重は信じて止まなかった。きっと、裕次郎はここに帰ってくる。ともに居てくれる。

 

 あの屈辱の日。ただ一人、虎眼の命を聞いて怒髪天を突いて三重の誇りを守った者。

 伊良子もまた背いてはくれたが、所詮は口八丁ばかりで股ぐらに入ってこようとした獣モドキとしか思えない。

 

 真に三重の名誉と誇りを守り、察して寄り添い、思いを遂げてくれたものは裕次郎のみであった。

 

(あの方は傀儡(くぐつ)どもとは違う。血が通い、爽やかで清らかな風を纏うまことの殿御)

 

 稽古中の真剣な裕次郎の顔が、三重の脳裏に浮かんだ。

 

 しかし、同時の思い出す言葉もある。

 

『三重ちゃん。オレは確かに虎眼の親父の命令に背くし、嫌なら役人の言葉も無視する。そうしなきゃ、大切なもんを守れないときがあるからね。

 だけど、普通の人はそれが難しいんだ』

 

 あれは何時だったか?

 ともに町へ繰り出し悪漢どもを制圧したあとで、茶屋で休んでいたときであったか。

 

『やれと言われればやる、そうだと言われればそうなる。何時の時代も、上司から部下へ、上役から下への命令には理不尽が伴う。オレのはただの社会不適合者か我が儘なバカのどっちかだよ。抗わないといけないから抗うだけだ。でも、それをいたずらに続けると周囲に軋轢を生む。

 それをへいちゃらとできるのは、オレがいろんな意味で強いからだけだよ。

 普通の人にそれを求めちゃいけない。

 たとえ白を黒と言われて黒にされようとしてる時でも、この時代の男は涙を呑んで受け入れないとダメなときがあるんだ。どうしても呑めないときがあるから、根回しや情報の裏取り、口八丁手八丁で切り抜けるんだ。

 ……ある意味ではそっちの方が賢いやり方だよ。未来に遺恨を残さないからね』

『ですが裕次郎さまはそうなさっているのでは?』

『あれはオレがどうなってもいいからやってるし、どうなろうとどうにでもできる理不尽を持っているからだけだよ』

 

 そして、市井の、町行く人々を見て寂しそうに呟いた。

 

『虎のような獣なら人里でも暮らせようさ。しかし、鵺のような(あやかし)は人の中では生きられんのだわ。人の世で、理不尽にて自由を振る舞えるものは、人とは言えん』

 

 あれはどういう意味だったのだろうか。今でも三重にはわからない。

 わからないけども、少なくとも裕次郎はバケモノではないし、血の通うた殿御である。

 三重にとって、それが全てであった。

 

 そうしてどれだけ待っただろう。闇夜の中、降ってくる雪を振り払い駆けて戻ってくる男がいた。

 

 愛しい殿御が。

 

 三重の心に、花開いたような喜びがわき上がった。

 

 別れの挨拶は、もう目の前である。

 

 

 

 

 

 時系列は、裕次郎が昆嶽神社を去って行った後へと移る。

 

 気絶した伊良子は、高弟、虎子の一人である興津三十郎(おきつさんじゅうろう)によって薬物を投与された。それは罌粟の実で作った麻薬の一種。

 痛覚を麻痺させ、意識を朦朧とさせる。

 

 いくはそこで灼熱に焼けた焼き鏝を持たされ、伊良子の股ぐらを焼けと脅されていた。

 虎子、山崎九郎右衛門(やまざきくろうえもん)に脅されたいくは、両足を持たれて逆さまになっている伊良子を前に立っていた。

 

 ケジメとして悪根を焼けと強要されている。

 

 いくは懸命に逆らうものの、清玄の命を絶つと言われれば、いくではもう逆らえない。

 口を手ぬぐいを噛まされて何も話せないいくは、叫ぼうとしても言葉にならなかった。

 

(こんな、こんなことに……裕次郎は)

 

 裕次郎の心配と心労、吐露した言葉がいくに突き刺さる。全ての因果が、いくに襲いかかる羽目になったのだ。

 忠告を守っていれば、こうならなかっただろう。

 

 後悔先に立たず。

 

 だから、いくはせめて、と。

 己の乳房に焼き鏝を埋め、清玄をかばった。

 これ以上、己の愚かな選択の結果で傷つく人を、一人でも減らさねばならぬと。

 

 その臭いで清玄は目覚め、外に逃げ出して転がる。障子を破り、なんとか脱出に成功した。

 

 

 

 そして、虎眼と相対する羽目となる。

 

 

 

 

 気づいたときには眼前に怒りの虎眼が立ち、周囲には目隠しをした高弟と藤木源之助、目隠しをせずに立会人となっている牛股権左衛門の姿。

 

 伊良子の意識が、完全に覚醒した。

 

(こ、こは!!!!!)

 

 後方からはいくの叫び。

 前方には憤怒の虎眼。

 

 雪降る夜で、伊良子は恐怖のあまり全身を強張らせた。

 

(まさか、裕次郎の言う通りの!!)

 

 視線は自身が持つ得物に向けられる。いつの間にか握らされていたそれは、刃引きされた真剣や木剣どころかただの竹光。

 真剣を手にする虎眼を前にして、あり得ないほどに不利な状況だ。

 

(意識が定かではない……薬物か!!!!!)

 

 口元の不快感によって、どうやら伊良子は自身が呑まされていた薬物を吐き出したことを悟る。

 手足の先の感覚がおぼつかず、得物は頼りない。

 

 詰みである。

 

(そ、その構えは!?)

 

 大きく見開かれた目と、大きく見開いた瞳孔が、伊良子の眼力がこれでもかと虎眼の姿を映す。

 それは、自身を昏倒させた裕次郎の構えと全く同じもの。

 しかし、どこか違う。裕次郎のそれよりも、どこか。

 

(裕次郎のときは、確か、確か、縦であった)

 

 虚ろな記憶を頼りに、伊良子は次の攻撃を予測する。

 見えたわけではないが、痛みと体の記憶が雄弁に教えてくれる。あの構えから放たれたのは、縦の軌道の斬撃。

 いったいどういう技なのかはわからなかったが、次の攻撃の軌道がわかるなら躱しようがある。

 躱して、逃げる。

 そこで傷を癒やし、力を蓄え、己にこんなことをした奴らに復讐してやるっ!!

 

(縦、縦、縦!!!!!)

 

 伊良子は必死に脳内で、次の攻撃を躱せるよう、あの記憶を体に叩き込む。

 あとは、機を図るのみ。いくを寝取ったことの怒りで己にこんなことをしてるだろう虎眼にも、必ずこの報いを受けさせる!!!!!

 

 伊良子はジッと虎眼の動きを注視していた。ここで背を向けて逃げれば斬られる。

 一太刀。一太刀を躱すのだ。

 

 虎眼の体が動いた。咄嗟に頭を傾け――。

 

 

 

 伊良子の右の視界が消え、左の目に激痛が起こった。

 

 

 

 気づいたときには、竹光は両断されてしまっていたのだ。

 技を放ち終え、その場の一回転跳躍から着地した虎眼が、伊良子に背を向けている。

 伊良子はそこを追撃できなかった。体中から力が抜け、手から竹光がこぼれ落ちた。

 

 いくが何かを叫んでいる。伊良子の両目には、何も見えぬ。

 いや、左目はギリギリで何かがいるのはわかるが、細かいところが何も見えない。まるで濃霧に包まれたかのような――。

 

 いくが駆けつけたとき、伊良子の右目は完全失明、左目瞼を深く切り裂かれた、痛々しい姿をさらしていた。

 

 伊良子が必死にいくの姿を呼び、何も見えない視界に絶望し叫ぶ。

 

 

 

 く~ろかみのいろおとこさらさら。

 "いく"とゆぶねつ~こたら。

 あーかいまがくしさいた。

 

 

 

 いくを巻き込むように倒れた伊良子は、痛みと失われた視界に絶望して泣き叫ぶ。

 必死に呼びかけるいくの声すら聞こえないまま、伊良子はずっと叫ぶのだ。

 

 全ては終わった。

 

 牛股の号令により目隠を外した高弟たちは、曖昧となった虎眼を背負い、その場を去る。

 その背中に怨嗟の声を叩きつけたいくに、牛股は何かを告げて背を向けた。

 最後に、源之介はかつての天才剣士の終焉を一瞥し、皆と共に去った。

 

 やむことのない伊良子清玄の慟哭は天才剣士の終焉を、本当に示していたのか?

 いや、これは産声……。

 鵺とは別の新たなる怪物の産声……。

 

 雪道を歩く虎子たちの中で、牛股は内心撫で下ろしていた。

 岩本家に不和をもたらすであろう伊良子には始末をつけ、裕次郎は免許皆伝と共に岩本虎眼道場から去り、新たな道場の設立に向けて動く。岩本家を継ぐ、つまりは跡目になるつもりはないと公言しているのだ。

 これでいらぬ跡目争いは消えた。牛股としては、最高の終わりだったと言えるだろう。

 

 もともと牛股としては、弟弟子にして弟分であった藤木源之助こそが、虎眼流の跡目に相応しいと、虎眼の前で言っていたのだから。

 

 自らが推していた高弟が、跡目となる。牛股にとって源之助は裕次郎が絡まなければ、いや、絡んだとしても実直な剣士である。

 裕次郎との別れに自分でどうケリを付けたのかはわからないが、前よりも晴れ晴れと大人の、男の顔をしていた。別れのときが、源之助を成長させたのだろうと牛股は考えている。

 そして、伊良子に対して放ったあの虎の握りと一閃は、美事の一言。

 

 安心して虎眼流の跡目として推し、それを支えることができる。

 

「藤木……」

 

 だからだろう。普段の牛股からは想像もできないほどに口が軽くなってしまったのは。

 

「これで、おぬしが虎眼流の跡目……」

 

 声を掛けた藤木の顔を見て、牛股は凍りついた。

 藤木の顔に喜びなど一つもない。浮かれた様子など微塵もない。

 

 ただただ、深い悲しみと絶望に染まった、別の誰かの顔があった。

 

(誰じゃ!?)

 

 思わず牛股は顔を逸らした。

 弟分の顔が別人に見えたのは、夜も明けきらぬ薄暗さゆえ。

 権左衛門は自分にそう言い聞かせた。

 

「ふ、藤木……裕次郎とは、せめて別れの挨拶は……」

「済ませてありまする」

 

 冷たい声による返事。牛股の耳には、その返答もまた別人の声に聞こえてしまっていた。

 恐怖。命のやりとりの場とは違う恐怖が、牛股の口をさらに軽くしてしまった。

 

「だが、今からでも走って帰れば……ゆ、裕次郎の見送りくらいは、できるのではないか……?」

 

 弟分のからの返事はない。牛股は再び、何を言われるのか、誰の声で言われるのかと震えている。

 少しして、

 

「よいのですか」

 

 聞こえてきたのは、ちゃんと源之助の声であった。

 胸を撫で下ろす。やはりあれは薄暗さゆえのものであった。先ほどの声も、ただの聞き間違いであったのだろう。牛股は安心した。

 

 安心することにした。

 

「か、構わぬ……あとは任せよ」

「承知。御免!」

 

 源之助は走り出し、列を飛び出した。

 それを呼び止めようとした別の虎子を止め、牛股はその背を見るしかできなかった。

 

 

 

 

 そして、走って戻った源之助が見たのは、裕次郎の背に抱きつく三重の姿であった。

 声を掛けようとして、思わず止まる。息を止めて、その場を見るしかなかった。

 

 二人は想い合っておる。

 

 源之助といえど、わかった。

 

 そして、裕次郎はその想いを断ち切った。

 

 兄として、弟の行動の意味がわかった。

 

 いつもの裕次郎であるならば、あそこでは振り返って三重を慰めていただろう。笑えるようにおどけていただろう。それを全くせぬと言うことは、それだけ本気なのだ。

 本気で三重への想いと、三重からの想いを振り払ったのだ。

 

 誰のために?

 己のためだ。

 

 裕次郎は、お家の争いを止めるために、己のために、三重への想いを振り払ったのだ。

 

「ゆ」

 

 声を掛けようとして、手を伸ばそうとして止まる。

 三重が離れ、裕次郎に言ったのだ。

 

「今まで道場での働き、ご苦労様でした。新たな道場で虎眼流を盛り立てることを期待します」

「……承知」

 

 二人の間で何やら結着がついたことで、呼び方も関係性も変わる。

 裕次郎は振り向かず、屋敷に戻っていった。荷物を取り、この道場を去るためにだ。

 

 思わず源之助は岩本家虎眼屋敷を取り巻く壁に隠れ、二人から姿を見せぬようにした。

 

 見送るなど、できなかった。

 心が乱れすぎて、できないのだ。

 

「己が」

 

 源之助が俯く。

 

「己が弱いから、裕次郎は己のために、三重さまへの想いを」

 

 目から涙が零れた。

 

「三重さまへの想いを断ち切り、己のために……裕次郎は……!!」

 

 壁を背にして膝から力抜け落ちる。その場にへたり込み、源之助は泣いた。

 

 これほど情けないことはない。己がもっと強ければ、自然と虎眼流跡目に選ばれていたのだ。

 裕次郎が跡目も三重も何もかもを諦めるようなことにならなかったのだ。

 虎眼流の跡目は、兄弟子牛股の言葉通り己となるだろう。

 

 そこに誇りはあるのか?

 ない。

 何もかも、弟のお膳立てだ。

 

「己が弱いから……!!」

 

 拳を握りしめ、源之助は後悔するしかなかった。

 

 

 

 

 この日生まれ出でた怪物は二匹。

 

 鵺に導かれるように、怪物たちは進む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 いや、三……。




かけり足でしたが、これで単行本三巻分のお話は終わりです。
……完結までに何年かかんのこれ……??

次回は、四巻の時系列からスタートです。
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