月雪ミヤコの恋愛録 作:一等星の夜
「納得のいく説明を求めます」
「いいえ、それはこちらのセリフですよ、トキ」
朝っぱらから、ばちばちと火花を散らして視線をぶつけ合うふたりに、私はやれやれと言わんばかりにため息をついた。
どれだけ仲が良かろうと、互いの意見が割れたり、衝突しあうことはまあ、生きていれば避けられないことだろう。
ケンカなら思う存分やればいいとは思う反面、よそでやってくれとも思う。
執務室の自分のデスクにつき、ホットの缶コーヒーをひと口啜って私は、もう一度ため息をついた。
「なぜヒマリ部長がここにいるのか。なぜ先生と同じベッドで眠っていたのか。これは由々しき事態です」
私の左斜め前の席から、不満げな声が聞こえる。
「私にも説明してもらえますか? なぜ先生と頬がくっつくほどの距離で写真を撮っていたのか。なぜそれが先生の待受に設定されているのか」
私の右斜め前の席から、極めて冷静ではあるが微かに怒気を含んだ声が聞こえる。
私を起こしに来たトキに、私とヒマリが同じベッドで眠っていたところを目撃されて以来、ずっとこの調子だ。
こんな空気の中、朝食を買いに行くこともできずに私の腹はきゅうきゅうと鳴いている。
月雪ミヤコが出て行ってから2日目の朝。早くも修羅場というやつに出くわした。
まあ、ケンカというほどのものではないのだろうが、このふたりが言い争っているところを見たのは初めてなので、少なからず気がかりではある。
「──愛です」
「んなっ!?」
物騒な言葉が聞こえた。
一筋の汗が額から流れ落ちる。
缶コーヒーを呷りつつ、私は眉を寄せて両目を閉じた。
「大変心苦しいのですが、ヒマリ部長には正直に話しておくべきでしょう。──私と先生は愛し合っているのです!」
「……」
ちらと片目を開けてそちらの様子を窺うと、ふんすと胸を張っているトキと、驚きのあまり口を開いて固まっているヒマリの姿が映った。
「ちょっと? トキちゃん?」
「その証拠に、私の携帯の待受も先生とのツーショットです。ぶい」
「……」
左手で約束された勝利のVサインを作って、右手に持った携帯の画面をヒマリへと突きつけるトキ。
ヒマリは小刻みに身体を震わせながら、もはや声だけではなく意識さえも失いかけている。
「勝ちました、ぴーすぴーす」
ポケットの中へと携帯をしまったトキは、今度は私の方を向いて両手でダブルピースを向けてくる。
なにに勝ったのかはわからないが、とにかく勝ったらしい。
まあひとまず決着がついたのなら良しとしよう。
私は缶コーヒーの残りを呷った。
「……そ、そうですか。ですがトキ……。私もあなたに言うべきことがあります」
いつの間に回復したのか、ヒマリは震える声で続けた。
「私も先生と愛し合っています!」
……!
なにを言い出すんだこの子まで。
危うくコーヒーをふき出すところだった。
「トキ、あなたはファーストキスもまだでしょう。ええ、もちろん私は済ませてありますとも」
「……」
驚きのあまり、トキは言葉を失っている。
もちろん私も言葉が出てこない。
ヒマリのファーストキスを奪った者がこのキヴォトスにいるということだ。
誰だそいつは。さすがに許せないぞ。
「昨夜、先生と」
なるほど、先生という奴か。
そいつを見つけ次第大人のカードで──
「ちょっと!? ヒマリ!?」
なにそれ知らない。こわい。
「わ、私というものがありながら……う、浮気ですか……」
ギギギ……というような音が聞こえてきそうなほどゆっくりとこちらに顔を向けたトキの表情は、驚きと、怒りと動揺を織り交ぜたような、そんな表情だった。
いやそもそも、私はトキのモノではないし、トキも私のモノではない。
ていうかヒマリとキスをしたなんていう記憶はないし、もしかして私は寝ぼけて生徒に手を出してしまったということなのだろうか。
だとすれば、冗談では済まない。責任を取らなければならない。
「ごめんヒマリ、こんなこと言うのもどうかと思うけど、身に覚えがない」
放心しているトキを置いて、私はヒマリの側に近寄った。
「ええ、それはそうでしょう。なにせ先生が寝ている間に私からしたのです……か、ら……」
ふふんと慎ましやかな胸を張って得意げに答えたヒマリだが、その状況を思い出して恥ずかしくなったのか、それとも素直に白状してしまったことで私にバレてしまったのが恥ずかしいのか。
それともその両方か、あるいは別のなにかか。
ヒマリは俯いて、耳まで真っ赤に染め上げて、頭のてっぺんからは煙を出しそうな勢いだった。
「い、いえ……ですが、頬に触れただけですので……キスといっても……」
なんだ。ということはつまり、ヒマリは奪われたのではなく奪ったのか。
よかったー。危うく死んじゃうところだった。いや本当に。
「ああ、そうなんだ! いやいや、頬なら全然オッケーだよ! それ、ノーカンだよ!」
まあたしかに、頬とはいっても唇を触れさせたのであればそれはキスだと定義することができるだろうが、ファーストキスにはなり得ない、と思う。
私が思うにファーストキスというのは、唇と唇に限定される。
だからヒマリのしたことは家族や友達の間でする軽いスキンシップのようなもので、恥ずかしがる必要もなければ私に罪悪感を感じることもない。
「……はい? ノーカン?」
「うん。だって頬でしょ? ハイタッチの上位互換みたいなものだよ!」
たぶん、知らんけど。
「は、ハイタッチ……」
自分が寝ぼけて生徒に手を出すような最低な大人ではなかったことに安堵した。
しかしやけに晴れやかな気分で笑顔を振りまく私とは正反対で、ヒマリは俯いたままふるふると身体を震わせている。
前髪で影ができて表情を読み取れないのがなんとなく怖いのだが、まあ良しとしよう。
「ふふ……そうですか……。うふふ……」
ハイタッチ、あれが、なるほど、先生には、などとヒマリが呟いている言葉は断片的にしか聞こえてこないのだが、それがより一層恐ろしさを演出している。
本当に怖くなってきたので私はそっとヒマリから距離を取り、視線を逸らした。
そこでようやく、いつの間にか回復していたらしいトキが、じとりとした視線をこちらに向けていたことに気がついた。
「ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか?」
「え、なに……」
身構えた私を気にもとめず、トキはこほんと咳払いをして、大層真面目な顔つきで言葉を続けた。
「私は先生の恋人であるわけですが」
「ちがうよ?」
「〝キヴォトス1のお似合いカップル〟、〝早く結婚しろ〟、〝末永く爆発しろ〟などとキヴォトス中で騒がれている私たちですが」
「初耳なんだけど?」
トキは一体なにを言っているのだろうか。
理解できない私がおかしいのか、彼女は不思議そうにことりと首を傾げた。
「話の腰を折るのはやめてください」
どうやら私がおかしかったらしい。
眉を寄せて「真面目に聞いてください」と不満げにこぼしたトキにため息で応えて、続きを促した。
「仮に、先生の恋人である私が、先生以外の殿方と同じベッドで眠っているところを目撃したら、先生はどう思いますか?」
べつにどうも思わない──と言えるほどトキのことを軽視しているわけではないが、どう思えばいいのかわからない。
そもそも彼女は私の恋人ではないし、一体なんの話をしているのだろうか。
「あまつさえ、ファーストキスまで奪われたと。許せますか?」
……そりゃあもちろん、トキのファーストキスを奪うような輩がこのキヴォトスに存在するのだとしたら、それは到底許し難いことだ。
うん。それは許し難い。大人のカードを使うことも辞さないぞ。
「まあ、許せないね」
「そうでしょう。では、私の気持ちがわかりますね?」
「……?」
「……」
小首を傾げた私を、トキは「こいつマジか」とでも言いたげに目を細めてじとりと睨め付けている。
さらには、呆れたとでも言わんばかりに首をふるふると振って、これみよがしに大きなため息をついていた。
「先生」
「はい……」
大真面目なトーンで、切れ長の
「先生は鈍感系なのでこちらの心情を汲み取っていただくことがとても、すごく、かなり難しいのですが、それでも──だからこそ私は言葉にして伝えます」
「はい」
鈍感系……という言葉には少々納得がいかないが、とりあえず彼女の言葉の続きを待つことにした。
トキは両目を閉じて、すうと息を吸い込むと、小さくゆっくり吐き出して伏せていた瞳をこちらへ向けた。
「ヤキモチです」
「はい……、……え?」
「私は、先生が添い寝を許容するほどヒマリ部長と仲を深めていることに嫉妬しているのです」
「なるほど?」
添い寝を許容した覚えはないのだが、まあ、結果的にはそういうことなのだろう。
たしかに私は拒まなかった。
「ずるいです。私とももっと仲良くしてください」
「いやいや……。トキとも十分仲良いと思うけど」
「先生」
「はい」
「私と、〝仲良し〟、しましょう」
「ちょっと?」
(意味深)、みたいに聞こえる言い回しはやめてほしい。
「私とヒマリ部長、どちらが大切なのですか!」
「いやそんな、選べないよ」
「先生、私は一夫多妻制など認めるつもりはありません」
「そんなつもりは私にもないんだけど?」
ラチがあかない。
この話の落としどころは一体どこなのだろうか。
「うふふ。先生ならもちろん、この超良妻賢母系病弱美少女ハッカーの私を選ぶことでしょう」
いつの間にか回復していたヒマリが、慎ましやかな胸に手を当てて、どやや、とでも言わんばかりのドヤ顔を浮かべていた。
「お言葉ですがヒマリ部長、先生はこのパーフェクトメイドボディを有している私を選ぶかと」
トキは至って大真面目に、ヒマリをじっと見据えた。
ばちばちと火花が飛び散っている。ような気がする。
「そうは言いますが、私だって脚部には自信が──」
「私は尽くし型です。先生の望むことならなんでも──」
なにやらふたりで言い合いを始めたので、私は執務を始めるべく、PCを立ち上げた。
シャーレ公式ホームページを開くと、以前私が作った〝シャーレお悩み相談所〟のメールボックスに何通かお便りが届いている。
ええと、まずは、アビドス高等学校の『SS』さんからか……。
生徒が5人しかいないせいで、匿名でもモロバレだ。
『銀行を襲う108の手段について』
件名にだけ目を通して、私は次のメールを開くことにした。
次は、ええと、ゲヘナ学園の『キヴォトス1のアウトロー』さんからか。
『便利屋68の経営理念について』
……送り主は、なに八魔さんだろうか。
匿名という言葉の意味を理解していないのか? いやまあ、べつに義務ではないのだけれど。
ひとつ息を吐いて、メールを開いてみた。
ハードボイルドがうんたららーとか、真のアウトローとはなんたららーみたいな決まり文句から始まり、まあ要約すると、あなたは便利屋の経営顧問なのだから、世情の変動を敏感に察知して情報収集を欠かさないように、みたいな内容だった。
私はいつから便利屋の経営顧問になったのだろうか。
今度、便利屋68のホームページに問い合わせのメールを送っておこう。
気を取り直して、次のメールを確認しようとしたところで、両隣からぬくもりと重みを感じた。
私の左肩にはトキの両手が、右手の甲にはヒマリの左手が添えられて、ふたりがPCのモニターを覗き込んできた。
どうやら争いはひと段落したらしい。
「まったく……まともなお悩みがありませんね」
言って、ヒマリは私の手ごとマウスを勝手に操作して、次のメールを開こうとした。
「まあ、大した悩みがないのはいいことだよ。それに、私たちからすれば大したことない悩みでも、本人にとっては重大なことだってある」
私は手に力を入れて、ヒマリに抗った。
「ええ、先生の言うことはもっともです。ですが、もう少しおもしろ──興味を惹かれるものの方がよいとは思いませんか? たとえば、恋について、なんてどうでしょう」
今、おもしろいものって言いかけなかっただろうか。気のせいか?
「私はヒマリ部長に賛同します。恋のお悩み相談を、先生がどのように解決するのか大変興味深いです」
私の左肩から顔を覗かせているトキが、淡々と言葉を繋げる。
耳もとに吐息がかかってくすぐったい。
「そのときは、解決できるかわからないけど尽力するよ」
言って、さして重要な、というよりお悩みと呼べるようなメールが届いていなかったことを確認してから、私はホームページを閉じた。
悩みがないのはいいことだ。
「……なにその目」
「いいえ」
「べつに」
両隣で、不服そうにジト目を向けてくるトキとヒマリを追い払って、執務に取りかかることにした。
いまの進捗状況では、月雪ミヤコが帰ってきたときになにを言われるかわかったもんじゃない。
「……」
とりあえず、〝EAT or DIE〟の会長なるものから、『恋と美食について』という内容のお便りが届いていた気がするが、見なかったことにしておこう。