月雪ミヤコの恋愛録 作:一等星の夜
「で、これはどういう状況ですか」
月雪ミヤコが出て行ってから、2日目の夜。月雪ミヤコが帰ってきた。
予定ではあすの朝に帰ってくるはずだったらしいのだが、なぜかそれよりも早く帰ってきた。
そんなに私のことが信用できなかったのだろうか。
「先生。人が話しているときは、その人の目を見てください」
まあ結果、月雪ミヤコの心配通り、執務はまったく進まなかった。
ヒマリとトキは月雪ミヤコが帰ってくる1時間ほど前に帰って行った。
彼女らが私の仕事の邪魔をしてくれたのは間違いないのだが、結果としてそれに流されてしまった私が悪い。
本気で頼めばヒマリもトキも文句を言わず手伝ってくれただろうし、たあいのない会話に精を出してしまったのは私の落ち度だ。
「すみませんでした」
「……驚きました。言い訳はしないのですね」
月雪ミヤコは言葉通り目を丸くしているが、どうせ言い訳なんてしたところで、正論でへこまされてから怒られるだけなのだから、最初から素直に謝っておくのが得策だろう。
無駄なダメージは負いたくない。
そんな私の心情を知ってか知らずか、月雪ミヤコは私のデスクに積み上げられている大量の書類を一瞥してから短く息を吐いて、呆れたような目をこちらへ向けてきた。
「からあげ弁当を手放して帰ってきましたが、正解でしたね」
「……」
「執務に取りかかる前に、なにかお腹の中に入れておきたいのですが。夕食はもう済ませたのですか?」
「まだだけど……」
「そうですか。時間も時間ですし、下に買いに行きましょうか」
小一時間ほどの説教を覚悟していたのだが、意外にも月雪ミヤコにそのつもりはないようだった。
新しく購入したのか、手にしていた紙袋から取り出した小説を本棚の上に置いて、執務室の扉の前で振り返った月雪ミヤコは、固まっている私を不思議そうに、ことりと首を傾げて見つめている。
「行かないのですか?」
「……ああ。いや、行きます」
「……?」
慌てて引き出しから財布を取り出して、席を立った。
彼女は私が動き出したのを確認してから、ゆっくりと歩を進める。
すぐに追いついて彼女の横に並んで、少し歩いて、エレベーターが上がってくるのを無言で待った。
下につくまでも無言で、私たちはそのまま店の中へと入って、ついでにあすの朝ごはんも買っておこうと、菓子パンが並べられた棚の前で足を止めた。
「──ほんの少しですが、離れてみて感じたことがあります」
クロワッサンにするかメロンパンにするかで真剣に頭を悩ませていると、ドーナツに手を伸ばした月雪ミヤコは、こちらを見ることもなく言葉を繋いだ。
「あなたの存在が、日常になりつつあると」
そう言った月雪ミヤコは手にしていたドーナツを棚に戻して、右手を顎にあてて他の菓子パンを眺めている。
「うまく言葉にはできないのですが、あなたが傍にいないと調子が狂うと言いますか、」
ちらと、月雪ミヤコは横目で私を窘めるような視線を向けてきて、すぐに目の前の棚へと戻すと、こほんと咳払いをした。
「……昨夜、サキに今日のミヤコはずっとうわのそらだと怒られました。モエには恋でもしているのかと揶揄われ、ミユには体調が悪いのかと心配させてしまいました」
なるほど。つまりどういうことなのだろうか。
「もちろん深い意味はないのですが、たしかに私はあなたのことばかり考えていたような気がします」
「それって──」
「あなたが想像しているような意味ではありません。ただ、あなたは私がいないとすぐにだらけてしまうし、食事にも気をつかうことがありません。夜更かしもするでしょう。執務も滞って、」
じとりと、月雪ミヤコがふたたび横目でこちらを見る。
「そんなことばかり、考えていました」
つまり、私は手がかかるということか。
返す言葉もない。
実際、トキがいなければ夕食はカップ麺で済ませようと思っていたし、ヒマリが来なければ眠気を押して真っ暗な部屋で電子書籍を読んでいたかもしれない。執務もほとんど進んではいない。
どうやら私には、月雪ミヤコが必要らしい。
「先生は、非常にだらしのない大人です」
……いま私は月雪ミヤコに攻撃されている。
私は知っている。これは口撃というやつだ。
「いやもうおっしゃるとおりで。いつもご迷惑をおかけして本当に申し訳なく──」
「ですが、」
言いながら、悩んだ末クロワッサンをカゴに入れた私の言葉を遮って、月雪ミヤコは微笑した。
「それだけではないことも、いまは知っているつもりです」
言って、彼女はメロンパンを掴んで、私が入れたクロワッサンの上にそっと置いた。
「ですので、あなたのお世話をするのはべつに、不快というわけではありません」
……お世話。お世話か。
その表現には少々納得がいかなかったので普段のことを思い返してみたのだが、起き抜けに寝癖を直してもらったり、着替えを用意してもらったり……たしかにお世話をされているシーンしか思い浮かばなかった。
うん、お世話だな。介護って言われなくてよかった。
「まあ、私も君にお世話されるのは不快じゃない。むしろ快適だ。もっと甘やかしてほしい」
「調子に乗らないでください」
カゴを持つ私の手の甲を、人差し指と親指できゅっとつねって、月雪ミヤコは目を細めて私を見上げた。
「仮にもあなたは子供の模範となるべき大人で、生徒を導く立場にある教育者です」
「仮にも」
「不快ではないというだけで、好き好んであなたのお世話をしているわけではありません」
「……」
「もっとしっかりしてください。大人として」
なんだ。珍しく怒られない流れかと思ったのだが、現実はそんなに甘くないらしい。月雪ミヤコも甘くない。
私の手の甲をつねっていた月雪ミヤコの手は、いつの間にか私の手首を掴んでいて、どうにも逃げられそうにない。
「あー、そういえば、」
だから、とりあえず話題を変えることにした。
月雪ミヤコは訝しげな視線をこちらに向けてきたが、やれやれと言わんばかりに一度目を伏せると、ゆっくりと瞼を起こした。
「なんですか」
「月雪さん、小説書いてるよね?」
「──……っ!」
私の手首を掴んでいる手とは反対の手で、月雪ミヤコは口元を押さえてひどく咳き込んだ。
ここまで動揺している彼女を見たのは初めてなので、新鮮だ。
「なぜ……っ、それを……」
「だって私のPCで書いてるじゃん。いやでも中身は見てないからね、本当に」
以前、たまたま〝十二月の月見草〟と記されたファイルを見つけた。
ファイルは本当に開いていないが、小説のタイトルっぽかったのでカマをかけたら、ビンゴだったらしい。
恨めしそうに私を見上げる月雪ミヤコの瞳は少し潤んでいる。
「ほんと、見てないって」
「……あなたのような大人を、信用できると思いますか?」
「できるかできないかは別として、信用してほしいとは思ってるよ」
「できません」
「ですよね」
どうやら私は信用できない大人らしい。
いやまあ知ってたけど。
「でも本当に見てないよ。読みたいとは思ってるけど」
「読ませると思いますか?」
「ですよね」
どうやら読ませてくれないらしい。
「ちなみに、月見草は冬には咲かないよ」
「そんなことは百も承知です」
「ということは、テーマは矛盾……いや、ありえない……叶わないもの?」
「ノーコメントです」
「ちなみに花言葉とかは?」
「……」
月雪ミヤコは私の質問には耳を傾けず、野菜スティックを手にとりまじまじと見つめている。
私は掴まれている手とは反対の手でポケットから携帯を取り出して、花に詳しい……かはわからないが花が好きな生徒に一通のメッセージを送ってみた。
〝ツキミソウの花言葉って知ってる?〟。
送って、画面を開いたままにしていると、すぐに既読の文字がついた。
『こんばんわ』
返事は一分と経たずに返ってきた。
〝こんばんわ〟。
おうむ返しでメッセージを送ると、すぐに既読がつく。
相手も画面を開いたままにしているらしい。
『うん』
『挨拶は大事』
たしかに挨拶は大事だ。
生徒に大切なことを教わり、私は自身の教育者としての在り方について深く反省した。
『いくつかあったと思うけど』
『私が知ってるのはひとつだけ』
沈黙、というのかはわからないが、少し間が空いた。
私の方からもう一度メッセージを送った方がいいのかどうか迷っていると、彼女は言葉を繋げた。
『打ち明けられない恋』
──なるほど。
ということはつまり、彼女が書いているのは恋愛小説。それも、叶わない恋の物語……と結論づけてしまうのはいささか早計だろう。
花言葉はいくつかあるらしいし、恋に関するものだと決まったわけではない。
決まったわけではないが、月雪ミヤコが恋愛小説を書いているのだとすれば、それはなんというか、とても素晴らしいことだと私は思う。
月雪ミヤコが恋愛小説を読んでいるという事実だけでもとても、すごく、かなり、萌える。
書いているとなれば、私の情緒は一体どうなってしまうのだろうか。
「……大人として。教育者として。いま約束してください。私が書いている小説を、絶対に、勝手に読まないと」
「……わかったよ」
もとより勝手に読む気はないのだが、念を押されたのならばなおさらだ。
もう少し月雪ミヤコからの信頼を得られたなら、そのときは1ページくらいなら読ませてもらえるかもしれない。
いつの間にか私の手首を掴んでいた手を離して、スイーツの棚を目を輝かせて眺めている月雪ミヤコの横顔を見て、私は苦笑した。
カゴの中にはメロンパンとクロワッサン、それから野菜スティックだけが入れられてある。
月雪さん、スイーツより先に、ご飯を選ぼうね。
そう心の中で投げかけて、私はアイスをふたつカゴの中に放り込んだ。
× × ×
月雪ミヤコのサポートもあり、無事執務は──終わらなかった。
終わらなかったが、最低限やっておかなければいけないものは片付いたので、今日はそれで良しとすることにした。
「最近、このキヴォトスでまことしやかに囁かれている噂話があるらしい」
私はデスクの上の書類をまとめながら、組んだ両手を上に伸ばして息を吐いた月雪ミヤコへと視線を向けた。
「なんですか」
「ノアとヒマリとトキにも言われたことだけど、私と月雪さんが恋愛関係にあるんじゃないかと、そんな噂が──」
「──っ!」
月雪ミヤコは盛大に咳き込んだ。
本当は私が月雪ミヤコに対して恋愛感情を抱いている、といったような話だった気がするが、まあそこはどっちでもいいだろう。
「ははは、困るよね」
「……軽すぎませんか」
「そ?」
「不快です」
私もまあ、根も葉もない──とは言えないが、そんな噂を流されては月雪ミヤコに迷惑がかかってしまうだろうと心配していたが、そこまではっきり言われると少し落ち込む。
不快、か。
……そうか。
「勘違いしないでほしいのですが、」
見るからに、大袈裟に肩を落としていた私を見て、月雪ミヤコはため息ごと吐き捨てるように声のトーンを落とした。
「不快なのはあなたのその能天気な態度です」
なるほど、そっちか。
どっちにしろショックだ。
「いや違うんだよ。私も内心では本当に困ってはいるんだけど、あれだよ。ほら、人の噂も49日っていうし」
「75日です」
「……」
ボケてみたつもりの私の言葉も、あえなく一蹴されてしまった。
こうなると執務室には気まずい静寂だけが残り、ただひたすらに気まずく、気まずい。
ということはつまり、次に考えるべきことはこの沈黙をやぶる言葉だろう。
単に言葉を発すればいいというわけではもちろんない。
彼女の機嫌をこれ以上損なわせず沈黙をやぶり、欲を言えば彼女の機嫌をとれるような二兎を得る一手。
「……」
もちろんそんな便利なものは思いつかないのだが、とりあえず沈黙はやぶっておこう。
「まあ、あんまり気にしなくてもいいと思うよ。みんな恋だのなんだのって噂が好きな年頃だから、たぶんそれが事実かどうかはどっちでもよくて、面白がってるだけだよ」
それに、私と月雪ミヤコが恋愛関係にある──という噂ではなく、私が月雪ミヤコに恋愛感情を抱いている、というのであれば、まあ誤解されるのは私だけで済むのだからそこまで気にする必要もないだろう。
しかしあれだな。ユウカやアコはまだいいとして、ミカやワカモに知られるのは少し不安だ。
うっかり矛先が月雪ミヤコに向いてしまわないとも限らないし──
「……」
と、頭を悩ませていた私は、じとりと睨め付けてくる月雪ミヤコの視線にようやく気がついた。
「……なんでしょうか」
「いえ。べつに」
「……」
結局、原因はわからないまま、月雪ミヤコはシャワーを浴びたあとも布団に入ってからもどこか不機嫌なままで、私とは口をきいてくれなかった。
私、またなにかやっちゃいましたかね?