月雪ミヤコの恋愛録 作:一等星の夜
午前11時40分。快晴。
平日のこの時間帯だからだろうか。電車の中は思った以上に空いていた。
私がいる車両には数人程度の乗客しかいない。
難なく端の席に腰を下ろせたことに安堵しながら、私はポケットからスマートフォンを取り出して送られてきていたメッセージに目を通した。
差出人は月雪ミヤコ。カフェのURLと、『遅い』とそっぽを向いたうさぎのスタンプが送られてきている。
〝まだ20分前だよ〟。
苦笑を浮かべつつ返事をして、窓の外の景色に目をやった。
一定の速度で流れていく景色が、目的地へと近づくにつれて和の雰囲気を帯びていく。
瓦屋根の建物など、かなり久しぶりに見た気がする。
主に抹茶を使ったスイーツが有名らしく、他にもみたらし団子や湯葉、八ツ橋も人気らしい。それから、某有名チェーン店のこってりラーメン総本店もあるのだとか。
まあ私は断然あっさり醤油ラーメン派なのであまり惹かれはしないが。
まあ、とりあえず抹茶ソフトは絶対に食べよう。それから抹茶パフェ、抹茶ロールケーキも外せない。
……と、食べ物のことばかりを考えていると、目的地の駅への到着を知らせるアナウンスが流れた。
慌てて飛び降りて、階段を下りて改札を抜け、少し歩いた先にカフェがあり、店先にはスマートフォンのカメラ機能を使って前髪を整えている月雪ミヤコの姿があった。
襟付きの真っ黒な五分袖のシャツに、カーキのロングスカート。真っ白なバックストラップサンダル。シャツの裾はスカートの中に入れている、いわゆるフルタックインというやつだ。それから、ウサ耳もついていないし髪もおろしている。なるほど大人っぽい。ていうか寝巻き以外で月雪ミヤコの私服を見たのは初めてなので、気分が高揚してくるな。
「お待たせ」
「……いいえ、私も今来たところです」
声をかけると一瞬びくっと肩を震わせて、スマートフォンをポケットにしまうとなにごともなかったかのように月雪ミヤコは澄まし顔で言った。
ちなみに、なぜ衣食住を共にしているのにわざわざ待ち合わせなどをしたのかというと、月雪ミヤコがそっちの方がデートらしいと言ったからである。
「暑かったでしょ。先に入っててもよかったのに」
「ですから、今来たところだと」
「そ。なら入ろうか」
言って店のドアを押し開けると、上部につけられていた鈴がチリンチリンと音を鳴らした。
それに気づいた店員がやって来て、何名かと訊ねてきたあと、席へと案内してくれた。
さっとメニューに目を通してから、とりあえずアイスほうじ茶ラテをふたつ頼むと、3分とかからずにそれは運ばれてきた。
「デートとひと口に言っても、そのシチュエーションは様々です」
ほうじ茶ラテをストローで啜って、月雪ミヤコはポケットからスマートフォンを取り出した。
「遊園地、映画、夜景……お祭りや花火もデートの定番でしょう」
「お家デートってのもあるよね。お泊まりとか」
「いやらしいことを言わないでください」
「なにが!?」
月雪ミヤコの想像力が豊かなのか、はたまた私の想像力が欠如しているのか。齟齬が生じる。
「しかし、私が一番惹かれたのはこちらです」
言って月雪ミヤコはスマートフォンの画面を私に突きつけた。
『おすすめデートプラン15選』と書かれた見出しのサイトには、私たちが今いる街の食べ歩きスポットが掲載されている。
「へえ、抹茶パンケーキとかもあるんだ」
「これは序章に過ぎません。他にも抹茶モンブランや焦がしきなこパフェ、湯豆腐にあさり丼もあります」
珍しくテンションが高い。
どやや、と得意げに画面をスクロールする月雪ミヤコは存外楽しそうだった。
そうか、これがデートか。シャーレオフィスでバカみたいな量の執務に追われながら片手間で会話するのとはワケが違う。
なんだか私も楽しい。普段と大して差異のない会話なのに、すごく楽しいぞ。
そういえば今日私と月雪ミヤコは恋人らしいので、心持ち以外になにか変化を期待してもよいのではなかろうか。
たとえば頬を染めながら「先生にだけ……ですからね……」などと言って髪を結ってポニーテール姿を見せてくれたり。
「──聞いていますか?」
気持ちの悪い妄想を膨らませていた私を咎めるような低い声を出した月雪ミヤコは、じとりと私を睨めつけている。
小言を覚悟したのだが、意外にも月雪ミヤコはひとつ息を吐いただけで、口撃はしてこなかった。
「着物をレンタルするお店なのですが、12時30分に予約をしていますので、そろそろ向かわないと間に合いません」
言われてスマートウォッチに目を向けると、12時20分と表示されている。
月雪ミヤコのグラスはすでに空になっていて、私は慌てて半分ほど残っていたほうじ茶ラテを飲み干した。
「ここは私が支払います」
月雪ミヤコは私の返事を待たず、伝票を手に取り席を立ち上がる。
「いやいや、私が──」
「先生」
慌てて、同じく席を立った私の言葉を遮り振り返った月雪ミヤコの凛とした瞳が、私を射抜いた。
……言葉に詰まる。
「私は
有無を言わさず、月雪ミヤコは会計を済ませるとぱたぱたと手で顔を扇ぎながら店を出た。
彼女の背を追って私も歩き出す。
何歩目かで隣に並んで、ちらと彼女の横顔を盗み見た。
俯いたまま、彼女はいまだにぱたぱたと顔を扇いでいる。
前髪で隠れてその表情は窺えなかったが、先ほどの言葉を思い出すと、なんとなくどんな表情をしているのかは想像できた。
「ありがとう、……──」
そのあとに、『月雪さん』と繋げようとしたが、私は口を閉ざした。
「……」
〝だって──今日の私たちは、恋人……なので……〟。
× × ×
月雪ミヤコは紺碧色の浴衣にポニーテール、私は湊鼠色の浴衣を選んだ。
品定めをするように私の浴衣姿を、じっと目を細めて見つめた月雪ミヤコは、「似合いますね。先生らしいと言いますか……」と呟いた。
なんだろう。地味だと言いたいのだろうか。
「月雪さんもめちゃくちゃ似合ってるね。うん、いやほんとに」
顎に手を当てて、まじまじと至近距離で月雪ミヤコの浴衣姿を目に焼き付けた。とくにポニーテール部分を。
「あの、あまり顔を近づけないでください……」
普段とは異なりしおらしく、伏目がちに言った月雪ミヤコは手のひらで私の顔を押しのけた。
これが恋人か。かわいい。あと、いい匂いがする。
せっかくだ。せっかく今日は恋人なのだから、この際だし思ったことははっきりと伝えておいた方がいいだろう。
普段であれば嫌な顔をされたり、はいはいと軽く流されるだろうが、今日に限っては月雪ミヤコがどんな反応を見せてくれるのか予想ができない。
現に、先ほどもそうだ。あんなにも顔を近づけてまじまじと観察していたのに、悪態のひとつもついてこなかった。
ということは今日の月雪ミヤコは寛大だということだ。
それもそのはずで。なにせ月雪ミヤコ自身が今日一日の恋人関係という限定的なルールを設けたのだから。
つまり、今日に限り私の気持ち悪い言動はたいてい許してもらえるということだ。
ヨシ──
目を伏せたまま私はこほんと咳払いをして、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「もちろんいつもそうなんだけど、今日は一段とかわいいね、ミ、ミヤコ──」
言いながら、そっと片目だけを開けると、気まずそうに私を見上げている店主と目があった。
「……彼女さん、もう行かれましたけど」
「……」
20メートルほど先をゆっくりと歩いている月雪ミヤコの背中を見つけて、私は絶句した。
しかし、逆によかったまである。
少し冷静になれた。
恋人といっても、所詮は偽物だ。
私が彼女を下の名前で呼び捨てようものなら、どうせ「ミヤ──」あたりで遮られて、窘められるのは目に見えている。
とほほ、と大袈裟に肩を落とした私を憐れむような目で見上げる店主に見送られ、私は彼女の背を小走りで追いかけた。
× × ×
「……胸焼けしそう」
あさり丼を食べたあと、抹茶ソフトに抹茶パンケーキ、焦がしきなこパフェを食べたところで私たちは限界を迎えた。
「同感です……」
月雪ミヤコのデートプラン──食べ歩きスポットを全てまわるには、いささか摂取カロリーが高すぎるということに気がついたのは、食べすぎで動けなくなってからだった。
ベンチに腰かけ、野点傘の下で抹茶スムージーを啜りながら、私たちは並んで空を仰ぐ。
もう食べられないし、もう動けない。
熱すぎた太陽も、いつの間にか沈みかけて夕空はもうすぐ夜へと姿を変えようとしている。
風もいくらか冷たくなり、昼間よりかは快適な気温へと変化した。
「デートって、苦しいね」
「ええ。物理的に」
冗談めかして笑った私に、彼女もまた笑みを返した。
夜がくれば、このデートは終わってしまう。
そうなれば私と月雪ミヤコはまた、
まあ、恋人といっても月雪ミヤコの私に対する態度が普段より優しかっただけで、それ以外は特段変化はなかった。
べつに『あーん』をしてもらったわけではないし、手を繋いだわけでもない。もちろんキスなどもするはずがないし、会話の内容も特別取り上げるものはなかった。
ただ月雪ミヤコの私服と浴衣ポニーテールは素晴らしかったが。
「──そろそろ、浴衣を返却する時間ですね」
空を仰いだまま、月雪ミヤコが小さく呟く。
「そうだね」
私は抹茶スムージーをひと口啜って、月雪ミヤコの視線をなぞりながらもう一度空を仰いだ。
線を引いて隔てられたように、夜空と夕空が上下で鮮やかなコントラストをなしている。
夜空の方には、薄らと月が浮かんでいた。
「月が綺麗ですね」
──風が吹いた。
こともなげに月雪ミヤコはそう言うと、いまだ空を仰いだまま、風に煽られた髪を手で押さえた。
「先生なら知っていると思いますが、この言葉は愛の告白として用いられることが多々あるそうですね」
「まあ、有名だよね」
「どう思いますか?」
どう、とはどういうことだろうか。
その真意が知りたくて月雪ミヤコの横顔を眺めていると、私の視線に気づいた彼女はゆっくりと顔をこちらへ向けた。
「私にはよくわかりません」
私にもよくわからない。
今わかっていることは、やはり月雪ミヤコの浴衣ポニーテールは素晴らしいということだけだ。
「〝愛している〟という言葉が、どうして月が綺麗だという表現に置き換わるのでしょうか」
「それ、真偽不明だし。仮に実話だったとしても、私にもわからないかな」
「では、先生ならどのように愛を伝えるのですか?」
「……私なら、」
まっすぐに、月雪ミヤコは私の目を見ている。
愛を伝える方法など、いくらでもあるだろう。
好きだと言えばいい。愛していると言えばいい。
しかし、それでは事足りないから。あるいはそれができないから。〝月が綺麗〟だと訳したのかもしれない。
「──月の光をたどって、君に会いにいく」
「……」
一瞬、丸くなった月雪ミヤコの大きな瞳の中で、月の光がきらめいた。
瞬きしたころにはもう、月雪ミヤコはくすくすと可笑しそうに笑っていた。
「ずるいですね」
「『月が綺麗』に対する答えだよ」
「〝先生〟ならどのようにと訊ねたはずですが」
「さあ。それはそのときの私にしかわからないよ」
月が満ちて、夜になった。
少し休んだおかげで、立って歩けるくらいには回復した。
私たちは浴衣を返却して、行きとは違って帰りはふたりで電車に乗った。
私たちのいる車両には、他に数人の乗客しかいない。
端の席に月雪ミヤコを座らせて、私はその隣に腰をおろした。
「今日は……ありがとうございました」
仮初の恋人関係は終わった。
明日になればまた執務に追われて、月雪ミヤコの小言を聞きながら、忙しくも悪くない日常へと還っていく。
それからもう少しすると、トキやヒマリも交えた4人で夏祭りに行くことになっている。
夏は嫌いだが、楽しみじゃないと言えばうそになる。
「うん。こちらこそありがとう」
──なんとなく、月雪ミヤコの名前を呼んでみたくなった。
遮られることも、窘められることもわかっているはずなのに、今なら呼んでもいいような気がした。
根拠など、どこにもありはしない。
呼びたい理由なども、思いつきやしない。
本当にただ、なんとなく、呼んでみたくなった。
「ねえ、」
彼女は下を向いている。
おろした髪で隠れて表情は窺えない。
「ミヤ──……」
ふと、膝の上に置いていた私の左手を包むように、そっと彼女の右手が触れた。
そのまま指を絡めてきて、少し引き寄せられて、私たちの手はお互いの脚の間にほんの少し空いていた隙間に埋もれた。
「……それはまだ、」
月雪ミヤコは私とは反対の方向に顔を背けていたので問いかけることも、その表情を確認する
「……」
ただ、繋いだ手の指先から感じる熱が──深く印象に残った。