月雪ミヤコの恋愛録 作:一等星の夜
「ほら、うさぎにしてみたよ」
「……かわいらしい、ですね。とても」
9月某日、晴れ。
閉め切った窓の外からでも、微かにセミの鳴き声が聞こえてくる。
温度を少し上げたエアコンの風は、私にとってはぬるく感じるのだが、体調を崩した月雪ミヤコにとっては心地よいらしい。
休憩室のベッドに横たわり、控えめに咳き込んだ月雪ミヤコは、私が用意したうさぎの形のりんごをまじまじと見つめている。
「食べさせてあげようか?」
ベッドの横に置いた椅子に腰かけてりんごにピックを突き刺して、揶揄うように笑った私は、彼女の反応を見てすぐに苦笑を浮かべた。
のそのそと上半身を起こした彼女は、餌をねだる雛鳥のように、目を閉じて小さく口を開けている。
当たり前だが、彼女は本調子ではないらしい。
自分がなにをしているのかよくわかっていないのだろう。
普段であれば「結構です」とか、「必要ありません」とか、ジト目を添えて応えたはずだ。あるいは、無視。
しかし今の月雪ミヤコは驚くほどに素直だった。
「……?」
月雪ミヤコは閉じていた目をそっと開けて、一向にりんごが口に運ばれてこなかったからか、ことりと首を傾げて私を急かし立てた。
こうなればもう、観念するしかない。
もとより私が言い出したことなのだ。であるならば、私は月雪ミヤコに〝あーん〟をして差し上げるべきだろう。それが責任というものだ。大人としての。
「……ほら」
「……」
ピックに刺したりんごを彼女の口もとまで運んだのだが、口を開けるタイミングを間違えたのか、りんごは彼女の唇にぶつかって、少し間をあけてから彼女は小さな口で一口齧りとって咀嚼した。
「美味しいです」
「それはよかった」
──なんだろうか。今日の月雪ミヤコはとてもかわいい。
いや、こんな言い方をすると普段はかわいくないと思われるかもしれないが、もちろん普段からとてもかわいい。
しかし、それはそうと、今日の月雪ミヤコはとてもかわいいのだ。
弱っている生徒を前にこんな感情を抱くのは先生として、いや大人として、いやいや人として間違っていることはわかっている。
それでもあえて言わせてもらおう。
──今日の月雪ミヤコはとてもかわいい。
「……」
ピックに刺したりんごを差し出す私の手を両手で支えながら、月雪ミヤコは小さな口でりんごを食べ進めている。
小動物……うさぎのような愛らしさがある。
「もう一個、食べる?」
私の問いかけに、こくりと上目遣いで頷いた彼女に、私は再びりんごを差し出した。
──遠い昔を思い出す。
飼っていた金魚が餌を食べる姿がかわいくて、ついやりすぎて怒られてしまったことを。
いや、べつに彼女はペットではないし、重ね合わせたわけでもないのだが、ふと、そんなことを思い出した。
「──ありがとうございます」
りんごを4つ食べて満足した彼女はお礼を告げてから、再びベッドに横になった。
私はそれに笑顔で応えて、食器を下げるため椅子から立ち上がったのだが、それと同時に私の服の裾がきゅっと掴まれた。
服の裾を掴んでいる手に一度視線を落として、そのまま彼女の方へと向けた。
「私の現状が、おわかりですか?」
「弱っているように見えるよ」
「はい。その通りです」
「だから傍にいろと?」
「──はい」
ツンツンと冷たい普段の月雪ミヤコも素晴らしいが、デレを隠さない月雪ミヤコも素晴らしい。
「うさぎは寂しくても弱らないそうですが……私は、」
普段の月雪ミヤコと今の月雪ミヤコ、どちらかを選べと究極の選択を迫られたなら、私は苦渋を飲んで普段の月雪ミヤコだと答えよう。
「私は────うさぎではないので」
今の月雪ミヤコは、あまりにも破壊力がありすぎるから。
「……じゃあ、君が寝付くまではここにいようかな」
「では、適当に──眠くなるようなくだらないお話をしましょう」
言って、月雪ミヤコは掴んでいた私の服の裾から手を離し、あろうことか私の手をきゅっと握った。
手を握られたまま、私はもう一度椅子に腰かけて、なるべく意識してしまわないよう〝くだらないお話〟とやらの内容を考えた。
「……以前、先生が私に語った恋物語についての持論を覚えていますか?」
「ええと、恋物語は最後まで書くべきじゃないってやつ?」
「そうです。読み終えたあと、読者がその2人の行く末が気になって続きを妄想してしまうような、そんなお話でないといけないと、あなたは言いました」
たしかに、言った記憶がある。
だがそんなものは持論と呼べるほどのものではない。
口からでまかせというわけでもないが、それはそのときの気分によって変化したりする。
あのときの私はたしかにそんなことを言ったのだが、今の私はそうでもない。
「〝好き〟という言葉も、告白の描写さえもいらないと、あなたはそう言いました」
言っただろうか。
言った気がしないこともなくはないまである。
「では、これは──」
不意に、月雪ミヤコは天井に向けていた視線を私に移して、もう一度上半身を起こすと、繋いでいた手を握り直して、指と指を絡めた。
「これは、〝告白の描写〟になり得ますか?」
「……」
きゅっと、彼女の指先に力が入る。
私は大人なので動揺などしていない。冷静になって考えてみよう。いや冷静になってもなにも、私はもとより冷静だ。
つまり、もちろん手を繋ぐこと自体が告白の描写たり得ることはない。繋いでいた手を握り直すことこそが、告白の描写たり得るのかという問いだ。
それが物語の中の出来事であるならば──たとえば小説なら心理描写、ドラマなら表情から読み解いて、紐解いて、結びつけることが可能だと思う。
ただそれは、物語の中だけの話だ。
現実はそう単純じゃない。人の心の内など理解することは不可能で、表情だってうそに覆われてしまえば読み取れない。
だから私には月雪ミヤコがなにを考えているかなど到底わからなくて、彼女の言動になにが込められているのか理解できなくて。
ただ、体調不良が原因なのだろうか。熱いくらい彼女の体温は高くて、触れた指先から伝わってくる熱だけが──たしかに本物だった。
「……なり得ると思うよ」
やはり私は、冷静ではなかったらしい。
よくよく考えてみれば、私の恋愛小説に対しての持論から始まった話なのだから、もちろん彼女は物語の中の話をしていたのだろう。
絶賛、彼女は恋愛小説を執筆中なのだ。
ということはつまり、アドバイス的ななにかが欲しかっただけなのだろう。
ふう、危なかったー。危うく勘違いしちゃうところだった。
「ただ、そういった表現をしたいのなら、心理描写がより重要になってくるだろうね。ああ、心理描写といっても、全てを書く必要はなくて、むしろ書かなくていいことの方が多いくらい。つまり、重要なのは心の内だけじゃなくて、たとえば──」
一度言葉を途切らせて、私は繋いでいた手を持ち上げて、ことりと首を傾げた彼女に目を細めて、笑みを返した。
「繋いだ手の指先から伝わる熱とか──そういうのも重要なポイントになると思うよ」
「──……」
私は語った。まるで評論家にでもなったかのように、それはもう、偉そうに。
そんな私と合わせていた目を一度伏せてから、月雪ミヤコはふっと、仕方のない人だとでも言いたげに、口の
「浅いですね。三流以下の、二次創作者が多用しそうな表現です。はっきり言って下の下です」
「ちょっと? 私も一応人間だからね? 傷ついたりするんだよ?」
普段の月雪ミヤコと、今の月雪ミヤコ。
どうやら差異はなかったらしい。
月雪ミヤコはいつだって私に少し冷たくて、そしていつだって私を含めた全ての人に優しく在る。
「そうですか。すみません、つまらなかったので」
「いやいや、君の恋愛小説が完成するのが楽しみだよ。私が批評してあげるからね」
「読ませると思いますか?」
「読ませてもらうよ。必ずね」
私たちは顔を見合わせて、笑い合った。
純粋な笑顔ではない。お互いに、意地の悪い笑みを浮かべて。
「……らしくありませんでしたね」
言って、月雪ミヤコは絡めていた指に視線を落としてから、そっと手を離した。
空いた左手が急速に冷えていくように感じたのは、名残惜しいと、そう思ってしまったからだろうか。
「……?」
月雪ミヤコは、なにを言うでもなく、じっと私を見つめている。
かと思えば手をひらひらと手招いて、こちらへ来いと促してきた。
私はそれに従い、彼女の方に顔を近づけると、彼女もまた私の方へと顔を近づけた。
口もとに手を添えた彼女の動きから、耳を貸せという意図を汲み取り、私は顔を背けた。
彼女は私の耳もとに唇が触れそうな距離まで近づいて、小さな吐息を漏らした。
「────鈍感」
その意味は理解できず、目を丸くして驚いた私は慌てて彼女から距離を取った。
そんな私をジトリと細めた目で不服そうに見つめていた彼女は、やがてクスリと可笑しそうに笑った。
「申し開きはありますか?」
「……もちろん」
私は鈍感ではない。
月雪ミヤコが伝えたかったことはつまり、ええと、おそらく──
「では、ゆっくりとお話の続きをしましょうか」
雪解けのような、やわらかな笑顔を見せて、彼女はぽんとベッドの上を軽く叩いた。
こちらに来い、という合図らしい。
観念して、私はベッドに腰かけて、これみよがしにため息をついた。
私は決して鈍感などではない。
「ひどい反応ですね」
彼女が、わかりにくすぎるだけなのだ。
思っていることを言葉にして伝えられることは、きっと幸せなことばかりではないのだろう。
それでもあの夏祭りの日に、飛鳥馬トキが彼に伝えたあの言葉を思い出すと──私はひどく羨ましい気持ちになった。
彼女はひたすらに。
ただひたすらに。
まばゆいくらい、真っ直ぐだった。
ひねくれて、素直になれなくて、面倒くさい私と違って。
心配してくれる先生には申し訳ないけれど、体調を崩したのはラッキーだった。
こんな状況にでもならなければ、私はいつまでたっても素直になれない気がしていたから。
だから、存分に甘えてやろうと思った。
りんごを食べさせてもらって、あわよくば、添い寝なんかも少しは期待しなかったといえばうそになる。
けれど先生は、そんな私を置いて部屋をあとにしようとした。
私は咄嗟に彼の服の裾を掴んだ。
いつもならば、そんなことをしてしまったとしてもどうにか誤魔化していたと思う。
けれど今日の私は少しだけ、
傍にいてほしかった。
本当は、片時も離れてほしくなかった。
手を握りたかった。
触れたくて。触れてほしくて。
目と目をあわせて。いろんなことを話したくて。
だって私は──
あの日、あの夏祭りの日。
トキが先生に気持ちを伝えた日から、私は──
それはきっかけにすぎなかったけれど。
本当は、もっとずっと前からだったけれど。
「これは、〝告白の描写〟になり得ますか?」
きゅっと、絡めた指を強く握った。
手汗をかいてしまいそうになるくらい、自分の手が熱くなっていることがわかる。
けれど同じように、先生の手も熱かった。
──ああ、簡単なことだったのに。
ずいぶんと遠回りばかりを繰り返して、ようやく私は認めることができた。
──私は。
──月雪ミヤコは。
────彼のことが。先生のことが、大好きだ。
「……なり得ると思うよ」
気づいてしまった。
気づかされてしまった。
気づきたくなかった。
認めたくなかった。
認められなかった。
それを自覚してしまえば、それを認めてしまえば、終わってしまうのだと思っていたから。
雪のようにいつかは溶けて、水になって流れていってしまうと思っていたから。
けれど彼は、そんな大人ではなかった。
本気の想いには、本気で応えてくれる大人だった。
うそつきなのに、正直で真っ直ぐだった。
幾重にも折れ曲がった面倒くさい
「ただ、そういった表現をしたいのなら、心理描写がより重要になってくるだろうね。ああ、心理描写といっても──」
まあ、届くはずはないのだけれど。
何度ため息をこぼしたかわからないくらい、彼は鈍感な大人だから。
だから、嘯けないくらい真っ直ぐに、〝ソレ〟を言葉にして伝えなければ、きっと一生伝わらない。
だから。それでも。
私はまだ──
「────鈍感」
もどかしくて、心地いいこの関係を手放せなくて、まだまだ遠回りを繰り返す。